2013年11月17日日曜日

新作をやるよー "allele"

1月末から、新作やります。

1/29,2/24,3/26の月一で。
3回共通で、タイトルは"allele"。


ブラッシュアップしていくというか、コンスタントに本番をやってみるとどうなるか、ということをしてみます。
おおよそソロです。

各日ともにおそらく20時開演、
場所は明大前駅近くのキッドアイラックアートホール。
床は広くないけれど天井が高くて、見てすぐに気に入りました。


効率の良い本番のやり方ではないことは重々承知の上です。
そりゃまとめて週末とかに本番やった方が良いよね、そう思います。
だけど、昔から舞台の本番を何度もやってきて色々考えたことがあります。

皆そうだと思うけれど、
本番が終わると燃え尽き症候群になっちゃうのです私。
本番前は生活を全部投げうってでも本番を頑張って、終わると達成感でぼーっとしちゃうのです。
それが悪いことだとは思ってないし、当たり前の事だとも思うし、舞台人としてのキャリアだけを考えれば生活を掛けて舞台に出る方が良いのかもしれん。

しかし舞台や本番のことだけを夢現に考えていても、人間の生活の出来ない人になっちゃう。端的に言えば、生活が成り立たない。
どれだけ貧相に生活しててもある程度ご飯食べなきゃいけないし、家賃も払わなくちゃならないし。
それは誰の所為にも出来ないことで、踊るために身を立たせる最低限のことは出来なくちゃならないのです。
生活のお金の計算が壊滅的に下手な私でも、それ位は薄々気づいてる。

舞台の本番は、せいぜい60分くらい。その本番をするために何ヶ月も何日も、相当の時間を掛けて稽古をする。
その60分は何ものにも変え難い、特別な時間。踊るのは本当に好きだし面白い。
だけど、その60分が特別であればあるほど、その他の時間がとても長いことを知る。
劇場に住めたらいいのにね。


ここ何年か、人間の動きをダンスである動きとダンスでない動きに分けられるだろうか?ということを考えてた。
生活と踊ることの境目も、その考え方の延長だと思う。

ダンスそのものは私自身を踊るものだと思う。私が生きていることそのものを踊る、だからこそ、消費されるのではなく、生産する為に。
ダンスが特別なものじゃなくて、ダンスは身の回りに溢れていて、もしくは私自身がダンスで、生活の全てを踊れたら良いと思う。
ハレとケの区別なく、生活の全てをダンスに出来たら、そう考えて今回の作品をやってみようと思いました。

単純にコンスタントに本番が迫ってくる状況を作るってのは、色んな意味で自分への挑戦です。


本番それ自体の、パッケージングの方に話の比重が大きくなってしまった。
テーマや内容はぽつりぽつりと思いつくことはあるけれど、それは稽古しながら詰めていきつつ、今回は上に考え方も作品そのものに多少なりとも関わっている気がします。

お上品な作品を作る義務もないので、割と思い切ったことをやってみようとも思っている。コンスタントに狂ったことをしてみよう。
実験的な要素が大きいかな。


私の考え方ややり方も好い加減に極端なのはわかっているし、これが正解で他はダメだ!とか断言したいわけでもないけれど、
自分のダンスや作品に対して、多角的な試行錯誤が出来ればと思っている。
今考えていること、今やりたいことをとりあえずやってみる。

真面目過ぎやしないか、と言われることもままあるけれど、ダンス以外真面目にやることもないし、
他のことはどれだけ手抜きしたり腐ったりしても、自分のダンスのこと位は、絶対に信念を曲げたくないね。

2013年11月8日金曜日

PIANIST

内田光子のピアノリサイタルを聞きに行ったのです。

クラシック音楽は明るくない私が、幸運にも何人かピアニストの演奏を聴き比べることが出来て感じたのは、内田光子の演奏が明らかに他の人の演奏とは一線を画す、ということ。
あくまでも主観的意見。でも私の中で何かが違う。

相変わらず楽曲や演奏法、解釈の云々は私とんちんかんだけれど、
この人は、ピアノという楽器を演奏してるんじゃなくて、ホールをまるごと楽器にしてしまう演奏をピアノを使ってやっている、と感じるに至った。

1回目に聞いたときは分からなかった、2年ぶりに聞いてはっきり感じた、
ホール全体を飲み込む演奏、ないしは、ピアノがブラックホールのように人の意識を飲み込んでゆく様。

なぜならおそらく、この人は、自分の音の響きを"聞いている"。

空気中に消えていく音の美しさは何度触れても鳥肌が立つ。


今年コンサートがあるのを知って、邪な気持ちは捨てて、ちゃんとチケットを買った。

実際に聞いて、引きで演奏を聴き比べるより、受け取るものは少なかった気がする。
「この人こんなに手が大きいんだ」って、鍵盤と手から目が離せなくて頭に血が昇った。
どんな曲だったか、とかあんまり分からない。

ピアノの蓋が被っている方に座ってたから、音は遠かった、というか跳ね返って届くまでに若干ぼやけてた。
それでも迫力は十分、演奏はクリア。

ぼんやりした頭で、作曲者のことを考えた。

100もない鍵盤の上で、
例えばドの音の次にレの音を弾くと作曲(指示)するのにどれだけの思考と苦労と閃きがあるのかしら。

音楽を全体のまとまりとして聞くよりも、極端に言えば一音づつの連なりはどうやって紡がれていくのか、ということに意識を向ける方がスリリングだ。
直前、今、直後。

"差異"と"反復"?
薄れていく少し前の響きが蘇って、少し先の準備をしている。

そのスリルは私が自分の身体で踊るときに差し向けて持っていく意識のレベルとどこか似ていて、
例えば手を動かしたあと、その余波はどこへ伝達する?身体の中心へ伝播した運動が身体の内で反響する、連なりは止まらない。

最近そんなことを考えてたら、なんとなく、今まで退屈だったバッハの曲が聞いてみたくなっている。

作曲家が音を紡ぐ果てしない苦労を、演奏者は追体験するものなのかしら。
少なくとも内田光子の演奏は、一音も捨てがなく、彼女なりの解釈と愛に満ちている。


内田光子はなんとなく怖い、って言う人もいる、雪女みたいって、
プリーツ・プリーツが最高に似合う雪女はお辞儀が異様に深い(コンテのダンサーみたい)。とても身体が柔らかいのか、髪の毛バッサバッサしてお辞儀をする。
私、おばあさんになったらガリガリになってイッセイミヤケのプリーツ・プリーツを着るのが目標。

今年たまたま彼女のトークを聞く機会があったのだけど、まぁこの人がよく喋る人で驚いた。2時間くらいノンストップで一人漫談みたいに喋ってた。
あれはあれで怖い。


以上、勢いで書留

聞きながら自然と身体がうずうずして、頭が揺れてしまってた気がする。隣の近所の人に迷惑掛かってないと良いけれど…