2018年12月23日日曜日

ヨガを教えるために

ここ何年か、ヨガの授業を大学で行なっている。
授業の人気は高く、毎回受講生は抽選で選出されるほどだ。

ヨガが美容や健康の観点からも人気が高いことは言うまでもなく、キラキラした理由で受講する学生も多い。
また運動の苦手な学生が、ヨガであれば、と受講する場合もある。




大学での教科の一つなので、成績をつけなければならない。

他の種目の体育授業における成績評価の基準は様々である。
出席が最も大きな評価の加点となるのは共通してはいるものの、勝敗のつく競技においてはトーナメント形式で勝ち上がった者に加点をするという場合もある。


では、ヨガの評価基準はどのように設定するか。

私はポーズの完成度は評価の基準とせず、自分の身体に対する理解度がどれくらい深まったかということを評価基準としている。
その理解度を計るために、レポート課題を提出させている。


レポートはヨガについて知識を十分に深めて書く必要もないし、ましてやヨガを通して得た素晴らしい体験を書けと強要するつもりも全くなく、
授業を受ける前と受けた後の変化、身体についての理解の違いを言葉を選んで綴ってほしいと思っている。

「変化」はAからBへ変わることでもないと思っているし、AからAであったということも変化の一つだと思っている。
大切なのは、ヨガが何か身体に変化を及ぼすということを実証させるより、ただ自分の身体を客観的に見つめるきっかけとしてヨガの体験が生かされることだと思っている。




私のレッスンの特徴の一つは、動きや形の指示だけでなく、
その動きやポーズをしたときに、身体のどの部分が、どのように動いているように感じられ、それをすることで何が感じられるか、と言ったことを専門用語は一切使わずものすごく細かく説明する点だ。

もしくはわかりやすいモノに例える。
ここ数日で言った覚えのあるものは、前屈をトングで、体側を伸ばすのを扇で、腕を棒で、腕の動きを螺旋で、背筋を服のシワで説明した。
筋肉の働きもどう引っ張られるのかどう縮むのかをできるだけ説明する。


それらは全て、自分の身体で感じられたことを下敷きにして言葉を選ぶ。

お客さんの身体が私の身体と全く同じように動くわけではないし、私の身体が正解なわけでもない。
けれど、お客さん個人個人が私の説明を自分の身体で解釈し、自分の身体で再現ができるようにすると、集中力と動きの明確さ、クオリティが格段に上がる。

結果的にものすごく効果が出る。
もしくは自分の感じ方と違ったと感じたお客さんは、レッスン後に私に詰め寄る。




小さい子供のレッスンをしていてたまに感じること。

例え、お手紙やお月謝袋であっても、渡したときにきちんと「ありがとうございます」を言ってくれる子供が何人かいる。
そう言ってくれる時間、必ず私はその子を待つ。
作業を止め、その子のために自分の時間を差し出す。

その子にとっては、親御さんから「何かもらったときはありがとうございますときちんと言いなさい」と躾されているだけで自動的に発動しただけのことかもしれないけれど、
私に対して何か感じ感謝してくれているという気持ちが嬉しいし、その子の気持ちの表れである「ありがとうございます」は言い終わるまで待とうという心持ちになる。




自分の身体で何を感じたかを自認し、自信(確信)を持って伝えることが自尊感情を高めることに繋がると思う。
それが身体から発信される個性となり、想像力を生み、ひいては創造的な人間の形成に繋がるのではないかと思う。

殊日本においては周囲と同じことであることが求められ、同じ定規の上でその位置を競ったりする。
かく言う私も、その定規の上で足掻いていることは間違いないし、自分だけがその状況を優雅に見下ろしているなんて思えない。


ただ、ヨガを勉強していて確信にかわったことは、
世界があって自分がその中にぽつんと巻き込まれているのではなく、
自分が身体を通して受け取るっている、感じているものが世界だということ。

これはヨガに親しむ人たちの基本的な考え方だそうだ。
宗教的な意味合いも含んでいるのでこの捉え方も強要しようとは思わないけれど、それまでの自分の感覚に近くとても親しみを覚えた。




砕けた言い方をすれば、自分の考えや世界観を持った人が面白い、と私が思うから。
自分と違うということをできるだけ面白がりたいから。

友達に「私は普通だから」と悲観する子がいる。その普通ってなんなんだ笑?
「普通」で十把一絡げにした膨大な意味がなんなのか気になってくるし、「普通」を主張することにその子の人生のなんらかが透けてくる気がする。
少なくとも大雑把な人でおおらかな人なんだなと思う。


正解・不正解はもはやどちらでもよく、突拍子のないことを言うやつを演じろといっているわけでもなく、自分が何を感じているか、そこから何を考えているかをきちんと言える人。
簡単に言うと、自分自身に誠実な人。


自分の考えは持っているだけでは意味がないと思うから。

もし「みんなおんなじ」世界から脱して自分の身一つで戦わなければならない場面に直面することがあるならば、何がどう違うのか説明しなければならない。
まぁべつに、そんな場面は来なくて良いという人にとっては、私がこんなに吠えていることも無意味に見えるんだろうけれども。自営業の悪い癖。

だけど、
自分の考えは、他人に伝えなければ居場所がない。




言葉を選んで文章にする、ということは、伝えるための第一歩だと思う。

他人に自分の考えを理解してもらうためにどうしたらよいか。
よりふさわしい言葉や言葉遣いを選んだり、そういうことをしているときに自分の考えが深まる。
それは定規の上での優劣の戦いでなく、自分自身の深さの問題になると思う。誠実さの深度。


それが文章に現れると信じている。
より自分の感覚にふさわしい言葉を正直に選びとって綴ってみて欲しい。

そんなようなことを基準にあなたたちのレポートを読んでいると言ったところで、何人の学生がその意図を汲み取ってくれているかはわからない。

それでも年に何名か、本当に楽しく読むことのできる自分語りを書いて来る学生がいる。
きっと自分の身体を面白がって書いてくれているのだろう。
それを基準に成績をつけている。




かく言う私も、いつだって、ここに文章を書く時ですらいろんな人の顔が浮かんでは消え、一つの記事をあげるまでに何日も推敲しては書き直す。
わかってもらえるだろうか、私がこんなわかった口きいていいんだろうか、と悩む。

とはいえ。
恥の多い人生、主張の多い性格だけれども、吠えていたい。




夏に書き終えた論文を修正している。
何人かの先生に直していただいたものを読み直してみると、人の言葉を借りて書いている場所にしっかり指摘がされている。
「なんでこの言葉?この表現なの?」

論文は他人の言葉を借りて説得力を出すものだと躍起になっていたものだが。
改めて考え直すと、そもそも自分の考えとずれていた。

終わらない2018。

2018年11月12日月曜日

最近考えたこと(11月、ダンス、夜道)

たまにふと、外を歩いているときに考える。
今突然私が踊り出したら、何が起こるだろう、と。

少しだけ周りの人がびっくりして、それで見て見ぬ振りして通り過ぎていくだろう。

道端で空き缶か帽子をひっくり返してその後ろで踊っていたら、もの好きな人は足を止めてくれるかもしれない。


深夜、大声で歌いながら歩いている人がいる。
見かけると、なんかにやにやと見てしまう。なんか楽しそうで、こっちも楽しい気持ちになる。
たまに大声すぎてびっくりするような迷惑な人もいるけど、私もついやってしまうから気持ちはわかる。
そして音楽に合わせ、もはや手をひらひらさせている。
あの動きは、自分でも好きな自分の動き。


友達とふざけていて「その動きダンスっぽいね!」という反応。
ダンサーの友達との間では絶対に出てこない話題だけど、あのダンスっぽさってなんなんだろうと思うと面白い。
全ての動作がダンスのように美しく洗練されているように見える人もいる。


ダンスってどこに境界があるのかなと考える。
ふとした動作が、ダンスでない理由は?ダンスに見える理由は?

私はたまに人の前で、踊る。
でもその踊る前も後も、私は動き続けている。


5年前に初演した「譚々」という作品の3度目の上演。

この作品はボレロの構成を下敷きにしていて、
椅子にすわったダンサーとスネアドラムを演奏するパーカッショニストの作品。

ボレロはもはや説明するまでもないが、だんだん演奏楽器が増えて行って音の厚みが増し、クレッシェンドで盛り上がり切ってジャン!と弾けて終わる。

それを2人の人間の音と動きで演る。
テンションと動きをグラデーションで上げていく。これが自分で決めたくせにものすごく難しくて、5年かけてやっと少し形に出来てきたような気がしている。

今回の、自分の動きの構成は
・手先で話す
・脱力することによって体軸から歪む
・力を入れて自発的に動き続けるのでなく、振り子の要領で動きを自動化する
・この3点をグラデーションでつなぐ

明確な動きの振付が決まっているダンスを踊ることももちろん好きだし、そういう作品を作ろうかなと思うこともある。
それでも、自分が見てくれる人に問いたいのは
「何がダンスに見えるか?」という部分で、自分も何がダンス足り得るのか探している部分もある。

何がダンスなのかを考えることは、自分のオリジナルのダンスを作ることでもあると思う。

ダンスっぽい動きは、普段人がする動きより数段巧妙で洗練されていて、関節の可動域や跳躍力の凄さ、スピード感で説得力を出したりする。
例えば、「すごい」という種類の動き。

それよりも、身体がふとした瞬間に人の目を惹き付けるような、誰の身体を以ってしても共感しうるような身体のあり方とその動き。
下ろしている腕をふわっと持ち上げた、ただそれだけのことが人を感動させることができる可能性を持っていると思っている。
腕を持ち上げるなんて、何にもすごくない。すごくないけどそれが人の心を動かすことができるのだとしたらそれはどういうやり方なんだろう。

すごい、という言葉には、私とお客さんとの身体の間に距離がありすぎる。
確かにそれも大事な技術だけれども。


誰がダンスを見るのか。
見るその人の身体はどういうもので、どういう動きを感じ取ってくれるのか。
どんな情報を与えておくべきだろうか。
何を共感してもらえるだろうか。


自分が教えの仕事をするとき、
お客さんの身体の状態をできるだけ自分の身体で想像するようにして指示の言葉を選んでいる。

私は当然身体が柔らかいけれども、少なくとも自分のレッスンに来てくださるような方は自分と同じような身体の状態の人は少ない。

股関節が開かないってどういうことか、
肩に力が入るってどういうことか、
背中がバキバキに凝っているってどういうことか、
肩が上がらないってどういうことか、
筋肉の状態はもちろんだし、気持ちの理由が障害となっていることもある。
それでもその人が十分に運動を楽しむためのきっかけを作らなければならない。

大人数のクラスであるほどより簡潔で、誰の身体にも効果的な一言を投げかける必要がある。
そして大方の場合、身体の形(姿勢)の指示だけでは意味をなさない。

そういうことも自分の技術の一つで、それで私は多くのお金をもらっている。


自分のやっていることにいくらの値段がつくだろう、ということをはっきり意識するべきだと思う。
どうしてお金をもらうのか説明でき、説得できる技術を持つべきだと思う。

社会の中で、自分のやっていることに居場所を与えるために。

誰の何のために踊ってるんだろう、ということを考え続けなければならない。

それが見つけられないならば、音楽を聴きながらリズムに乗って手をひらひらさせている自己満足に過ぎない。
暗い夜道で舞う手のひらを誰が褒めてくれるだろう。

それだってダンスなのに。


中村蓉総合演出「ガイド付き!魅惑のダンス会!」
無事終演しました。
蓉ちゃんを筆頭に、みんな汗を散らして踊りきった。

今回は開場中に回遊式のパフォーマンスをしたり、客席を作品ごとに動かしたり、色々チャレンジした公演だった。
はじめ聞いたときは「まじでいけるのかこれ?」と思ったけれど、蓉ちゃんの執念の構想と素晴らしいスタッフワーク、ダンサーの気概で、まるでテーマパークのようなとても面白い公演になったと思う。

お客さまの、終演後の普段見ることのない笑顔。
「良かったよ~!」て私よりハイテンションな感想。

自分の頑張りだけではこの笑顔は作れなかったと思うと、
こんな面白い公演に関わらせてもらえて、幸せ者だと思った。

だから、
ダンスを踊った人、支えてくださった人、見てくださった人、応援してくださった人、全ての人に、ありがとうございました!


解らないことはたくさんあるけど、

私たちが、もし0から1を創るアーティストを名乗るのであれば、
自分たちの価値ですらも創造しなければならないと思うの。

敵は少ないけれど、味方も少ない時代。
道無き道は風が強すぎる。

なんてな、ささやかながらそんなことを思っています。

2018年10月20日土曜日

最近考えていること、10月。それと公演のお知らせ。

久しぶりにダンスの公演に出して頂くことになり、準備をしています。

今回の企画は中村蓉ちゃんが総合演出で、3つの作品を主軸に企画された公演です。私は2度目の再演となる『譚々』という作品と、その他賑やかしで踊らせてもらいます。



今回作品を再演できるよう運んでくれた蓉ちゃんとの付き合いは長く、かれこれ10年近くになります。

彼女が大学3年?のときに初めて舞台で踊っている姿を見て、細い棒のような蓉ちゃんのまっすぐで真摯な踊り方がとても素敵で素直に感動しました。
今でもあの画は覚えていますし、その当時、同年代のダンサーの子の踊りに対して感じたことのない感覚だったことを覚えています。


それから蓉ちゃんは横浜ダンスコレクションで賞ももらって、国内外でダンスの仕事をたくさんこなす名実ともにコンテポラリーダンスシーンで一目置かれる存在となりました。
一緒の舞台に立つこともあったし、彼女の作品に出してもらうこともありました。

彼女はとても周りをよく見ているし、気遣いが上手でなんでも受け入れてくれる。
選り好みするのではなく全てをひっくるめて彼女自身の理想との折り合いをつけるために足掻いている、というか戦ってる。
戦士だと思っている。


昨年、そんな蓉ちゃんのソロダンスを客席で見た私は、彼女がそれまでに戦ってきたものや乗り越えてきたものをこれでもかと受け取りすぎてしまったのか、1時間近くあった作品だったでしょうか、後半は息ができないほど泣いておりました。
自分でもちょっと引くくらいでした笑

私が蓉ちゃんとの距離感が近いからこそ心動いたのは否定できませんが、
その身内感情を抜きにしても、彼女の身体と観客の自分の間で巻き起こったダンスが自分の身体と感情を大きく揺さぶったのは冗談抜きで間違いありません。


_______

私たちが取り組んでいるコンテンポラリーダンスというものは、最も言葉で言い表すのが難しく、何が良くて、何が悪いのかの基準すら曖昧になっている部分も多くあります。

それでも、コンテンポラリー、この時代に生きて今ここで踊る人間の、立脚した存在そのものと、その身体から発せられる、なんて言ったらいいのでしょうか、エネルギーというか、揺らめきというか、発光というか、色香というか
自分の内側も全部さらけ出した人間の滑稽さと切実さとこの上ないかっこよさ。
非常にダセーし痛いんだけど、なぜかかっこよくなるんだよ、どこかのタイミングで。



何を思ってくねくね動いてるのかわからんけど、なんか見ちゃう。
なんか見ちゃうし、なんだったらその動きが純粋で綺麗だとなんか涙がでちゃう。

といった感じだと思うし、それくらいでいいのではないかと思います。
長い間ダンスのこと考えすぎて、それくらい阿呆な答えになってきました。
かっこいい言葉で語ることもできますが、かっこいい言葉はかっこいい言葉であってダンスではないことも多いので…


それでも間違いなく言えることは、そのダンスを受け取ってもらうために観客の人たちにも”身体”が必要だということです。
“身体”があるから、ダンスが解るのだと思います。
身体と身体が交信というのでしょうか、ノンバーバルというか、共感というか。

身体で起こっていることはやはり身体で受け取ってもらうべきだと思います。
これが、ダンスを上演する理由の一つだと思っています。



受け取る側の身体のあり方というものは、これから先にもっともっと切実で重要な問題になってくると思います。

観客の在り方を問うという問題はどんどん切実に鳴ってきているし、なんとなくそういう手法は流行ってきてるなぁ、と。
例えば…大きいので言えばチームラボの例のやつとか。
何が体験されるのか。大きな物語のおこぼれが分与されるのではなく、個人の中での物語の大きさが重要になっていくように思います。

だって、この世界では誰もが主人公なんですもの。良い意味でも、悪い意味でも。
だからこそ、表現の受け手となる身体=観客をどう創造するかが問題だと思うし、
それが私がヨガやバレエなど身体の使い方を教える仕事をしている理由の一つでもあります。



一方、残酷ですが、本物というものはあまり数は多くないと思います。
せつないけれど、なんかそんな気がしています。
本当に素晴らしいもの、そしてそれを十二分に受け取ることのできる身体で居合わせられる奇跡にも近い状況は、そう頻繁に訪れるものではないと思ったりします。

というより、本当に素晴らしいものは、こちらの身体の状態を一振りで塗り替えるくらいの威力を持っていると、自分の経験則でしかありませんが、思っています。
そう思えるいくつかの表現に出会えた自分は、幸運だと思っています。


私の場合はかなり長期戦で取り組んでおりますが、
いつか自分もそういう表現をすることができたらいいなと、心から思います。



______

さて、そんなことを書いてから宣伝するのもとても恥ずかしいのですが、
上記公演の詳細です。

今の私の踊れる全部をちゃんとお見せしたいと思っています。
ぜひご覧いただきたく思います。どうぞよろしくお願いいたします。

(なんか相変わらず重たいよねー、私は。
もっと軽やかにしたいものだわ全く。)

***

【11月公演情報 総合演出:中村蓉《魅惑のダンス会》】
2018年11月3-4日
セッションハウスにてダンスブリッジ企画
《魅惑のダンス会》開催致します。
作品の内容だけじゃなく、その"伝え方"も考察&実践するのが今回の企画です。

ポイント①
ぜひ開場中(開演30分前)からいらして下さい!セッションハウスのあんな場所こんな場所でパフォーマンスが始まっています。

ポイント②
伊藤麻希作品・悪童(中村駿&歌川翔太)作品がセッションハウスに合わせてリニューアル!
作品を更に楽しむ&紐解く豆知識もお伝えします!

ポイント③
中村蓉&五十嵐結也、新作デュオ発表!今夏ドイツを賑わせた2人が ほっかむりもふんどしも脱ぎ、向き合います。コロコロと軽やかに生きる女の人の艶やかさを踊ります。何故イガちゃんなのか!?でも、彼しか無い。

【本編上演作品】
『譚々』
出演:伊藤麻希  演奏:織本卓  照明プラン:伊藤侑貴
『古き悪き慢性固執シンドローム-セッションハウス編』
出演:中村駿・歌川翔太
『あしゅら(仮)』
出演:五十嵐結也・中村蓉
演奏:金井隆之・長谷川紗綾

【日程】
2018年
11月3日(土)開場18:30→開演19:00
11月4日(日)開場13:30→開演14:00/開場17:30→開演18:00
【料金】
前売一般 3,000円 前売学生 2,500円
前売子供 1,500円 当日券+500円
【場所】
神楽坂セッションハウス
東京都新宿区矢来町158
03-3266-0461
【チケットご予約】
3つのうち、いずれかの方法でご予約ください!
①セッションハウスの予約フォームに記入
http://www.session-house.net/reserve.html
②出演者に直接ご連絡

セッションハウスホームページより詳細
http://www.session-house.net/dancebridge3.html

セッションハウス、再発見。
あの手この手でWelcome!!
お待ちしております!!!

2018年9月9日日曜日

9月

先生方や周りの方々に助けていただきながら、年明けから準備をしていた研究論文をやっと提出しました。

大学で担当している一般教養体育でのヨガの授業内容、学生へのアンケートとその分析をまとめました。
テーマは身体感性と主体性の向上です。


ここ5年ほど大学で授業をしていますが、毎回半期終了時に学生には授業の感想を書いてもらっています。

今回は明確なテーマと段階的な授業の構成で授業をしたせいか、学生の感想がすこぶる良く、(例え彼女らが成績目当ての口先だけだったとしても)私の伝えたいことはほぼきちんと伝わったように感じました。
手前味噌ですが、ただヨガの実践をするだけでなくもう一歩身体の在り方に踏み込んだ授業はしていると思っていて、
それを手前味噌で終わらせないように論文を書いてみようというという感じです。


それにしても、付け焼き刃で論文の体裁を整えたようなもの。もし審査に通らなかったらこのまま闇に消えていくだけの論文ですが、
半年真面目にヨガの歴史や思想、方法論を洗い直せたのはとても良い機会で、与えていただいた機会に感謝しています。


修士にいた頃、
同期の"どの本のどのページに何が書いてあるのか分かってる能力"はそれはもう羨ましく、ああはなれん、と博士に進む彼の背中を見送ったものですが、
結局自分も論文を書き始めてみたら"あの本でああ言ってたからこれが言える。どうにかしてこれと繋げて…"、と考えていました。
語ろうとしなければ、言葉も入ってこないのね。

しかし自分の語彙の引き出しの限界も感じました。
内容をうまく匂わせて感じさせる、いい感じの言葉が出てこない。
その雰囲気を醸し出す文章の構成が下手くそ。


今回、教育学の樋口聡先生の本からだいぶ影響を受けた。
この本の「感性教育」や「身体教育」にまつわる話をがなければ、自分の考えていることは面白がってもらえるんじゃないか?とはついぞ思えなかったと思います。

そして何より、樋口先生の文章の書き方がなんとも気持ち良い。
冷静で押し付けがましくなく、それでいて論旨が明確。行間のスマートさ。
ただ純粋に憧れる、こういう文章が書けるようになりたい、と。

自分の言い表したいことをどうしたら文字や文章で表現できるか、
そうやって唸っている時間は本当に楽しい。




11月頭に[譚々]という作品を再演する機会を頂いたので、
これからはその準備をしていこうと思ってます。
スネアドラムの人と私が座って20分くらい踊るやつ、3回目の上演。

参考になるかなと思って、「ミケランジェロの理想と身体」という展覧会を上野で観てきた。

人体の彫塑の作品は本当に興味深い。
以前モデルをしていて、創る現場に立ち会うことがあったから思うのだろうけど、
空間にゼロからヒトの身体を立ち上げるのはすごく自由なようでいて制限がとても多い。
あたかも自然にそこに居るようにヒトを創ることがそもそも高度な技術で、そこからさらに不自然さをうまくコントロールしながらその人独自の表現を加える。
そのままの身体ですぐ踊っちゃう私からすると、難しさのヴェールが厚い。

なかなかお目にかかれない、歴代のいろんな作家の裸体像を並べた展示を見て、ミケランジェロの表現もそれはそれで独特なんだと見比べられたし、
私の好きな身体、そうでもない身体があるんだなぁと当たり前のことを漠然と改めて思った。


普段いろんな方の身体を見ていて、全体/部分における「違和感」や「不自然さ」は目を引くし、それが不調の原因であり、それが個性でもある。
調和がとれて安定しているほど美しく、純粋であるほど尊い。望ましい、普遍的な身体の在り方だと思う。
そして違和感や不自然さが人の目を惹く。
高須クリニックの高須院長は「人は欠損に恋をする」と言ったそうな。


私は何を面白いと思うのか、何を素敵だと思うのか、何に惹かれるのか、また必死に考えようと思う。




ヨガの思想について調べているとき、なるほど興味深いなと思った一節。

ヨガの行法、つまり修行をする一番の目的は、
「心の作用の止滅」、つまり心をコントロールすることにあるそうだ。
心をコントロールすることができれば、その心、そして身体で受け取る世界もコントロールすることができる。なぜなら、

「この『宇宙』は、天と地があり、陸や海に生物があり、人間もその一部であるというかたちで考えられた世界ではなくて、一人の人間が自分の感覚器官をもちいて経験した『世界』である。〜つまり、ヨーガの行法が統御すべき世界は、ヨーガ行者個人が自らの感覚器官をもちいて経験することのできる、『周囲の世界』なのである。」

少し暴力的な解釈かもしれないけれど、
周囲を感覚する身体があってはじめて、その人にとっての世界が立ち現れるのであって、身体の在り方如何によってその人が感じる世界も変わってくる。


論文を書いていた間、少しだけお休みした日舞のお稽古も復活した。

お稽古では、とにかく作品を覚えては踊り、覚えては踊りの繰り返し。
踊りの中で、日本舞踊独自の動き方を身につけていく。

私はすぐ真面目に振付を頑張って踊ろうとしすぎで力が入ってしまう。
なので、とにかく角や点をつくらず流す。できるだけ楽をしようとする。
2年くらいかけてやっと、力を抜いて動いてみようという感覚が身についてきたような気がする。
より滑らかで純粋に動けるようになりたい。

日常生活でも、なるべく力まず最小の力で動くことを意識して動いている。
気のせいか、気持ちも穏やかでいられるような気がするのだけれども、気のせいだろうか。気のせいか。


数日前は、ランニングマシーンで走ってた時、疲れてくると脚を上げながら肩も上げて身体を持ち上げようとしていることに気づいた。
それをやめて地面を蹴った脚の反動の影響で少し上がるだけにしたら、息が上がりにくくなった。

そんなことがまだまだ、いっぱいあるのです。

2018年7月25日水曜日

ロンシ

タイトルは一体何にしたらいいだろうか。

大学でヨガを実践しました。私が普段レッスンをするにあたり大切にしていることを丁寧にカリキュラムとして組んでみました。学生にその感想を訊くアンケートをとってみました。

でタイトルは何にしよう。

「大学体育におけるヨガの実践」としたら、先生から漠然とし過ぎていると言われた。
そうだ。

何を言いたくて書くのか、はっきりしていないから。


私がレッスンで大事にしていること、、、
自分の身体に集中し続けられるようにすること。余計なことを考えず、ひたすら身体のことを考えざるを得ない状況に持っていくこと。
集中を切らさないようにいろんな場所を意識して行くことももちろんだし、手先を意識して、太ももを意識して、足先を意識して、顔の向きを気にして、という感じで、どこか一箇所というより可能な限り身体のいろんな場所を意識してもらうように言葉がけする。呼吸も然り。

完成形を説明するのでなく、その形に向かうための動きや方向性や狙いを説明する。
でないと、身体の状態の違う人たちを同時に動かせない。

身体を動き方を説明する語彙の数は多いし、的確だと思う。
絶対狙いを伝えるために頑張っていろんな方法も試すし。


私のヨガをして、みんなどう思っているんだろう。
わかりやすい、というのは聞いたことがある。雰囲気でごまかさず、どう動くのか的確に言うから。
集中を切らさないようにさせるから、飽きさせないとは思う。


大学でやるときはどうだろうか。
もっと自分の身体を知ってほしいと思う。

「自分の身体を知るためのヨガ」

“大学体育における自分の身体を知るためのヨガの実践”
とか。

自分の身体、その形もそうだし、動き方や機能、それから性格含め考え方や感じ方まで。
全部身体で起こっていることだから。
身体がなければ何も起きないことだから。

身体と心を分離しないものとして。
それは最近の教育の現場でも大切にされていること。

ちょっと飛躍するけれど、
私たちは身体というものがあって、初めて世界と接続している。
その身体は常に変わっていくし、変えられる。
身体が変われば、世界も変わると思う。身体を変えられれば、世界も変えられると思う。

(今私が言っている身体は、物理的な身体もだし、心も含む。
身体で起こっていることすべてを指している。)

そんなに何かが大々的に変わるわけではもちろんないんだけど、
例えば、
脚の筋肉が凝っていたり股間節が硬かったりして歩幅が狭い人が、その凝りや硬さを解消して歩幅が大きくなったら、一歩ずつ歩いて得る情報は変わると思う。
肩こりがひどい人が首が思うように回らないところからその緊張がほぐせたら、もっと視界が広がると思う。
大きな違いで言ったら、身体をいつまでも自分で動かすことができたら寝たきりになることなく自分の足でどこまでも歩いて行くことができる。

それから、身体の状態を性格もだいたいリンクしている気がする。
もちろん、わかりやすい人もそうでない人もいるけれど。
手相とか顔相とかと同じようなもので。
体つきから得られる、もしくは与えている情報は多い。

アレクサンダーテクニークをやっている人たちの、あの人の話を飲み込んで行くような柔軟性。背骨でものを考えている人たちの独特の雰囲気、余裕。

身体がバキバキで硬い人ほど、どこか真面目で融通がきかない。

じゃあ自分はどうかっていうとまぁ、怒りの感情はないかな。
少なくとも今の自分の身体の状態には何の不満もない。



意外とみんな、自分の身体に興味がない。
そして、興味があったとしても、それは健康や美容についての「こうでなくてはならない」というようなだれかが言っていたそうすべき身体のあり方のようなもの。
例えば、自分に似合う服を選べていない人。そりゃ服にどれくらいの熱意があるか?という別の話もあるけれど。
逆に綺麗な洋服を着てヒールを履いて歩いているお姉さんがきちんとガニ股で膝が合わさらずに歩いている人もよく見る。おっさんみたい。

痩せたい、綺麗になりたい、あれをやったらいい、これをやったらいいにちゃんと振り回されてお金を払っているだけの人。誰かの養分にしかなってない。


考え方も。癖だったり、そう考えがち、ということは誰だってある。
気づくことで視野も広がる。


もっと自分の身体に興味を持って楽しんでいけば、少しずつ変えていけるのにと思う。
そりゃすぐには変わらないけれども。

楽しんで。そう。それも大事だな。

興味を持つことは義務ではないけれど、もっと楽しむ探究心を持っていれば発見は無限にある。

その時、客観性を持つことも大事よね。
ヨーガ・スートラに自分自身は「かの見る者である」っていう表記があったな。
自分とは常に、一歩引いたところで見ている者であるという。
自分が何をしているのか、何を感じているのか、何を考えているのか観察する。

自分を知ることは、世界を知ることでもある。ような気がするから。



さて今週末の最終回で聞くアンケートの内容はどうしよう。
3部門で分けて考えるようにさせようかな。
この授業を受けるの自分の身体で起きたことや感じていたこと、授業で学んだことや体験したこと、それをこれからどういうものに生かしていけるか考えてみて。



自分の考えの正しさを客観的に証明しなくてはならない。
誰が見ても、論理的に私の言いたいことが伝わるようにしなくてはならない。
私の授業が意味があったって、誰もが納得できる形にしなくてはならない。

今日はこんなところかな。




2018年7月23日月曜日

最近の頭の中

研究論文を書かねばならないのだが筆が進まない。
多分、論文を書くためにためのもう一人別の自分を用意しなければならない気分になっているのが問題をややこしくしている原因な気がする。
おそらく気取らず自分のまま書くべきで、そのためにはもっと自分が何を言い表したいのか明確にしなければならない。

もう少し具体的に何を考えているのか考えてみようか…
暑くてしんどい。



〈私は研究者じゃなくて表現者なんじゃないか、なんて〉
研究者って本をたくさん読んでいて、知識が沢山ある人のことを言うんでしょう。修士から博士に進学する同期を見て、この知識と勉強量は私には無理〜なんて言って他人事だと思っていた。
論文を書くと決めた時、私は研究者としての顔をも持つのねなんてちょっと自負があったりしたものだが、別の人格を用意して書けるほど優秀ではなかった。
それっぽく研究者面は無理だし、それをやっても意味はない。当たり前だけど。
そもそも研究者てなんだよ。そんなおしゃれな仕事はない。

あくまでも実践研究の立場で、自分がこれまでやってきたことを言葉でまとめるべきだ。素材は揃っていて、どう言う切り口で語るのかが問題。


〈教える仕事〉
大学生の頃は、教えの仕事は絶対したくないと思っていた。
今の仕事は、別に自分のダンサーとしてのやりたいことを全く無下にしているわけではなく、むしろプラスだと思うからこそやっている部分もある。

自分の身体でない他人の身体がどう動いて、どう考えて、どう変化するのか、こんなに近くで観察できて、かついくらでも試したいことができる。
身体という共通するモノについて、いろんな人と話ができる。
他人が何を望んでいて、どこへ向かっていくのか、寄り添うことができる。

私のこの感覚、自分の身体で起こっている面白いことを、より多くの人と共有するためにはどういう手段をとるべきなのかをずっと考えているわけだ。それが自分の作品だ。


〈私が見たい画〉
心酔させたい。人が何かに夢中になる、一点に向かわせる。
たくさんの人がいっぺんにそうなった時、人間が並んでいるだけだけどそれが美しい自然の風景と同じくらい静謐でそれでいて鮮やかな風景になる。これは本当に快感で、独り占めできるご褒美のようなものだ。すごく綺麗な景色。

たくさんの人数を思いのままに動かすことは面白い。たくさん人がいて、みんな違うけれど、それを統一できた時、何か真理を突いた気がして楽しい。


〈自分のダンス〉
動画で見てて、面白い。捉えどころがないけれど、違和感のようなはっとするようなほんの小さな繋がりみたいなものが繋がっている感じは、他のダンサーにはない動き方だと思う。
だから、はっきりとわかりやすいダンスが好きな人は見逃してしまうと思う。見る方にも集中力や注意力を要請しているから。
踊ってるか踊ってないかの境目が面白い。私がやろうとしていることはすごく難しいけれど、うまく行ったら絶対私にしかできないモノが生み出せると思う。そしてその境目を探してるってことは、私にとってダンスって何かということを探していることでもある。

踊っているときの面白さは、自分のダンスが今絶対的に見ている人の身体にリンクしている、と自分の身体で実感できる感覚がある。集中力が自分の身体に向いているその目には見えない光線のようなものを一身に浴びているような。ぞくっとする。


〈ヨガや身体のこと、哲学に関する本を読むことは面白い〉
多角的な考え方ができる気がするから。これまで知らなかった視点が得られる。
逆に、自分が一生懸命考えてたどり着いたことがいとも簡単に書いてあることもある。


〈大学生に言いたいこと〉
「自分はこう考えている」ということをきちんと表現できる人になってほしい。そういう人が増えたら、多分世界が面白くなるから。
自分の考えを言えない人ほど張り合いのない人はいない。というか、私は結局自分の意見をはっきり言える人の方が面白いと思っている。思いの強さやそのパフォーマンス含め。そういう人の方が人目を引くし、集団の中で尊重されやすいと思う。思っていても言っていないのなら考えてないのと一緒、という暴論があるけれど、あながち間違っていないと思う。
もちろん、引っ込み思案だったり、自信がなかったり、ネガティヴな気持ちはあるかもしれないけれど、それはあなたの都合でしょと思ってしまうのよ。
自分がどう思っているのか、徹底的に突き詰めてみればいいし、言ってみて何か変わることがあるかもしれない。そんなに他人は自分のこと気にしていないし、所詮同じ人の形をしたやつの集まり、そこまで他人を出し抜くほどの大したことを考えられる訳でもない。

〈だけど、みんながそうしているから自分もそうしなければならないとは思わない〉
みんながしていることはみんながすればいいのであって、私がそれをやる理由にはならない。これは私の中の絶対的な基準であって、性格だと思う。


話が逸れた

樋口聡先生の「身体知」という考え方の書かれた本を読んで、私のやろうとしていることの行先を指し示してくれている気がしてすごく面白かったんだ。
私の言いたいことなんで思い込みの戯言でしかないけれど、確かに誰かが同じようなことを目指して頑張ってる。
あの本を読んで、自分のやっていることを言葉でまとめてみたいと思ったんだ。

走り書きでした。

2018年6月7日木曜日

“分からなさ”を生きる

という漢字の成り立ちは、長さのある棒を刀で切り分けた様子だそうだ。

分ける、分かる
目の前にある理解しがたいものを、切り分けていくことでそれが何であるのか知ることができる。



訳の分からないものへの恐怖心も、分かることでその恐怖心は収まる。

心霊現象はその原因がわかれば全く怖くないし、挙動不審な街のおじさんだって心理学でその行動の理由もわかったりする。訳の分からないアート作品だって解説がつくと安心して見られる。
分かることで恐怖心を克服でき、さらには心を通わせることだってできる気がする。


分からないということは、ちょっと恥ずかしいことだと思う。
自分の見識の狭さや不勉強さが嫌になる。
分からないことに上手に向き合わないようにしたりもする。


そうやって避けてきた英語もそうだ。

最近やっと重い腰を上げて英会話をやるようにしている。
私にとって漠然とした意味のない音の塊だった英会話が、徐々に単語が分かれて聞こえ意味を追えるくらいにはなってきた。
街に溢れる外国人旅行者の人の会話を盗み聞くくらいには興味が持てるようになった。


だけど、喋る方となると
言いたいことはあっても出てこない単語に本当にイライラする。
伝えたい出来事や自分の情報もたくさんあるのに、それが言葉にならない。
スカイプのオンライン学習なので伝家の宝刀・身振り手振りができなくて本当に焦る。

とりあえずしのごの言わずに単語を覚えれば解決するんだろうけれど。


チューターからよく訊かれる質問は「なぜ英会話の勉強をするの?」
「旅行先で現地の人と話がしたいから」と答える。

ただ見たことのない風景に身を投げるだけの旅行から、もっとその土地の人になってその環境を分かりたいと思う。なんだったらその場所で生活したい。





いろんなことを分かるようになりたいと思って勉強する一方、
分かることが必ずしも是ではないかもしれないなと思うこともある。

この矛盾がうまく言い表せないのだけれど。




ハル・ハートリー監督の『トラスト・ミー』という映画を観た。

ハル・ハートリーはNYのインディペンデントムービーの権化だった人だそうで、UPLINKで特別上映をしていた。1990年の作品。

妊娠がわかってすぐに父親が心臓病で突然死しそれを母親に攻められる女子高生と、屁理屈で仕事が全く続けられないものの父親の支配から逃れられずにいる青年が出会う作品。

妊娠、彼氏の裏切り、家出、父親の死、強姦未遂、幼児連れ去り、失業、虐待、暴力、求婚、罠、堕胎、立て籠り・・・
これでもかってくらい人生の荒波に揉まれている話で、イベントが多すぎて余韻や意味に浸る意味もない。あえて浸る間を作らなせないようにしているんだろう。



意図しない追い詰められた状況の中でちょっとしたきっかけ、それは周囲の人のほんの一言だったりわずかな感情の揺れだったり、その中で少しだけ舵を切っていく。

彼らが出来事の価値を考えたり意味を理解する様子は一切描かれず、身体ひとつで感じて乗り越えていく感じにとても好感が持てた。

30年近く前の作品なのに、この分からなさとの向き合い方に心から共感したし、新鮮なワクワクがあった。
10年くらい前の自分が見ていたら、どう思っただろう?




どうしたっても分からないことは、分からないままで受け取ることも必要かと思うこともある。
分かろうとして自分の持っている刃こぼれした刀で下手に切り刻んで、却って物事の厚みが薄れていく。
もっと漠然としている方が豊かだ。


それと、分からないで済んでしまっていることも案外多い。

こんなに近くにある自分の身体だって、「これはなんでこうなの?」と思って調べると「なぜそうなるのかは解明されていません」という答えにたどり着くことが多すぎる。

まぁそのためには、まずは分かることをとことん突き詰めなければならないんだろうけれども。

意外と分からないことだらけ。
でもなんとかなっている。なってないのかもしれない。それも分からない。
それが面白いのかもなと思う。




植島啓司さんと伊藤俊治さんの対談本『共感のレッスン-超情報化社会を生きる』という本を読んだ。
とても面白い一節があったので抜粋して紹介したい。


植島 『錯乱』というのは、人が理解できないことが錯乱なのであって。もしかすると、錯乱とは生命体にとって、もっと高次な段階で働いている機能なのかもしれない。それをたまたま論理的、合理的に理解できないから、錯乱としてしか見ることができないということだと思うんですけどね。これは恐らく遺伝子レベルでもそういう働きがあって、決してある一方向には動いていないということによって、何て言うのかな、動きが多様化して、生命体が一斉に滅びたりすることがないようにしている。そういうふうに理解できると思うんですけれど。
伊藤 生命の本能的なふるまいに近いものを感じますね。トランスを周期的に繰り返すことで、特別な精神の創造性のプログラムを伝え続けようとしたというふうにも考えられる。儀礼の継承というのも、共同体のDNAの保存システムとも見なされうるのではないでしょうか。
植島 ええ、そうですね。
伊藤 それと、理解できないものに向き合うには、自分が理解できないものになるしかない。トランスにはそうした要素があります。環境というものが偶然性に満ちたものなので、人間の身体性を無意識のうちに対応させる。何が起こるか分からないので、意識的に脳を使うと、多分できない。
植島 遅くなるし、うまくいかない。
伊藤 考えていたら終わってしまう。ランダムさがとても重要で、遺伝子とか免疫系というのも、結局何が来るか分からないところに対応するということですよね。