2018年9月9日日曜日

9月

先生方や周りの方々に助けていただきながら、年明けから準備をしていた研究論文をやっと提出しました。

大学で担当している一般教養体育でのヨガの授業内容、学生へのアンケートとその分析をまとめました。
テーマは身体感性と主体性の向上です。


ここ5年ほど大学で授業をしていますが、毎回半期終了時に学生には授業の感想を書いてもらっています。

今回は明確なテーマと段階的な授業の構成で授業をしたせいか、学生の感想がすこぶる良く、(例え彼女らが成績目当ての口先だけだったとしても)私の伝えたいことはほぼきちんと伝わったように感じました。
手前味噌ですが、ただヨガの実践をするだけでなくもう一歩身体の在り方に踏み込んだ授業はしていると思っていて、
それを手前味噌で終わらせないように論文を書いてみようというという感じです。


それにしても、付け焼き刃で論文の体裁を整えたようなもの。もし審査に通らなかったらこのまま闇に消えていくだけの論文ですが、
半年真面目にヨガの歴史や思想、方法論を洗い直せたのはとても良い機会で、与えていただいた機会に感謝しています。


修士にいた頃、
同期の"どの本のどのページに何が書いてあるのか分かってる能力"はそれはもう羨ましく、ああはなれん、と博士に進む彼の背中を見送ったものですが、
結局自分も論文を書き始めてみたら"あの本でああ言ってたからこれが言える。どうにかしてこれと繋げて…"、と考えていました。
語ろうとしなければ、言葉も入ってこないのね。

しかし自分の語彙の引き出しの限界も感じました。
内容をうまく匂わせて感じさせる、いい感じの言葉が出てこない。
その雰囲気を醸し出す文章の構成が下手くそ。


今回、教育学の樋口聡先生の本からだいぶ影響を受けた。
この本の「感性教育」や「身体教育」にまつわる話をがなければ、自分の考えていることは面白がってもらえるんじゃないか?とはついぞ思えなかったと思います。

そして何より、樋口先生の文章の書き方がなんとも気持ち良い。
冷静で押し付けがましくなく、それでいて論旨が明確。行間のスマートさ。
ただ純粋に憧れる、こういう文章が書けるようになりたい、と。

自分の言い表したいことをどうしたら文字や文章で表現できるか、
そうやって唸っている時間は本当に楽しい。




11月頭に[譚々]という作品を再演する機会を頂いたので、
これからはその準備をしていこうと思ってます。
スネアドラムの人と私が座って20分くらい踊るやつ、3回目の上演。

参考になるかなと思って、「ミケランジェロの理想と身体」という展覧会を上野で観てきた。

人体の彫塑の作品は本当に興味深い。
以前モデルをしていて、創る現場に立ち会うことがあったから思うのだろうけど、
空間にゼロからヒトの身体を立ち上げるのはすごく自由なようでいて制限がとても多い。
あたかも自然にそこに居るようにヒトを創ることがそもそも高度な技術で、そこからさらに不自然さをうまくコントロールしながらその人独自の表現を加える。
そのままの身体ですぐ踊っちゃう私からすると、難しさのヴェールが厚い。

なかなかお目にかかれない、歴代のいろんな作家の裸体像を並べた展示を見て、ミケランジェロの表現もそれはそれで独特なんだと見比べられたし、
私の好きな身体、そうでもない身体があるんだなぁと当たり前のことを漠然と改めて思った。


普段いろんな方の身体を見ていて、全体/部分における「違和感」や「不自然さ」は目を引くし、それが不調の原因であり、それが個性でもある。
調和がとれて安定しているほど美しく、純粋であるほど尊い。望ましい、普遍的な身体の在り方だと思う。
そして違和感や不自然さが人の目を惹く。
高須クリニックの高須院長は「人は欠損に恋をする」と言ったそうな。


私は何を面白いと思うのか、何を素敵だと思うのか、何に惹かれるのか、また必死に考えようと思う。




ヨガの思想について調べているとき、なるほど興味深いなと思った一節。

ヨガの行法、つまり修行をする一番の目的は、
「心の作用の止滅」、つまり心をコントロールすることにあるそうだ。
心をコントロールすることができれば、その心、そして身体で受け取る世界もコントロールすることができる。なぜなら、

「この『宇宙』は、天と地があり、陸や海に生物があり、人間もその一部であるというかたちで考えられた世界ではなくて、一人の人間が自分の感覚器官をもちいて経験した『世界』である。〜つまり、ヨーガの行法が統御すべき世界は、ヨーガ行者個人が自らの感覚器官をもちいて経験することのできる、『周囲の世界』なのである。」

少し暴力的な解釈かもしれないけれど、
周囲を感覚する身体があってはじめて、その人にとっての世界が立ち現れるのであって、身体の在り方如何によってその人が感じる世界も変わってくる。


論文を書いていた間、少しだけお休みした日舞のお稽古も復活した。

お稽古では、とにかく作品を覚えては踊り、覚えては踊りの繰り返し。
踊りの中で、日本舞踊独自の動き方を身につけていく。

私はすぐ真面目に振付を頑張って踊ろうとしすぎで力が入ってしまう。
なので、とにかく角や点をつくらず流す。できるだけ楽をしようとする。
2年くらいかけてやっと、力を抜いて動いてみようという感覚が身についてきたような気がする。
より滑らかで純粋に動けるようになりたい。

日常生活でも、なるべく力まず最小の力で動くことを意識して動いている。
気のせいか、気持ちも穏やかでいられるような気がするのだけれども、気のせいだろうか。気のせいか。


数日前は、ランニングマシーンで走ってた時、疲れてくると脚を上げながら肩も上げて身体を持ち上げようとしていることに気づいた。
それをやめて地面を蹴った脚の反動の影響で少し上がるだけにしたら、息が上がりにくくなった。

そんなことがまだまだ、いっぱいあるのです。