2018年12月23日日曜日

ヨガを教えるために

ここ何年か、ヨガの授業を大学で行なっている。
授業の人気は高く、毎回受講生は抽選で選出されるほどだ。

ヨガが美容や健康の観点からも人気が高いことは言うまでもなく、キラキラした理由で受講する学生も多い。
また運動の苦手な学生が、ヨガであれば、と受講する場合もある。




大学での教科の一つなので、成績をつけなければならない。

他の種目の体育授業における成績評価の基準は様々である。
出席が最も大きな評価の加点となるのは共通してはいるものの、勝敗のつく競技においてはトーナメント形式で勝ち上がった者に加点をするという場合もある。


では、ヨガの評価基準はどのように設定するか。

私はポーズの完成度は評価の基準とせず、自分の身体に対する理解度がどれくらい深まったかということを評価基準としている。
その理解度を計るために、レポート課題を提出させている。


レポートはヨガについて知識を十分に深めて書く必要もないし、ましてやヨガを通して得た素晴らしい体験を書けと強要するつもりも全くなく、
授業を受ける前と受けた後の変化、身体についての理解の違いを言葉を選んで綴ってほしいと思っている。

「変化」はAからBへ変わることでもないと思っているし、AからAであったということも変化の一つだと思っている。
大切なのは、ヨガが何か身体に変化を及ぼすということを実証させるより、ただ自分の身体を客観的に見つめるきっかけとしてヨガの体験が生かされることだと思っている。




私のレッスンの特徴の一つは、動きや形の指示だけでなく、
その動きやポーズをしたときに、身体のどの部分が、どのように動いているように感じられ、それをすることで何が感じられるか、と言ったことを専門用語は一切使わずものすごく細かく説明する点だ。

もしくはわかりやすいモノに例える。
ここ数日で言った覚えのあるものは、前屈をトングで、体側を伸ばすのを扇で、腕を棒で、腕の動きを螺旋で、背筋を服のシワで説明した。
筋肉の働きもどう引っ張られるのかどう縮むのかをできるだけ説明する。


それらは全て、自分の身体で感じられたことを下敷きにして言葉を選ぶ。

お客さんの身体が私の身体と全く同じように動くわけではないし、私の身体が正解なわけでもない。
けれど、お客さん個人個人が私の説明を自分の身体で解釈し、自分の身体で再現ができるようにすると、集中力と動きの明確さ、クオリティが格段に上がる。

結果的にものすごく効果が出る。
もしくは自分の感じ方と違ったと感じたお客さんは、レッスン後に私に詰め寄る。




小さい子供のレッスンをしていてたまに感じること。

例え、お手紙やお月謝袋であっても、渡したときにきちんと「ありがとうございます」を言ってくれる子供が何人かいる。
そう言ってくれる時間、必ず私はその子を待つ。
作業を止め、その子のために自分の時間を差し出す。

その子にとっては、親御さんから「何かもらったときはありがとうございますときちんと言いなさい」と躾されているだけで自動的に発動しただけのことかもしれないけれど、
私に対して何か感じ感謝してくれているという気持ちが嬉しいし、その子の気持ちの表れである「ありがとうございます」は言い終わるまで待とうという心持ちになる。




自分の身体で何を感じたかを自認し、自信(確信)を持って伝えることが自尊感情を高めることに繋がると思う。
それが身体から発信される個性となり、想像力を生み、ひいては創造的な人間の形成に繋がるのではないかと思う。

殊日本においては周囲と同じことであることが求められ、同じ定規の上でその位置を競ったりする。
かく言う私も、その定規の上で足掻いていることは間違いないし、自分だけがその状況を優雅に見下ろしているなんて思えない。


ただ、ヨガを勉強していて確信にかわったことは、
世界があって自分がその中にぽつんと巻き込まれているのではなく、
自分が身体を通して受け取るっている、感じているものが世界だということ。

これはヨガに親しむ人たちの基本的な考え方だそうだ。
宗教的な意味合いも含んでいるのでこの捉え方も強要しようとは思わないけれど、それまでの自分の感覚に近くとても親しみを覚えた。




砕けた言い方をすれば、自分の考えや世界観を持った人が面白い、と私が思うから。
自分と違うということをできるだけ面白がりたいから。

友達に「私は普通だから」と悲観する子がいる。その普通ってなんなんだ笑?
「普通」で十把一絡げにした膨大な意味がなんなのか気になってくるし、「普通」を主張することにその子の人生のなんらかが透けてくる気がする。
少なくとも大雑把な人でおおらかな人なんだなと思う。


正解・不正解はもはやどちらでもよく、突拍子のないことを言うやつを演じろといっているわけでもなく、自分が何を感じているか、そこから何を考えているかをきちんと言える人。
簡単に言うと、自分自身に誠実な人。


自分の考えは持っているだけでは意味がないと思うから。

もし「みんなおんなじ」世界から脱して自分の身一つで戦わなければならない場面に直面することがあるならば、何がどう違うのか説明しなければならない。
まぁべつに、そんな場面は来なくて良いという人にとっては、私がこんなに吠えていることも無意味に見えるんだろうけれども。自営業の悪い癖。

だけど、
自分の考えは、他人に伝えなければ居場所がない。




言葉を選んで文章にする、ということは、伝えるための第一歩だと思う。

他人に自分の考えを理解してもらうためにどうしたらよいか。
よりふさわしい言葉や言葉遣いを選んだり、そういうことをしているときに自分の考えが深まる。
それは定規の上での優劣の戦いでなく、自分自身の深さの問題になると思う。誠実さの深度。


それが文章に現れると信じている。
より自分の感覚にふさわしい言葉を正直に選びとって綴ってみて欲しい。

そんなようなことを基準にあなたたちのレポートを読んでいると言ったところで、何人の学生がその意図を汲み取ってくれているかはわからない。

それでも年に何名か、本当に楽しく読むことのできる自分語りを書いて来る学生がいる。
きっと自分の身体を面白がって書いてくれているのだろう。
それを基準に成績をつけている。




かく言う私も、いつだって、ここに文章を書く時ですらいろんな人の顔が浮かんでは消え、一つの記事をあげるまでに何日も推敲しては書き直す。
わかってもらえるだろうか、私がこんなわかった口きいていいんだろうか、と悩む。

とはいえ。
恥の多い人生、主張の多い性格だけれども、吠えていたい。




夏に書き終えた論文を修正している。
何人かの先生に直していただいたものを読み直してみると、人の言葉を借りて書いている場所にしっかり指摘がされている。
「なんでこの言葉?この表現なの?」

論文は他人の言葉を借りて説得力を出すものだと躍起になっていたものだが。
改めて考え直すと、そもそも自分の考えとずれていた。

終わらない2018。