2019年12月5日木曜日

言葉と身体

PISA調査 読解力低下に歯止めかけたい : 社説 : 読売新聞オンライン
https://www.yomiuri.co.jp/editorial/20191203-OYT1T50294/



昼にテレビを見ていたら、子どもの読解力や文章作成力の低下がニュースになっていた。

日本語が正しく使えない。
例えば主語述語がない、助詞がおかしい、長文を読点なしの一文で書く、就活の書類に絵文字等。
笑い話のように扱っていたけれど、とても深刻な問題だと思う。


ここ数年、大学生に対して行なっている授業では、ヨガの授業ではあるものの、最終課題は自分のことを文章で伝える課題を出している。

もちろん、その課題を出すからには、それ相当に自分と向き合うための時間を授業でみっちり取り入れてから取り組ませるのであって、闇雲に出す課題ではない。
自分の授業では、何をどう感じて、それをどう伝えるかを身体を通して考えることをずっとテーマにしている。


先のニュースの話、解決策に決定的なものは示されることはなかった。
こうなったのは、大人の責任である。より活字や文章に触れる機会を持たせる必要がある、とは言っていたものの、具体的ではないと思った。

こんなにも情報に溢れた社会の中で、活字に触れないことは少ない。
むしろ、言葉に囲まれた環境の中で、本当に必要な能力はなんだろうかと考える。





大学院で哲学の本を読んでいた頃、日本語なのに意味がわからないという経験を散々した。
文字を追って目を動かしているのに、意味が全く入ってこない。
それはもう、外国の言葉を読んでいるかのような絶望感で、何度も読み返すけれど、それでも何が書いてあるのかわからなかった。

それでも、自分の興味を引くような言葉や、私の感覚に近いのではないかと感じる言葉はいくつかあって、
それをとっかかりにイメージしてみたりした。

そうやって自分の都合のいいように解釈した言葉を、ダンスの作品制作を指導してくださっていた勅使川原さんにふと漏らすと、それは自分の言葉ではないから使ってはダメだと叱責される。

作品制作の苦悩もさることながら、自分の言葉ってなんだろうと頭を悩ませた。





本をたくさん読んできたわけではないけれど、言葉に対する執着は、昔からどちらかというとあった方だと思う。
すぐ難しい言葉使うよねと、高校生の頃にいじられていた気がする。今思うと不思議だけれども。


例えば、「見る」と「観る」。
音は一緒だし、どちらを使ったとしても意味は通じる。
でも、「一見する」と「観賞する」ではニュアンスが違うように、「見る」と「観る」の状態の違いはある。

どれくらいの興味を持って、どれくらいの熱量で、それをどれくらい知っているかも違うと思うし、好意的なのか悪意的なのかも、ただ「みる」だけでも大きな違いがある。


だからこそ、「見る」と「観る」それぞれそれを選んだであろう、その人のイメージの違いも少し想像する。
たまに、ただ難しい言葉を使いたい虚栄心だけが見え隠れする人もいるけれど。





文章力の低下が学力の問題とすり替えられてしまいそうな昨今の学習環境は、もしかしたら問題をさらにややこしくさせるのではないかと思う。

結局のところ、難しい言葉を使いこなせることが重要なわけではないと思うのだ。

自分の感じていることや考えていることを、的確に言葉にして表し、それを人と共有し、同じように考えを持つ他人と意見を交わし、尊重しあうことが大切なのだと思う。


的確に言葉で表すことができる力ということは、自分の状態を客観的に示すということとも等しいと思う。
その能力は、年齢を重ね、経験を積むことで養われる。

同時に、その力は、情報の嘘や、言葉の裏に隠された意味をも想像させる力にもつながる。
なぜなら、自分も同じように言葉を選ぶ経験をしていれば、どうしてその言葉で表されたのか、想像がつく。

幼い子供は自分の考えていることを次々に言葉にして、どうしたら大人に伝わるか経験していく中で、言葉の選択肢や豊かさを体得していく。
だから、幼い子供は言葉を知ることと経験が大切なのだ。使えることが重要なわけでは、まだない。





ただ、もういい大人になっている学生にはちゃんと書かせる。

学生に自由記述の課題を出すときに、特に念を入れて説明をすることは、
自分の感じていることを表すのに相応しい言葉を丁寧に選んで書いてください、ということ。

そのための下敷きとなる授業では、ヨガという教材を使って自分の身体と向き合う中で、今自分が何を感じ、何を考えているのかと何度も問いかけるようにしている。

ただ、素敵なことや偉いこと、誰かに褒められることを考える必要は全くないとも伝える。
むしろ、眠くても、ムカついても、自分のことが嫌いでも、やる気がなくても、全てが嫌になっていても、それでもいい。
そう考えている今の身体が大切だと思うから、それを何か無理やり方向付ける必要もないし、こうあらなければならないということもない。

そんなことを何度も何度も説明している。
そういうことを学ぶために、ヨガはわざわざ痛かったりきつかったりするポーズを取るとさえ思っている。

そうすると、最終課題では、なんとも読む方の心を動かす文章を書いてくれる学生が何人かいるものだ。
しっかりと、自分の実感に基づいて言葉を選ぼうとしてくれている。





最近では、少しずつ普段の大人のレッスンでも本性を表し始めた私は、
学生にやっているようなことをこっそり織り交ぜてレッスンしている。

ヨガはじめ、フィットネスプログラムとしてレッスンを提供している身としては、本当は、全力で健康な身体を作るための手助けにならなければならないのだけれども。

何を感じ、何を考えているか、自分自身と向き合うように仕向けているレッスンは、
きっといつか、自分の表現にとって大切なことになるような気がしている。




来年はこのことについて論文書いてみようかな。教育学で書かなきゃならんぽいし。
(改行で都合よく間を取っていれば勢いで書けるのにね。)

2019年10月17日木曜日

パフォーマンスキッズトーキョー@新島を終えて、感性教育とアーティストについて

パフォーマンスキッズトーキョーという企画に参加させてもらうということで、ここしばらく新島に行っていた。

この企画は、東京都内の小学校にアーティスト/ダンサーを派遣して、学芸会や運動会で発表するダンス作品を一緒に創作するというもの。
今回私は、いがちゃんの新島行きのアシスタントとしてご指名を賜り、二つ返事でほいほい着いて行った。


毎週同じ場所で仕事をすることが多い私にとっては、こんな素敵なお出かけ仕事はボーナスと行っても過言ではない。


「仕事で来てるんだからね」と事あるごとに釘を刺してくれるプロデューサーの髙樹さんの勧めでシュノーケルを買って初めて海で浮かんでみたり、リサーチと称していがちゃんとレンタサイクルで島内を爆走したり、事あるごとに3人で写真を撮りまくったり、それはそれは新島をエンジョイしましたとさ。







いや、今回の使命は、小学校での運動会において、5,6年生20名と20分のダンス作品を創ること。


制作の期間としては1ヶ月、先生方やいがちゃんが準備したのはそれ以上になるけれど、実質子供達とクリエーションや練習ができるのはたった20時間ほど。


正直、今自分が20分の作品を作るとしても、稽古だけでも1〜2ヶ月は取ると思う。
それをたった20時間で。なかなかどうして。

そして何より今回は、運動会の予定日が台風襲来とばっちり重なるという、呪い。いや、不運。

思い通りにいかなかったことも、思い通りにいったことも、そして思い通りの何倍も子供たちが素晴らしかったことも、色々あるけれど、
改めて、色々な人たちから、表現や芸術のことや、教育のことについてたくさん学ばせてもらった素敵な機会だった。


全てのことを書き出しているとものすごい量になるので、かいつまんで備忘録。


少し偏った話になるかもしれないけれど。

私自身ここ最近論文を書いたりするにあたって、「感性教育」というものにとても興味があるので、その辺りを中心に。


今はまだそれを十分にまとめられるほどのものはないけれど、きっとこれから感性教育のことを考えるときは、今回の経験を何度も思い出すんだろうなと思うから。







自分が小学校の5,6年生のとき、何を考えていただろう。
思い出そうとしても、覚えていることはそう多くない。


その当時に、例えば「アーティスト」と呼ばれる人に出会っていたら。
自分はどんな気持ちになっていただろうとか、何か変わっていたかな、と考える。



今回私たちの立場は、子供たちと先生の間にいる、アーティスト、表現を教える専門家というものだった。
ということをしっかり自覚したのは後半になってからだったが(ほんと意識低くて申し訳ない)、普段子供たちにバレエを教える先生というのも経験しているからか、それとも違う何かを求められていることはなんとなく感じていた。



いがちゃんが「やってみよう」ということに対し、初めは難色を示す子たちも多かった。


当たり前だ、突然やってきたよくわからんテンション高いやつらがよくわからんことして、いいね!とか言ってるんだから、何が正解かなんてわかりにくい。



結局、何が、いいね!なのか。
戻ってくるのはいつも、ダンスってなんなんだってことになる。



表現としての身体の動きは、それそのものが何かの意味を明確に示す記号としては不十分、というか抽象的すぎる。
もっと砕けた言い方をすれば、ダンスでの身体の動きって、それ自体意味のわからないものも多い。


だったら、何を表現して、見てる人に何を伝えられるのかといえば、
ダンサーがどういう気持ちで踊っているのかが見ている人の身体にふわーっと伝わったり、ダンサー自身が自分の気持ちを信じる強さが見てる人を巻き込んだりするものなんだと思う。


これが、今のところの、自分がダンスをやってきて考えた答えなんだろうと思った。
…なんてかっこよく言ってみたけど、
ダンスってなんなんだ(怒)!とモヤモヤ路頭に迷っていた大学生の頃の自分に、今の自分が教えてあげられるとしたら、そういうことなのかなと思った。



子供たちは、慣れない表現のダンスをやってみて、
楽しかったという気持ちも、難しかったという気持ちも、なんか嫌だなという気持ちも、恥ずかしいという気持ちも、思い通りにいかなかったという気持ちも、すっきりしたという気持ちも、色々あると思う。


そして、それのどれも全て、間違ってないと思う、心からそう思えるのなら。



教えてあげたい、なんていうと大げさだけど、お勧めしたいことは、
自分の感覚に誠実でいるべきということ。
自分が何を感じて、何を考えるのかということに自信を持って欲しい。
そして、それを支えてあげられるようになりたい。


今はまだ、自分の感覚を的確に感じたり、伝えられないかもしれない。
もしかしたら、水面に浮かんで消える泡のように、忘れてしまうかもしれない。
それでもいい。
なぜなら、その気持ちの泡は記憶の襞に留まり折り重なって、いつかその人の個性になっていくと思うから。


表現作品は、それがゴールではない。
これまでの常識を疑い、もしかしたら壊れてしまった自分と向き合いながら、それでもまた考えて行動するきっかけになるんだと思う。
それは、作り手にとっても、観客にとっても。


自分が作品の一部となり踊る高揚感や自身の存在の小ささに絶望すること、圧倒的な作品に出会ってしまいどうしようもなく心動かされること、
それら非日常の崇高さは麻薬のようで、それを求めてまた生きてみようとさえ思える。



決して、美しいものだけがアートではない。
もちろん、綺麗で美しいものへの憧れが人を動かすこともある。


でもそれと同じくらい、怒りや悲しみ、悔しさ、切なさ、苦しさからもアートが生まれる。
アーティストはコンプレックスを燃料にして自分を発火しているから、表現をつづけられるんだとも思う。



Artの語源は、「技術」。
私は、アーティストとは、作品を創る技術もさることながら、「生きる技術」を持っている人だと思う。
自分の心と身体に正直すぎて、もしかしたら、社会とは折り合いがつかなくなっちゃってるかもしれないけれど、
その人自身の幸福を追い求めれられる人だと思う。







話がだいぶ壮大になってしまったけど、結論から言えば、新島の全部が超楽しかった。
書ききれない。


運動会も最高に楽しかった。
あんなに運動会て笑えるんだなと思った。笑


出会った子供たちや先生方、島の方々はみんなとても優しい。
仲良くしてくれて、本当にありがとうございました。


そして自分のやってきたことを少しでも還元する機会をもらえたこと。
そういうチャンスをくれた髙樹さんと、作品を作ってくれたいがちゃんに感謝。



運動会をやってる最中に少しだけ、宿のお母さんと立ち話をしていた。


遠くから聞こえる運動会の賑やかな音楽や歓声と、それよりも手前に聞こえる虫の声。
音ってこんなに遠くから優しく聞こえるんだなと、自然の豊かさとはこういうことかと思った。



コンクリートジャングルでイヤホン突っ込んでこれを書きながら、新島が恋しいと思う。

2019年9月11日水曜日

夏の終わりと秋の始まり、残暑

9月になった。

無事に9月が来た。

頭を悩ませていた論文を書き終わった。
長かった。

文章を考えることは嫌いではないけれど、
そんな程度で論文を書こうと思うのはなかなか大変で、正直「やめようかな」と何度も思った。

でも今書き記すことで、いつか、何かの役に立つんじゃないかと、願っている。





それにしても、こんなに、自分がヨガを面白く思うようになるとは想像してなかった。
教えるという仕事も。

ダンスをやってる身からすれば、ヨガのインストラクターって逃げ道のように思われることもあると思うし、実際自分もそう思っていた。

始めた頃は、自分の考えていることや、やっていることの理解者を増やしたいとか、自分が踊る時のお客さんが増えたらいいなとか、そんなつもりで考えていた。
何より生活を立てなければならないという理由も。


今ではそれ以上に、ヨガやダンスや運動を教えることの面白さも感じている。

特にヨガは、人の心と身体に介入する技術の面白さがある。
それは、自分が踊ってみせることと、重なる部分もあるし、違う種類の関わり方でもあると思う。





論文書き終わって行った整体の先生に、
催眠術の勉強してみたら面白いかも、と提案してもらって、本を買ってみた。

対人での施術者のあり方とか、言葉の誘導の仕方とか、集中力の持続のさせ方とか、かなり面白い。

思い返せば、日常にも催眠術的なコミュニケーションはありふれている。
それを意図的に、目的に沿って使用するのが催眠術なのかな、とか。

催眠術は、無い物を起こすわけではなく、潜在意識を引き出す。
その点では、思い込みでがんじがらめになった身体をほぐすヨガや運動の指導にはとても役に立つ。


自分のレッスンの時の言葉遣いにも、ここ最近気を配ってやってみている。

身体の多様性を広く肯定する言い回し、つまり、
ポーズが完璧にできなくても、個々人がちょうど良い形を見つけられるように促す言い回しと、自分の狙いに誘い込む言い回しのギャップは、なかなかスリルがある。

シャバーサナ(ヨガの最後のリラックスタイム)はかなり精度が上がったとは思う。





毎月やっている、大人初心者向けたバレエの振付。
今月は、シベリウスのヴァイオリン協奏曲の編曲に振付をしてみた。

作りながら、私がバレエを教える意味って何だろうなぁとか、考えた。考える。いや、毎月思う。


正直、私はクラシックバレエをプロでやっていたわけではないし、教えるには分不相応かもしれない。
正しいことを教えられているかどうか、不安なこともちょっとある。

でも、正しいことって何だろうと考えると、ある程度の形式はあっても、絶対はない。


だとしたら…もっと根っこの、衝動的な部分だったら、どうだろうか。

私は踊ることはずっとしてきたし、踊っていて幸せだと感じる瞬間を何度も体験してきた。

それならば、私が教えられるのは、その、踊っていて幸せだと感じられる瞬間のことなんじゃないのかなーとか、ぼんやりと思う。

音楽と自分の動きや、人や場所の作る空間と自分の動きがバチっとハマった瞬間に、鳥肌の立つゾクゾクするあの感じ。

陶酔とか、溶けるとか、自分の身体を超えていく感じ。

あれは、踊っていないと感じられない瞬間。


スキルや厳格な形式にはめ込んだ身体の快感もあるし、それはそれで追い求める形がある。
特にバレエには。

その看板は、小さいながら掲げさせてもらうとしても、私は何を教えて、何を共有したいのか?

それが実現できたら、ジャンルや形式を超えて、オリジナルになれるのかなと思う。




今月の28日に、掛川で踊らせてもらえる機会がある。

ゆるアコの金井さんとさあやちゃんと一緒に。
ギターと、リコーダーと、鍵盤ハーモニカと、歌の生演奏と共に。
なんという贅沢。


2人の作る空気感というか、イメージや即興性はとても柔軟で、聴く人の心を丁寧に掴む。
音楽に弾かされているわけではなく、音楽という方法で、自分たちを表現する技術がある。

その証拠に、こんなにも踊りやすいのかと思うし、どんどんイメージが膨らんできて楽しい。


音楽と、見る人の、間を繋ぐ存在になれればと思う。
2人の音楽を聴いて、どうしようもなく身体が動いてしまう衝動を、そのまま動きにしたい。

私も丁寧に、踊れるようになりたい。


追伸、だいぶ地元だからさ、
もし機会があえば、いろんな人に見てもらえたら嬉しい。
詳細はまたお知らせするつもりです。


しばらく書き溜めていたものを繋げたら長くなってしまった。
お付き合いありがとうございます。

2019年7月2日火曜日

健康とアート

大きな病院行くと、壁にたくさんの絵が飾ってあるのをよく見かける。


大きな油絵や、淡い水彩画、はたまた子供の描いた絵。
隣り合うものでも、びっくりするくらい違うテーマや画風のものが並んでいる。
きっとこういうのも、選ぶ基準みたいなものがあるんだろうけど、突然そこにあらわれる大きな絵にびっくりすることもある。


そして、その作品が創り出す場の空気感というものはきれいに無視されている。
あくまでも、額縁で切り取られた非現実。


来院している人たちがその絵を見て、目の前にある不安から逃れ気持ちが少しでも和らげば、ということだろう。



いろんな種類の作品が並んでいることは、節操のなさではなく、どのタイミングでどういう人がその作品を見るか、趣味も様々。

いい意味で敷居を低くアートを取り入れようとして、
敢えて統一感のなさを、作り出しているのではないかと思ったりする。



ここに書きたいのは、アートの鑑賞や実践をとおして心身の健康を獲得しよう!とかいう、アートがいかに社会に有益であるかという話より、もう少し根っこの話。

そのアートと向き合う身体はどういう状態なのか、ということは考慮されないのか?という疑問。



アート作品は何のためにあるのか、と考える。

作品は、日常に彩りや清らかさ、または未知の刺激を与えたり、気晴らしの余暇になったり。
アーティストの表現したい衝動は、作品と向き合う人にとって勇気や希望を与え人間らしさを取り戻させたりして、人生を豊かなものにしてくれるかもしれない。



テント芝居って見たことあるだろうか。


公園に建てられたテントの中。
ラッキーな時は畳が敷かれた上、運が悪いと芝生の上にビニールシートと座布団一枚。
そんな中、ぎゅうぎゅう詰めに座って2時間越えの芝居を観る。
運が悪いと座りなおすこともできない。


身体、だいぶ辛い。
故に後半になるとちょっと内容が入ってこなくなったりする。



そんな中で力強いパフォーマンスをする俳優。
それが限界値まで達した時、テントの幕が破られ、劇場は外へと突き出す。
観ているこちらも、数時間に渡る芝居のクライマックスを一緒に体験する。



内田樹と池上六朗は「身体の言い分」という対談本の中で、
「同化的に体を使う」ということについて話している。


「内田:たぶん人間には、自分のすぐ近くに、調って、安定していて、かつ自由度の高い体があると、それを模倣するという根源的な趨向性があるんだと思うんです。弱い体や、不自由な体には『感染力』がない。それと同期したいという欲求が湧いてこない。」

この部分を読んでいて、ダンスのことを考えた。


人は何でダンスを見るんだろう?とよく考えるけれど、
ダンサーの、風通りの良く、滑らかでたくましい身体を見る人は、自分の身体でもそのダンサーの身体を感じているんじゃないかと思う。



そのとき、振付は観客にとって与えられる情報というより、同化するファクターとしてあると考えることもできるんじゃないかと考える。



ちょっと勢い、雑な話だけど。

身体性を問うアート作品が増えた、というような文言を見ることはよくある。


高度に発展したテクノロジーに、大きな好奇心を寄せるアーティストによって創られた、拡張された/新しい身体感覚を扱う作品はどんどん増えていく。

ただ、その作品は、未だ人間の感覚をひとまとまりのものとして扱っているように思う。まだ細分化されていないという印象。
「プロジェクションマッピングって物の形に合わせて映像が出るんだって!」とか「VR、すごいよね!立体に見えるんだよ!」ってまだみんなびっくりできる。



でもそのうち、本当に同じ風景が見られて居るかどうか、ということを問う人が出てきたりするんじゃないか?

確かに、人間の基本構造は大体同じようにできている。
けれど今を生きる人間の身体は、多様で、複雑で、揺らぎやすく、ひとときも同じ状態ではあり得ない。
それはきっと、4分33秒の無音が問いかけることのような。


そんな感じで、作品の受け取り手の身体のあり方の多様性を織り込んでいくことをもっと打ち出す作品がこれから増えていくんじゃないかと予想したりする。

…これはまだ、何となくそんな気がする、という程度の話なので、これからもっと明らかになっていくことのような気がしているけれど、ここは自分勝手に書きたいこと書く場所なので許して。

スター性やカリスマ性といったもので社会を引っ張っていく象徴はもうそう現れない。
全体を方向付ける大きな思想は明るいものではなく、むしろ暗い方向へ。
なにより、誰もが批評家/アーティストとして発信できる時代。


それでもなお、プロ・アーティストは何を発信するのか。
沈む泥舟から華麗に飛び降りてみせることなんじゃないか。


なーんてな!



そのとき、今よりもっと、人間の感覚や、情報の受け取り方をリクリエイトする、というような流れは必要とされるんじゃないかって。


そうでなくても、このハイスピードな情報化社会から落ちこぼれた身体を、それでも幸福に生かすためのセラピーはどんどん注目されていっている。
たくさんの人にとって、「幸福」が求められている。

私の実感でいうと、テクノロジーの発展に着実に心身が蝕まれている様子は手に取るように感じるし、同年代や若い人ほど重症だと思うこともある。


息苦しそうな身体よ。
その身体で一体何を感じるんだ?きっと私もそのうちの一人なんだろうけど。



健康の指標のうちの一つには、
多くの刺激をポジティブに受け入れられるということがあると思う。


頭で考えることに慣れきっている現代の人たちが、身体感覚の渇きを癒しに足を運ぶアートという名のオアシス。

その時その身体は、どういう状態であるべきか。

2019年6月27日木曜日

言葉の選びかた、愛おしさ

論文を書くための素材として、ヨガの授業を受講している学生に、自由記述のアンケートを書いてもらっている。
これまでに、3回。


授業はせいぜい10回ほどしかしてないけれど、回を増すごとに、学生の言葉は実感の重みが増していって、読んでいて面白い。





私は自分の身体を通して語っていて、少なくとも自分の身体で実感したことや、自分の身体において責任を持てると感じられたことを喋っているつもり。

だけど、一方で、
私の正解を、私の何かを押し付けたくないなとも教えていてふと思う。


何も誘導せず、透明なままでアンケートに答えてほしいと思っても、どうしてもなんらかの恣意は入り込む。
だって、論文を書きたくてとってるアンケートだものね。

限りなく私の意図が入り込まない最低限の設問にしているけど、私の方に書きたいことがある意図は消せない。
そのために導き出したい感覚や、狙っている回答はどうしても、ある。


その狭間で、なんとなくモヤモヤしたり、しなかったり。
回答中は努めて黙ってるけど、
授業してるとつい小声で要らないこと言ってしまう。





教育の場では、私の身体を、押し付けることはいけないと思う。
各々が導き出す答えとは何か、尊重すべきことは何か、ということに常に気を張っていなくては。


例えば、スポーツジムなら少し違う。

"これをやったらこうなる"の見本として私がいるのも、いいと思う。
そのためには、多少強引に私の感覚を押し付けても良いかもしれない。
もしその感覚と合わないと思っても、お客さんの方がインストラクターを選べるから。
合わないと思ったら止めることができる。

私もお客さんの変化を観察しながら、執着しないようにしよう、と思ったりする。
一期一会、また私のレッスンに参加してくださって、身体見させてもらってありがとうという気持ち。


でも学校だとそれは少し違う気がしている。

例え、通う学校や受講する授業を選んでいるとしても、先生は選べないことが多い。
だからこそ、長い時間をかけて向き合える関係もあるだろうけれども。


非常勤である私は、1コマ15回限りの付き合いで、それが少し心残り。

最終レポートにはいつも、「これからも先生に教わったヨガを、家でも続けていきたいと思います!」という気遣い(阿り)の溢れた言葉がちらほら。
「正直やらんだろ」と心の中でつっこんでる。

身体のことを、あーだこーだ言う変な先生がいたな、と数年後に思い出してもらえたら幸せだな、と思うくらい。





論文を書くために、
ざっくりとした正解、例えば今回のことで言えば、大まかな"健康"という概念を、私は決めたがっている。


一説にヨガは、"結ぶ"を意味する"yuj"と言う言葉が語源と言われていて、
何と何を結ぶか諸説あるけれど、それらを乱暴にまとめれば、"心と身体を結ぶ"という解釈が多い。

解剖学のように身体を切り刻み病因に対処するのでなく、
バラバラになって暴走する心や身体をつなぎとめ、全人的な視点でアンバランスさを改善するのがヨガ、
と言った感じかしら。


ヨガというのは歴史が長すぎて拠出のはっきりしない部分も多く、体系付けようにも難しい部分があるみたい。
何かにつけ言い切るのが非常に危ないと足踏みしてしまう。

そして、ヨガは潜っていくほどスピリチュアル。
どんどん説明が難しくなる。

それである程度明確な根拠を与えてくれるソマティック心理学、プロセス指向心理学というものをちょい借りして、ヨガの"結ぶ"ということを今回説明してみようと思っているけど、なんか手を広げ過ぎる気もする。危ない…

だってせいぜい11枚の論文で、記述の分析だけで膨大すぎるよこれじゃ。





去年も同様に、アンケートをまとめる論文を書いたけど、
学生のアンケートは読んでいるだけで「なんて良い回答なんだ!」と感心するようなものがある。

そりゃ、私が授業して喋りまくったことを学生がまとめてるんだから、自分は至極納得できるだけど。
「ああ、私はなんて良い授業をしたんだ」って自惚れてしまうくらいには、伝わっている。

その「良い授業」をまとめたくて、褒めて欲しくて、去年は書いていた気がする。
たった一年ですでに読み返すのが恥ずかしいレベルには香ばしい。
なんか全体的に自信過剰で偉そうなんだよね。
本当に、こういう性格直したい。





例えるなら、飛んでったボール咥えて全力で帰ってくる犬のような自分。恥ずかしい。

それでも、エラい大人が書いている文章には割と「自分結構すごいんですよねー」という一文はちゃんと入り込んでたりするもんじゃん?

文章の説得力に加勢するためで、自己顕示欲ではないとは思う(思いたい)けれども。
ちゃんと他人から見て、「へーすごい人なんだ」て言ってもらえるような書き方よ。
技術よねぇ。





さて、今年は去年のリベンジなので手法はほぼ変わらないけど、少し感触の違うこともある。


去年より漠然とさせた今年のアンケートは読んでいて、確かに私の言ったことを基にしてるだろうけど、なんだろう、学生の回答が私の考えの範疇を微妙に超え始めている。
とても良いことだと思っている。


まだちゃんと説明できないはずの最近読んだ本の内容が、アンケートの答えに書いてある。
言ってはいないと思うし、というかまだ理解しきっていないから、ここまでちゃんと説明できていないはずなのに、確かに学生が何か感じてる。


頭抱えるくらい崩壊した日本語の子もいるけれど、
それでも、誠実に私と自分の身体に向き合ってくれてる子の、浮ついた助詞の選び方や言葉の狭間に漂うニュアンスの瑞々しさは、とても愛おしい。

そういうのを書き残せないものか、という気分に、今はなっている。

2019年6月17日月曜日

やる気が出る前 * * やる気が出て来た後 

細々と書いているこのブログも、「読んでますよ」と言ってもらうことが増えた。

「ダンスって言葉で説明できないじゃん?」と知った顔だった大学生の頃の私に、
「ダンサーも言葉を扱えなきゃダメだ」とさらなる知った顔で諭してきた大嫌いなお兄さん。


そんな影響でブログを書いてみようと思ってから早10年。
その人はまだ、果たして踊っているのかしら?






その時はまだ、言葉の能力(ちから)を今ほど信じてはいなかったけど。


手記のような読み物が割と好き。
ただし、読み手に媚びおもねる感じのエッセイのようなものは苦手。

最近読んだ三島由紀夫の「太陽と鉄」は良かった。他、アルトー、ドストエフスキーなど。
個人の感情のうねりが言葉の芸術まで昇華してかっ飛ばしてるくらいが気持ちいい。
だからたまにわけわからんけど。

詩になると言葉が上滑りしていって沁みてこない。
俳句の方が余白が多いから仲間に入れてもらえる感じ。





自分自身を客観視することは簡単なことではないけれど、言葉にしてみることで、一つ自分の外側に立ち位置を持つことはできると思う。

何かを語ろうとする時、その思考に形を与えようとする時、自ずと客観的な立場に立つことになるから。

みたいなことふと考えていて、今日の授業で学生に言ってみた。
伝わってなくてもいい。私が私のために言った言葉。


そうしたら、昨日ぼーっと見ていたヤフーニュースの記事で、「失恋した時は手紙を書きなさい、ただし相手にそれを送らないように」と書いてあったのも思い出した。






携帯のメモには、書き上げることのなかった言葉の切れ端がものすごい数眠っている。

最近は、一方通行の一つの文章にまとめようとせず、説明しすぎないように、*で余白をとることにしている。

*で留めておけば、前後を飛び越えて繋がりができる気がする。
それが言葉でちゃんと表せればいいんだけど。





こんな稚拙でも、一つの文章をまとめるのにすごくエネルギーが必要で、力尽きている間に風化していく。

去年書いた拙論文の抜刷りを職場の先生に渡したら、
「まずは書き上げるだけでいいんだよ!とにかく、書き上げて形に残さないと、無かったのと同じだから!」とやたら励ましていただいた。

本当はそれだけではいけないと、わかっているけれど。







いろんな人の身体を見ることが仕事のひとつだけど、
その身体の状態から、どういう性格や考え方なのかとか、どういう生活を送っているのかとか、色々想像する。

そうして結局、
私にとって他人の身体は、その人の生活が創り出した(まだ昇華しきっていない)アート作品なんだと、
色々考えた結果たどり着いた。

身体の状態は、その人の在り方を多少なりとも反映している。
身体の状態がその人となりを作ることもあるし、気持ちのコントロールで変わる身体もある。
身体を知っていくことの面白さが自分自身への興味や感受性の幅を広げることにもなるんじゃないかと。

そしてそういう方向性で論文をまとればいいんだと、ようやく入り口にたどり着いた。
時間かかったなぁ。間に合うんか?

自分で設問しといて目的を見失ってた学生へのアンケートも、参考にすべき先行研究も、少し明るくなった。

とりあえず130枚近い記述アンケートの文字起こしと分析からだ…やるぞー





去年、論文を書くために集計していた学生のアンケートを読んでいて面白いと思ったのは、
「脳が司令塔みたいな感じで、体はその操縦に従って動くロボットだ。だけどロボットがポンコツすぎて、思い通りに動いてくれなくてもどかしい」
という記述だった。

原因と結果を考察し、病因に対し処置をする西洋医学に対して、東洋医学は全人的な処置を行う。
インダス文明からアーユルヴェーダのいち医療行為としてとして取り入れられてきたはヨガも東洋医学に属しており、のちの仏教の言うところの心身一如の考え方とも通じる。

日本人としては、日本語に身体と感情を結びつける慣用句がたくさんあることもあり、心と身体は連動しあうという感覚の方が強いのかなと想像していたのだが…

そのはずなのに、脳が身体をコントロールするという発想はどこから来たのか。
でも彼女な丁寧な説明に膝を叩いた。溜飲を下げた。目を開いた。


アニメオタクを自称する彼女は、「自分の思考や感情など心の部分があれば、インターネット上に存在することができる。だから身体は社会に自分をつなぎとめているものに過ぎない」と言っていた。

最高にクール。情報化社会ここに極まれり。

そんなことあるかい、と思ったけど、そんなこともあるか、と思った。





先行研究を漁っていて面白かった部分を。

プロセスワーク(プロセス指向心理学)のアーノルド・ミンデルの著書から引用されたもの。

『当時私が見ていた患者は胃癌で死にかけていた。…ある日話をすることができたとき彼は、胃の腫瘍が耐えられないほど痛むといった。私は、彼の身体感覚、すなわち痛みの体験に焦点を当ててみようと考えた。…彼はどうすればそれができるかをよく知っており…あおむけに横たわり、おなかに力を加えはじめた。…まるで自分が爆発するかのように感じてきたのである。そして痛みの頂点で突然、叫び声をあげた。「ああ、アーニー、僕は爆発したい、今まで爆発することができなかったんだ。…僕の問題は、自分自身を決して十分に表現することがなかったということなんだ。」』(アーノルド・ミンデル:ドリームボディ・ワーク、1994)

なんて、面白いんだ。その動き見てみたい。そんなやり方があったのか。

表現かー!

2019年6月4日火曜日

オリジナルコンテンツとプライドの、かなり曖昧な話

久しぶりに、ヨガインストラクターの資格取るのに通ってたスタジオで、レッスンを受けた。

たまには気分転換に、喋らずヨガしないとね。呼吸のタイミングが掴めなくなるんだよね。

しかもラッキーなことにマンツーマンレッスン。
先輩インストラクターさんに色々と疑問に答えてもらえて、とても勉強になった。
結局かなりお喋りしながらのレッスンだった。


✳︎


同じ資格をとって同じようにヨガを教えているとはいえ、私があまり使ったことのない表現や指示出しのワードが使われていた。
その先生は、解剖学専門のヨガの先生の元で学んでいるらしい。
せっかくマンツーなので、それってどう言う意味で使ってますか?と意地悪な質問をしてみた。

例えば「骨から動く」という言葉。
その人は滑らかにその言葉を口にしていた。

表層の筋肉でがつがつ動くのではなく、よりコアな部分から繊細に動いていくという動き方の様子は理解できるのだけど、
果たして、本当に骨から動けるのか?という所で私は立ち止まってしまう。
"" 動かす。わかる。
"から" 動く。うーん。
"" 動く。いや。

骨は身体をその形に成らしめている芯というか核であって、骨自体が動くわけではない。
むしろ骨は重力につなぎとめられて空中にういているだけ。
骨に神経はないし、骨を主に動かすのは筋肉だ。
じゃあ、より骨に近い深層筋を使うのか?と聞けば、それも何か違うという。

その人いわく、人間の身体において、筋肉の数と骨の数を比べれば筋肉の数の方が圧倒的に多いし、特定の筋肉の動きを感じ取ることは難しい。
骨をイメージして動く方が、シンプルに体の動きを理解しやすい。
そういう理由でその人は骨からアプローチするそうだ。





こうなってくると、あとはその言葉を使う人が実感としてその言葉をどう理解しているか、
あとはどういうお客さんとレッスンをしているか、ということになってくる。


私のレッスンの多くは、ちょっとふらっとレッスンに出てみた、運動は久しぶり。何したらいいかわからない、という方も多い。

そうなってくると、どこからどこが骨かとか骨の形だって、厳密に分かっているわけではない。
専門用語はもってのほか。
そして、圧倒的に身体が硬い。その人の思う場所を動かそうとしても、意識が届かなかったり、周りの硬い筋肉が障害となって違う場所が必要以上に使われてしまったり。

例えば胸の引き上げに、
「胸鎖関節を開いて、胸骨を突き出すようにしてください」って言ってたら、どこやねんで終わる。疑問を持たれる時間がもったいないし、間に合わない。
よって、
「ウルトラマンのピコーンピコーンのバッジがよく見えるようにしてください」といった具合になる。
笑いが起きればなお良し。楽しいし。


レッスンは、教える人によって全然クラスの色も違うし、教える内容も、何を大切にしているかも、千差万別。
同じくポーズをしていても、インストラクションの指示の言葉選びから、何に効果を期待するかまで、本当にそれぞれ。
でもどれが正解でどれが不正解というわけでもない。

先の先生のレッスンも、私のお客さんには難しいかもれしれないけれど、私にとってはかなりおもしろい。


どちらかというと、正解不正解は、教える方と教えられる方の相性の部分にある。合うか合わないか。

あまり気にしてはいなかったけれど、やはりお客さんが求めるものを提供しようとすることで、自分自身の中で出来上がっていくインストラクションの傾向もある。
改めて、昨日思った。




とにかく体を動かしたいの!という人が多い場所にいるから、ヨガの心理的作用の部分のことに言及することはすくない。
本当は、人生の哲学のような内容も、ヨガの教えには多く含まれる。スピリチュアルな内容も含めて。

それでもヨガの心理的な部分を全く排除しているわけではないけどね、と思ってはいたけれど、久しぶりにヨガ一直線の先生のレッスンを受けると、心理的な部分への言及がかなり色濃い。
自分自身との向き合い方というか。

私はおそらく変に心が強すぎるから、優しい語り口調で、「ありのままの自分の存在を肯定して受け入れてあげましょう」という指示は、ちょっと気持ち悪いと感じることさえある。

ヨガの懐の広さを思えば、その気持ち悪さは、別に否定することではないかもしれないけれども。





だから結局、ヨガについて論文を書こうとしても、
私は心理的な部分までは十分に言及できてないのかもしれない、と思ったり。
私の指導内容で、ヨガの心理的な部分まで言いましたというのは、十分ではないのかもしれない。
専門性、客観性、そういった櫓門は一体どの辺りに立てるべきなのか。

いろんな指導法がある。
何が正解なのかも、その基準点も、本当に多様。曖昧ではなく、多様。
多様にそれぞれが語られ、小さな事実を提供しているだけなのかもしれない。

その謙虚さが、去年の論文には足りなかったんじゃないか。





一方で。
自分は選ばれるコンテンツの一つの種類を提供していると考えるのが、一番健全なあり方なのかもね、思ったりしている。

自分が絶対ではない。
でも自分の性格的に、これはこう、と決めつけてしまいたくなる衝動は尽きない。
一生懸命考えて、考えた結果、これが一番だろうと自信を持ってお伝えする姿勢は悪いことではないとは思うし、いろんな考え方があるよねと頭では漠然と分かっていても、自分の身体で納得した答えはせめてその瞬間なるべくクリアでありたいと思う。(待った、情報の選択と創造をごっちゃにしている気がするが)


でもダンスも、アートもそうなのかもね、と思う。
自分が一番になろうとするのではなく、いろんな人に見てもらう、その人にとってのいちコンテンツとしてあろうとするくらいの気分が私にとってがちょうどいいのかもしれない。
その方が何か吹っ切れる気がするし、だったらとことん突き詰めてやってやろうと思えるし、不要な意地やプライドもちょっとは脱ぎ捨てられるかもしれない。

自分だっていろんなものを見て、いろんな人の価値観や考えを取り入れてるんだから。盲信的に何か一つのものにすがったりすることはない。

プライドとは。





確実なものは、自分のやっていることに対する信頼度というより、それはあるべきだけど、とても小さな核のような、そこの透明度はプライドを持って望むべきものでああるかもしれないけど(プライド、誇りといって奢りになるより、誠実さといった方がこの場合適切かもしれない。)、それが他人に共有され、全く同じように伝わらないかもしれないけど、同じ時間を共有して、良いものも悪いものも、何かを与え与えられたという関係だけは確実なんじゃないか。

と言う考え方も、だいぶ日本人的考え方なのかもしれないけど。安田先生の言う、間身体的なあり方のような。





自分の考えうることは、だいたい誰かがすでに言っている。それはもう切なくなるくらい。
返せば、誰かの考えをたくさん取り入れて、自分が成り立っている。

もっと汚れてしまったほうがいいのかもしれない。その方が、揉まれるなかでそれでも揺らがない微かな何かが、見つけられるのかもしれない。

こんな、糸の切れた凧のような睡眠不足の考え事。

2019年5月27日月曜日

ボディ・ビル哲学

書いては消し、書いては消し。
最近、いっそう自分の文章が好きじゃない。
どうしたものか。

一本線が通ったときに、よしまとめられた!、と思うけれど、読み返してみると言いくるめたい感が強すぎて、どうにも。
揺らぎがなかったり、隙間がなかったり。

我が強い感じがそのまま出てしまって、少しうんざり。というか、はずかしい。




それにしても、昨日の日舞の稽古は刺激的だったな!

日舞は、明確に綺麗に見える形をとるべき瞬間が点々とあるんだけど、その点と点をつなぐ間は自由であることが多いらしい。
個人の身体に合わせて違和感なく綺麗につないでいればオーケー。
手の通る経路も、歩数も、音楽の捉え方ですらも。

だから、綺麗な形を覚えこむことより、身体が自ずから自由に動くけれども綺麗に見えるラインを探るのがかなり難しい。

どうしても力みが抜けなくて、ギシギシと力で踊ってしまう。


それがどうやら、足首に根本原因がある気がしてきた。

今までの足首の使い方は、足(指先、足の甲、踝)という部品に脛をジョイントして押し込んでるような使い方で、
オフバランスになろうとするとき、足首を踏み込んで止めようとしてしまう。

日舞の歩き方は重力に乗って倒れこむように足を出して行くべきなんだけど、それを足首が止めようとしている。


そこで、もう少し踝の位置を高く浮き上がらせるような感じで、隙間を持たせ摩擦が出来るだけ起きないように、揺らぐように使うと全身が軽くなった。

もともとそれが身についてる先生は「どゆこと?」と首を傾げていたけど、私的には非常に大興奮だった。

これが身体に馴染んで習慣化すれば
もう少し滑らかに動けるかしら。




大昔、千駄木のBrick-oneに出入りしていた頃、
「あなたは足首が強すぎて、全部足首で処理しちゃってる」
と指摘されたことを思い出す。
そのときは意味不明で、何言ってんの?て感じだったけど、
いまやっと、理解したぞ。

しかも、ほかの身体のコリは最近大体どうにかできるけど、ふくらはぎのコリだけはどうにも治らない。

踊るときや仕事のときは難しいけど、まずは歩き方から変えてみよう。
ふくらはぎの形も変えられる気がする。




そうやって自分の身体をちょっとずつ作り変えてきていて、
太ももの形は昔と今でだいぶ違うし、靴擦れにならない歩き方に直したし、
アレキサンダーテクニックを参考にして首の位置と体軸を直してる途中。
体幹がなかった仕事始めた頃は、二の腕の形がどんどん太くなってたけど、ようやっと最近そうならない使い方ができるようになってきた。

それでも、ふくらはぎだけが、いつまでも疑問だった。
ひざ下の骨が出てると昔整形外科で言われたのと、腰椎分離症はあるとして、かかとの骨が出てるのも気になる。




身体に性格が出る。

単純に、筋肉の質とモノの考え方はリンクしているように思う。
ただよく伸びる柔軟性というより、受け止め方のような点において。

細かく調べたことないから勘だけど、まぁそういうものなんじゃないかと思う。
いろんな人の身体を見てると、どんな生活なんだろうとか、どうしてこうなってるんだろうとか、自ずと考えてしまう。




そうやって、人の身体を扱う仕事をしているせいか、顔つきというのはあまり見ていないくて、やっぱりひたすら身体を見ている。

仕事で一度会った人も、覚えているのはその人の顔よりその人の身体の動き方で、
レッスン前に「この間はどうも」って言われても「はて?」で、レッスンしてると思い出す。

さらに、目が悪いまま仕事をしてるから、細かい表情は見過ごしていることが多い。
それでも、その人の意思は身体全体から感じ取れる。

私にとって意味ある情報を発信しているのは身体であって、顔はパーツの配置くらいにしか捉えられていなくて、全ては個々人の差でしかなくて、
もちろん見てしゃべってるんだけど、相手の目を見て話しすぎて、目がゲシュタルト崩壊することもある。
所謂美人だとかイケメンだとか、そこに価値があるかどうかはわからない。


それでも一応私にも顔がついてるんだけど(自分の顔は人のためにある気がして)、鏡で自分を見ると「誰だこれ」って不思議な気分と恥ずかしい気持ちになる。




身体の使い方を学ぶということは、考える力を学び、心を豊かにすること?

心が豊か、って、なんだろうと思うけど、豊か、数をたくさん持っているということかしら。
たくさんの心を知っている。他人の心を知って思いやり、自分も思いやる。そんな感じ?


子どものぶっとんだ発想や理論立てられていない空想は、あの肉の柔らかさが生み出しているものだと思う。
水が高いところから流れ落ちるように、肉も流動的。

だけど子どもは、ずるや楽をしたがる。楽な方に流れていく。
身体を律して自分を立てる力をまだ知らないからだと思う。
その力を経験というのだと思う。




大人はまた違う問題。
レッスンしてて出会う、なんとも頑固な身体つきの人。
並大抵の指示では聞き流され、本人がやりやすいように処理してしまう。

お医者さんだったり、直接全部触って施術できるようなマッサージだったり、
薬とかでもっとわかりやすく(半ば強制的に)変化(効果)をつけるようなものならいいんだけどね、
運動の指導となると。


経験を積み重ね、慣れ親しんだ身体で慣れた動きしかしないことには、どうしてもある程度考え方も固執していく。
身体が凝り固まって可動範囲が狭くなれば、刺激に鈍感になり、思い及ぶ範囲も狭まっていく。

そんな中で、新しい動きや身体の使い方を身につけてもらうのは、そう簡単なことではない。
たまたま自分のレッスンがクリーンヒット!になることもあるかもしれないけど、一応お金もらってるので、
奇跡でなく毎回できるだけ発見があるようにしてみている。
レッスンは、身体をめぐる物語。起承転結。


この、むしろ押し付けがましい私のレッスンが、果たして良いのかどうかもわからない。
自分の正解を押し付けてはいないかと、たまに不安になってはいるんだけど、

せめて私だけは楽しんでるということをお見せするということで許してくれとは思ってる。




終わらないので一旦終了
あー論文どーしたものか。




三島由紀夫のスポーツ論集が面白かった。
「ボディ・ビル哲学」という節より。

 『近代芸術の短所は、まさにその点にある。知性だけが異常発達を遂げて、肉がそれに伴わないのだ。
肉というものは、私には知性のはじらいあるいは謙抑の表現のように思われる。鋭い知性は、鋭ければ鋭いほど、肉でその身を包まなければならないのだ。ゲーテの芸術はその模範的なものである。精神の羞恥心が肉を身にまとわせる、それこそ完全な美しい芸術の定義である。羞恥心のない知性は、羞恥心のない肉体よりも一そう醜い。
 ロダンの彫刻「考える人」では、肉体の力と、精神の謙抑が、見事に一致している。

 だまされたと思ってボディ・ビルをやってごらんなさい。もっとも私がすすめるのはインテリ諸君のためであって、脳ミソ空っぽの男がそのうえボディ・ビルをやって、アンバランスを強化するのは、何とも無駄事である。』