先日のこと。
代行で、ご年配の方の健康体操レッスンを担当した。
かなり軽度の運動を1時間、その日は45人のご参加だった。
レッスン終わりにお客さんのお見送りをしていたら、
「スタイルいいわねぇ」とやたら褒めていただいた。
最近はボディラインの見える仕事服を着ることが多い。
腹筋全開スポブラだけ!、とまでは行かないけど、
動きの説明に邪魔な緩い服はどんどん少なくなる。
その日はレギンスにタイトな長袖のシャツを着ていたのだけれども、
おばあちゃま達があまりに褒めてくれるから勘違いしそうになったわ。
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インストラクターとして人の前に立つ限りは、やはり、「運動をすればこうなる」というわかりやすい見本になるべきだとは思う。
もちろん、体格云々以前に、教え方やインストラクター自身のキャラクターの問題もある。
けれど、今回は主にお客さんからどう見られるか、という話。
もちろん、対応するお客さんによってその基準は変わってくるけれども、
私がレッスンをしている多くの場所では、痩せていることがいいことであるわけでもない模様。
結構体格のしっかりしたインストラクターも少なくない。年齢も様々だし。
もしかしたら、インストラクターがその人からかけ離れすぎているのも、性格によってはネガティヴに捉える(「頑張ったってああはなれない」)こともあるかもしれず、
自分も頑張ればこうなれるかも、という親み(可能性)も、ある程度必要かもしれないとも思う。
運動をしたいとその場に足を運ぶ人たちに、「こうなりたい」と思ってもらえるような人間として、もしくはそのお客さん自身の描く「こうなりたい」の助けとなるインストラクターとして、レッスンをさせてもらうことが大事なのかなと。
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それは、自分がかつて、子供の時にバレエ教室で感じたことと似ている。
私の通っていた教室は、年齢である程度教室の所属は区分されていたものの、3歳から60歳近いダンサーまで、本当に幅広い人がレッスンをしていた。
自分から上のお姉さん達は、当然憧れの存在だった。
今思えば、レッスンの仕方にも工夫があったのかもしれない。
レッスンのはじめに必ずその日の班決めがある。
学年と経験年数順に一列に並んで、点呼をして、
必ずお姉さんから一番末っ子までが均等に班になるようにする。
自分がどれくらいの立ち位置かも自覚するし、班長のお姉さんを頼りにして付いて行こうとその姿を追いかける。
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自分が今、子供のバレエの教室を見ていると、
やはり練習好きで上手なお姉さんがいると、クラスのレベルが格段によくなる。
「こうなりたい」という手本がそこにいることが、とても重要なのだと思う。
その関係は、自分と指導者という関係より、自分と少し上の先輩との関係の方が馴染みやすく、憧れの立場に立つ自分を想像しやすいだろうし、その分頑張ろうと前向きに頑張れる。
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インストラクターとお客さんという関係でも、様々な捉え方はあると思う。
ある人にとっては、「こうなりたい」と思わせる存在かもしれないし、
見ているだけで楽しい、きれいと思わせる存在かもしれない。
もしくはレッスンに出ることで、自分に鞭打つ存在かもしれない。
どれか一つであるべきとも思わないし、十人十色、様々な関係性があるだろう。
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次に自分のダンス作品について考えようと思う時、
インストラクターとしての自分とお客様の関係と、ダンサーとお客さんの関係にどう違いがあるのか?と考える。
最近思っていたのは、舞台上で上演されるダンスが、客席に座るお客さんにどう共有されるのか?ということだった。
客席に座っているとしても、ダンスを受け取るその身体になんらかの変化を与えられないのか?と。
それを考えるとき、一番手っ取り早い方法として思いつくのは、自分がレッスンをしている環境だった。
レッスンをしているときの、私の一番の快感は、
自分の動きが伝播していく感じ、自分の感覚を身体で追体験してもらって、それがなんらかの変化をもたらしたことを確認できたとき、目の前に立ちはだかる強情な身体を自分の狙い通りに動かせた時だ。
その快感を、ダンス作品にも、応用できないのかと思った。
何か、自分がやること、ダンスというものが何を伝えるのかの確証が欲しいと思ったのかもしれない。
同時に、舞台上で踊られるダンスと、それを見る自分との間に、ものすごく距離を感じる作品を最近見たからかもしれない。
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だけど結局、ダンサー/お客さんとインストラクター/お客さん、その二様の取り結んでいる関係は、明らかに違う。
インストラクターは自分の理想を投影する「こうなりたい」の身近な憧れの存在かもしれないが、
ダンサーはその身体とその身体から発せられる動き自体が作品であり、鑑賞される対象。
お客さんがダンサーを見て、「こうなりたい」と思ってもらわなくても、それはそれでいいんだ。
ダンスを観るということは、美術館で絵を観るということと同義。
ダンスは鑑賞される対象で、もちろんそのダンスを踊るダンサーの身体も作品の一部。
だから、客席の割と心地よい環境でゆったりと腰掛けるお客さんのあり方に、別に間違いはないし、
お金を払って舞台上で行われている作品に批判的な目を向け、自分のモヤモヤに向き合うことだって、何も間違ってない。
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自分のレッスンのお客さんが、私のダンス作品を観にくることもある。
ただその時思うのは、
もちろん作品や私の動きを見て面白いと言ってくれる反応もあるけれど、
ダンス作品を作っている私に対するある種の尊敬のような、「すごいですね」という感想があることもまた事実。
自分の世界観を持って好きなことをやっているということに対する「すごいね」。
人としての同じ線の上に在る私に対する言葉。
それとそこで踊られるダンスに関係はあるかというと、厳密には、ない。
だけど、それは同時に起こっているし、別にどちらかが必ず抜け落ちるわけでもない。スタンスの違う、2種類の感想。
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自分がこれまで、心から感動したと思った色々な芸術作品について思い出してみる。
そのとき思うのは、その作品に感動することができたのは、
それまでの自分の経験があったからであって、自分でも覚えていなかったくらいの出来事が呼び起こされたり、それまで感じていたものから何かがずらされたり、
全て自分の記憶があるからこそ、感動することができるように感じている。
また、何かを好きと感じるのは、その時は理由がわからなくたって、
何かしらそう思うに至る原因や性格的な、それまでその人がそうあったことが影響している。
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一方、人が何かを習いたいと思うとき、
それはまだ見ぬ自分に出会いたいと思うからそれをするのだと思う。
「こうなりたい」自分は、過去の自分ではなく、未来の自分。
もの凄く大雑把な言い方でまとめると、
ダンサーはお客さんの過去にアクセスするもので、インストラクターはお客さんの未来にアクセスするんだと思う。
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週に1本だけ、自分が担当するあるレッスンでは、
限りなく自分のやりたい様に突っ走ることにしている。
それはもう、自分が踊る時の様に、自分が一番望む流れに沿って身体を動かし、それについてきてもらうというクラス。
これが不思議なもので、2ヶ月に1回くらい、自分の流れみたいなものが、お客さんと、これしか言葉が今思いつかないんだけど、共鳴していると感じられるレッスンになる。
いろんな人に気を配ったり、あの手この手で説明を加えて理解してもらおうと躍起になるわけでもなく、
自分の身体とその動きがお客さんに見られ、再現される中で一つの大きな流れの様なものが共有される感覚。
あれは教えると同時に、自分の感覚をまさにライブで伝えている感じもするし、
私の中では新しい感覚で楽しい。
音楽のライブの感覚に近いのかなと思ったりする。
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ダンスを踊っていても、
今、自分の動きが、見る人の集中を引き付けていると、簡単な言葉で言うと"ハマった"と思う瞬間がある。
なんていうか、踊ってるのはもちろん私で、ダンスも私の身体のところにあるんだけど、なにかが届く気がする。
…実際のところは、どこまで行ってもわからないけどね。
でも何かやり方が、ある気がする。