2019年10月17日木曜日

パフォーマンスキッズトーキョー@新島を終えて、感性教育とアーティストについて

パフォーマンスキッズトーキョーという企画に参加させてもらうということで、ここしばらく新島に行っていた。

この企画は、東京都内の小学校にアーティスト/ダンサーを派遣して、学芸会や運動会で発表するダンス作品を一緒に創作するというもの。
今回私は、いがちゃんの新島行きのアシスタントとしてご指名を賜り、二つ返事でほいほい着いて行った。


毎週同じ場所で仕事をすることが多い私にとっては、こんな素敵なお出かけ仕事はボーナスと行っても過言ではない。


「仕事で来てるんだからね」と事あるごとに釘を刺してくれるプロデューサーの髙樹さんの勧めでシュノーケルを買って初めて海で浮かんでみたり、リサーチと称していがちゃんとレンタサイクルで島内を爆走したり、事あるごとに3人で写真を撮りまくったり、それはそれは新島をエンジョイしましたとさ。







いや、今回の使命は、小学校での運動会において、5,6年生20名と20分のダンス作品を創ること。


制作の期間としては1ヶ月、先生方やいがちゃんが準備したのはそれ以上になるけれど、実質子供達とクリエーションや練習ができるのはたった20時間ほど。


正直、今自分が20分の作品を作るとしても、稽古だけでも1〜2ヶ月は取ると思う。
それをたった20時間で。なかなかどうして。

そして何より今回は、運動会の予定日が台風襲来とばっちり重なるという、呪い。いや、不運。

思い通りにいかなかったことも、思い通りにいったことも、そして思い通りの何倍も子供たちが素晴らしかったことも、色々あるけれど、
改めて、色々な人たちから、表現や芸術のことや、教育のことについてたくさん学ばせてもらった素敵な機会だった。


全てのことを書き出しているとものすごい量になるので、かいつまんで備忘録。


少し偏った話になるかもしれないけれど。

私自身ここ最近論文を書いたりするにあたって、「感性教育」というものにとても興味があるので、その辺りを中心に。


今はまだそれを十分にまとめられるほどのものはないけれど、きっとこれから感性教育のことを考えるときは、今回の経験を何度も思い出すんだろうなと思うから。







自分が小学校の5,6年生のとき、何を考えていただろう。
思い出そうとしても、覚えていることはそう多くない。


その当時に、例えば「アーティスト」と呼ばれる人に出会っていたら。
自分はどんな気持ちになっていただろうとか、何か変わっていたかな、と考える。



今回私たちの立場は、子供たちと先生の間にいる、アーティスト、表現を教える専門家というものだった。
ということをしっかり自覚したのは後半になってからだったが(ほんと意識低くて申し訳ない)、普段子供たちにバレエを教える先生というのも経験しているからか、それとも違う何かを求められていることはなんとなく感じていた。



いがちゃんが「やってみよう」ということに対し、初めは難色を示す子たちも多かった。


当たり前だ、突然やってきたよくわからんテンション高いやつらがよくわからんことして、いいね!とか言ってるんだから、何が正解かなんてわかりにくい。



結局、何が、いいね!なのか。
戻ってくるのはいつも、ダンスってなんなんだってことになる。



表現としての身体の動きは、それそのものが何かの意味を明確に示す記号としては不十分、というか抽象的すぎる。
もっと砕けた言い方をすれば、ダンスでの身体の動きって、それ自体意味のわからないものも多い。


だったら、何を表現して、見てる人に何を伝えられるのかといえば、
ダンサーがどういう気持ちで踊っているのかが見ている人の身体にふわーっと伝わったり、ダンサー自身が自分の気持ちを信じる強さが見てる人を巻き込んだりするものなんだと思う。


これが、今のところの、自分がダンスをやってきて考えた答えなんだろうと思った。
…なんてかっこよく言ってみたけど、
ダンスってなんなんだ(怒)!とモヤモヤ路頭に迷っていた大学生の頃の自分に、今の自分が教えてあげられるとしたら、そういうことなのかなと思った。



子供たちは、慣れない表現のダンスをやってみて、
楽しかったという気持ちも、難しかったという気持ちも、なんか嫌だなという気持ちも、恥ずかしいという気持ちも、思い通りにいかなかったという気持ちも、すっきりしたという気持ちも、色々あると思う。


そして、それのどれも全て、間違ってないと思う、心からそう思えるのなら。



教えてあげたい、なんていうと大げさだけど、お勧めしたいことは、
自分の感覚に誠実でいるべきということ。
自分が何を感じて、何を考えるのかということに自信を持って欲しい。
そして、それを支えてあげられるようになりたい。


今はまだ、自分の感覚を的確に感じたり、伝えられないかもしれない。
もしかしたら、水面に浮かんで消える泡のように、忘れてしまうかもしれない。
それでもいい。
なぜなら、その気持ちの泡は記憶の襞に留まり折り重なって、いつかその人の個性になっていくと思うから。


表現作品は、それがゴールではない。
これまでの常識を疑い、もしかしたら壊れてしまった自分と向き合いながら、それでもまた考えて行動するきっかけになるんだと思う。
それは、作り手にとっても、観客にとっても。


自分が作品の一部となり踊る高揚感や自身の存在の小ささに絶望すること、圧倒的な作品に出会ってしまいどうしようもなく心動かされること、
それら非日常の崇高さは麻薬のようで、それを求めてまた生きてみようとさえ思える。



決して、美しいものだけがアートではない。
もちろん、綺麗で美しいものへの憧れが人を動かすこともある。


でもそれと同じくらい、怒りや悲しみ、悔しさ、切なさ、苦しさからもアートが生まれる。
アーティストはコンプレックスを燃料にして自分を発火しているから、表現をつづけられるんだとも思う。



Artの語源は、「技術」。
私は、アーティストとは、作品を創る技術もさることながら、「生きる技術」を持っている人だと思う。
自分の心と身体に正直すぎて、もしかしたら、社会とは折り合いがつかなくなっちゃってるかもしれないけれど、
その人自身の幸福を追い求めれられる人だと思う。







話がだいぶ壮大になってしまったけど、結論から言えば、新島の全部が超楽しかった。
書ききれない。


運動会も最高に楽しかった。
あんなに運動会て笑えるんだなと思った。笑


出会った子供たちや先生方、島の方々はみんなとても優しい。
仲良くしてくれて、本当にありがとうございました。


そして自分のやってきたことを少しでも還元する機会をもらえたこと。
そういうチャンスをくれた髙樹さんと、作品を作ってくれたいがちゃんに感謝。



運動会をやってる最中に少しだけ、宿のお母さんと立ち話をしていた。


遠くから聞こえる運動会の賑やかな音楽や歓声と、それよりも手前に聞こえる虫の声。
音ってこんなに遠くから優しく聞こえるんだなと、自然の豊かさとはこういうことかと思った。



コンクリートジャングルでイヤホン突っ込んでこれを書きながら、新島が恋しいと思う。

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