2019年5月27日月曜日

ボディ・ビル哲学

書いては消し、書いては消し。
最近、いっそう自分の文章が好きじゃない。
どうしたものか。

一本線が通ったときに、よしまとめられた!、と思うけれど、読み返してみると言いくるめたい感が強すぎて、どうにも。
揺らぎがなかったり、隙間がなかったり。

我が強い感じがそのまま出てしまって、少しうんざり。というか、はずかしい。




それにしても、昨日の日舞の稽古は刺激的だったな!

日舞は、明確に綺麗に見える形をとるべき瞬間が点々とあるんだけど、その点と点をつなぐ間は自由であることが多いらしい。
個人の身体に合わせて違和感なく綺麗につないでいればオーケー。
手の通る経路も、歩数も、音楽の捉え方ですらも。

だから、綺麗な形を覚えこむことより、身体が自ずから自由に動くけれども綺麗に見えるラインを探るのがかなり難しい。

どうしても力みが抜けなくて、ギシギシと力で踊ってしまう。


それがどうやら、足首に根本原因がある気がしてきた。

今までの足首の使い方は、足(指先、足の甲、踝)という部品に脛をジョイントして押し込んでるような使い方で、
オフバランスになろうとするとき、足首を踏み込んで止めようとしてしまう。

日舞の歩き方は重力に乗って倒れこむように足を出して行くべきなんだけど、それを足首が止めようとしている。


そこで、もう少し踝の位置を高く浮き上がらせるような感じで、隙間を持たせ摩擦が出来るだけ起きないように、揺らぐように使うと全身が軽くなった。

もともとそれが身についてる先生は「どゆこと?」と首を傾げていたけど、私的には非常に大興奮だった。

これが身体に馴染んで習慣化すれば
もう少し滑らかに動けるかしら。




大昔、千駄木のBrick-oneに出入りしていた頃、
「あなたは足首が強すぎて、全部足首で処理しちゃってる」
と指摘されたことを思い出す。
そのときは意味不明で、何言ってんの?て感じだったけど、
いまやっと、理解したぞ。

しかも、ほかの身体のコリは最近大体どうにかできるけど、ふくらはぎのコリだけはどうにも治らない。

踊るときや仕事のときは難しいけど、まずは歩き方から変えてみよう。
ふくらはぎの形も変えられる気がする。




そうやって自分の身体をちょっとずつ作り変えてきていて、
太ももの形は昔と今でだいぶ違うし、靴擦れにならない歩き方に直したし、
アレキサンダーテクニックを参考にして首の位置と体軸を直してる途中。
体幹がなかった仕事始めた頃は、二の腕の形がどんどん太くなってたけど、ようやっと最近そうならない使い方ができるようになってきた。

それでも、ふくらはぎだけが、いつまでも疑問だった。
ひざ下の骨が出てると昔整形外科で言われたのと、腰椎分離症はあるとして、かかとの骨が出てるのも気になる。




身体に性格が出る。

単純に、筋肉の質とモノの考え方はリンクしているように思う。
ただよく伸びる柔軟性というより、受け止め方のような点において。

細かく調べたことないから勘だけど、まぁそういうものなんじゃないかと思う。
いろんな人の身体を見てると、どんな生活なんだろうとか、どうしてこうなってるんだろうとか、自ずと考えてしまう。




そうやって、人の身体を扱う仕事をしているせいか、顔つきというのはあまり見ていないくて、やっぱりひたすら身体を見ている。

仕事で一度会った人も、覚えているのはその人の顔よりその人の身体の動き方で、
レッスン前に「この間はどうも」って言われても「はて?」で、レッスンしてると思い出す。

さらに、目が悪いまま仕事をしてるから、細かい表情は見過ごしていることが多い。
それでも、その人の意思は身体全体から感じ取れる。

私にとって意味ある情報を発信しているのは身体であって、顔はパーツの配置くらいにしか捉えられていなくて、全ては個々人の差でしかなくて、
もちろん見てしゃべってるんだけど、相手の目を見て話しすぎて、目がゲシュタルト崩壊することもある。
所謂美人だとかイケメンだとか、そこに価値があるかどうかはわからない。


それでも一応私にも顔がついてるんだけど(自分の顔は人のためにある気がして)、鏡で自分を見ると「誰だこれ」って不思議な気分と恥ずかしい気持ちになる。




身体の使い方を学ぶということは、考える力を学び、心を豊かにすること?

心が豊か、って、なんだろうと思うけど、豊か、数をたくさん持っているということかしら。
たくさんの心を知っている。他人の心を知って思いやり、自分も思いやる。そんな感じ?


子どものぶっとんだ発想や理論立てられていない空想は、あの肉の柔らかさが生み出しているものだと思う。
水が高いところから流れ落ちるように、肉も流動的。

だけど子どもは、ずるや楽をしたがる。楽な方に流れていく。
身体を律して自分を立てる力をまだ知らないからだと思う。
その力を経験というのだと思う。




大人はまた違う問題。
レッスンしてて出会う、なんとも頑固な身体つきの人。
並大抵の指示では聞き流され、本人がやりやすいように処理してしまう。

お医者さんだったり、直接全部触って施術できるようなマッサージだったり、
薬とかでもっとわかりやすく(半ば強制的に)変化(効果)をつけるようなものならいいんだけどね、
運動の指導となると。


経験を積み重ね、慣れ親しんだ身体で慣れた動きしかしないことには、どうしてもある程度考え方も固執していく。
身体が凝り固まって可動範囲が狭くなれば、刺激に鈍感になり、思い及ぶ範囲も狭まっていく。

そんな中で、新しい動きや身体の使い方を身につけてもらうのは、そう簡単なことではない。
たまたま自分のレッスンがクリーンヒット!になることもあるかもしれないけど、一応お金もらってるので、
奇跡でなく毎回できるだけ発見があるようにしてみている。
レッスンは、身体をめぐる物語。起承転結。


この、むしろ押し付けがましい私のレッスンが、果たして良いのかどうかもわからない。
自分の正解を押し付けてはいないかと、たまに不安になってはいるんだけど、

せめて私だけは楽しんでるということをお見せするということで許してくれとは思ってる。




終わらないので一旦終了
あー論文どーしたものか。




三島由紀夫のスポーツ論集が面白かった。
「ボディ・ビル哲学」という節より。

 『近代芸術の短所は、まさにその点にある。知性だけが異常発達を遂げて、肉がそれに伴わないのだ。
肉というものは、私には知性のはじらいあるいは謙抑の表現のように思われる。鋭い知性は、鋭ければ鋭いほど、肉でその身を包まなければならないのだ。ゲーテの芸術はその模範的なものである。精神の羞恥心が肉を身にまとわせる、それこそ完全な美しい芸術の定義である。羞恥心のない知性は、羞恥心のない肉体よりも一そう醜い。
 ロダンの彫刻「考える人」では、肉体の力と、精神の謙抑が、見事に一致している。

 だまされたと思ってボディ・ビルをやってごらんなさい。もっとも私がすすめるのはインテリ諸君のためであって、脳ミソ空っぽの男がそのうえボディ・ビルをやって、アンバランスを強化するのは、何とも無駄事である。』

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