2019年7月2日火曜日

健康とアート

大きな病院行くと、壁にたくさんの絵が飾ってあるのをよく見かける。


大きな油絵や、淡い水彩画、はたまた子供の描いた絵。
隣り合うものでも、びっくりするくらい違うテーマや画風のものが並んでいる。
きっとこういうのも、選ぶ基準みたいなものがあるんだろうけど、突然そこにあらわれる大きな絵にびっくりすることもある。


そして、その作品が創り出す場の空気感というものはきれいに無視されている。
あくまでも、額縁で切り取られた非現実。


来院している人たちがその絵を見て、目の前にある不安から逃れ気持ちが少しでも和らげば、ということだろう。



いろんな種類の作品が並んでいることは、節操のなさではなく、どのタイミングでどういう人がその作品を見るか、趣味も様々。

いい意味で敷居を低くアートを取り入れようとして、
敢えて統一感のなさを、作り出しているのではないかと思ったりする。



ここに書きたいのは、アートの鑑賞や実践をとおして心身の健康を獲得しよう!とかいう、アートがいかに社会に有益であるかという話より、もう少し根っこの話。

そのアートと向き合う身体はどういう状態なのか、ということは考慮されないのか?という疑問。



アート作品は何のためにあるのか、と考える。

作品は、日常に彩りや清らかさ、または未知の刺激を与えたり、気晴らしの余暇になったり。
アーティストの表現したい衝動は、作品と向き合う人にとって勇気や希望を与え人間らしさを取り戻させたりして、人生を豊かなものにしてくれるかもしれない。



テント芝居って見たことあるだろうか。


公園に建てられたテントの中。
ラッキーな時は畳が敷かれた上、運が悪いと芝生の上にビニールシートと座布団一枚。
そんな中、ぎゅうぎゅう詰めに座って2時間越えの芝居を観る。
運が悪いと座りなおすこともできない。


身体、だいぶ辛い。
故に後半になるとちょっと内容が入ってこなくなったりする。



そんな中で力強いパフォーマンスをする俳優。
それが限界値まで達した時、テントの幕が破られ、劇場は外へと突き出す。
観ているこちらも、数時間に渡る芝居のクライマックスを一緒に体験する。



内田樹と池上六朗は「身体の言い分」という対談本の中で、
「同化的に体を使う」ということについて話している。


「内田:たぶん人間には、自分のすぐ近くに、調って、安定していて、かつ自由度の高い体があると、それを模倣するという根源的な趨向性があるんだと思うんです。弱い体や、不自由な体には『感染力』がない。それと同期したいという欲求が湧いてこない。」

この部分を読んでいて、ダンスのことを考えた。


人は何でダンスを見るんだろう?とよく考えるけれど、
ダンサーの、風通りの良く、滑らかでたくましい身体を見る人は、自分の身体でもそのダンサーの身体を感じているんじゃないかと思う。



そのとき、振付は観客にとって与えられる情報というより、同化するファクターとしてあると考えることもできるんじゃないかと考える。



ちょっと勢い、雑な話だけど。

身体性を問うアート作品が増えた、というような文言を見ることはよくある。


高度に発展したテクノロジーに、大きな好奇心を寄せるアーティストによって創られた、拡張された/新しい身体感覚を扱う作品はどんどん増えていく。

ただ、その作品は、未だ人間の感覚をひとまとまりのものとして扱っているように思う。まだ細分化されていないという印象。
「プロジェクションマッピングって物の形に合わせて映像が出るんだって!」とか「VR、すごいよね!立体に見えるんだよ!」ってまだみんなびっくりできる。



でもそのうち、本当に同じ風景が見られて居るかどうか、ということを問う人が出てきたりするんじゃないか?

確かに、人間の基本構造は大体同じようにできている。
けれど今を生きる人間の身体は、多様で、複雑で、揺らぎやすく、ひとときも同じ状態ではあり得ない。
それはきっと、4分33秒の無音が問いかけることのような。


そんな感じで、作品の受け取り手の身体のあり方の多様性を織り込んでいくことをもっと打ち出す作品がこれから増えていくんじゃないかと予想したりする。

…これはまだ、何となくそんな気がする、という程度の話なので、これからもっと明らかになっていくことのような気がしているけれど、ここは自分勝手に書きたいこと書く場所なので許して。

スター性やカリスマ性といったもので社会を引っ張っていく象徴はもうそう現れない。
全体を方向付ける大きな思想は明るいものではなく、むしろ暗い方向へ。
なにより、誰もが批評家/アーティストとして発信できる時代。


それでもなお、プロ・アーティストは何を発信するのか。
沈む泥舟から華麗に飛び降りてみせることなんじゃないか。


なーんてな!



そのとき、今よりもっと、人間の感覚や、情報の受け取り方をリクリエイトする、というような流れは必要とされるんじゃないかって。


そうでなくても、このハイスピードな情報化社会から落ちこぼれた身体を、それでも幸福に生かすためのセラピーはどんどん注目されていっている。
たくさんの人にとって、「幸福」が求められている。

私の実感でいうと、テクノロジーの発展に着実に心身が蝕まれている様子は手に取るように感じるし、同年代や若い人ほど重症だと思うこともある。


息苦しそうな身体よ。
その身体で一体何を感じるんだ?きっと私もそのうちの一人なんだろうけど。



健康の指標のうちの一つには、
多くの刺激をポジティブに受け入れられるということがあると思う。


頭で考えることに慣れきっている現代の人たちが、身体感覚の渇きを癒しに足を運ぶアートという名のオアシス。

その時その身体は、どういう状態であるべきか。

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