2020年5月23日土曜日

挫折と嫉妬

YouTubeで配信されたセッションハウスのオンライン劇場の動画を見た。柿崎まりこちゃんの回。

国内外で踊ってきた彼女のダンスは人の目を惹きつけるとても素晴らしいダンスで、ながら見のつもりがしっかり引き込まれてしまった。


初めてまりこちゃんを見た、というか同じ作品に出たのは、大学生の頃。
関東圏の大学の合同公演での、平原慎太郎さんのダンス作品に参加した時。
おそらくきっと、彼女は覚えてることもないだろう。でも主役に抜擢された彼女の踊りを端から眺めていた私は、なんとも言えない悔しさと羨ましさを感じたことを、今でも覚えている。

思えば、大学進学あたりまでは、割と自分の思い通りにいく人生だった。
宝塚を受験してもちろん受からなかった時は一時すごく悲しかったけれど、それでも努力すれば何とかなると思っていた。勉強とか。

大学に入って、ダンス部で踊ったり、自分の作品を作り始めたりして、思い通りにならなくてもどかしい思いをたくさんした。
簡単にいえば、それまでより広い世界へ足を踏み入れたことになるんだろうけれど、評価されないことの悔しさは何度も味わった気がする。
学生の頃は特に、自分のその時の全てを捧げて作った作品は、大袈裟だけどこの世で1番だと信じていた。それが端にも棒にも掛からない時の絶望感。作品の詳細はもはや忘れても、身体の中で渦巻くやり場のない怒りのようなものは今でも覚えている。
だからコンペは苦手、逃げてしまう。
自分のやりたいことと、世の中に必要とされ価値を与えられることのギャップがすごく苦々しく感じられた。

簡単にいえば、実力不足なんだけど。
ラッキーなんて、そうそうない。


話は飛ぶけれど、今私はヨガやバレエなどのオンラインレッスンをしている。
コロナ禍の中でみんな不便や不安を抱える中、一介のインストラクターとして、無料公開やドネーション制のレッスンをすることも頭をよぎった。
こんな状況だからこそ、お金を頂くことに少し罪悪感もあり、でも私自身生きていかなければならないこともあり思い悩んだ。
結果、自分の持てる技術はきちんと出し切ってお金をもらうという方向へ舵を切った。

ダンスの世界では、やりがいということが大きな目的になりがちでもある。
ダンスを見てくれた人が「よかったよ」と声を掛けてくれる。誰かの時間を自分のダンス見てもらう時間にあててもらうことの掛け替えのなさ。自分のダンスが誰かに届いたらそれで幸せ。もちろん、それは間違いない。
大切なのはお金ではない。その通りすぎる。
それでも、仕事を休んで何日もかけて稽古をして、身も心も削って、収益的にマイナスということはザラな世界。それでもみんなふんわり幸せそうな世界。皆、たくましすぎる。

私は身体を動かすレッスンを人に教える中で、自分の身体で持てる技術とは何なのか、自分の伝えられるダンスとは何なのかということを考え、それをきちんとお金という価値に置き換えてみたいと思ってやってきた。
正直はじめは、ヨガを教えたいと思っていたわけではなく(今はとても面白いと思うけれど)、自分のやってきたことにキャッチーな看板を掲げようとしただけでもある。
でも限りなく自分のしたいことだけして社会人として食っていけていることは、ほんの少しだけ自慢でもある。

だけど。
私だって、ダンサーとしてだけで食っていくことへの憧れもある、本当は。

舞台で、照明に身体が照らされて肌が火照る感覚や、空間を震わせる音楽と自分の身体がリンクした時の鳥肌、客席からの視線が突き刺さる痛みのようなものは、この身体の生のぎりぎり境界線を綱渡りするようで、自由の恐怖と快感を同時に味わう。
それこそ、踊ってて味わうことのできるものは、お金では到底替えの効かないものなんだ。

それだけやってていいなんて、なんて幸せだろうなと思う。
ただ、それで拍手を貰える人はほんの一握り。

だからこそ羨ましくて、嫉妬する。

まりこちゃんのダンスを久しぶりに見ながら、やっぱりいまでも私は彼女に嫉妬しているんだと思った。
あんなにダンスが素敵で、可愛くて、誰もが放って置かないような人はやはり、ほんの一握りなんだ。

でも、嫉妬しててもいいじゃない、とも、少し思った。嫉妬する自分を否定することもまた、なんだか居心地が悪い。
滅茶苦茶嫉妬して、だったら自分なら何ができるか考えて、私も少し踊ればいいじゃない、て。

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