2020年10月17日土曜日

先生は選べない

子供のバレエクラスのアシスタントを、かれこれ5年やっている。
80人前後を4クラスで分けたかなり大所帯のお教室で、下は年中から上は小6までが在籍している。

先生はプロのバレエ団にいた/いる方や、専門のバレエ指導の技術を学んだ方などで、一緒に働いた先生はのべ5人にもなる。
アシスタントはずっと私なのに、メインの先生が妊娠出産で次々に変わった結果、私も子供と一緒に歳をとった。幼稚園児だった子たちは気づけば5年生になった。

子供の成長を側から見ているのはとても楽しい。それが例え週に一回でも、もしかしたら週に一回だからこそ、興味深くて面白い。
クラスが進級したことで気持ちに変化があったり、後輩ができてやる気が出たり(幼稚園児でも)、かつてはベタベタに甘えてきた子が思春期で超素っ気なくなったり、もちろんだんだんできることが増えていく様子も含め、親とはまた違った目線で眺めている。


その中でも、子供たちが大きく変化するタイミングの一つに、"先生が変更になる"ということがある。
同じバレエでも、これまでの先生とは違う教えられ方をすることで、子供たちの微妙な戸惑いに私自身敏感になってしまう。
何より私も少し戸惑う。なんなら教える先生だって戸惑っていて、やはり馴染むのに時間はかかる。

その結果、やる気の無くなる子もいる。
それを見ているとつい、「以前はこういうやり方だったので」と口を挟みたくなる。でもその一方で、先生が変わった事で伸びる子もいる。

だから全体として、良い先生・悪い先生というのは(そもそも人として熱意がなかったり不誠実な人なら教える人として失格だけど)、簡単に決められないんだなとつくづく思う。


子供はなかなか、自分の意志で先生は選べない。
でもそれは、決してネガティブなことばかりではないと思う。
新しい刺激にさらされることで、何が自分にとって頑張れるもので、何が自分にとって合わないものなのか考えるきっかけになればいいのかなと思う。


レッスンの最中に、「今子供たちはどんなことを考えてるんだろう?」と考える時、では果たして自分が子供の時はどんな気持ちだったんだろうとよく考える。
しかしバレエの先生や小学校の先生に対しどんな気持ちを抱いていたか、幸か不幸か全然覚えてない。やめてしまった習い事なら尚更、先生がどんなことを教えてくれたのか思い出せない。

今教えられていることは彼女らの記憶にどれくらい残るものなんだろう?とふと考えてしまう。
でも私自身、ポツリポツリと強烈に覚えていることはあって、それは今でも自分の考え方の元となるようなものだったりする。


最近は叱らず褒める教育がなされることが多いと聞く。けれど、そもそも叱るって誰が何を駄目というのか、褒めるって一体何が良いことなのか、叱ると褒めるの間はないのか、そんなことを思う。

良いものばかりを与える、間違いのないものや優れたものだけを与える。
ともするとそれは、与える側が"良いもの""間違いのないもの"を子供に押しつけて、自由な感覚な発想を狭めてしまってはいないだろうか。




人間は、理性的に物事を精査し判断を下しているように思えて、最後の最後は「好ましい」「好ましくない」と言ったとても感情的で主観的な判断をしているらしい。

上手に説明するのが難しいけれど、例えば何か購入したいモノがあるとき、そのものがどれだけ優れていて生活に彩りを添えてくれるものか、一方購入することで起こる障害は何か、一生懸命考えて理由づけはするけれど最後に購入するという一手を後押しするのはそのモノが「好ましい」「好ましくない」という単純な二択だ。もしくは、購入するという行為自体に対し「好ましい」「好ましくない」という判断かもしれない。

そしてそれは物を買うということに限らず、日々の沢山の、意識に上ることもない些細な選択にも当てはまる。

話が壮大になってくるので説明不足のまま終えてしまうけれど、
何が良くて何が良くないかなんて、きっと誰かに証明してもらう物でもなく、理由づけだって文化や生活習慣がそうさせているものも多く、結局あくまでも個人の感覚や受け取り方次第と考えられなくもない。
そしてそれは大人・子供関係なく一人一人が選択していくものであると同時に、互いに他人の感覚を尊重するべきなのではないかと思ったりするのです。




なんて講釈は考えても、結局レッスンの最中咄嗟に手の形が違うとか左右が逆とか突っ込んでしまうし、そもそもそんなことより「先生トイレ~」攻撃で10分くらいトイレの世話につきっきりになったりね。
そろそろ鬼滅の刃の登場人物の名前を覚えないと対応できないと思う今日この頃。

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