ヨガを教えている大学の授業、半期に一度の学生の最終レポート一気読みが終わった。
今期はいつもに増して「運動はこれまで苦手でした」もしくは「かつてバレエやダンスを習っていました」と言う学生が多かった。
そして、ダンスやバレエを習っていた学生たちが口を揃えて言う、「ストレッチには自信があったけれど、ヨガで呼吸をつけるだけでこんなに伸びが違うことが驚きだった」という内容は毎回頭を縦に振りながら読んでいる。
運動のことを勉強している今になれば絶対だけれども、ストレッチと呼吸は切っても切れない関係がある。
おおよそ、ストレッチを呼吸を意識せずに行なうと、痛みを感じて息を止めてしまっている場合が多いように思う。ヒトの体の仕組みとして息を吐いた方が筋肉の伸びは良いのだが、それを教えてもらえる機会はあまりなかったように思う。
私もヨガをやり始めた頃に、呼吸に注意しながら行うことで得られる効果の違いとても驚いたので、かつて踊っていたという彼女たちの意見は驚きはよくわかる。
私もよく「なんでこれまで誰も教えてくれなかったんだー!」と思ったものだ。その結果、今の方が身体は柔らかい。
もしかしたら、情報の流行りとか、指導の傾向あるかもしれないけれど。
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話は少し変わって、毎度お馴染みの子供バレエクラス。
未就学や小学生が中心だけれども、きっと彼女たちが成長していったときに思い出すであろう、“かつて“バレエをやっていたであるその時期を、今目の前で見ているわけだ。
いつか、彼女たちが大学生や大人になった時、昔バレエでこんなこと習ったな、と思い出すことがあるのだろうか。
「そんなこと教えられたことなかった」より「なんかそんなこと言ってたような気がする」が多ければいいなと思う。
昨日レッスン後、チアダンスもやっているという熱心な子に「2回転ピルエットがどうしたら上手にできるかアドバイスをください」と言われて色々話をした。その時は当たり障りのない提案しかできなかったけれど、試しに「呼吸に気をつけてみたら?」と言ってみようかな。
その子は小学生にしてすでに背中で手が繋げないほど肩こりになっていて、おそらく肩に力が入りやすいのだろう。
私の目の前でやろうとして出来なくて、「さっきはできたのにな」とちょっと焦っていた。
仕事からの帰り道そのことを思い出していて、「きっと多分息を止めて回ってるんだろうなぁ」と思い至った。
呼吸を上手くコントロールするなんて大人でも難しいけど、上手くできたら絶対ブレないと思われる。
きっと、「何言ってんだこの先生」と思われるだろうしすぐには分からないと思うんだけど、来週興味本位で提案してみようと思う。
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話は戻って、学生のレポートで今期私的ベストレポート賞は、「無我の境地」について自分が考えたタイミングと仏教との触れ合いを事細かに説明していたレポートだ。ぶっちぎりでノリノリで書いていて面白かった。
彼女は小学生の時に漫画「エースをねらえ」が好きだったらしく、そこで出てきた「無我の境地」に惹かれ、それが仏教用語だったと高校の仏教思想の授業で知り、また大学生になってヨガの実践を通して無我とは何かということについて再び考え直したそうだ。
その時々で彼女が心動かされたことがきちんと彼女の経験として蓄積されていることが文章から感じられて、その折り重なる地層の一部にヨガの経験も入っていることが嬉しかった。
その時は理由や詳細なことまではわからなくても、心動かされ興味を持ったものがいつか未来でつながり、「あれはこういうことだったんだ」「自分はこういうものが好きだったんだ」と知っていくことはとても素敵で豊かなことであって、それが個性になっていくのだと思う。
この学生は自分で考え、それを発信しようとする力がすでにあるけれど、自分が触れ合う子供たちは意外と、そういうものを隠そうとするように感じることも多い(私の圧のせいか?と反省することもあるけれど)。
出来るだけ「どう感じるの?何が好きなの?」と訊くようにはしているけれど、真面目に「どっちでもいい」と自分のことですら無関心な返答が来ると本当に不安になる(と同時にしつこくしすぎたか?と反省する)。
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話が逸れたが、タイトルを[人はいつ呼吸の仕方を習うのか]とした。
おそらく、多くの人にとって呼吸は当たり前にしているものであって、呼吸について特に考えることもなく人生を終える人もいると思う。習ってまでやることでもない。
でも、呼吸の仕方一つで、身体の状態を変えたり効果的に身体を使ったりすることもできるようになる。呼吸は究極にシンプルにして一番難しい身体のコントロールだと、私は思う。
学生のレポートには、内容は一切指定しなくてもその多くに呼吸への注意によって変化する身体について、驚いたとか面白いと言った内容が書かれている。
「習う」とは、とあるタイミングで「教えられた」ということと必ずしも一致するわけではないと考える。
感心や興味もしくは嫌悪のいずれにしても、心が動いた=感情が揺れた瞬間がその人の心と身体の経験となり、その経験を以て主体的に考え身に付けていくことが「習う」なのではないだろうか。