2019年2月15日金曜日

Banksy/落合陽一/東京デスロック『RE/PLAY』/金子友明/今年の論文


今年も、夏までに研究論文を一本書く予定です。

テーマは、金子友明先生の運動学をベースに、
"動きを伝えるコツとカンはどのように生まれるか"、また"運動は人と人との間でどのように共有されるのか"といったことを、実践研究(が中心にならざるを得ないと思うけれど)でまとめようと思います。

まだ十分な研究には至っていませんが、
最近見た作品とその所感から、現在の考えごとの方向性を書きたいと思います。




バンクシーの『Exit Though The Gift Shop


最近ふとニュースでも取り上げられることもあって、目に触れる機会の多かったバンクシー。

そういえば12年前に、アップリンク系でバンクシーの映画がちょっとした話題になってたなと思い出して調べていたら、
その作品『Banksy Dose NewYork』ではないのだけど『Exit Though The Gift Shop』を上映していたので観に行った。


タイトルの示す通り、ミュージアム出口付近にある土産屋さんで売られる、展覧会の収益の屋台骨とも言える作品をモチーフにした種々様々なお土産売り場を皮肉ったタイトル。
テーマはざっくり、"芸術の価値とは"

マスメディアとSNSに踊らされ、またそれを利用し成り上がる(ポンコツ)芸術家を滑稽に描いていた。
笑い所の多い映画ということが、うんざりする世の中にも情と救いがあるように思えたし、バンクシーの優しさのような気もした。


バンクシーの作品について語ろうとするほど、自分の立ち位置の危うさというか、お前はどうなんだ?と問われるような気がする。
本当にお前はそれを自分の考えだと言い切れるのか?と。
誰かにそう思わされていないか?という問いが頭から離れない。
それは他人の意見なのかもしれないし、バンクシーに思わされていることかもしれない。

そういう世の中の状況を掌の上で弄ぶバンクシーに、作品を見ている自分が逆に笑われているかのような気分。




私が住む東京都首長が、嬉しそうにバンクシーの作品と考えられる落書きの前で撮っていた写真を思い出す。




何か世の中を騒がせるトピックが報じられるごとに、自分の意見を発信する昨今。
そしてそれを一つでも上の階から俯瞰しようと、マウントを取り合う。

限りがない。
そこに真実がなければ、優劣もない。



自分の感覚に自信を持つことだけが、意味を作るのではないか。

感情的といえばそうかもしれないけど、優劣は思いの強弱にあるのではないか。

どれだけ自分と向き合い、その感覚(身体)を研ぎ澄ませるか。

思いの強い人が面白い。
例え周囲から狂人と呼ばれても、貫き通した人が強い。




随分前、たぶん6年くらい前だと思う、

今は随分有名になった落合陽一さんのインスタレーションを見たことがある。

コンテナのような小さな暗い空間の中で、鉄板を何枚か吊るし、ドローンな音響を響かせている作品だった。


やっていること自体、自分の好みで面白いなと思ったけど、
それ以上に、同じような作品の手法は数あれど、なんというか、説得力の厚みというか、意思のはっきりした強い作品だと思った。

同い年、その当時25才くらい、でこれだけはっきりとした作品を作れるのは、相当センスがあって明晰な人なんだろうなと思った。




月曜日に、東京デスロックの多田さんが演出したダンス作品『RE/PLAY』を見た。
ダンスのこれまで//これからをテーマに、と書かれていて興味が湧いたから。


作品としては洗練されているかもしれないけれど、正直に言って、テーマに関しては「?」だった。
引っかかる点も多く、納得いってない。


8人?のいろんな国のダンサーが繰り返される爆音の中で同じフレーズの振り付けを延々と踊る。
途中、居酒屋での打ち上げのひと場面のような、自分たちの置かれたお先の見えない状況を語り合う場面を挟んで、また繰り返されるperfumeGRITTERの中で、さっきよりダンサブルな振付をやシークエンスを繰り返し踊る。
ダンサーはだんだん疲れていく。それでも音楽が鳴れば踊り続ける。


正直、踊る方は楽しいと思う。
でも見る方としては展開が読めるし、これといって驚きはない。


見終わって悶々とした気分で、
久しぶりにアンケートを書きなぐって、劇場出てTwitter検索したら絶賛の嵐だったから、なんていうか。


ダンス無しにして成立しない作品ということが、しかもその"ダンス"が何を指すのかがわからない、もしくは振付を踊ることがダンスということで済んではいやしないかと、

絶賛の感想を読んで感じたのは、ダンスそのものに対する感想というより、ダンサーへの憧憬が全てで、

人が一生懸命動いたから同情するって、どうなの?
なんてね、
オリンピック選手を追ったドキュメンタリー番組みたいな。


形を指示する振付がダンスの全てではない、と私は思っているし、
その点においては、踊るなと指示されて動いている最初のシークエンスも、ダンサブルな振付で動きそれを超えろと指示されているらしいラストのシークエンスも、どっちも同等(どちらもダンスでありダンスでない)だと思う。




ダンサーの置かれた状況と、ダンサーによって踊られるダンスは、関係があるとも言えるし、ないとも言えると思う。


上手く説明できるか分からないけれど、

関係あるとすれば、動き方はその人自身を表していると思う。
バルザックが「歩き方は身体の表情である」と言ったように。


自分の経験的に、身体の状態が性格を示していることは、色んな身体の人に接していて感じている。

コリが身体の柔軟性を奪い、定型化された動きが慣れと安心感の中で刺激を避け、思考も固定化しがちであるように感じることがある。

逆に刺激を全身で浴び、その中で暴れる子供の身体の柔らかさに触れると、こういうのが純粋と言うんだろうなと思う。

ピナ・バウシュは、「私は私の人生を踊っている」と言った。
好きな言葉だ。
その人の経験の蓄積がダンスとして現れるという考え方。



一方で、身体の動きそれ自体に意味はなく、意味を与えているのはそれを見ている側の問題なのではないかと思う部分で、ダンサーとダンスの間に関連はないとも言える。

そもそも、ダンサーは自分のダンスを永遠に見ることができないという特殊な事情がある。

ゆえにダンサーは、振付家ないしは演出家の指示によって動かされているだけであり、動きの形や良し悪しは演出家によって与えられ、ダンサーという技術者の良し悪しはその再現度の高さにあるとも言えると思う。
時に自分の身体がしたくない動きを、作品のために行うことだってありえる。


たしかに、昨今のダンサーを取り巻く状況を踏まえた「今」の身体に寄ったテーマかもしれないが、
RE/PLAYはピナ・バウシュの現代版再現なのではないかということ、
また、ダンスを新しく構築しているわけではないのではないかということを漠然と考えた。

つまり、身体に寄り添った、ドキュメンタリーに近い演劇だと思った。


この作品をダンスと呼んでいいのかはわからない、良い意味で。
とアンケートに書いた。
良い意味とは、何かその先にまだ別のふさわしい形があるのではないかという意味で。




金子先生の運動学がめちゃくちゃ面白い。
こんなに身体哲学に満ちた実践者が、なんで映身で取り扱われていなかったんだ?と思うくらい。
元オリンピックの体操選手で、東京教育大学で教鞭を取っていた先生らしい。


金子先生は自身の経験をもとに、
スポーツ指導の場面において、動きのコツやカンは計測器で測られるものではないとし、それを伝えるためにどうしたら、と考えた方(まだ読み込めてなくて超浅いけど)。

人の動きを正確に精密に計測する方法は年を経ることにその精度が増して言っている。ロボットにその動きをコピーさせて、人間の動きと全く同じように動かす技術はついに完成しようとしている。

しかし、その動きは全く人間の動きと同じと言えるだろうか?

また、人間がその精密に計測された動きを再現することができれば、皆、より速く、より高く、より強くすることが可能なはず。
しかし、それができない理由は?
達成すべき数値は明確なっているのであれば、それにむかって筋力を増強すればすむはずなのに、それが困難である理由は?

そういった問いから、スポーツ生理学のみならず、そのスポーツを取り巻く文化、社会学や倫理学に至るまで考察を広めて論じてらして、
その見識の広さは本当にすごい。




周囲の意見の渦の中で立脚する自分の意見のあり方と、客観的立場による計測と主観的な運動のコツやカンといったものとの違いを、同じ対比として扱うのは少し荒々しいけれど、
自分の身体で感じ取ろうとすること、またそのきっかけを身体において作ることにおいては何か自分の中で繋がるものがある気がしている。


動き方を伝える、この場合私の身体で起きていることを伝える時、形を伝えるだけでは不十分なため、どの場所にどのような方向でどのような力を加えるかを伝えたり、自分がイメージするものを伝える。
時に実際に動かす自分の身体を触ってもらうこともある。

けれど同時に、それは私の身体においてそう感覚されているに過ぎず、承け手の身体において同じことが起こるとは限らない、ということも同時に思う。

だから、感じ取るかもしれない可能性のある事象を出来るだけ多く(自分がこれまで伝える中で却ってきた反応を基にしている)分かりやすく伝えることで、承け手が自分の身体において納得して運動を獲得できるよう促す。
(この二点において、私は他のインストラクターと違いがあり、私のレッスンを良いと言ってくれる人たちに気に入ってもらえるところだと思う。)



自分の身体で何を感じ、どう考えるかという、私にとって当たり前のことは、多くの人とってさほど重要視されていないということに驚く。

学生のレポートを読むと、無頓着さにびっくりする。
体調不良が原因で心理的に不安定になっていることすら気にしてこなかったり、体調不良や身体の不全にすら健康を損なうまで意識が及ばなかったり。

その無頓着さのまま大人になる人も少なくないということは想像に難くない。
だって、きっかけがなければ、当たり前というベールに包まれた、さして考えるまでもないことかもしれないから。


自分が出会う、例えばレッスンで出会う人たちだって、自分の身体の認識が抜け落ちている部分をもつ人は少なくない。
自分の身体を思い通りに動かせていると過信している。

とはいえ、自分が外からその身体を眺めるからそう思うのであって、自分も自分の身体について、わかりきっているとは言えないと思う。




さてそう考えていても、それを論文としてどう提示するかはまだ明確なビジョンが描けていない。

自分がどう感じているかということに敏感になる、

なぜそうする必要があるのか?
誰もがそうする必要が本当にあるのか?

何をきっかけとして教えるのか?
ただヨガを教えるだけが本当にベストな方法なのか?
どのような指導法を取り入れる必要があるか?
私が教師役で、学生が承け手としているということは本当にふさわしい方法か?
学生が相互的に指導しあう場があってもいいのではないか?

それを客観的に論証する必要がどうしてあるのか?
もし自由記述からそれを立証するとして、本当にその記述は検証するに値するものになり得るのか?
学生の表現力の差になってはいないか?
そもそも、敏感になったこと表明させる必要はあるのか?
表現力以前に、感得する能力の差はないのか?

自由記述でなく、もっと客観的に立脚した計測方法がふさわしいのではないか?
例えば心理尺度のような。
心理的な部分で計測せず、感じ方ということをどうやって計測するのか?

感じたことを表す方法は、言葉が最適か?
日本人の、周りを気にして同調する文化が身体に染み付いている場合、感得する力の差を個人のせいにできるのか?

問題提起は何か?
本当に具体的に示せているのか?


達成度を図る体育でなく、身体全体の、感じ取る力と自分の体で創発的に動くことのできる力、自分の体で工夫する力を養うことを目的とした指導をしたいと思う。


はたして。。

2019年2月2日土曜日

シドニー最終日、コンテンポラリーアートの美術館で感じたことなど





7日目

78時でホットヨガに行ってみる。

一昨日とは違うところ、"Be One Yoga"というスタジオ。
ここもまた広い。

朝から冗談飛ばすテンションの高い先生。
ホットなのでポーズがすこししんどかった。
(前回のところは、レッスンの前に自己紹介があって驚いた。またあるんじゃないかと身構えたけどなかった)


インヘルとエクスヘルが呼吸のことだとようやく認識できて、ようやく呼吸がちゃんと取れるようになった。

さすが汗をかかせるホットヨガ、
やったことのないシークエンスが出てきてだいぶ面白かった。





毎朝同じだった朝食のパンとシリアルに別れを告げ、パッキングをしてチェックアウト。

お土産の買い出しと、Dinosaur Designs というアクセサリーのお店を見る。







そのあとはコンテンポラリーアートを中心に扱ってるというART SPACEに行った。
一応シドニーフェスティバルの関連企画で
"Just not Australian"という展示をしていた。若手の作家展。


Just Not Australian”というタイトルなだけあって、
政治的なメッセージの強い作品が多かった。

多くはない展示だけど、どれも印象の強いものが多かった。
中でも気になったものをいくつか。








 Exotic other と壁に書かれており、その文字をなぞるようにアボリジニを思わせる土産物や絵などのレディメイドのものが貼り付けられている作品。








他にもアボリジニに対する考えを表した作品は多かった。
ここまでアボリジニに執着するのはなんでなんだろう?と疑問に思ったけれど、
先住民族に対するして申し訳なさみたいなものが通底しているんだろうか。

もしくはオーストラリアという国を作った人たちに対する否定的な感情がいまだに残っているということなんだろうか





TERROR NULLIUS は映像作品で55分のもはやショートフィルム。  
いろんな映画からたくさんのシーンを抜き出して、おそらくオーストラリアの開拓から多民族国家となっていく過程、今の現状などを表すようにコラージュした作品だった。

私ですら、いくつか、これあの映画だ!とわかるものがあるくらいだから、映画詳しい人だったらかなり面白いと思う。

私がわかったのはピアノレッスンとかマッドマックス、ベイブ。
どれもなんとなく、侵略とか土地の奪い合いとか新しい世界とか、そんなニュアンスのある作品がチョイスされていた。








最も印象的だったのは
I must learn to like myself”と書かれたオーストラリアの旗。
皮肉だねぇ。







オーストラリアではよりこの傾向が強いんだろうけれど、他人事ではない気がした。

なんと言ったらいいだろうか、たとえ国は違えども、私たちはこの多様性のいう言葉のの檻の中で命を削っている気がする。
違いを認め他人を愛し、同じくらい自分を愛す。そうしなければならない。

何が解決になるのかはまだわからない。しかし感じている息苦しさは少しわかる気もする。










オーストラリアには、Tall Poppy Syndrom という考えがあるらしい。

初めてこんな言葉があることを知った。

みんなが同じ並列にいることが望ましいということだろうか、
出る杭は打たれる、ということと同じ様な状況みたい。






オーストラリア人がなんなのかということを語りたいというより、
自分の国籍や由来についてなんてほとんど考えることのない自分からすると、
何かそれは個人のあり方に大きな影響を及ぼすんだろうなという興味をそそられる。


両親は同じ市の出身で今もそこに住んでいるし、母方の祖父母が隣の市というくらい。
私も生まれてから高校卒業まで同じ家で、その家もまだきちんとある。


現代美術館で話したベトナム人の女の子、道端で話したイタリア人のおじいさん、
Biludurangで個人の生い立ちを話したお客さんたち。
皆出生や育った環境が違っていて、その人たちが同じ国で暮らしている。






私の地元は工業地帯なこともあり、各学年に必ずブラジル人の子達がいた。
(今思えば、ブラジル人学校みたいなものはなかったんだろう)
小学生の時の私はその子達をどう捉えて、どう接していただろうか。

他所の国の子、という感覚はどれくらいあっただろうか。
どれくらい仲良くしていただろうか。名前が今思い出せないけれど、顔ははっきりと覚えている。






多民族でいろんな文化が交差している場所だからこそ、人と人とが尊重しあいよく話し合う必要がある。

当たり前ということは何もないから、きちんと話さないといけないし、きちんと聞かないといけないのかな。

なんてことを、舞台作品をいろいろ見ながら思った。

感情がオーバーリアクションで、少しふざけたら爆笑、哀しそうにしてたら一緒に溜息をつき、パフォーマンスが終われば必ずブラボーとスタンディングオベーション。
ということが観劇のマナーのよう。






あと、一人で観てる人が誰もいないのね!

必ず誰かと共有したり感想言い合うんだろうか、一人の人はまぁ見かけなかった。

このフェスティバルを見るための観光客が少ないと感じたのもこれが大きな理由。
勉強のためにとか、参考のためにとかいうテンションの人が皆無だったように感じた。


最後に観たキャバレー"Pigalle"は一人の人もちほらいたかな、この作品だけ少しだけ客層が若い気もした。
ジョーダンが、Pigalleだけは客層違うと思うよと言った理由は聞けなかったけれど。




毎年行事でこれだけ街の中に沢山の垂れ幕が掛かっているにも関わらず、オーストラリアの観光ガイドサイトにだってものすごく小さくしか載っていないし、地球の歩き方にも一切載ってない。



昔からシドニーフェスティバルを知っている地元の人たちが観に来ていて、観光の人向けにはしていないのかもしれない。











一方、
若い人たちのアート作品を見ていて感じたのは、

そう言ったこれまで上の世代の人たちが多民族ゆえに作り出してきたコミュニティとその在り方に対して、
それがオーバーリアクションで嘘くさくなっていると感じて少し白けているのかもしれないということ。

上の世代が行ってきたことをそれはそれで認めつつ、何しらか疑問や批判を持って受け取っているのではないか。





元はと言えば先住民族の土地を踏み荒らし勝手に都市を作ったことを無視してはいけないと思っている人たちも関係しているかもしれない。
(帰ってきてふと思ったが、オーストラリアがもともと流刑地であるという類のネガティブな印象は受けなかった。)




上の世代に対する批判的な気持ちをうまく表すコンテンツがオーストラリアという国の出来上がるまでの物語。
それが槍玉(大きなテーマ)に上がっていたコンテンポラリーアートの作品の数々。

日本ではどうか?




もし国や文化を超えて、同じ世代に生きている自分の感覚で想像するなら、

リアル、つまり自分が何を感じているか、という部分にアイデンティティがあると思っている。

自分は大きな物語の中に組み込まれた一員ではなく、自分の感じ方や考えることを大切にしたいと思っている。
政治的な大きな指針のようなものでもなく、もっとシンプルな反応や違和感のようなものを瞬間的に捉えていく。主観的でありたいとする考え。

大きな物語を進めるための役割を担う役者としての自分の在り方は良しとしていない。




すごく個人的な話になるけど、
母親は、働くということは社会を動かす大きな歯車の中に組み込まれることだ、と常日頃言っていた。

そうだと思う。間違ってない、けれど、
自分はなぜかそれに組み込まれたくないとどこかで思っているのだろうか?
自分のためではなく会社のために働く会社員になる寸前で、それは嫌だとはっきりと直感的に思った。

この感覚は、どれくらい共感してもらえるのだろうか?




"I must learn to like myself"
"自分を好きになること”それはつまり“オーストラリアという国を好きになること”。
それがオーストラリアの大きな物語のテーマだったんだろう。

大きな旗に書かれた、落書きのように書かれたインクの垂れた文字。




明るくのんびりとして開放的なオーストラリアの雰囲気。
そのポジティブな感情の裏に隠され、押し殺されたネガティブな感情が溢れた作品を見ながら、

自分だったら何に対して怒り、何に対して批判する作品を作るだろうか、と思った。





そして、果たして、自分に怒りの感情は湧いてくるものなのだろうか、とも。





以上、乱文ではありましたが、

7日間のオーストラリア滞在記でした。