昨日、立教の映身の教授で映画監督の万田さんと、これから映画撮ろうとしてる浅雄との飲み会になぜか呼んでもらった。
万田さんには直接指導は受けなかったので、しっかり話したのは初めてだった。
7年くらい前に、友人の授業課題で製作した映画に出させてもらったんだけど、万田さんがその作品の中の私をいまだに覚えてくれている。
なんともフラットで、柔和なおじさま。こういうおじさんになりたいとさえ思うくらい。
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ふと、気になったことをつらつら喋った。
その前日に「魅惑のダンス会」の上映会をしたこともあり、
人の動きと映像の関係の話を聞かせてもらった。
ダンス作品、ひいては舞台作品は、記録映像として撮影した場合、その魅力や作品の意図するところが抜け落ちてしまうことは当然のことだ。
上映会で「映像で見るより生で見た方が絶対面白いんだけどね」と言いながら上映していたけれど、それは当たり前なんだけど、少し引っかかったこともあった。
その時は必要ないと思ったので特に言わなかったけど、
生>映像という捉え方で一括りにするのは勿体無いかもしれないと。
あの会に関して言えば、映像を見ながら、出演者がその場で解説やその時の感情を話しながら、それも踏まえて記録映像を見ているのだから、また実際の舞台とは違った面白さを提供できていると思った。
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ダンスと映像の関係を、雑に扱ってしまうのは惜しいとも思う。
映像が生に、必ず劣るということもないし、映像だから生まれる情報もあると思う。
むしろ、映像という手法を、ダンスが選択することだってできるはずだと思う。
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万田さんに、映画を監督・撮影する時の演出方法を簡単に教えてもらった。
かなり面白い。
まず、芝居を生で見る。
生で見て、芝居に違和感がないか、この場合の違和感とは演者がその動きに対して無理をしていないかどうか、もしそういう様子であれば、生のその場で演出を変えていくらしい。
そのあとカメラ越しに見て、生で見てその芝居を見て面白いと思ったことを、画角の中で再現するそう。
だから、カメラ越しに見て、新たに演出を変えることもあると。
映像の人からしたら当たり前なのかもしれないけど、私にとってはかなり新鮮な話で面白かった。
ちなみに、万田さんは舞台作品が苦手と言っていた。笑
暑苦しいんだって。
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「芝居に違和感がないか」という演出の方法は、かなり私自身も共感する点だと思った。
大小かからわず、エネルギーが屈折していないかどうかはとても大切なことだと思う。
その中で見つけた面白さを映像の中で再現する?とはっ!どうやってっ!!?と思ったけど、それは隣で見てる浅雄の方がよくわかってるんだろう。
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院生になって、ソロで作品を作ってみようと思って試行錯誤していた頃、
どうしても自分のダンスが面白くないことにもやもやしていたことがあった。
その状況の中で、ひたすら自分の動きを映像で撮っていた。
形やシークエンスの振付を作ってみたり、即興で踊ってみたり。
ある日、即興で踊って数分回した映像の中で、一瞬だけ「この動き面白い」と思えた瞬間があった。
そこからは、その「この動き面白い」と思える瞬間をどれだけ増やしていけるかが課題になった。
まずは映像で、そのうち動いている中でも、これは面白くなるだろうって思える瞬間が増えていった。
この頃すでに、自分で自分に形を振付けるということは諦めかけていた。
振付を処理する自分の身体が気持ち悪くてしょうがなかった、結果、まだ自分の身体に興味を持っていられる即興の方が幾分、自分自身に違和感なく動けるような気がしていた。
その時感じた振付けに関する違和感とは。
振付にすると、達成すべき点と点を繋いでいるような気分になって、
その点と点の間の感覚が抜け落ちるというか、ムラがあるというか。
だから、その点を捨てて、“動き方”の方に、つまり“線の書き方”の方に全精力を振ることにした。
だから私のダンスは、達成すべき点をつなぐものでなく、動いた結果であり、軌跡のようなものに近い。
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魅惑のダンス会では、「譚々」(たんたん)という作品を上演した。
この時で3回目の上演になる。
この作品は、ラヴェルのボレロを参考にした作品。
ボレロの何が面白いかって、段々テンションが階段を上っていくところ。
矢印は一方向、上がるのみ。
ハイになって上っていく様をあんなに丁寧に、しかもそれを15分ちかい長尺でやるという変態作品。
その構成をダンス作品として再現する。片方はスネアドラムで、片方はダンスで。
何を見せたいかというと、段々ハイになってくヤベーやつらを見せたいんだよね。
ぶっ飛んでいって欲しい。見ちゃいけないものを見せてほしい。
上映会のあと、出演者の金井さん(ダンサーではなく音楽家)にも指摘してもらったけど、その目的にしては、ぶっ飛び方がまだ足りないと。
本当にその通り。
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トランスを自己生成するのは、思ってるより難しい。
3歩進んで2歩下がりながら、というより、2歩下がりながら3歩進むような絶妙なテンションで自分の身体を徐々にハイにしていく。
違和感がないように、なめらかに。
雪の斜面を滑り降りるスキーのように、上がっていく。
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それを、だ。
そのダンスをお客さんにどう共有してもらうかというと、また話が一段階ややこしくなる。
有機的な物語のある作品とちがって、私のやっていることはとても抽象的。
音楽の演奏や、お祭りのようなものに近い。
その分、根源的な身体の在り方に関わっていると思う。
ただ、今の所は、抽象的だから伝わらないとかそういう問題でもなく、ただ圧倒的なぶっ飛び方が足りないってことなんだろうけど。
0か100。中途半端はあんまり意味がない。
それで、現時点で、自分の身体で起こっていることを一番ストレートに体験してもらえる方法として分かっているのが、自分が身体に関わるレッスンをすること。
ヨガやバレエ。
現時点で一番それを実現しやすい環境は、パワーヨガ。
おそらく、呼吸の使い方と身体の変化をコントロールしていけるからだろう。
動きながら私がハイになっていく状況に、ついてきてもらえる。なんだったら、同じような感覚を共有してもらえるかもしれない。
この状況を作品化できないだろうか、と思っている。
実現した時には、既存の舞台機構や上演方式の枠に当てはめる必要はなくなっているかもしれないと思う。
もしくは、側は変わらなくても、もっと鮮烈な感覚を提供できるくらいには、精度をあげたい。
それは、自分が音楽の演奏会で感じた圧倒的なエネルギーや、お祭りなどの神聖な高揚感を体験した感覚にすり寄っていっている。
(…宗教ってこうやってできあがっていくんだろうか笑)
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譚々は、これからも上演したいと思う。
まだ足りないね。