2019年4月10日水曜日

眈々、淡々、譚々(ダンス作品の前と後と、映像のはなし)

昨日、立教の映身の教授で映画監督の万田さんと、これから映画撮ろうとしてる浅雄との飲み会になぜか呼んでもらった。


万田さんには直接指導は受けなかったので、しっかり話したのは初めてだった。

7年くらい前に、友人の授業課題で製作した映画に出させてもらったんだけど、万田さんがその作品の中の私をいまだに覚えてくれている。

なんともフラットで、柔和なおじさま。こういうおじさんになりたいとさえ思うくらい。




ふと、気になったことをつらつら喋った。

その前日に「魅惑のダンス会」の上映会をしたこともあり、
人の動きと映像の関係の話を聞かせてもらった。

ダンス作品、ひいては舞台作品は、記録映像として撮影した場合、その魅力や作品の意図するところが抜け落ちてしまうことは当然のことだ。
上映会で「映像で見るより生で見た方が絶対面白いんだけどね」と言いながら上映していたけれど、それは当たり前なんだけど、少し引っかかったこともあった。

その時は必要ないと思ったので特に言わなかったけど、
生>映像という捉え方で一括りにするのは勿体無いかもしれないと。

あの会に関して言えば、映像を見ながら、出演者がその場で解説やその時の感情を話しながら、それも踏まえて記録映像を見ているのだから、また実際の舞台とは違った面白さを提供できていると思った。




ダンスと映像の関係を、雑に扱ってしまうのは惜しいとも思う。
映像が生に、必ず劣るということもないし、映像だから生まれる情報もあると思う。
むしろ、映像という手法を、ダンスが選択することだってできるはずだと思う。




万田さんに、映画を監督・撮影する時の演出方法を簡単に教えてもらった。
かなり面白い。


まず、芝居を生で見る。
生で見て、芝居に違和感がないか、この場合の違和感とは演者がその動きに対して無理をしていないかどうか、もしそういう様子であれば、生のその場で演出を変えていくらしい。

そのあとカメラ越しに見て、生で見てその芝居を見て面白いと思ったことを、画角の中で再現するそう。
だから、カメラ越しに見て、新たに演出を変えることもあると。

映像の人からしたら当たり前なのかもしれないけど、私にとってはかなり新鮮な話で面白かった。


ちなみに、万田さんは舞台作品が苦手と言っていた。笑
暑苦しいんだって。




「芝居に違和感がないか」という演出の方法は、かなり私自身も共感する点だと思った。
大小かからわず、エネルギーが屈折していないかどうかはとても大切なことだと思う。

その中で見つけた面白さを映像の中で再現する?とはっ!どうやってっ!!?と思ったけど、それは隣で見てる浅雄の方がよくわかってるんだろう。




院生になって、ソロで作品を作ってみようと思って試行錯誤していた頃、
どうしても自分のダンスが面白くないことにもやもやしていたことがあった。


その状況の中で、ひたすら自分の動きを映像で撮っていた。
形やシークエンスの振付を作ってみたり、即興で踊ってみたり。

ある日、即興で踊って数分回した映像の中で、一瞬だけ「この動き面白い」と思えた瞬間があった。

そこからは、その「この動き面白い」と思える瞬間をどれだけ増やしていけるかが課題になった。
まずは映像で、そのうち動いている中でも、これは面白くなるだろうって思える瞬間が増えていった。



この頃すでに、自分で自分に形を振付けるということは諦めかけていた。

振付を処理する自分の身体が気持ち悪くてしょうがなかった、結果、まだ自分の身体に興味を持っていられる即興の方が幾分、自分自身に違和感なく動けるような気がしていた。

その時感じた振付けに関する違和感とは。
振付にすると、達成すべき点と点を繋いでいるような気分になって、
その点と点の間の感覚が抜け落ちるというか、ムラがあるというか。
だから、その点を捨てて、“動き方”の方に、つまり“線の書き方”の方に全精力を振ることにした。

だから私のダンスは、達成すべき点をつなぐものでなく、動いた結果であり、軌跡のようなものに近い。




魅惑のダンス会では、「譚々」(たんたん)という作品を上演した。
この時で3回目の上演になる。

この作品は、ラヴェルのボレロを参考にした作品。

ボレロの何が面白いかって、段々テンションが階段を上っていくところ。
矢印は一方向、上がるのみ。
ハイになって上っていく様をあんなに丁寧に、しかもそれを15分ちかい長尺でやるという変態作品。


その構成をダンス作品として再現する。片方はスネアドラムで、片方はダンスで。

何を見せたいかというと、段々ハイになってくヤベーやつらを見せたいんだよね。
ぶっ飛んでいって欲しい。見ちゃいけないものを見せてほしい。


上映会のあと、出演者の金井さん(ダンサーではなく音楽家)にも指摘してもらったけど、その目的にしては、ぶっ飛び方がまだ足りないと。
本当にその通り。




トランスを自己生成するのは、思ってるより難しい。

3歩進んで2歩下がりながら、というより、2歩下がりながら3歩進むような絶妙なテンションで自分の身体を徐々にハイにしていく。

違和感がないように、なめらかに。
雪の斜面を滑り降りるスキーのように、上がっていく。




それを、だ。

そのダンスをお客さんにどう共有してもらうかというと、また話が一段階ややこしくなる。


有機的な物語のある作品とちがって、私のやっていることはとても抽象的。
音楽の演奏や、お祭りのようなものに近い。
その分、根源的な身体の在り方に関わっていると思う。

ただ、今の所は、抽象的だから伝わらないとかそういう問題でもなく、ただ圧倒的なぶっ飛び方が足りないってことなんだろうけど。
0か100。中途半端はあんまり意味がない。


それで、現時点で、自分の身体で起こっていることを一番ストレートに体験してもらえる方法として分かっているのが、自分が身体に関わるレッスンをすること。
ヨガやバレエ。

現時点で一番それを実現しやすい環境は、パワーヨガ。
おそらく、呼吸の使い方と身体の変化をコントロールしていけるからだろう。

動きながら私がハイになっていく状況に、ついてきてもらえる。なんだったら、同じような感覚を共有してもらえるかもしれない。



この状況を作品化できないだろうか、と思っている。

実現した時には、既存の舞台機構や上演方式の枠に当てはめる必要はなくなっているかもしれないと思う。
もしくは、側は変わらなくても、もっと鮮烈な感覚を提供できるくらいには、精度をあげたい。

それは、自分が音楽の演奏会で感じた圧倒的なエネルギーや、お祭りなどの神聖な高揚感を体験した感覚にすり寄っていっている。
(…宗教ってこうやってできあがっていくんだろうか笑)




譚々は、これからも上演したいと思う。

まだ足りないね。

2019年4月5日金曜日

最近の考えごと

新年度のはじまり。

風邪ひいた。花粉じゃないと信じたい。
おかげで声が飛びかけた。


バレエに通っている子供たちに、次は何年生?と訊くと、自慢げに答えてくる姿がかわいい。
年中と年長の違いがわからない5歳ちゃんたちも、新しく入ってきた4歳ちゃんたちにはしっかり先輩やってる。これはこうだよ!って一生懸命教えている。


そういや自分も子供のとき、本番の舞台上で隣の子に、間違いを直してあげようと指摘したことがあったな。
写真に残ってしまったんだっけ?




今年も上半期はまた一本論文を書いてみようと思っている。
がしかし、なかなか何を明らかにするのか、軸がはっきりしない。
正直、間に合っていない。

去年の反省としては、自分の言いたいことを書きすぎて、客観的な論証を示しきれていなかった。
書き方の問題も大きい。しかし、そもそも何をはっきりさせたいのか、その範囲が明らかになっていなかったことが一番の問題だと思う。

結論を書いたところでそれが結論になっていない、というそもそもすぎる問題にぶち当たった。
結局出したかった論文誌の査読は落ちてしまい、別の媒体でどうにか掲載してもらったけれど、課題は多かった。




博士課程の友人から、
何かをゼロから書くのは難しいから、先行研究としてあるものをきちんと提示してから、「でもですね、私は」で言いたいことを書いた方がいいと、アドバイスをもらったことを、今思い出した!

そうだった、そうだった。友人の披露宴の二次会でね。
あれは非常に楽しい夜だった。
論文の書き方指南に「さすが博士!」と唸ったあと、その彼のトークに磨きのかかった恋愛漫談で死ぬほど笑ったんだった。




ここ最近興味があるのは、能楽師の安田登さんの本。
伝統芸能である能を通して、日本独自の文化を探り、日本人はどう感じ、何を考え、何を共有しているのかということを語っている。

とても、面白い。

絶対言い過ぎだと思うけれど、自分がダンスの作品を作る中で大切にしていたキーワードが、安田さんの本にたくさん出てくる。
はぁぁう!なぜここに!!ってなる。

例えば、「風景を作りたい」「振付に意味を持たせない」「見られる側が見る/見る側が見られる」とか。
私はお能を作りたかったのか?と、甚だしい勘違いもしたくなる。

能、観に行こう。



日本人の身体観に興味がでてきたのは、
昨年度の大学生へ向けたヨガの授業で、「あなたにとって身体とは何ですか?」という絶妙に微妙な質問をしたことから。

回答用紙に、「そんなこと考えたこともないし、訊かれても困ります」と書かれるくらいには、難しい質問だったと思う。

答えは様々で、みな何とか自分の感覚に近い言葉を手繰り寄せて書いてくれていた。
多かったものや印象に残っている回答は、
「脳の指令で動くロボット」
「自分の心の容れ物」
「感情を表現するもの」
「自分の生きてきた証」
「大切にしなければならないもの/大切にしたいとは思えないもの」
「自分と社会を繋ぎどめておくもの」
などなど、思い出すと色んな答えがあった。

わかるー、と頷く答えも、そうか?、と首をかしげる答えもいろいろあって面白い。

それぞれ、そう思うに至った経験がいろいろあったんだろうなぁと想像すると面白い。





ぼんやりとした彼女らの答えは、ざっくりと、
・心を身体の対のものとして捉えているもの
・ひとまとまりのものをして捉えているもの
に分けられるなと思った。

心、と書いたけれど、心に限らない。
心と書いたり、脳だったり、思考だったり、形を持たない意思のようなものと身体が対立するような感じの。

自分もかつてそう思っていたり、そう思っている節があるけれど、
この考え、一体何を経験してそう思い至ったんだろう、と。

そして、この二項の対立が、果たして身体を取り巻く思考においてふさわしいのかどうかもずっと疑問だ。

このぼんやりを何と無く晴らしたくて、「日本人の身体」という安田登さんの本を読んだ。

その答えが、安田さんの本に多く書いてあった。





話それるけど、
自分がこの人好きだなと思う文筆家って、何か共通点がある気がする。

少なくとも、トゲのある人の文章はあまり好きじゃない。
言うなれば、木みたいな、どっしり構えておおらかにユーモア語るおじさんの本が好み。
金子先生とかも。





話戻ると、

自分がレッスンをしていてよく遭遇する、
私の、この場所をこう動かしてほしい、という指示に対して、本人はそう動いているつもりでも、動いていないという場面。

多くは、動かしたい場所と違うところに力が入っている。
それでも、できたつもりになっている。


それを見ていると、いかに身体が不自由で、自分の思い通りにならないか、ということを考えさせられる。
思い通りにならないということは同時に、思ってもいないように動いているということでもある。
自分の感情の自制を振り切って身体が動くこともあるし、動かないこともあるし。

もっと広く考えれば、心臓が動いていることだって、呼吸を絶えずしていることだって、内臓が常に働いていることだって、何も自分の思いの通りではない。





思い通りにならなさは、私自身も結構経験している。
胃痛でゲーゲー吐いてた時は、誰かに乗っ取られている気分だった。

自分は2つ目の身体を生きているとさえ、最近は思う。
2つ目はとても穏やかで快適だ。





思い通りにならない身体に、思いもしなかった身体の動かし方を伝えたい、
それが自分が運動を指導するときの一番のモチベーション。

その人の身体の、当たり前を崩したい。

レッスンの時間の中では伝えるのに十分な時間はないかもしれない。
それに、今でなくてもいい。
この、不思議な身体の動かし方が、いつか何かのきっかけで、その人の新しい身体の使い方になってくれ!と思いながらやっている。
ような気がする。


レッスンしている時間は、目の前にいる人の身体と戦っている気分。
もしくは、登山口に立つ登山家の気分。





私の最近のレッスンの流行は、
この運動をする前とした後で、身体のこの部分がこう変化した!というストーリー仕立てでお送りするレッスン。

変化をより印象的に、感動的に。





全く話は変わるけれど、
デュオのダンス作品を作りたいと、ふつふつ思っている。
だれか相方やってくれないかな、もしくは二人組まるごと。


本当は、自分が論文で示したいことだって、アート作品として結論の昇華をその作品に触れる人たちに託すことができたらどれだけ楽しいだろう、と思う。

弟たちからもらったアイデア、レッスン受けてくれてる人たちの心拍数を電球のチカチカで表す、とかっていうアイデアも面白そう。

それにしても、まずは自分の中でテーマがはっきりして論文書けるくらいには考えをはっきりしないといけないとは思うけれど。

どっちみち論文書いてから制作だなー。