2019年12月5日木曜日

言葉と身体

PISA調査 読解力低下に歯止めかけたい : 社説 : 読売新聞オンライン
https://www.yomiuri.co.jp/editorial/20191203-OYT1T50294/



昼にテレビを見ていたら、子どもの読解力や文章作成力の低下がニュースになっていた。

日本語が正しく使えない。
例えば主語述語がない、助詞がおかしい、長文を読点なしの一文で書く、就活の書類に絵文字等。
笑い話のように扱っていたけれど、とても深刻な問題だと思う。


ここ数年、大学生に対して行なっている授業では、ヨガの授業ではあるものの、最終課題は自分のことを文章で伝える課題を出している。

もちろん、その課題を出すからには、それ相当に自分と向き合うための時間を授業でみっちり取り入れてから取り組ませるのであって、闇雲に出す課題ではない。
自分の授業では、何をどう感じて、それをどう伝えるかを身体を通して考えることをずっとテーマにしている。


先のニュースの話、解決策に決定的なものは示されることはなかった。
こうなったのは、大人の責任である。より活字や文章に触れる機会を持たせる必要がある、とは言っていたものの、具体的ではないと思った。

こんなにも情報に溢れた社会の中で、活字に触れないことは少ない。
むしろ、言葉に囲まれた環境の中で、本当に必要な能力はなんだろうかと考える。





大学院で哲学の本を読んでいた頃、日本語なのに意味がわからないという経験を散々した。
文字を追って目を動かしているのに、意味が全く入ってこない。
それはもう、外国の言葉を読んでいるかのような絶望感で、何度も読み返すけれど、それでも何が書いてあるのかわからなかった。

それでも、自分の興味を引くような言葉や、私の感覚に近いのではないかと感じる言葉はいくつかあって、
それをとっかかりにイメージしてみたりした。

そうやって自分の都合のいいように解釈した言葉を、ダンスの作品制作を指導してくださっていた勅使川原さんにふと漏らすと、それは自分の言葉ではないから使ってはダメだと叱責される。

作品制作の苦悩もさることながら、自分の言葉ってなんだろうと頭を悩ませた。





本をたくさん読んできたわけではないけれど、言葉に対する執着は、昔からどちらかというとあった方だと思う。
すぐ難しい言葉使うよねと、高校生の頃にいじられていた気がする。今思うと不思議だけれども。


例えば、「見る」と「観る」。
音は一緒だし、どちらを使ったとしても意味は通じる。
でも、「一見する」と「観賞する」ではニュアンスが違うように、「見る」と「観る」の状態の違いはある。

どれくらいの興味を持って、どれくらいの熱量で、それをどれくらい知っているかも違うと思うし、好意的なのか悪意的なのかも、ただ「みる」だけでも大きな違いがある。


だからこそ、「見る」と「観る」それぞれそれを選んだであろう、その人のイメージの違いも少し想像する。
たまに、ただ難しい言葉を使いたい虚栄心だけが見え隠れする人もいるけれど。





文章力の低下が学力の問題とすり替えられてしまいそうな昨今の学習環境は、もしかしたら問題をさらにややこしくさせるのではないかと思う。

結局のところ、難しい言葉を使いこなせることが重要なわけではないと思うのだ。

自分の感じていることや考えていることを、的確に言葉にして表し、それを人と共有し、同じように考えを持つ他人と意見を交わし、尊重しあうことが大切なのだと思う。


的確に言葉で表すことができる力ということは、自分の状態を客観的に示すということとも等しいと思う。
その能力は、年齢を重ね、経験を積むことで養われる。

同時に、その力は、情報の嘘や、言葉の裏に隠された意味をも想像させる力にもつながる。
なぜなら、自分も同じように言葉を選ぶ経験をしていれば、どうしてその言葉で表されたのか、想像がつく。

幼い子供は自分の考えていることを次々に言葉にして、どうしたら大人に伝わるか経験していく中で、言葉の選択肢や豊かさを体得していく。
だから、幼い子供は言葉を知ることと経験が大切なのだ。使えることが重要なわけでは、まだない。





ただ、もういい大人になっている学生にはちゃんと書かせる。

学生に自由記述の課題を出すときに、特に念を入れて説明をすることは、
自分の感じていることを表すのに相応しい言葉を丁寧に選んで書いてください、ということ。

そのための下敷きとなる授業では、ヨガという教材を使って自分の身体と向き合う中で、今自分が何を感じ、何を考えているのかと何度も問いかけるようにしている。

ただ、素敵なことや偉いこと、誰かに褒められることを考える必要は全くないとも伝える。
むしろ、眠くても、ムカついても、自分のことが嫌いでも、やる気がなくても、全てが嫌になっていても、それでもいい。
そう考えている今の身体が大切だと思うから、それを何か無理やり方向付ける必要もないし、こうあらなければならないということもない。

そんなことを何度も何度も説明している。
そういうことを学ぶために、ヨガはわざわざ痛かったりきつかったりするポーズを取るとさえ思っている。

そうすると、最終課題では、なんとも読む方の心を動かす文章を書いてくれる学生が何人かいるものだ。
しっかりと、自分の実感に基づいて言葉を選ぼうとしてくれている。





最近では、少しずつ普段の大人のレッスンでも本性を表し始めた私は、
学生にやっているようなことをこっそり織り交ぜてレッスンしている。

ヨガはじめ、フィットネスプログラムとしてレッスンを提供している身としては、本当は、全力で健康な身体を作るための手助けにならなければならないのだけれども。

何を感じ、何を考えているか、自分自身と向き合うように仕向けているレッスンは、
きっといつか、自分の表現にとって大切なことになるような気がしている。




来年はこのことについて論文書いてみようかな。教育学で書かなきゃならんぽいし。
(改行で都合よく間を取っていれば勢いで書けるのにね。)