2018年7月25日水曜日

ロンシ

タイトルは一体何にしたらいいだろうか。

大学でヨガを実践しました。私が普段レッスンをするにあたり大切にしていることを丁寧にカリキュラムとして組んでみました。学生にその感想を訊くアンケートをとってみました。

でタイトルは何にしよう。

「大学体育におけるヨガの実践」としたら、先生から漠然とし過ぎていると言われた。
そうだ。

何を言いたくて書くのか、はっきりしていないから。


私がレッスンで大事にしていること、、、
自分の身体に集中し続けられるようにすること。余計なことを考えず、ひたすら身体のことを考えざるを得ない状況に持っていくこと。
集中を切らさないようにいろんな場所を意識して行くことももちろんだし、手先を意識して、太ももを意識して、足先を意識して、顔の向きを気にして、という感じで、どこか一箇所というより可能な限り身体のいろんな場所を意識してもらうように言葉がけする。呼吸も然り。

完成形を説明するのでなく、その形に向かうための動きや方向性や狙いを説明する。
でないと、身体の状態の違う人たちを同時に動かせない。

身体を動き方を説明する語彙の数は多いし、的確だと思う。
絶対狙いを伝えるために頑張っていろんな方法も試すし。


私のヨガをして、みんなどう思っているんだろう。
わかりやすい、というのは聞いたことがある。雰囲気でごまかさず、どう動くのか的確に言うから。
集中を切らさないようにさせるから、飽きさせないとは思う。


大学でやるときはどうだろうか。
もっと自分の身体を知ってほしいと思う。

「自分の身体を知るためのヨガ」

“大学体育における自分の身体を知るためのヨガの実践”
とか。

自分の身体、その形もそうだし、動き方や機能、それから性格含め考え方や感じ方まで。
全部身体で起こっていることだから。
身体がなければ何も起きないことだから。

身体と心を分離しないものとして。
それは最近の教育の現場でも大切にされていること。

ちょっと飛躍するけれど、
私たちは身体というものがあって、初めて世界と接続している。
その身体は常に変わっていくし、変えられる。
身体が変われば、世界も変わると思う。身体を変えられれば、世界も変えられると思う。

(今私が言っている身体は、物理的な身体もだし、心も含む。
身体で起こっていることすべてを指している。)

そんなに何かが大々的に変わるわけではもちろんないんだけど、
例えば、
脚の筋肉が凝っていたり股間節が硬かったりして歩幅が狭い人が、その凝りや硬さを解消して歩幅が大きくなったら、一歩ずつ歩いて得る情報は変わると思う。
肩こりがひどい人が首が思うように回らないところからその緊張がほぐせたら、もっと視界が広がると思う。
大きな違いで言ったら、身体をいつまでも自分で動かすことができたら寝たきりになることなく自分の足でどこまでも歩いて行くことができる。

それから、身体の状態を性格もだいたいリンクしている気がする。
もちろん、わかりやすい人もそうでない人もいるけれど。
手相とか顔相とかと同じようなもので。
体つきから得られる、もしくは与えている情報は多い。

アレクサンダーテクニークをやっている人たちの、あの人の話を飲み込んで行くような柔軟性。背骨でものを考えている人たちの独特の雰囲気、余裕。

身体がバキバキで硬い人ほど、どこか真面目で融通がきかない。

じゃあ自分はどうかっていうとまぁ、怒りの感情はないかな。
少なくとも今の自分の身体の状態には何の不満もない。



意外とみんな、自分の身体に興味がない。
そして、興味があったとしても、それは健康や美容についての「こうでなくてはならない」というようなだれかが言っていたそうすべき身体のあり方のようなもの。
例えば、自分に似合う服を選べていない人。そりゃ服にどれくらいの熱意があるか?という別の話もあるけれど。
逆に綺麗な洋服を着てヒールを履いて歩いているお姉さんがきちんとガニ股で膝が合わさらずに歩いている人もよく見る。おっさんみたい。

痩せたい、綺麗になりたい、あれをやったらいい、これをやったらいいにちゃんと振り回されてお金を払っているだけの人。誰かの養分にしかなってない。


考え方も。癖だったり、そう考えがち、ということは誰だってある。
気づくことで視野も広がる。


もっと自分の身体に興味を持って楽しんでいけば、少しずつ変えていけるのにと思う。
そりゃすぐには変わらないけれども。

楽しんで。そう。それも大事だな。

興味を持つことは義務ではないけれど、もっと楽しむ探究心を持っていれば発見は無限にある。

その時、客観性を持つことも大事よね。
ヨーガ・スートラに自分自身は「かの見る者である」っていう表記があったな。
自分とは常に、一歩引いたところで見ている者であるという。
自分が何をしているのか、何を感じているのか、何を考えているのか観察する。

自分を知ることは、世界を知ることでもある。ような気がするから。



さて今週末の最終回で聞くアンケートの内容はどうしよう。
3部門で分けて考えるようにさせようかな。
この授業を受けるの自分の身体で起きたことや感じていたこと、授業で学んだことや体験したこと、それをこれからどういうものに生かしていけるか考えてみて。



自分の考えの正しさを客観的に証明しなくてはならない。
誰が見ても、論理的に私の言いたいことが伝わるようにしなくてはならない。
私の授業が意味があったって、誰もが納得できる形にしなくてはならない。

今日はこんなところかな。




2018年7月23日月曜日

最近の頭の中

研究論文を書かねばならないのだが筆が進まない。
多分、論文を書くためにためのもう一人別の自分を用意しなければならない気分になっているのが問題をややこしくしている原因な気がする。
おそらく気取らず自分のまま書くべきで、そのためにはもっと自分が何を言い表したいのか明確にしなければならない。

もう少し具体的に何を考えているのか考えてみようか…
暑くてしんどい。



〈私は研究者じゃなくて表現者なんじゃないか、なんて〉
研究者って本をたくさん読んでいて、知識が沢山ある人のことを言うんでしょう。修士から博士に進学する同期を見て、この知識と勉強量は私には無理〜なんて言って他人事だと思っていた。
論文を書くと決めた時、私は研究者としての顔をも持つのねなんてちょっと自負があったりしたものだが、別の人格を用意して書けるほど優秀ではなかった。
それっぽく研究者面は無理だし、それをやっても意味はない。当たり前だけど。
そもそも研究者てなんだよ。そんなおしゃれな仕事はない。

あくまでも実践研究の立場で、自分がこれまでやってきたことを言葉でまとめるべきだ。素材は揃っていて、どう言う切り口で語るのかが問題。


〈教える仕事〉
大学生の頃は、教えの仕事は絶対したくないと思っていた。
今の仕事は、別に自分のダンサーとしてのやりたいことを全く無下にしているわけではなく、むしろプラスだと思うからこそやっている部分もある。

自分の身体でない他人の身体がどう動いて、どう考えて、どう変化するのか、こんなに近くで観察できて、かついくらでも試したいことができる。
身体という共通するモノについて、いろんな人と話ができる。
他人が何を望んでいて、どこへ向かっていくのか、寄り添うことができる。

私のこの感覚、自分の身体で起こっている面白いことを、より多くの人と共有するためにはどういう手段をとるべきなのかをずっと考えているわけだ。それが自分の作品だ。


〈私が見たい画〉
心酔させたい。人が何かに夢中になる、一点に向かわせる。
たくさんの人がいっぺんにそうなった時、人間が並んでいるだけだけどそれが美しい自然の風景と同じくらい静謐でそれでいて鮮やかな風景になる。これは本当に快感で、独り占めできるご褒美のようなものだ。すごく綺麗な景色。

たくさんの人数を思いのままに動かすことは面白い。たくさん人がいて、みんな違うけれど、それを統一できた時、何か真理を突いた気がして楽しい。


〈自分のダンス〉
動画で見てて、面白い。捉えどころがないけれど、違和感のようなはっとするようなほんの小さな繋がりみたいなものが繋がっている感じは、他のダンサーにはない動き方だと思う。
だから、はっきりとわかりやすいダンスが好きな人は見逃してしまうと思う。見る方にも集中力や注意力を要請しているから。
踊ってるか踊ってないかの境目が面白い。私がやろうとしていることはすごく難しいけれど、うまく行ったら絶対私にしかできないモノが生み出せると思う。そしてその境目を探してるってことは、私にとってダンスって何かということを探していることでもある。

踊っているときの面白さは、自分のダンスが今絶対的に見ている人の身体にリンクしている、と自分の身体で実感できる感覚がある。集中力が自分の身体に向いているその目には見えない光線のようなものを一身に浴びているような。ぞくっとする。


〈ヨガや身体のこと、哲学に関する本を読むことは面白い〉
多角的な考え方ができる気がするから。これまで知らなかった視点が得られる。
逆に、自分が一生懸命考えてたどり着いたことがいとも簡単に書いてあることもある。


〈大学生に言いたいこと〉
「自分はこう考えている」ということをきちんと表現できる人になってほしい。そういう人が増えたら、多分世界が面白くなるから。
自分の考えを言えない人ほど張り合いのない人はいない。というか、私は結局自分の意見をはっきり言える人の方が面白いと思っている。思いの強さやそのパフォーマンス含め。そういう人の方が人目を引くし、集団の中で尊重されやすいと思う。思っていても言っていないのなら考えてないのと一緒、という暴論があるけれど、あながち間違っていないと思う。
もちろん、引っ込み思案だったり、自信がなかったり、ネガティヴな気持ちはあるかもしれないけれど、それはあなたの都合でしょと思ってしまうのよ。
自分がどう思っているのか、徹底的に突き詰めてみればいいし、言ってみて何か変わることがあるかもしれない。そんなに他人は自分のこと気にしていないし、所詮同じ人の形をしたやつの集まり、そこまで他人を出し抜くほどの大したことを考えられる訳でもない。

〈だけど、みんながそうしているから自分もそうしなければならないとは思わない〉
みんながしていることはみんながすればいいのであって、私がそれをやる理由にはならない。これは私の中の絶対的な基準であって、性格だと思う。


話が逸れた

樋口聡先生の「身体知」という考え方の書かれた本を読んで、私のやろうとしていることの行先を指し示してくれている気がしてすごく面白かったんだ。
私の言いたいことなんで思い込みの戯言でしかないけれど、確かに誰かが同じようなことを目指して頑張ってる。
あの本を読んで、自分のやっていることを言葉でまとめてみたいと思ったんだ。

走り書きでした。