2019年6月27日木曜日

言葉の選びかた、愛おしさ

論文を書くための素材として、ヨガの授業を受講している学生に、自由記述のアンケートを書いてもらっている。
これまでに、3回。


授業はせいぜい10回ほどしかしてないけれど、回を増すごとに、学生の言葉は実感の重みが増していって、読んでいて面白い。





私は自分の身体を通して語っていて、少なくとも自分の身体で実感したことや、自分の身体において責任を持てると感じられたことを喋っているつもり。

だけど、一方で、
私の正解を、私の何かを押し付けたくないなとも教えていてふと思う。


何も誘導せず、透明なままでアンケートに答えてほしいと思っても、どうしてもなんらかの恣意は入り込む。
だって、論文を書きたくてとってるアンケートだものね。

限りなく私の意図が入り込まない最低限の設問にしているけど、私の方に書きたいことがある意図は消せない。
そのために導き出したい感覚や、狙っている回答はどうしても、ある。


その狭間で、なんとなくモヤモヤしたり、しなかったり。
回答中は努めて黙ってるけど、
授業してるとつい小声で要らないこと言ってしまう。





教育の場では、私の身体を、押し付けることはいけないと思う。
各々が導き出す答えとは何か、尊重すべきことは何か、ということに常に気を張っていなくては。


例えば、スポーツジムなら少し違う。

"これをやったらこうなる"の見本として私がいるのも、いいと思う。
そのためには、多少強引に私の感覚を押し付けても良いかもしれない。
もしその感覚と合わないと思っても、お客さんの方がインストラクターを選べるから。
合わないと思ったら止めることができる。

私もお客さんの変化を観察しながら、執着しないようにしよう、と思ったりする。
一期一会、また私のレッスンに参加してくださって、身体見させてもらってありがとうという気持ち。


でも学校だとそれは少し違う気がしている。

例え、通う学校や受講する授業を選んでいるとしても、先生は選べないことが多い。
だからこそ、長い時間をかけて向き合える関係もあるだろうけれども。


非常勤である私は、1コマ15回限りの付き合いで、それが少し心残り。

最終レポートにはいつも、「これからも先生に教わったヨガを、家でも続けていきたいと思います!」という気遣い(阿り)の溢れた言葉がちらほら。
「正直やらんだろ」と心の中でつっこんでる。

身体のことを、あーだこーだ言う変な先生がいたな、と数年後に思い出してもらえたら幸せだな、と思うくらい。





論文を書くために、
ざっくりとした正解、例えば今回のことで言えば、大まかな"健康"という概念を、私は決めたがっている。


一説にヨガは、"結ぶ"を意味する"yuj"と言う言葉が語源と言われていて、
何と何を結ぶか諸説あるけれど、それらを乱暴にまとめれば、"心と身体を結ぶ"という解釈が多い。

解剖学のように身体を切り刻み病因に対処するのでなく、
バラバラになって暴走する心や身体をつなぎとめ、全人的な視点でアンバランスさを改善するのがヨガ、
と言った感じかしら。


ヨガというのは歴史が長すぎて拠出のはっきりしない部分も多く、体系付けようにも難しい部分があるみたい。
何かにつけ言い切るのが非常に危ないと足踏みしてしまう。

そして、ヨガは潜っていくほどスピリチュアル。
どんどん説明が難しくなる。

それである程度明確な根拠を与えてくれるソマティック心理学、プロセス指向心理学というものをちょい借りして、ヨガの"結ぶ"ということを今回説明してみようと思っているけど、なんか手を広げ過ぎる気もする。危ない…

だってせいぜい11枚の論文で、記述の分析だけで膨大すぎるよこれじゃ。





去年も同様に、アンケートをまとめる論文を書いたけど、
学生のアンケートは読んでいるだけで「なんて良い回答なんだ!」と感心するようなものがある。

そりゃ、私が授業して喋りまくったことを学生がまとめてるんだから、自分は至極納得できるだけど。
「ああ、私はなんて良い授業をしたんだ」って自惚れてしまうくらいには、伝わっている。

その「良い授業」をまとめたくて、褒めて欲しくて、去年は書いていた気がする。
たった一年ですでに読み返すのが恥ずかしいレベルには香ばしい。
なんか全体的に自信過剰で偉そうなんだよね。
本当に、こういう性格直したい。





例えるなら、飛んでったボール咥えて全力で帰ってくる犬のような自分。恥ずかしい。

それでも、エラい大人が書いている文章には割と「自分結構すごいんですよねー」という一文はちゃんと入り込んでたりするもんじゃん?

文章の説得力に加勢するためで、自己顕示欲ではないとは思う(思いたい)けれども。
ちゃんと他人から見て、「へーすごい人なんだ」て言ってもらえるような書き方よ。
技術よねぇ。





さて、今年は去年のリベンジなので手法はほぼ変わらないけど、少し感触の違うこともある。


去年より漠然とさせた今年のアンケートは読んでいて、確かに私の言ったことを基にしてるだろうけど、なんだろう、学生の回答が私の考えの範疇を微妙に超え始めている。
とても良いことだと思っている。


まだちゃんと説明できないはずの最近読んだ本の内容が、アンケートの答えに書いてある。
言ってはいないと思うし、というかまだ理解しきっていないから、ここまでちゃんと説明できていないはずなのに、確かに学生が何か感じてる。


頭抱えるくらい崩壊した日本語の子もいるけれど、
それでも、誠実に私と自分の身体に向き合ってくれてる子の、浮ついた助詞の選び方や言葉の狭間に漂うニュアンスの瑞々しさは、とても愛おしい。

そういうのを書き残せないものか、という気分に、今はなっている。

2019年6月17日月曜日

やる気が出る前 * * やる気が出て来た後 

細々と書いているこのブログも、「読んでますよ」と言ってもらうことが増えた。

「ダンスって言葉で説明できないじゃん?」と知った顔だった大学生の頃の私に、
「ダンサーも言葉を扱えなきゃダメだ」とさらなる知った顔で諭してきた大嫌いなお兄さん。


そんな影響でブログを書いてみようと思ってから早10年。
その人はまだ、果たして踊っているのかしら?






その時はまだ、言葉の能力(ちから)を今ほど信じてはいなかったけど。


手記のような読み物が割と好き。
ただし、読み手に媚びおもねる感じのエッセイのようなものは苦手。

最近読んだ三島由紀夫の「太陽と鉄」は良かった。他、アルトー、ドストエフスキーなど。
個人の感情のうねりが言葉の芸術まで昇華してかっ飛ばしてるくらいが気持ちいい。
だからたまにわけわからんけど。

詩になると言葉が上滑りしていって沁みてこない。
俳句の方が余白が多いから仲間に入れてもらえる感じ。





自分自身を客観視することは簡単なことではないけれど、言葉にしてみることで、一つ自分の外側に立ち位置を持つことはできると思う。

何かを語ろうとする時、その思考に形を与えようとする時、自ずと客観的な立場に立つことになるから。

みたいなことふと考えていて、今日の授業で学生に言ってみた。
伝わってなくてもいい。私が私のために言った言葉。


そうしたら、昨日ぼーっと見ていたヤフーニュースの記事で、「失恋した時は手紙を書きなさい、ただし相手にそれを送らないように」と書いてあったのも思い出した。






携帯のメモには、書き上げることのなかった言葉の切れ端がものすごい数眠っている。

最近は、一方通行の一つの文章にまとめようとせず、説明しすぎないように、*で余白をとることにしている。

*で留めておけば、前後を飛び越えて繋がりができる気がする。
それが言葉でちゃんと表せればいいんだけど。





こんな稚拙でも、一つの文章をまとめるのにすごくエネルギーが必要で、力尽きている間に風化していく。

去年書いた拙論文の抜刷りを職場の先生に渡したら、
「まずは書き上げるだけでいいんだよ!とにかく、書き上げて形に残さないと、無かったのと同じだから!」とやたら励ましていただいた。

本当はそれだけではいけないと、わかっているけれど。







いろんな人の身体を見ることが仕事のひとつだけど、
その身体の状態から、どういう性格や考え方なのかとか、どういう生活を送っているのかとか、色々想像する。

そうして結局、
私にとって他人の身体は、その人の生活が創り出した(まだ昇華しきっていない)アート作品なんだと、
色々考えた結果たどり着いた。

身体の状態は、その人の在り方を多少なりとも反映している。
身体の状態がその人となりを作ることもあるし、気持ちのコントロールで変わる身体もある。
身体を知っていくことの面白さが自分自身への興味や感受性の幅を広げることにもなるんじゃないかと。

そしてそういう方向性で論文をまとればいいんだと、ようやく入り口にたどり着いた。
時間かかったなぁ。間に合うんか?

自分で設問しといて目的を見失ってた学生へのアンケートも、参考にすべき先行研究も、少し明るくなった。

とりあえず130枚近い記述アンケートの文字起こしと分析からだ…やるぞー





去年、論文を書くために集計していた学生のアンケートを読んでいて面白いと思ったのは、
「脳が司令塔みたいな感じで、体はその操縦に従って動くロボットだ。だけどロボットがポンコツすぎて、思い通りに動いてくれなくてもどかしい」
という記述だった。

原因と結果を考察し、病因に対し処置をする西洋医学に対して、東洋医学は全人的な処置を行う。
インダス文明からアーユルヴェーダのいち医療行為としてとして取り入れられてきたはヨガも東洋医学に属しており、のちの仏教の言うところの心身一如の考え方とも通じる。

日本人としては、日本語に身体と感情を結びつける慣用句がたくさんあることもあり、心と身体は連動しあうという感覚の方が強いのかなと想像していたのだが…

そのはずなのに、脳が身体をコントロールするという発想はどこから来たのか。
でも彼女な丁寧な説明に膝を叩いた。溜飲を下げた。目を開いた。


アニメオタクを自称する彼女は、「自分の思考や感情など心の部分があれば、インターネット上に存在することができる。だから身体は社会に自分をつなぎとめているものに過ぎない」と言っていた。

最高にクール。情報化社会ここに極まれり。

そんなことあるかい、と思ったけど、そんなこともあるか、と思った。





先行研究を漁っていて面白かった部分を。

プロセスワーク(プロセス指向心理学)のアーノルド・ミンデルの著書から引用されたもの。

『当時私が見ていた患者は胃癌で死にかけていた。…ある日話をすることができたとき彼は、胃の腫瘍が耐えられないほど痛むといった。私は、彼の身体感覚、すなわち痛みの体験に焦点を当ててみようと考えた。…彼はどうすればそれができるかをよく知っており…あおむけに横たわり、おなかに力を加えはじめた。…まるで自分が爆発するかのように感じてきたのである。そして痛みの頂点で突然、叫び声をあげた。「ああ、アーニー、僕は爆発したい、今まで爆発することができなかったんだ。…僕の問題は、自分自身を決して十分に表現することがなかったということなんだ。」』(アーノルド・ミンデル:ドリームボディ・ワーク、1994)

なんて、面白いんだ。その動き見てみたい。そんなやり方があったのか。

表現かー!

2019年6月4日火曜日

オリジナルコンテンツとプライドの、かなり曖昧な話

久しぶりに、ヨガインストラクターの資格取るのに通ってたスタジオで、レッスンを受けた。

たまには気分転換に、喋らずヨガしないとね。呼吸のタイミングが掴めなくなるんだよね。

しかもラッキーなことにマンツーマンレッスン。
先輩インストラクターさんに色々と疑問に答えてもらえて、とても勉強になった。
結局かなりお喋りしながらのレッスンだった。


✳︎


同じ資格をとって同じようにヨガを教えているとはいえ、私があまり使ったことのない表現や指示出しのワードが使われていた。
その先生は、解剖学専門のヨガの先生の元で学んでいるらしい。
せっかくマンツーなので、それってどう言う意味で使ってますか?と意地悪な質問をしてみた。

例えば「骨から動く」という言葉。
その人は滑らかにその言葉を口にしていた。

表層の筋肉でがつがつ動くのではなく、よりコアな部分から繊細に動いていくという動き方の様子は理解できるのだけど、
果たして、本当に骨から動けるのか?という所で私は立ち止まってしまう。
"" 動かす。わかる。
"から" 動く。うーん。
"" 動く。いや。

骨は身体をその形に成らしめている芯というか核であって、骨自体が動くわけではない。
むしろ骨は重力につなぎとめられて空中にういているだけ。
骨に神経はないし、骨を主に動かすのは筋肉だ。
じゃあ、より骨に近い深層筋を使うのか?と聞けば、それも何か違うという。

その人いわく、人間の身体において、筋肉の数と骨の数を比べれば筋肉の数の方が圧倒的に多いし、特定の筋肉の動きを感じ取ることは難しい。
骨をイメージして動く方が、シンプルに体の動きを理解しやすい。
そういう理由でその人は骨からアプローチするそうだ。





こうなってくると、あとはその言葉を使う人が実感としてその言葉をどう理解しているか、
あとはどういうお客さんとレッスンをしているか、ということになってくる。


私のレッスンの多くは、ちょっとふらっとレッスンに出てみた、運動は久しぶり。何したらいいかわからない、という方も多い。

そうなってくると、どこからどこが骨かとか骨の形だって、厳密に分かっているわけではない。
専門用語はもってのほか。
そして、圧倒的に身体が硬い。その人の思う場所を動かそうとしても、意識が届かなかったり、周りの硬い筋肉が障害となって違う場所が必要以上に使われてしまったり。

例えば胸の引き上げに、
「胸鎖関節を開いて、胸骨を突き出すようにしてください」って言ってたら、どこやねんで終わる。疑問を持たれる時間がもったいないし、間に合わない。
よって、
「ウルトラマンのピコーンピコーンのバッジがよく見えるようにしてください」といった具合になる。
笑いが起きればなお良し。楽しいし。


レッスンは、教える人によって全然クラスの色も違うし、教える内容も、何を大切にしているかも、千差万別。
同じくポーズをしていても、インストラクションの指示の言葉選びから、何に効果を期待するかまで、本当にそれぞれ。
でもどれが正解でどれが不正解というわけでもない。

先の先生のレッスンも、私のお客さんには難しいかもれしれないけれど、私にとってはかなりおもしろい。


どちらかというと、正解不正解は、教える方と教えられる方の相性の部分にある。合うか合わないか。

あまり気にしてはいなかったけれど、やはりお客さんが求めるものを提供しようとすることで、自分自身の中で出来上がっていくインストラクションの傾向もある。
改めて、昨日思った。




とにかく体を動かしたいの!という人が多い場所にいるから、ヨガの心理的作用の部分のことに言及することはすくない。
本当は、人生の哲学のような内容も、ヨガの教えには多く含まれる。スピリチュアルな内容も含めて。

それでもヨガの心理的な部分を全く排除しているわけではないけどね、と思ってはいたけれど、久しぶりにヨガ一直線の先生のレッスンを受けると、心理的な部分への言及がかなり色濃い。
自分自身との向き合い方というか。

私はおそらく変に心が強すぎるから、優しい語り口調で、「ありのままの自分の存在を肯定して受け入れてあげましょう」という指示は、ちょっと気持ち悪いと感じることさえある。

ヨガの懐の広さを思えば、その気持ち悪さは、別に否定することではないかもしれないけれども。





だから結局、ヨガについて論文を書こうとしても、
私は心理的な部分までは十分に言及できてないのかもしれない、と思ったり。
私の指導内容で、ヨガの心理的な部分まで言いましたというのは、十分ではないのかもしれない。
専門性、客観性、そういった櫓門は一体どの辺りに立てるべきなのか。

いろんな指導法がある。
何が正解なのかも、その基準点も、本当に多様。曖昧ではなく、多様。
多様にそれぞれが語られ、小さな事実を提供しているだけなのかもしれない。

その謙虚さが、去年の論文には足りなかったんじゃないか。





一方で。
自分は選ばれるコンテンツの一つの種類を提供していると考えるのが、一番健全なあり方なのかもね、思ったりしている。

自分が絶対ではない。
でも自分の性格的に、これはこう、と決めつけてしまいたくなる衝動は尽きない。
一生懸命考えて、考えた結果、これが一番だろうと自信を持ってお伝えする姿勢は悪いことではないとは思うし、いろんな考え方があるよねと頭では漠然と分かっていても、自分の身体で納得した答えはせめてその瞬間なるべくクリアでありたいと思う。(待った、情報の選択と創造をごっちゃにしている気がするが)


でもダンスも、アートもそうなのかもね、と思う。
自分が一番になろうとするのではなく、いろんな人に見てもらう、その人にとってのいちコンテンツとしてあろうとするくらいの気分が私にとってがちょうどいいのかもしれない。
その方が何か吹っ切れる気がするし、だったらとことん突き詰めてやってやろうと思えるし、不要な意地やプライドもちょっとは脱ぎ捨てられるかもしれない。

自分だっていろんなものを見て、いろんな人の価値観や考えを取り入れてるんだから。盲信的に何か一つのものにすがったりすることはない。

プライドとは。





確実なものは、自分のやっていることに対する信頼度というより、それはあるべきだけど、とても小さな核のような、そこの透明度はプライドを持って望むべきものでああるかもしれないけど(プライド、誇りといって奢りになるより、誠実さといった方がこの場合適切かもしれない。)、それが他人に共有され、全く同じように伝わらないかもしれないけど、同じ時間を共有して、良いものも悪いものも、何かを与え与えられたという関係だけは確実なんじゃないか。

と言う考え方も、だいぶ日本人的考え方なのかもしれないけど。安田先生の言う、間身体的なあり方のような。





自分の考えうることは、だいたい誰かがすでに言っている。それはもう切なくなるくらい。
返せば、誰かの考えをたくさん取り入れて、自分が成り立っている。

もっと汚れてしまったほうがいいのかもしれない。その方が、揉まれるなかでそれでも揺らがない微かな何かが、見つけられるのかもしれない。

こんな、糸の切れた凧のような睡眠不足の考え事。