slurの発表、無事に終えることができました。
ご来場くださった方々、また気にかけてくださった方々も、本当にありがとうございました。
とくに来てくださった方々は、場所がちょっと遠くて申し訳なかったです、風邪ひかれていないか心配です。
あと、稽古場占領しまくってごめんなさい。と思っている。ここを見ることはない人たちへ、、
今週はいろんな人と、ものすごくたくさんしゃべりました。
作品についても、作品とは関係のないことも、今まで思っているのに言ってなかったことも、言葉をひねり出して粗方しゃべってしまったので今、言葉が浮かんできません。
が、一つの区切りとして、お礼を言いたくて書いております。
間違いなく、この作品が今の私の全力です。
今回、クリエーションは大方一人だったけど、だからこそ作品を見てくれた人の言葉はすごく新鮮で、円盤だと思っていた地球は丸かったのね!くらいの衝撃があります。
たくさんいただいた感想や、指摘された意見を忘れないように手帳に書きとめて、
また次に向かって、先に向かって精進していきたいと思います。
本当にありがとうございました、また近いうちに!
まき
2013年1月25日金曜日
2013年1月18日金曜日
言葉
すべての言葉は、一つの世界を記述している。
言葉は、どのように使われ、またどのような意味を持つとしても、変わらずある一つの世界を記述している。
文学も、数学も、言語学も、科学も、哲学も、たとえ言語が違ったとしても、どのような言葉遣いであっても、むしろ言葉という姿を持つすべてのものにおいてそれは当てはまる。
この一つの世界とは、世界中の誰の存在にも由来しない“世界”。誰かによってその姿を捉えられ既に記述された世界ではなく、誰にでも記述される可能性を持つ世界。私は無宗教派である。
すべての言葉が、一つの世界を記述している。
個々人がそれぞれに“一つの世界”を所有しているのではない。誰もが一つの世界に触れている。
その世界に対して客観的物差しを使用することはかなわない。
誰しもがその存在(身体)を以て感じることでのみ関わることのできる主観的世界。
だから私たちは書物を、言葉を読むことによって、書き手にとっての世界の切り取り方を知る。切り取り方とは、書き手の感覚や知覚である。
だから私たちは書物を、言葉を読むことによって、一つの世界に対するフィルタとしての書き手を知る。フィルタとは、その人の存在そのものである。
~学とは、教え伝えられていく一つの世界を記述する方法のことである。
価値は、価値を見出す個人に由来する。二元論もまた、それを唱える本人に由来する。見出した価値や良し悪しは、その人が世界と関わる方法として他者に伝わるかもしれない。
しかし、伝わる、それだけだ。(私にとっての価値とは、そこで終了している。)
新しい世界や、誰かと異なる世界というものはない。私たちは常に、一つの世界に触れている。
一つの世界は、何とも比較されない、唯一のものである。
若し“新しい世界”というものを感じることができるのなら、それはすでに誰かによって記述された世界を、自分の新たな感覚や知覚、また世界の切り取り方として受け取っているのだ。
そして、新しさは、自分の身体の中にしか見出されない。
だから身体を使って表現しようと思うのだろう。
いつから私がこんな考えにたどりついたのかは知らないけれど、この言葉に触れるときの感覚は常にある。
誰かに“共感”してほしいわけじゃない。ここに書く言葉もまた、私が“記述する”世界の一つの姿、言葉。むしろ誰にでも、ただ届いてほしいと思うから書く。
言の葉とは、まったく素敵な言葉だ。言の葉が生る樹木はどんな姿をしているか。
…なんとなく。勢いで書いてみた。
言葉は、どのように使われ、またどのような意味を持つとしても、変わらずある一つの世界を記述している。
文学も、数学も、言語学も、科学も、哲学も、たとえ言語が違ったとしても、どのような言葉遣いであっても、むしろ言葉という姿を持つすべてのものにおいてそれは当てはまる。
この一つの世界とは、世界中の誰の存在にも由来しない“世界”。誰かによってその姿を捉えられ既に記述された世界ではなく、誰にでも記述される可能性を持つ世界。私は無宗教派である。
すべての言葉が、一つの世界を記述している。
個々人がそれぞれに“一つの世界”を所有しているのではない。誰もが一つの世界に触れている。
その世界に対して客観的物差しを使用することはかなわない。
誰しもがその存在(身体)を以て感じることでのみ関わることのできる主観的世界。
だから私たちは書物を、言葉を読むことによって、書き手にとっての世界の切り取り方を知る。切り取り方とは、書き手の感覚や知覚である。
だから私たちは書物を、言葉を読むことによって、一つの世界に対するフィルタとしての書き手を知る。フィルタとは、その人の存在そのものである。
~学とは、教え伝えられていく一つの世界を記述する方法のことである。
価値は、価値を見出す個人に由来する。二元論もまた、それを唱える本人に由来する。見出した価値や良し悪しは、その人が世界と関わる方法として他者に伝わるかもしれない。
しかし、伝わる、それだけだ。(私にとっての価値とは、そこで終了している。)
新しい世界や、誰かと異なる世界というものはない。私たちは常に、一つの世界に触れている。
一つの世界は、何とも比較されない、唯一のものである。
若し“新しい世界”というものを感じることができるのなら、それはすでに誰かによって記述された世界を、自分の新たな感覚や知覚、また世界の切り取り方として受け取っているのだ。
そして、新しさは、自分の身体の中にしか見出されない。
だから身体を使って表現しようと思うのだろう。
いつから私がこんな考えにたどりついたのかは知らないけれど、この言葉に触れるときの感覚は常にある。
誰かに“共感”してほしいわけじゃない。ここに書く言葉もまた、私が“記述する”世界の一つの姿、言葉。むしろ誰にでも、ただ届いてほしいと思うから書く。
言の葉とは、まったく素敵な言葉だ。言の葉が生る樹木はどんな姿をしているか。
…なんとなく。勢いで書いてみた。
2013年1月10日木曜日
あける、新年
あけましておめでとうございます。
遅ればせながら、本年もどうぞよろしくおねがいします。
2013年ですか。マヤの終末論を少し前に知って、その日は相も変わらず稽古してたので、正直踊ってるときに世界が終わってくれるならそれで、と思ってたのですが、終わりませんでしたね。どういうことですか。
所属する院の修了がかかった修士論文の提出締め切りを目前に控えておりまして、現在研究室はさながら年末の、あの年末特有の「何かがやってくる(そして時間が早く過ぎる!)」感でひしめいています。去年程ではないけれど。笑
ですので、まだ正式には新年は明けておりません。良いお年を!
私は制作と併せて提出する副論文をとりあえずキンコーズへ叩きつけ、あとは製本した副論が燃えたりしなければ、東京と埼玉の県境が地割れ起こして埼玉にたどり着けなくなったりしなければ、無事に出すことはできそうです。
そう、出すことだけはね…
修了するための成果として、私は言わずもがな、ダンス作品を作ったわけですが、その発表も昨日終わりました。
緊張してたつもりはさらさらないんですけど、むしろ恥も外聞も捨てた私には緊張する資格も無いわけですが、やっぱり"本番"と冠が付くと不思議と緊張しちゃうものなのですね、何かが狂う。そして狂ったテンションで研究論文の人たちに話しかけて怒られる。
まったく、アスリート並みの精神力が要るわ、と最近はよく思う。
対戦相手は観客、そして何より自分なのです。
つまらないことをしてるつもりは一切ないし、作品はちゃんと出来てるけど(一年苦しんだ)、金メダル取れるか取れないか、勝てるかどうかのレベルで完成度の到達点が違う。
関係ないけど、個人種目の人って、金メダル取ることを「勝つ」って言うよね。あれの意味が分かった気がする。
昨日は正直ムラがあった。勝ててるとこもあった。全体的にはマシだった、釈にズレがなかった。作品の全体が掴めたここ数日で、音無即興の作品で全体時間釈のズレがなくなっていた。演出の体内時計はずれてなかった。だけど若干演出の自分に出演の自分が負けていた。最近自分の動きに音楽があるのね、その身体の中の音楽が鳴らないときがあった。
しかしまぁ繊細すぎる。その繊細なところで勝負してる作品だから仕方ないが。
再来週?か、また公開発表するので、それまでに鍛え直す。
ここ一年で振り切ったものはあまりにも多い。一番大きいのは、他人の評価がどうでも良くなった。これはちょっと自分でもやばいと思うけど、でも、自分しかいないと思う。私が頼れるのは、最終的には踊る自分しかいない。
かなり荒治療したし、恐いし、今だって絶賛強がっているだけですけど、そうでも思わなきゃ立っていられなかった。
これで良いのかどうかは知らん。だって時々物凄く悲しくなったりした。
これから、他人の評価に嫌でもさらされていくだろうと思えば、そして自分にとって本当に頼らなければならない人と仕事するために、それは当然、これからも作る作品や自分のダンスを色んな人に観て欲しいと思うからだけど、
この一年は本当に大きかった。
きっと、自分の中で得たものの方が多いはず。
と、思うことにするよ。
いつだって今が一番良いと割と本気で思っている。というか思い込んでる。阿呆だから。笑
真面目くさったことたくさん書いてたから適当なこと書こうと思ってたのに、結局こんなことばっか考えてて馬鹿みたい。
でももう馬鹿は治らない。だってすごく手遅れ感があるもの。ひしひしだよ。
しかしもう胃潰瘍にはなりたくないわ。
それにしても、キンコーズが火事になってないといいな、この微妙な待機の時間、気持ち悪い。
遅ればせながら、本年もどうぞよろしくおねがいします。
2013年ですか。マヤの終末論を少し前に知って、その日は相も変わらず稽古してたので、正直踊ってるときに世界が終わってくれるならそれで、と思ってたのですが、終わりませんでしたね。どういうことですか。
所属する院の修了がかかった修士論文の提出締め切りを目前に控えておりまして、現在研究室はさながら年末の、あの年末特有の「何かがやってくる(そして時間が早く過ぎる!)」感でひしめいています。去年程ではないけれど。笑
ですので、まだ正式には新年は明けておりません。良いお年を!
私は制作と併せて提出する副論文をとりあえずキンコーズへ叩きつけ、あとは製本した副論が燃えたりしなければ、東京と埼玉の県境が地割れ起こして埼玉にたどり着けなくなったりしなければ、無事に出すことはできそうです。
そう、出すことだけはね…
修了するための成果として、私は言わずもがな、ダンス作品を作ったわけですが、その発表も昨日終わりました。
緊張してたつもりはさらさらないんですけど、むしろ恥も外聞も捨てた私には緊張する資格も無いわけですが、やっぱり"本番"と冠が付くと不思議と緊張しちゃうものなのですね、何かが狂う。そして狂ったテンションで研究論文の人たちに話しかけて怒られる。
まったく、アスリート並みの精神力が要るわ、と最近はよく思う。
対戦相手は観客、そして何より自分なのです。
つまらないことをしてるつもりは一切ないし、作品はちゃんと出来てるけど(一年苦しんだ)、金メダル取れるか取れないか、勝てるかどうかのレベルで完成度の到達点が違う。
関係ないけど、個人種目の人って、金メダル取ることを「勝つ」って言うよね。あれの意味が分かった気がする。
昨日は正直ムラがあった。勝ててるとこもあった。全体的にはマシだった、釈にズレがなかった。作品の全体が掴めたここ数日で、音無即興の作品で全体時間釈のズレがなくなっていた。演出の体内時計はずれてなかった。だけど若干演出の自分に出演の自分が負けていた。最近自分の動きに音楽があるのね、その身体の中の音楽が鳴らないときがあった。
しかしまぁ繊細すぎる。その繊細なところで勝負してる作品だから仕方ないが。
再来週?か、また公開発表するので、それまでに鍛え直す。
ここ一年で振り切ったものはあまりにも多い。一番大きいのは、他人の評価がどうでも良くなった。これはちょっと自分でもやばいと思うけど、でも、自分しかいないと思う。私が頼れるのは、最終的には踊る自分しかいない。
かなり荒治療したし、恐いし、今だって絶賛強がっているだけですけど、そうでも思わなきゃ立っていられなかった。
これで良いのかどうかは知らん。だって時々物凄く悲しくなったりした。
これから、他人の評価に嫌でもさらされていくだろうと思えば、そして自分にとって本当に頼らなければならない人と仕事するために、それは当然、これからも作る作品や自分のダンスを色んな人に観て欲しいと思うからだけど、
この一年は本当に大きかった。
きっと、自分の中で得たものの方が多いはず。
と、思うことにするよ。
いつだって今が一番良いと割と本気で思っている。というか思い込んでる。阿呆だから。笑
真面目くさったことたくさん書いてたから適当なこと書こうと思ってたのに、結局こんなことばっか考えてて馬鹿みたい。
でももう馬鹿は治らない。だってすごく手遅れ感があるもの。ひしひしだよ。
しかしもう胃潰瘍にはなりたくないわ。
それにしても、キンコーズが火事になってないといいな、この微妙な待機の時間、気持ち悪い。
2012年12月26日水曜日
告知など
なんだかんだXデーが近づいてきましたので、お知らせをなんとなく。
********************
修士制作作品 『slur』 公開発表
作・出演 伊藤麻希
1月21日(月)〜23日(水) 18:30〜
@立教大学新座キャンパス内ロフト1教室
入場無料、来て頂ける方は連絡ください、詳細折り返します。
一発目は審査発表で8日に公開します。
現代心理学研究科映像身体学専攻修了のための修士制作作品『 slur』を公開します。
ソロ2作目、1年くらい掛けて作った作品です。
“slur”は音楽記号の音符をつなぐ弧線・スラーのことで、“つながり”というテーマと自分自身のダンスについて考えて作った作品です。
とても良い場所で発表できるので、 お時間ありましたらぜひ足を運んで頂ければ幸いです。
作品時間はたぶん40分弱になると思います。
(もし上記日程でご都合が合わない方で、もし 観て頂けるのであれば、 別日でほぼ本番通りの稽古をお見せできます。)
********************
自分自身、あまり作品量産型ではないことはわかっていますが、前作から一年も開いてしまいました。
昨年修了できなくて延びたこの一年は、はっきり言ってありがたい以外のなにものでもありません。
ややこしいことは多々あれど、もはやレジデンスアーティスト並みに稽古場使えるこの環境を逃すのは、正直惜しいくらい。
芸術系や舞踊専門の大学に比べ、今いるところははっきり言ってダンスをしたい、作りたい私にとって穴場でした。
卒業したくねーーーって今日ふと思いました。本当に。
さて、日々稽古ばっかりしてますが、いっちょまえになんとなくスランプに突入し、悶絶しております。
大抵作品の形がある程度つめめた直後で一回落ちるのだよね、その「形がつかめた」ってときの偶然が必然に変わるまでの時間。
必然にするために再考する時間。
身体の調子が毎日違うように、今作っている作品は日々の変化をもろに受けるのです。
まぁダンスの作品なんてそんなものだけど、だけど、この作品はそこが勝負どころというもっともリスキーなことをしているわけで、
というか、身体の調子が作品そのものだから、毎日違う身体で同じ作品をやろうとするのがとても難しいのです。
本当に、気合だけではどうにもならない。
むしろ気合だけでやると最悪の事態が待っている。
恒常的な強さ、日々の変化すら「肯定する」強さがなくてはならん、とわかっていてもよくわからない。
身体の美しさをちゃんとダンスで表現したいのです。
動く身体の、動きの、美しさって言葉じゃ足りないのだけど、なんて言ったらいいんだろう、それは強さ、なのかな、
スポーツ選手の動きって無駄がなくて本当にきれいで見惚れるものがあるでしょ?、あれをダンスでやりたいのです。
先日Phill Niblockという人の映像作品をたまたま一部だけど見たのです。
“The Movement of People Working”
アンデスかどこかの地方で撮影されたもので、そこで働く人の動きを何人も何人もずーっと撮影してるだけなのです。主に手元とか、引きの画とか。しかもどれも顔は映ってない。そして、持続音のノイズがずっと流れている。
おそらく全編見ると何時間にも渡るものだと思われる。
これが最高によかったのです。衝撃的。
ものすごい中毒性があって、時間感覚が歪む。退屈するとかじゃなくて、ひたすらぼーっと見ていられる。
「こういう仕事してるんだー」とか「何作ってるんだろう?」とか、そういう物語(それをいちいち考えてるとすごく疲れるように出来てるし、試したところで数十分で力尽きる筈)の一切介入する余地のない、ただひたすら運動のみをとらえた映像。
すごくシンプル。まぁ彼がミニマリストってのも無視できないけれど、でも、いつかこういうダンスの作品作ってみたいなぁと思った。
そのとき一緒に見せてもらった彼の写真がまた良くて、映っている「物」が最高に輝いていたのです、手前に映っている人間やその表情よりも、道具とかの「物」がまっさきに目に飛び込んできてぞっとするくらい。
この人いったいどういう目の作りしてんだ、と思ったし、彼が見るということが作品にそのまま表れていることが感じられて、惹きつけられたのです。
というわけでこのDVDはもうアマゾンでぽちっとします。やっぱりもう一度見たい。全部見たい。
どうみても苦行なんだけどさ。
ジェットコースターで絶叫するために金払うのと一緒。怖いもの見たさ。
話がどんどん脱線していきますが、
だってさっきから大好きなマーラーの交響曲5番を聴いているからなのですが、
そう、一応告知を、と思って書いてた。
あー。
いよいよ制作副論面倒くさくなってきたぞう。。結局。書くより踊らせて。
2012年12月21日金曜日
楽器と身体
作品にどういう音楽や音をどのように使うか、まーったく考えがあやふやしているので、
ちょっと思いつくままに書いてみることにする。
この間訊かれたのだけど、
即興で踊る(動く)ときに、何を考えて(意識して)踊ってるの?という質問。
例えば、数字を数えている。
生活の中で繰り返しの動作を行うとき、なぜか自分の中で数を数えていることがある。
結構頻繁にやるのが、手で洗顔を泡立てているときとか。あと料理してて何かを混ぜる動作のときとか。
5とか8とか10とか、そんな数を繰り返し頭の中で唱えている。
別に意味はないけれど、繰り返す数字を数えきったところでそれを止めるために。
今の作品も長く歩く動きのときがあるけれど、割と数を数えている。
それから、聴いた音楽を思い出している。
もしくは、音楽そのものを踊っているような。
数字もそうだけど、自分の中で何らかのシークエンスがあって、それは固定されたものじゃなくて非常に流動的ではあるのだけど、
動き方のテンションの度合いや動きの間合いを肯定しているのは、かつてどこかで聴いた音楽、みたいなものっだったりするような。
別に、この曲、ってのはない。
でもやっぱり最近ちゃんと聴けることが多いからクラシックの影響が大きいのかな。
楽器が発する音やその音楽は、音が連なっていく理由が音そのもの以外にないように思われるから。ということをクラシックを聴いていて思うのだけど、まぁ音楽は全般的にそうなのかもしれない。
歌詞がある曲とかだと事情は違うけれど。
それだからか、身体が楽器、みたいな身体の扱い方が最近は割と好みなのです。
楽器本体が自分の身体そのもので、その楽器から発する音が身体で言うところの運動、みたいな感じ。
ダンスするために必ずしも見立てが必要なわけではないけれど、そういう風にして考えるのは割と楽しい。
だから、私のダンスが結局音楽そのものな気がして、だから作品に使う音楽を選ぶのに苦労する
、、わけですか?ん?
音楽に踊らされてるとか、音楽で踊るとか、そういうのがそもそもあやふやになってきた。
今の作品に関しては。
だけど自分のダンスが音楽、ってのが一番しっくりするのだよね…
音が作る空間の時間と、身体が作る空間の時間を擦り合わせる、という作業ははたして…
前から思うけれど、音はそれ自体で空間や時間を作ることができるすごいものなのですよ、
その音が作品としてあるならば尚更。私はまだ、都合よく切り刻んだりして使うなんてとてもできない。コラージュのむずかしさ。
もっと音の本質がわかるようになれば、そういうこともできるのかもしれないけれど。
音と身体を擦り合わせるってのが、そもそもおかしいのか…?
楽器である身体…が鳴らす音…とスピーカーから流れる音楽…と作品の関わり
客観性という言葉があるけれど、
自分を俯瞰してみるとか、自分の見え方を考えるとか、そういう風に考えてきたけれど、
最近はなんだか、自分を観察する、という感じに流れ着いた。
自分を観察するために、「天国のおじいちゃんが」みたいな目線は必要ない、
むしろ自分の内において、自分を観察するという視点。
それは、楽器という対象を扱うように、身体という対象という対象を扱う。
まぁこんなこと数多の先達がそういうこと仰ってるのかもしれんが、
なんか自分でその感覚がつかめると何かと面白い。
何の意味も理屈もなくたって、踊り続けられるんだよね、これ。
だいたい、自分の身体が自分のすべて意のままになると思っているほうが傲慢だ、と思うのよ。
ダンサーってそういうとこ過信しちゃうじゃない?笑
そう、コントロール。そりゃコントロールして突き抜けられればそれに越したことないし、そうしたい。
が、とりあえず、私の“意”なんてのがそもそも相当しょぼくて、そんなものより、身体の方がよっぽど可能性がある。
結局なんも解決しなかったな…
音どうすりゃいいんだーーーーー
さてー稽古するか。
ちょっと思いつくままに書いてみることにする。
この間訊かれたのだけど、
即興で踊る(動く)ときに、何を考えて(意識して)踊ってるの?という質問。
例えば、数字を数えている。
生活の中で繰り返しの動作を行うとき、なぜか自分の中で数を数えていることがある。
結構頻繁にやるのが、手で洗顔を泡立てているときとか。あと料理してて何かを混ぜる動作のときとか。
5とか8とか10とか、そんな数を繰り返し頭の中で唱えている。
別に意味はないけれど、繰り返す数字を数えきったところでそれを止めるために。
今の作品も長く歩く動きのときがあるけれど、割と数を数えている。
それから、聴いた音楽を思い出している。
もしくは、音楽そのものを踊っているような。
数字もそうだけど、自分の中で何らかのシークエンスがあって、それは固定されたものじゃなくて非常に流動的ではあるのだけど、
動き方のテンションの度合いや動きの間合いを肯定しているのは、かつてどこかで聴いた音楽、みたいなものっだったりするような。
別に、この曲、ってのはない。
でもやっぱり最近ちゃんと聴けることが多いからクラシックの影響が大きいのかな。
楽器が発する音やその音楽は、音が連なっていく理由が音そのもの以外にないように思われるから。ということをクラシックを聴いていて思うのだけど、まぁ音楽は全般的にそうなのかもしれない。
歌詞がある曲とかだと事情は違うけれど。
それだからか、身体が楽器、みたいな身体の扱い方が最近は割と好みなのです。
楽器本体が自分の身体そのもので、その楽器から発する音が身体で言うところの運動、みたいな感じ。
ダンスするために必ずしも見立てが必要なわけではないけれど、そういう風にして考えるのは割と楽しい。
だから、私のダンスが結局音楽そのものな気がして、だから作品に使う音楽を選ぶのに苦労する
、、わけですか?ん?
音楽に踊らされてるとか、音楽で踊るとか、そういうのがそもそもあやふやになってきた。
今の作品に関しては。
だけど自分のダンスが音楽、ってのが一番しっくりするのだよね…
音が作る空間の時間と、身体が作る空間の時間を擦り合わせる、という作業ははたして…
前から思うけれど、音はそれ自体で空間や時間を作ることができるすごいものなのですよ、
その音が作品としてあるならば尚更。私はまだ、都合よく切り刻んだりして使うなんてとてもできない。コラージュのむずかしさ。
もっと音の本質がわかるようになれば、そういうこともできるのかもしれないけれど。
音と身体を擦り合わせるってのが、そもそもおかしいのか…?
楽器である身体…が鳴らす音…とスピーカーから流れる音楽…と作品の関わり
客観性という言葉があるけれど、
自分を俯瞰してみるとか、自分の見え方を考えるとか、そういう風に考えてきたけれど、
最近はなんだか、自分を観察する、という感じに流れ着いた。
自分を観察するために、「天国のおじいちゃんが」みたいな目線は必要ない、
むしろ自分の内において、自分を観察するという視点。
それは、楽器という対象を扱うように、身体という対象という対象を扱う。
まぁこんなこと数多の先達がそういうこと仰ってるのかもしれんが、
なんか自分でその感覚がつかめると何かと面白い。
何の意味も理屈もなくたって、踊り続けられるんだよね、これ。
だいたい、自分の身体が自分のすべて意のままになると思っているほうが傲慢だ、と思うのよ。
ダンサーってそういうとこ過信しちゃうじゃない?笑
そう、コントロール。そりゃコントロールして突き抜けられればそれに越したことないし、そうしたい。
が、とりあえず、私の“意”なんてのがそもそも相当しょぼくて、そんなものより、身体の方がよっぽど可能性がある。
結局なんも解決しなかったな…
音どうすりゃいいんだーーーーー
さてー稽古するか。
2012年12月19日水曜日
今作っている作品のこと
今私が作っている作品は、『slur』といいます。
slurは"スラー"と読みます。slurは音楽の楽譜に使われている音符と音符の上に書かれている弧線のことで、複数の音符が滑らかに演奏されるようにと指示する記号のこと、だったと思います。
次に作品を作るときは、いつくかのシーンがある作品にしよう、と前の作品を上演した後に思って、それからぼんやりと作品について考えていました。
そしてそのいくつかのシーンは、こちらが指定する物語によって進行するのではなく、見る人があれこれ想像することによってつながれるようにしよう、と。
必ずしも進行する物語ではなく、想像力によって過去へも未来へも進む、飛躍する、時間の感覚が作品に流れるように。
slur、つなぐものは、作品を体験する人の中に生まれるものであるということ。
slurに込めたもう一つの考えがあって、
それは、私の中でつながりが意識されることで動く身体、ということについて。
最近自分のソロ作品を作るときは大抵振付は即興的なのだけど、それは私の中でダンスというものの考え方が大きく変わったということによるのです。
何度も何度も試したのだけど、ソロの場合、私はどうも、自分で自分の動きをきめる振付というものが上手く出来ない。
他の人の作品で作者が振り付けた振りとか、私が振付したユニゾンとかは全く問題なく踊れるのだけど、自分が振付者で自分一人が踊るときの違和感が上手く払拭できない。自由でないと感じてしまう。
これはどうもちょっとした欠陥だとは思うのだけど(自分の身体を客観的に見てシステム化して動かすのが苦手ってこと、大問題だ)、それよりもソロの作品で自分自身のダンスがどういうものか見つけるのが楽しくなってしまった。
いろんな動きの中に、ダンスであるものとダンスでないものの区別はある?
という質問を全ての踊る人に訊いてみたい。
私は、動きの形にダンスがあるんじゃなくて、動き方にダンスがあるんだと思う。
最も無駄がなくスマートで、それはすなわち自然に行われるからこそ強度を持つ人間の動きは美しいんだと思うんだよね、
ダンスが例え生活の動きからしたら無駄で過剰な動きだとしても、そのダンスが最も自然であるがままの存在として美しさを持つことが出来ると思う。
ダンスは運動の美しさを指す。今消えてしまうものの軌道や残像の強度。それはあるがままの自然であること。
みたいなことが、私の今のダンスに対する考え方。全く言葉が足りないのだけど。
そういうダンスを自分の身体で実現しようと思うとき、身体の中のつながりが最も意識されるべきだと思うのです。
身体の中のつながり、それは感じることと感じることのつながり、関係です。
水を入れた水槽を持ち上げて傾けると、当たり前だけど、移動する水。
それくらいシンプルなこと、そういう一番単純な移動、それでしかない運動、最も単純な自然。そういうことを逃さないように動くのが目標。一番近いのにともすると一番遠い身体という自然に耳を傾けること。
動きのほうが結局話が長くなってしまった、
作品についていろいろ考えるのけれど、私の考えるダンスがあっても、そのダンスがじゃあなにを表すかってのはもしかして別の問題なのかも知れないと思ったりして、
最初に書いたように作品を見る人の想像力だよねっていう私は少し無責任なのかも知れないというのが今ひとつ詰めが足りないと思われるところ。
つながりってものがどういうものなのか、それを作品が表す必要はある気がしている。そしてそれを表す方法も詰める必要があるね、媚びるようなやり方はしたくないけれど。
まぁ、今まで、テーマから媚びるような展開で散々作品作ったことのある身としては、ちょっと二の足踏んでいる。
どうも私は極端だから、適度な割合ってのが最も難関。
まだまだだ、
少なくとも、私だけは、私の作品を愛していると言えるように。それだけは。だから、もっと。
slurは"スラー"と読みます。slurは音楽の楽譜に使われている音符と音符の上に書かれている弧線のことで、複数の音符が滑らかに演奏されるようにと指示する記号のこと、だったと思います。
次に作品を作るときは、いつくかのシーンがある作品にしよう、と前の作品を上演した後に思って、それからぼんやりと作品について考えていました。
そしてそのいくつかのシーンは、こちらが指定する物語によって進行するのではなく、見る人があれこれ想像することによってつながれるようにしよう、と。
必ずしも進行する物語ではなく、想像力によって過去へも未来へも進む、飛躍する、時間の感覚が作品に流れるように。
slur、つなぐものは、作品を体験する人の中に生まれるものであるということ。
slurに込めたもう一つの考えがあって、
それは、私の中でつながりが意識されることで動く身体、ということについて。
最近自分のソロ作品を作るときは大抵振付は即興的なのだけど、それは私の中でダンスというものの考え方が大きく変わったということによるのです。
何度も何度も試したのだけど、ソロの場合、私はどうも、自分で自分の動きをきめる振付というものが上手く出来ない。
他の人の作品で作者が振り付けた振りとか、私が振付したユニゾンとかは全く問題なく踊れるのだけど、自分が振付者で自分一人が踊るときの違和感が上手く払拭できない。自由でないと感じてしまう。
これはどうもちょっとした欠陥だとは思うのだけど(自分の身体を客観的に見てシステム化して動かすのが苦手ってこと、大問題だ)、それよりもソロの作品で自分自身のダンスがどういうものか見つけるのが楽しくなってしまった。
いろんな動きの中に、ダンスであるものとダンスでないものの区別はある?
という質問を全ての踊る人に訊いてみたい。
私は、動きの形にダンスがあるんじゃなくて、動き方にダンスがあるんだと思う。
最も無駄がなくスマートで、それはすなわち自然に行われるからこそ強度を持つ人間の動きは美しいんだと思うんだよね、
ダンスが例え生活の動きからしたら無駄で過剰な動きだとしても、そのダンスが最も自然であるがままの存在として美しさを持つことが出来ると思う。
ダンスは運動の美しさを指す。今消えてしまうものの軌道や残像の強度。それはあるがままの自然であること。
みたいなことが、私の今のダンスに対する考え方。全く言葉が足りないのだけど。
そういうダンスを自分の身体で実現しようと思うとき、身体の中のつながりが最も意識されるべきだと思うのです。
身体の中のつながり、それは感じることと感じることのつながり、関係です。
水を入れた水槽を持ち上げて傾けると、当たり前だけど、移動する水。
それくらいシンプルなこと、そういう一番単純な移動、それでしかない運動、最も単純な自然。そういうことを逃さないように動くのが目標。一番近いのにともすると一番遠い身体という自然に耳を傾けること。
動きのほうが結局話が長くなってしまった、
作品についていろいろ考えるのけれど、私の考えるダンスがあっても、そのダンスがじゃあなにを表すかってのはもしかして別の問題なのかも知れないと思ったりして、
最初に書いたように作品を見る人の想像力だよねっていう私は少し無責任なのかも知れないというのが今ひとつ詰めが足りないと思われるところ。
つながりってものがどういうものなのか、それを作品が表す必要はある気がしている。そしてそれを表す方法も詰める必要があるね、媚びるようなやり方はしたくないけれど。
まぁ、今まで、テーマから媚びるような展開で散々作品作ったことのある身としては、ちょっと二の足踏んでいる。
どうも私は極端だから、適度な割合ってのが最も難関。
まだまだだ、
少なくとも、私だけは、私の作品を愛していると言えるように。それだけは。だから、もっと。
2012年12月15日土曜日
art
今ふと写真フォルダを見直していて、
ベルリンで出会った大好きな絵のことを思い出した。
前にも書いたんだっけ?
Anselm Kieferの絵。
こないだ観た、Phill Niblockの映像
意味は分からないけど、ドゥルーズの著書
仕事ってこと忘れた、マーラーの交響曲5番
また行かなきゃと思ってる、Ernesto Netoの彫刻
今年感動したもの、忘れたくないもの
を、ふと思い出す。
もっとあるけど。
舞台は日本でも海外でも見れた。
刺激的な作品がたくさんあって書き切れない。
今また、自分の作品を作っていて、表現することや芸術作品を作ることがどれだけ難しいことか、やたら考える。
Kieferの絵がどうしてそんなに感動したかって、「芸術ってこういう事だよな」っていうまさにそのままを見つけられたからで、初めて絵を見て泣きそうになった。
他人様の作品に自分のノスタルジーを重ねるのはナンセンスだし全く好きじゃない、
だけど、
小さい頃、お父さんにしばしば美術館に連れて行ってもらっては、わけも分からない作品を前にしてあれこれ考えたこと、
そこで何を見て何を考えていたかより、ただ普遍的な芸術の何かを感じていたのかもしれない。
何より小さい頃の私は、芸術家に憧れていたということ、
まぁ大人になればなるほど、
それがどんだけ阿呆なことかと思い知る。
いい意味で諦めている、
そんなに大そうなことを表現することなぞ出来やしない、
だけどちょっとくらい、私にもやらせてくれよ。
私が表現したいのは本当に、
些細なことなんだよね。
ベルリンで出会った大好きな絵のことを思い出した。
前にも書いたんだっけ?
Anselm Kieferの絵。
こないだ観た、Phill Niblockの映像
意味は分からないけど、ドゥルーズの著書
仕事ってこと忘れた、マーラーの交響曲5番
また行かなきゃと思ってる、Ernesto Netoの彫刻
今年感動したもの、忘れたくないもの
を、ふと思い出す。
もっとあるけど。
舞台は日本でも海外でも見れた。
刺激的な作品がたくさんあって書き切れない。
今また、自分の作品を作っていて、表現することや芸術作品を作ることがどれだけ難しいことか、やたら考える。
Kieferの絵がどうしてそんなに感動したかって、「芸術ってこういう事だよな」っていうまさにそのままを見つけられたからで、初めて絵を見て泣きそうになった。
他人様の作品に自分のノスタルジーを重ねるのはナンセンスだし全く好きじゃない、
だけど、
小さい頃、お父さんにしばしば美術館に連れて行ってもらっては、わけも分からない作品を前にしてあれこれ考えたこと、
そこで何を見て何を考えていたかより、ただ普遍的な芸術の何かを感じていたのかもしれない。
何より小さい頃の私は、芸術家に憧れていたということ、
まぁ大人になればなるほど、
それがどんだけ阿呆なことかと思い知る。
いい意味で諦めている、
そんなに大そうなことを表現することなぞ出来やしない、
だけどちょっとくらい、私にもやらせてくれよ。
私が表現したいのは本当に、
些細なことなんだよね。
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