2013年5月14日火曜日

雑記「変化」

最近、植物を育てたり切り花を貰ってきたりしていて、現在部屋が軽く植物園みたいになっている。

土に植えている葉っぱ系植物の方が地味だけど成長がポジティヴで良い、切り花は綺麗だけど枯れてゆくばかり。
でもまだ蕾の多かった大量の百合の花は酔いそうなくらいの匂いをワンルームに撒き散らしていて、部屋に帰る度懐かしき発表会気分が味わえる。

植物のみなさんには特に話しかけたりはしない。物言わぬ相手に話すほど飢えてはいない。というかそもそも話さぬ相手に話す気が起きない。
しかし観察していると毎日ちょっとずつ変化していて面白い。ここ数日はニオイシュロランさんと茗荷さんの寄せ植えがデットヒートを繰り広げている。狭い鉢ですまんよ。



美術モデルとしてお世話になっている(私、ただ話しに行ってご飯貰うだけ)彫刻家さん、最近作風を変えようと試みているらしく粘土相手に試行錯誤している様子を見ていると面白い。
先週、割と完成形まで持っていった私の形を4〜5体見て、針金の骨組みまで粘土が剥がされるのを2度見た。

長らく作品を作っている中で何時の間にやら出来映えを気にして小綺麗な感じになっていたものを、血気盛んで荒々しかった昔の作風に戻したいらしい。
たくさん作品を作ってきて今、何も考えずにつくっていた頃の作風に近づけるとはどの様な作業なのか。
毎度のことだけど、出来上がるのが楽しみだ。



最近、母が変わった。
無論、戸籍などの話ではなく、母の言うことや考えることが以前とは少し違うように感じるということだ。既に7年離れて暮らしていて勿論私自身が変わったことにも依るだろうけれど、それまでは私にとって保護者としての"母親"だった人が、一人のおばさんとしてそこに居るように感じられるのだ。しかしよく云うところの、"母親と友達感覚"とは全く違うことは前置きしておく(そもそも家族は友達ではない)。
このことを悲観したいのではなく、むしろかなり面白いと思っている。母、観察してて大変興味深い。

思い返せば事の発端は、無趣味を豪語する彼女がヨガを始めたことだった気がするのだ。
自分の身体で感じることや身体の変化を私に話す様になり、次第に嫌なことは嫌だと言って避ける様になり、代わりに本を読むようになり、私が東京で連れ回しては見聞きさせる音楽や美術に興味を示すようになった。
アピール上手の弟が課題で作る作品をせっせと母にメールで送りつけていることも手伝ってか、それまでは「よく分からない」と一蹴していた芸術作品等々に対しても今は聞けば感想を言う。
先日は言葉の使い方すら変わっていて、びっくりした。

今後母は一体どうなってゆくのか。



永井荷風をしばらく読んでいて、もう一冊行こうかと思う前に口直しで文庫版のつげ義春『義男の青春・別離』を見つけたので昨日一気に読んでみた。
そもそもつげ義春で口直しってのが間違いだったのだが、案の定非常にぐったりだ。挙句、今朝は非情に胸くそ悪い夢まで見る始末。

いいかげん捨ててしまいたい感情をわざわざ掘り起こされるようなシチュエーション、しかもつげ義春風。最悪。
感情という最も主観的なものを、引きで見られるほど私は出来た人間ではない。変わりたいのに、なかなか思うようには変わらない。


さあ、夏が来ることになった

2013年4月30日火曜日

無題

「…ついでにいっておくが、ハイネは、正確な自叙伝なんてまずありっこない、人間は自分自身のことでは必ず嘘をつくものだ、と言っている。彼の意見によると、たとえばルソーはその懺悔録のなかで、徹頭徹尾、自己中傷をやっているし、見栄から計画的な嘘までついている、ということだ。ぼくは、ハイネが正しいと思う。ぼくにはよくわかるつもりだが、ときには、ただただ虚栄のためだけに、やりもしないいくつもの犯罪をやったように言いふらすこともあるものだ。それから、これがどういう種類の虚栄であるかも、ちゃんと心得ているつもりだ。しかし、ハイネが問題にしたのは、公衆の面前で懺悔した人間のことである。ところがぼくは、ただ自分ひとりのためだけに書いている。そして、きっぱりと断言しておくが、ぼくがまるで読者に語りかけるような調子で書いているのも、それはただ外見だけの話で、そのほうが書きやすいからにすぎない。これは形式、空っぽの形式だけであって、ぼくに読者などあろうはずがないのだ。このことはもう明言しておいた。
ぼくはこの手記の体裁については何物にも拘束されたくない。順序や系統も問題にしない。思いつくままに書くだけだ。
もっとも、こんなことを言うと、その言葉尻をとられて、諸君から質問を受けるかもしれない。もしきみがほんとうに読者を予想していないのなら、順序や系統も問題にしないとか、思いつくままに書くとか、そんな申し合わせをわざわざ自分自身とやっているのはどういうわけだ、しかも紙の上で? いったい何のための言いわけだ? 何のためのわび口上だ?
〈いや、実はそこのところだが〉とぼくは答える。
とはいえ、ここには複雑な心理があるのだ。もしかしたら、ぼくがたんに臆病者だということになるかもしれないし、また、もしかしたら、この手記を書くにあたって、できるだけ羽目をはずすまいために、わざわざ自分から読者を想定しているのかもしれない。そんな理由なら、何千となくある。
だが、もうひとつ、こういうこともある。いったいぼくは何のために、なんのつもりで書く気になどなったのか? もし読者のためでないとしたら、頭のなかで思い起こすだけで、何も紙に移すまでのことはないではないか?
なるほど、そのとおりだ。だが、紙に書くと、何かこうぐっと荘重になってくるということもある。そうすると、説得力が増すようだし、自分に対してもより批判的になれるし、うまい言葉も浮かんでくるというものだ。そのほかに、手記を書くことで、実際に気持が軽くなるということがある。たとえば、きょうなど、ぼくはある遠い思い出のためにとりわけ気持が滅入っている。これはもう数日前からまざまざと思い起こされて、それ以来、まるでいまわしい音楽のメロディーかなんぞのように、頭にこびりついて離れようとしないのだ。ところが、これはどうしてもふり切ってしまわなければならないものである。こうした思い出がぼくには数百もあるが、その数百のなかから、時に応じてどれか一つがひょいと浮かびだし、ぼくの気持を滅入らせるのだ。どういうわけかぼくは、それを手記に書いてしまえば、それから逃れられるような気がしている。どうして試してみてはいけないのだろう?」
ドストエフスキー『地下室の手記』



「読者の望み、それは自分を読むことだ。自分がよしとするものを読み、これなら自分にも書けたのになどと考える。また彼は、その本が自分の場を奪ったことや、自分では語るすべも知らなかったことを語ったとして恨む。自分ならもっと巧みに語れるのにと思いさえもする。
本というものはぼくらにとって重要になればなるほど、その読み方は難しくなる。ぼくらの本質はその中に滑り込み、ぼくらの用途に合わせてその本を考えてしまうからだ。」

「ぼくらは誰もが病人で、しかもぼくらの病気を扱った本しか読むすべを知らない。それが恋愛を扱った本の成功となる。だれでも自分だけが恋愛を経験する唯一の人間だと思っているからだ。彼はこう考える。『この本はぼくに宛てて書かれている。他の誰にこれが理解できるだろう。』複数の男性が一人の女を愛しており、自分たちもそれぞれ彼女から愛されていると信じこんでいる。そして皆がその本を彼女に読ませようとあせる。はたして彼女は『この本はなんて素敵なの。』と言う。だが、彼女は別の男を愛していてそう言っているのだ。」
ジャン・コクトー『ぼく自身あるいは困難な存在』ー読書について



「主観的であるとは、執筆者が、文章の意味を自分だけで理解して満足していることである。読者は読者なりの理解のしかたで読んでも結構という態度である。つまり執筆者は、あたかも独語調で読者を無視してものを書く。だがペンを執る以上は対話調に書くべきであろう。もっとも対話といってもだれも問い返してくる者はいないのであるから、それだけいっそう明瞭に表現する義務があるのはもちろんである。だからこそ文体が主観的になるのを避け、つとめて客観的にすべきである。それには読者をあらぬ方向に走らせぬ文章、著者が考えたことをそのまま読者にも考えさせる迫力ある文章を作らなければならない。だがこうした文章をものするのは、思想が重量の法則に従うという事実を常に銘記している著者だけであろう。つまり思想というものは、頭から紙に向かうのは容易であるが、逆に紙から頭に向かうのは大変なことで、その場合には手持ちのあらゆる手段に助けを求めなければならないのである。さてこのような法則に従った文章ができあがると、そこに記された言葉は、完成した一枚の油絵のように、客観的に作用する。これに反して、主観的な文体の働きは、あやふやで、壁に付着した染みにも劣る。染みならば偶然想像力を刺激されて、そこにある図柄を見る人が一人くらいはいるにしても、普通の人には要するにただ染みを見るにすぎないのである。」
ショウペンハウエル『読書について』



「『私は真実のみを、血まなこで、追いかけました。私は、いま真実に追いつきました。私は追い越しました。そうして、私はまだ走っています。真実は、いま、私の背後を走っているようです。笑い話にもなりません。』」
太宰治『もの思う葦』ー或るひとりの男の精進について

2013年4月26日金曜日

シャワー浴びながら考えたこと

シャワー浴びながら考えたこと
を文字にしてみる。


東京都現代美術館に、フランシス・アリスという現代美術家の展覧会を見に行った。
彼はアクションの記録映像からインスタレーション、絵画の作品など、色々な作品を作っている作家で、最近広く認知されるようになってきている人だ。
「何にもならないこともしてみる」というコンセプトで、一日中氷の塊を押しながら街中歩いてみるとか、ビデオカメラを持って竜巻の中に突入するとか、とにかく無意味な(私にとって無意味であることは重要だ)アクションを作品化しているものが印象的だった。

展示の最後に、彼の活動と周辺の人々へのインタビューを収めたドキュメンタリー映像が流れていて、あるアートディレクターの言っていた事がとても興味深かった。
かいつまんで言うと、芸術にとって重要なのは作品だけであって、作者のパーソナリティや個人的な物語ではなく、只そこにある作品が面白いかどうか、それだけだと、そして面白い作品とは社会に変化をもたらせるかどうかその一点のみにかかっているということだった。

展示スペースを出て、最初に目に飛び込んできたものを見て、なんとも不思議な感覚になった。
そこには、美術館の隣の公園で近所の中学か高校かサッカー部の男の子たちが二人一組横一列になって部活前のアップをしている風景があった。規則的にならぶ木々の間から規則的にならぶ人々が見えたその風景はまるで、"作品"のように見えた、気がした。


社会に変化をもたらす、とは、つまり人々の感覚を変えるということだ(ここに善悪の問題は関係ない)。人の感覚を変えること、それが芸術の面白さのうちの一つだと思っている。
そして、新しく生まれる芸術作品は常に、境界からはみ出したものだ。それは未来を映し出す(と記憶しているのだが)。



今、私が勉強して習得しようとしている事は、より直接的に人の身体の感覚を変えるための言語だ。

人の身体の感覚を変えたい。変えられる。自分自身、芸術作品を通して感覚が変わるのを知っている。
そして、自分のダンスの方法でほんの少しだけ自分の感覚が変わる/鋭くなるのを知っている。
変わることは明らかに別様になることだけではなく、より精密になるということでもあるかもしれない。しかし、二つの状態を見比べられる、という至極単純な理由で、客観視できることと似ているのかもしれない(違うかもしれない)。

他人から見れば些細なことかもしれないが、私は自分自身を如何様にも変えられると思っているし、変化せざるを得ないと思っている。
私は小さい頃からずっと、他人が私に対する特定のイメージを押し付けてくるのを最高に気持ち悪いと感じて、常にそこから抜け出ることを考えている。矛盾するように聞こえるかもしれないが、だからこそ他人から押し付けられるイメージを見せかけで演じる事ができるんじゃないかと思っている(下らない自信と全くの自己満足だが)。
それでも、演じているとたかをくくっていても、それが何時の間にか自分自身の感覚や意識、思考として染み付いていくのは否定出来ない。だけど、だからこそ、また変わるとこができる。
逆に変わらないことといえば、自分の身体が老いてゆくこと、とかかしら。


むしろよく知らないのは社会の方だったりもする。それは今まで蔑ろにしてきたもの。
最近よく近所の小さい本屋を巡回してみる。どういう事に多くの人の興味が集まっているのか知りたくなったから。小さい本屋だからこそ、よく売れる本しか置かない。下らないと思っていた本や雑誌を目に付くものから立ち読みしてみる。


自分の身体で起こり得る感覚の変化を他人の身体においてもたらそうとする事は、ひょっとするととても恐ろしい欲だとも思う。身体の感覚が変われば、思想や意識すら変わるかもしれない。ともすると、そのやり方は宗教的ですらある(宗教が悪いものとは思わないし、宗教は文化の根幹になる)と思う。柔らかく言えば、教育的だ。


直接的に他人の身体の感覚を変えることは、私にとっての小さな芸術としての試みであり、後にやろうとしていることの下地だと思っている。
少なくとも、私はすでにある"芸術"の評価軸には絶対に乗りたくない。



水が溢れる蛇口からも、捻れば水滴が垂れるだけ。
…まとめにもなってない。

2013年4月10日水曜日

ダンスの感想、理想

少し前に私が即興で踊ったのを見て下さった方から、お手紙を頂いた。


その方は今まで、ダンス自体目にすることがあまりなく、どう述べれば良いか分からないけれどと前置きしながらも、見た時の感想やその後思ったことをとても丁寧に文章にまとめてくださった。

私がその手紙を受け取って何より嬉しかったのは、内容も去ることながら、大分日が経っているにも関わらずその時の感覚を思い出しながら手紙を書いて下さったその方の熱意だった。

ダンスのような、そのときその場で行われるものは物質としての形に残るものではないから、当然終われば形なく消えてしまう。
クサイ言い方かもしれないけれど、ダンスがどこに残るかといえば、見てくれた人の記憶の中のみ。
だから、その方が記憶の中に私のダンスを残しておいてくれたことが単純に嬉しかった。
私にも、忘れられない感覚を味わった、今でもはっきりと思い出せるダンスの作品が幾つかある。



ダンスのことはあまり詳しくないから、と尻込みしてしまう観客に対して、それでもいいから何か感想を言ってくれ、というのはダンサーの傲慢この上ないと常々思っている。もし、ダンスがそんなところにしかないのなら、いつまでも"理解されない"ダンスなんだと思う。

精通しているわけではない人が、ダンス作品を目にして非常に興奮して感想を言っている姿を見たことがあるだろうか。
自分がダンスにどれだけ詳しいとしても、その人の感覚には絶対に敵わないと思わされる。一流の観客とでも言うべき人が、居る。
そして一流の観客の体験したものが、一流の観客を生み出すものが、本当のダンスなんだと思っている。

私自身は、その感覚を、音楽を通して知っている。


ダンスは間違いなく、"難しいもの"ではない。"理解されたい"と思って踊ることすら、ある意味的外れだと最近気づいた。
でも、"難しいものじゃないんだよ"というダンスを踊ることが、そんなことどうでも良いと思わせることが出来るだけのダンスを踊ることが最も難しい。
自分のやっていることに共感してくれる人を増やしたいんじゃない。人を惹きつけるに十分なくらい、自分のやっていることを高めたい。


そんなこんなで、自分のダンスが、世の中にどうやって在るのが良いのかということを最近よく考える。
そういうことはつまるところ自分のダンスそのもの。

強がりだとは分かっていても、誰かに与えられる価値に縋る必要はないと思っていたい。
何に価値を見出すか、何処に価値を見出すか。自身の内に見出された価値が結局、ダンスそのものだと思う。


世間知らずの理想論ってことで結構よ。たぶん、そんなもんだよ。
私にとって、ダンスのことだけは、それくらいで良いです。

2013年4月2日火曜日

情熱ということについて(岡潔・小林秀雄『人間の建設』、フランシス・ベーコ ン展)

岡潔・小林秀雄『人間の建設』(新潮文庫)

最近読んだもののうち、数学者の岡潔と批評家の小林秀雄が対談しているものが活字になった『人間の建設』という本がとても面白かった。
対談自体は1965年と少し昔のものだけれど。

岡潔の言葉が興味深い。特に数学における知性と感情の関係についての話は数学の枠をはみ出した感性で語られていて、数学をよく知らない私にとっても数学の面白さを感じさせる。

"抽象的になった数学"、もともと抽象的とも言える数学が、内容を失ったとき、いよいよ単なる観念になってしまう。内容のある抽象的な観念は往々にして抽象的とは感じないものだが、実在を失って空疎な内容しか持つことの出来ない観念は抽象的になってしまうということ。

"知性と感情の関係"、知性や意志には情を説得する力はなく、しかし心が本当に納得するためにはどうしても感情的な同意が必要。感情といった類のものとは最もかけ離れた場所にあるように見える数学の世界において、実は感情が納得しなければ数学は成立しないということが研究で実証された。数学の歴史が四千年あって、最近初めてそれが分かったのだそう。

特に興味を引かれた二つの項目。
(それにしても、数学者っていったい何をしている人なのだろうか…?今まで数学者には会ったことない。)

全く意味がわからない数学の言葉を使っていても、岡潔の言葉は何故かすっと(なんとなく)理解できるように感じてしまう不思議。

「人は記述された全部をきくのではなく、そこにあらわれている心の動きを見るのだから、わからん字が混ざっていてもわかると思います。」(岡・124頁)

そう自覚している人だからこそ、言葉の使い方や発し方には気を配っているんだろうなと思う。そのような点で小林秀雄の批評の在り方と通じるところが見受けられて、分野が全く違う2人ではあるけれどその会話は円滑で淀みなく、むしろ普遍性に富んでいる。
つまるところ2人が話しているのは"人間の建設"について。


*****


フランシス・ベーコン展 @国立近代美術館

展示の中には、今まで参考資料の図版などで何度も目にしている作品も幾つかあった。一見しただけでは一体何を描いているのか分からずに混乱した、ベーコンの絵を最初に図版で見たときのあの衝撃は忘れられない。その衝撃は美術館で実物を前にしてこみ上げることは無かったのだが、改めてベーコンの絵は一体何を描いているのか考えてしまう。

先に感想をまとめると、展覧会としてはあまり完成度が高いとは思えなかった。
これまで日本ではベーコンの展覧会自体が珍しいのだから、仕方ないとは思う。集められた作品の数が単純に少ないし、もっと各セクションが深く捉えられるように展示してほしかった。
そして展覧会全体を通して、あくまでも主観的な感想ではあるが、身体という言葉の扱い方に疑問が残る。


一つ、実際に作品を目にして明らかに私が感じたことは、ベーコンの絵は常に身体がテーマになっているが、身体を描こうとしているわけではないということ、さらにキャンバスに描かれているのは身体ではないということだ。
私がベーコンの作品を前にして目を奪われるのは、筆跡だった。身体であると分かるものを構成する絵の具の塊、筆の動きの痕跡。それは絵画として描かれたものだ。

だからこそ、ベーコンの作品から、ある種のポーズを読み取ること自体が無意味な行為(解釈)だと感じるのだ。
確かにベーコンの絵を見て一番興味が惹きつけられるのは、歪められ引き伸ばされ再構成されている身体の姿だ。しかし、例えばベーコンにとって身体がそのように見えるからそう描かれている、などという物語的想像がどれほど作品にとって必要なのかと考える。

私はそもそも、作品を"理解する"ということに興味がない。それよりも、ベーコンがキャンバスに描こうとしたもの、そして結果的にキャンバスに描かれたものがそこにあるだけで十分であり、只、ベーコンがキャンバスに向かう圧倒的な情熱を感じるためにもっと作品を見たいと感じるのだ。


*****


結局、情熱というものがあぶり出すものにこそ心預けられるのかなと思う。
よく母がいう、"入り込んじゃってる人"は見ていて大変惹きつけられるものがある。例えば、音楽の演奏家とか。

情熱ということについては、岡潔と小林秀雄も語っていた。

小林秀雄の文章の読み方はとても好きだ。文章から為人を読みとるような感じのもの。それはまず、情熱を感じ取ることを頼りにしている気がする。
いつだって、情熱は、伝えようとする内容より少し手前にあるものだ。


「言い表しにくいことを言って、聞いてもらいたいというときには、人は熱心になる、それは情熱なのです。そして、ある情緒が起るについて、それはこういうものだという。それを直観といっておるのです。そして直観と情熱があればやるし、同感すれば読むし、そういうものがなければ見向きもしない。そういう人を私は詩人といい、それ以外の人を俗世界の人ともいっておるのです。」(岡・72頁)

2013年3月20日水曜日

屁理屈の一分

纏まりのない文章をひとつ。


ここ一、二ヶ月、非常に穏やかな気持ちで過ごしてる。

それは感情が凪いでいるからなのだが、まぁこれが、全くもって生きている感覚が無いという問題でもありまして、困ったもので。
感情のうねりで気持ち悪いくらい考え事して、ギチギチの嫉妬や自己嫌悪みたいなものが渦巻いているほうが、残念ながら生きている感覚はあるのです。そりゃもう残念以外の何ものでもありません。


僧侶のように穏やかな気持ちで、ぼんやりとこれからのことを色々と考えました。
同時に、「何もしない時間」についても考えました。いよいよ悟りの道が開けそうです。

それなのに。先日久方ぶりにダンスのことを本気で考え始めるや否や、頭が異様に冴えてくるのが分かって、さて、どうしたものか。
ダンスのこと、身体のこと、表現のこと、そういうことを考えるのがやっぱり好きなのです。何より楽しいのです。アドレナリンみたいなものが分泌されます、どうしてこうなっちゃったのですか。

しかしまぁなんと言いますか、そういうことをいくら考えたって、所詮お金にはならないわけですよ、

…ひとつ、お金になるかならないかという基準は、多くの人の人生において正解/不正解の線引きをするものなのやも知れません。
が、正解や不正解なんて往々にしてどうでもいいものでして、大事なのは勝つか負けるかの話です。
誰と戦っているかといえば、他ならぬ自分です。

昔宝塚を受験しました。
中学生の私が考え得る、ダンスや舞台に関わりながら金を稼ぐ方法のひとつでした。
まぁ見事に落ちたわけですが、先日ヨガのインストラクターをしている宝塚出身の人を見かけて、着地点は同じだったのかと一人納得してしまいました。
その時から今まで、考えていることは結局同じです。むしろ学歴が付いたお陰で、ややこしい感じに箔が付きました。肩書きすらあります。


器用貧乏な自分を追い詰める為、「無駄なことはしたく無い」と日々心の中で唱え続けております。
次に「無駄ってなんだよ…」と考えております。
そして着々と悟りの道は整地されています。

そういうことしてるから、「そんなことはどうでもいいから踊れ」と思われてしまうのでしょう、
今までにもいろんな人に散々そのようなことは言われましたが、残念ながら考え事するのも私の身体の機能の一部なので仕方ないのです。
ただ単純に踊れるってだけの人間ならどれだけ良かったか。


ダンスや舞台、芸術すべては結局多くの人にとって無駄なものです。
無駄じゃない、必要なものだ!と言ったって仕様がないのです、だって間違いなく無駄だもん。

しかしその逆に必要なものはどれだけ本当に必要なものなのか考えてると、芸術はむしろはじめから無駄なものってだけ自由でマシだと思うのだけど、どう?
屁理屈だろうか。屁理屈だな。



今日の気候は、私が卒業出来なかった記念の傷心旅行に行った去年の5月の欧州の気候によく似ています。
あのときも、一日一回舞台を観る以外の時間は何もしない時間だったなと思い出します。毎日同じ街をぼーっと歩いたりしてた。


ダンスや舞台のことがなければ、私は本当に亀みたいな生活をしてたと思う。ダンスがあるせいで、私の生活はむしろどうでもいいことだらけになってしまったのだよ。

踊りたい。負けたくない。

2013年3月10日日曜日

subjective

先日、仲良くしてくれているおじさんを囲んで飲み会が開催された。

この方は、それはもう輝かしい職歴とセンスで舞台や音楽などの文化芸術事業を切り盛りしている方だけど、相当気さくなおじさんで、話していてとても楽しい。
あれをするといい、これをしたらいいと好き勝手に若造の私たちに人生の指針を示して楽しんでいる。
私も、映画俳優になれだの億万長者と結婚しろだの色々言われた。

無責任で、だけど誰よりも本人が楽しそうに話すから、こちらも話を聞くのが楽しい。


「人に何かを教えるということは、宗教とそんなに変わらないものよ」と言ったのはフリーランスのメイクの先生をしている職場の先輩だった。
初対面の人に自分の伝えたいことを伝え理解してもらう為には、まずは出来るだけ短い時間で人の心を掴めるかどうかにかかっているという。教える技術とは、方法を知っていることはもとより、その方法が優れていることを伝えられるかどうか、というところにある気がする。
相手の知らないことをこちらが教えるとき、極論で言えば相手にそれが嘘か本当かを考えさせる必要はない。必要はなのは、こちらの言うことを信じさせる力であり、相手がこちらに開き身を委ねたとき、相手の内において"真実"が芽吹くのだろう。それは確かに、宗教と似たようなものがある。

「この人の言うことはなんだか素敵なことかも知れない」と思わせるものは、何もその人の言うこと、その内容のところに全てがあるわけではない。
説得力。それは立場や役割が理由となっていることもあるけれど、大方はその人から醸し出される雰囲気みたいなものやその人が経験してきたものが重要な要素だったりする。そして結果的にその様なものは言葉にも反映されているだろう。


当たり前のことだけれど、物事が嘘か本当かということと、信じるか信じないかということはイコールではない。

言うことに芯が通っている人は元より、どれだけ移り気が激しい相手と分かっていても、本心からそう感じて(それは言葉の文字以外の部分に表れる)言っていることは、とりあえず信じてみる。とりあえず荒唐無稽で無責任で愉快な大人の発言は、疑わず信じることにしている。
嘘か本当かはお家に帰って1人で考えればよいし、私の場合はお家に帰ったら忘れている。
リセットする力はおそらく多分相当なものだ。幼い頃正義感の強かった私は割と人の言うことに振り回されてきて無駄に鍛錬を積んでいる自負がある。


それにしても、何が嘘で何が本当かをきちんと客観的に見極められる人がどれだけいるだろうか。中途半端な客観視に振り回される位なら、あくまでも主観のみで考える方が大いに結構。ただしその主観は限りなく純粋な主観。



(だんだん話題がずれている)

考えるということは身体の機能だ。女性は恒常的な意識を持ち続けるのが苦手だと(つまり気分屋だと)言われる。間違いなく、"気分"も身体の働きの一部なのだと……