先日、ダンスについて話していたときのこと。
私のダンスの理論がある程度根源的なものに近づいているとしても、新しさがないよね、と言われた。私のやろうとしてることは既にやっている人がいるよね、という文脈だったかしら。
それから、新しさって何だろうと考えていた。だけどそのときふと浮かんだのは、「だからと言って目先の奇抜なアイデアを引っ張ってくる必要はないだろうな」という確信だけ。
その話を彫刻家のおばさんと話していたときに言われたことは、新しさって全体からしたら1%くらい、ほんの少しの部分に宿るんじゃないかということだった。だから、どれだけ作品を作っても尚満足せずに次を作り続ける羽目になると。
それでなんとなく今思うのは、新しさって、奥底のほんの僅かな個性が昇華して凝結したときに、例えば新しさという名のある種の奇抜さや強度が全体を覆うんじゃないかということ。
そのとき始めて順位ではなく好みの土俵に上がることが出来るんだろうと。
(だいたい、ヒトの造りは昔からそんなに変わらないんだから、技術革新だ!てな具合に関節が増えたりするわけでも無いんだし、新しいダンスなんて早々生まれないとも思うのですよ。)
自らとかけ離れたところにある個性はすぐに手に入るが、自らの内から作り上げていく個性ってのは果てしなく遠くにあるような気がする。その遠さは、自分の内へ向かう深さなんだろうけれど。
…なんて、考えが浅いのは百も承知で言っているが。
"ダンス"それ自体と"作品"がちょっと違うものだと思い始めたのはいつだったかしら。
最近作品の稽古していて、出演者の自分と演出の自分がいると意識が完全に引き裂かれそうになる感覚はどうしたものか。
至極当たり前のことなのだけど、今回は本当に別の人間が二人いる感覚が凄まじい。
意識が内に向かうか外に向かうか、それくらいのギャップがあって、稽古すらままならないくらいだ。
出演者として稽古すると、動くことや身体に集中してしまって作品の流れがまったく分からない。
それよりも作品の流れを考えていると身体が全く動かない、保たない、動いてもダンスにすらならないのが致命的。
そういう風なダンスの質に徐々に自分を向けていったが故なのだけど、果たしてこんな状況で良いものなのかしら?と思うこともあり、しかしながら出演者の自分の役割が全体を支配するところにないから今回だけかと思ったり。
まぁ結局、作り続けてみないと分からないってことだ。
パターンみたいなものもあるだろうし、そもそも私が私の作品に個性を見出す必要もないのかもしれない。自分で自分の個性を考えるのも割と馬鹿馬鹿しい。
ただ、なんとなく、今まで作った作品を思い出すと、何かが欠けている感覚ってのは自分の中にあるのかもしれないと思う。いつもそうだけど、作品全体のイメージが、"満ち足りたもの"ではない。なぜか、ある筈のものが無いとか無くなってくとかそんな感じのが多い。…気持ち悪いな、歴代ほとんどそうじゃん。なぜか。
そいや大学2年のときに作った作品で賞をもらった(割と初めて人様に認めて頂いた)ことがあったけど、あれは大根を摩り下ろしてくのがテーマだった。笑
(今となってはなぜ大根なのか、理由は全く分からない。)
なぜなんだ。
いや、そんなの知ったことか。
夜中だからだなー、こんなこと考えちゃうのは!!
忘れよ忘れよ。
2013年6月29日土曜日
2013年6月25日火曜日
昨日の稽古動画見てにやにやしていて、(今後の本番告知とか)
いきなり告知で恐縮なのですが
7/8(mon)夜
@江古田flying teapot
Sax,Trp,Percussionの即興Liveで踊らせてもらえるそうです、私も即興
細かいことは後ほど
8/2〜4(fri~sun)
@STスポット横浜
"N.N.N.4 ~踊り明かしてまた踊る~"
新作[譚々](20〜30分)
http://stspot.jp/schedule/nnn4-show.html
見にきてくれる方いたら、私の連絡先
maakiitoo(アットマーク)gmail.com
いや、是非見にきてくださいまし。
ダンス見たことないわぁ、って人も。ていうかむしろそういう君こそ見て欲しいのです。見て欲しいので久々にちゃんと告知書いてみたのです。
*
昨日はハタヤマン復活祭稽古で、
相変わらず稽古するより喋ってる時間の方が長いような稽古。
しかしハタヤマンが居ない間に構成が降ってきましたので、もうこれで多分構成は決まりです。私は"衝動買い"を信じる種類の人間です。
昨日の最後で、これで行けるなとふと思う。構成が決まりってことは大体振付も決まり。
最近は逐一振付はつけないでやっている。一人ならば、一人だからそうしてたけど、二人だとどうなのかしら。と思いつつ、やっぱり今までやってきたことは崩したくない。ので、やっぱり"振付"はしない方向で。
ほんの幾つかの流れとポイントだけ定めたらあとは毎度通す度にその場の最善を探り打率をあげる訓練のようなものなので、これから毎度勝負です。
それが作品の時間を、全体を最も引きで見るための私の方法で、私の中で作曲と呼ぶことにした。作曲ぽいので。
稽古動画面白くて、今日見直しながら一人でにやにや。程よくシュールで生々しい。こりゃ照明プラン考えるのが楽しみ。そして私のダンスにちゃんとなってる、なりそう。
(誰になんと言われようと)とりあえずイケてる作品になるんではなかろうか。
…わたしてきには!
「どんな人間の動きもダンスになる」というと語弊がある気がしている。
余分なものまでくっついてくる、それよりも、「ダンスは精度の高い無駄な動き」。ダンスにおいて動くことは目的だけど、動き自体に目的はない、という意味での"無駄"。
例えば、即興とかで私がダンスを人に見せる時のルール/重要視していること、
見る人が自分の身体のどこを注視しているか/全身の印象を意識して、全身の内部の空間意識/座標のようなものを感じつつ(それぞれの関節で身体をバラバラにし)、そこから最も予想外のポイントへ動きを流す/スイッチング、かといえ一々それを考えてないので、脊髄反射的に。
そうすると私もかつてやったことの無いような複雑で不思議な動きが"連鎖"していく。残念ながら今のところ抜きとりは出来ない。
私の身体の周りにボックスや球体のような空間があってね、という三次元の話では間に合わない。踊る私の身体の中で捻れて絡んでいる、恐ろしい速さの流れ。
ダンスっぽい素敵な技は排除している、やろうとすると妙な自意識がふっと浮かんでくるので集中力が途切れる。
実際の動きの種類としては普段の生活でやるような単純な動き。肘や膝を曲げたり歩いたりする程度の。重要なのは動き方、緩急(リズム)をつけつつ、かつ絶対に明確に、クリアに見せること。
というところまではやっていて、最近は動きと呼吸が果たしてどう連動しているのか、考えてる。
吐く方が全身の力は抜けて集中力は高まるので、連動する動きの鋭さやスピードが出る気がする。吐き切れば勝手に次は吸ってる筈なのだが、そこから先が微妙。
そこで、ヨガの登場ですよ。笑
ヨガは超細かい呼吸原則に則って、必ず呼吸意識しながらポーズだからね。
今日は一人稽古しながらいつもより色々考えた気がするのですが。
追伸、
今日は稽古前にヨガ講師の模擬レッスン面接があって、無意識にも緊張していたのか、昨夜は盛大に夜更かしをしてしまった。
もはや夜が明けそうな頃、煙草と朝ごはん買いにコンビニへお散歩した。
雨が上がってまだ間もなく濡れた道路は街灯に照らされて光り、しんと澄んだ空気に早くも鳥の鳴き声が響いていた。
とてもとても気持ち良くて、更に寝るのが惜しくなったのです、
ここ最近、自分史上最高にやりたいことしかしてない時間を送っていること、反省している。かといえやりたくないことはしたく無いので仕方ない。大丈夫なのか、、大丈夫じゃないんだけど。笑
7/8(mon)夜
@江古田flying teapot
Sax,Trp,Percussionの即興Liveで踊らせてもらえるそうです、私も即興
細かいことは後ほど
8/2〜4(fri~sun)
@STスポット横浜
"N.N.N.4 ~踊り明かしてまた踊る~"
新作[譚々](20〜30分)
http://stspot.jp/schedule/nnn4-show.html
見にきてくれる方いたら、私の連絡先
maakiitoo(アットマーク)gmail.com
いや、是非見にきてくださいまし。
ダンス見たことないわぁ、って人も。ていうかむしろそういう君こそ見て欲しいのです。見て欲しいので久々にちゃんと告知書いてみたのです。
*
昨日はハタヤマン復活祭稽古で、
相変わらず稽古するより喋ってる時間の方が長いような稽古。
しかしハタヤマンが居ない間に構成が降ってきましたので、もうこれで多分構成は決まりです。私は"衝動買い"を信じる種類の人間です。
昨日の最後で、これで行けるなとふと思う。構成が決まりってことは大体振付も決まり。
最近は逐一振付はつけないでやっている。一人ならば、一人だからそうしてたけど、二人だとどうなのかしら。と思いつつ、やっぱり今までやってきたことは崩したくない。ので、やっぱり"振付"はしない方向で。
ほんの幾つかの流れとポイントだけ定めたらあとは毎度通す度にその場の最善を探り打率をあげる訓練のようなものなので、これから毎度勝負です。
それが作品の時間を、全体を最も引きで見るための私の方法で、私の中で作曲と呼ぶことにした。作曲ぽいので。
稽古動画面白くて、今日見直しながら一人でにやにや。程よくシュールで生々しい。こりゃ照明プラン考えるのが楽しみ。そして私のダンスにちゃんとなってる、なりそう。
(誰になんと言われようと)とりあえずイケてる作品になるんではなかろうか。
…わたしてきには!
「どんな人間の動きもダンスになる」というと語弊がある気がしている。
余分なものまでくっついてくる、それよりも、「ダンスは精度の高い無駄な動き」。ダンスにおいて動くことは目的だけど、動き自体に目的はない、という意味での"無駄"。
例えば、即興とかで私がダンスを人に見せる時のルール/重要視していること、
見る人が自分の身体のどこを注視しているか/全身の印象を意識して、全身の内部の空間意識/座標のようなものを感じつつ(それぞれの関節で身体をバラバラにし)、そこから最も予想外のポイントへ動きを流す/スイッチング、かといえ一々それを考えてないので、脊髄反射的に。
そうすると私もかつてやったことの無いような複雑で不思議な動きが"連鎖"していく。残念ながら今のところ抜きとりは出来ない。
私の身体の周りにボックスや球体のような空間があってね、という三次元の話では間に合わない。踊る私の身体の中で捻れて絡んでいる、恐ろしい速さの流れ。
ダンスっぽい素敵な技は排除している、やろうとすると妙な自意識がふっと浮かんでくるので集中力が途切れる。
実際の動きの種類としては普段の生活でやるような単純な動き。肘や膝を曲げたり歩いたりする程度の。重要なのは動き方、緩急(リズム)をつけつつ、かつ絶対に明確に、クリアに見せること。
というところまではやっていて、最近は動きと呼吸が果たしてどう連動しているのか、考えてる。
吐く方が全身の力は抜けて集中力は高まるので、連動する動きの鋭さやスピードが出る気がする。吐き切れば勝手に次は吸ってる筈なのだが、そこから先が微妙。
そこで、ヨガの登場ですよ。笑
ヨガは超細かい呼吸原則に則って、必ず呼吸意識しながらポーズだからね。
今日は一人稽古しながらいつもより色々考えた気がするのですが。
追伸、
今日は稽古前にヨガ講師の模擬レッスン面接があって、無意識にも緊張していたのか、昨夜は盛大に夜更かしをしてしまった。
もはや夜が明けそうな頃、煙草と朝ごはん買いにコンビニへお散歩した。
雨が上がってまだ間もなく濡れた道路は街灯に照らされて光り、しんと澄んだ空気に早くも鳥の鳴き声が響いていた。
とてもとても気持ち良くて、更に寝るのが惜しくなったのです、
ここ最近、自分史上最高にやりたいことしかしてない時間を送っていること、反省している。かといえやりたくないことはしたく無いので仕方ない。大丈夫なのか、、大丈夫じゃないんだけど。笑
2013年6月16日日曜日
音楽の時間
ぼんやり思うのは、
私がダンス作品を作るに当たって参考にすべき時間の扱い方は、演劇ではなく、音楽のそれだということ。
生のクラシック音楽に触れるときの感覚が好きなのだ。
気を衒う照明変化も一切ない、すがるような説明もない。あるのは静寂のみ、その状況で演奏家が楽器一つ手にして人前に身を晒し、たくさんの観客に演奏を聞かせるという状況。
演奏家にとってはごく当たり前のことなのかもしれないけれど、本当にすごいことだといつも思う。鍛錬を積むことで得た自らの演奏に対する揺らぎのない自信と楽曲に対する絶対の信頼がなくては立ち向かえないだろうと想像する。
昨年の、ベートーヴェンの第九を散々聞いた年の瀬に、カツァリスというピアニストがリスト編曲の第九を演奏しているCDを手に入れた。
これが、何度聞いても信じられないんだけど、何十人、下手すると合唱も入れて何百人で演奏される第九がピアノ一台で完全に再現されている。
リストの編曲も恐ろしいが、カツァリスの演奏も狂気じみている。すごいとしか言いようがない。
それよりもただただ、楽器一台に、本当に無限の可能性があるんだと心の底から思った。
ずっと1人で修了制作やってたときに、このCDに相当救われた気がする。
私が作品を作るに当たって重要なのは"見るということ"だと書いた。この前の修了制作作品も、それを一番意識していた。
そのときはPhill Niblockの映像が、そこにあるイメージをただ単純に"見る"ということを教えてくれた。何を見るかではなく、何が私の目を惹きつけ、見させるのか。
先日聞いた講演会で、あるコンテンポラリーダンスのプロデューサーが言っていたこと。
「ダンス作品を見るために、"分かる"ということは必要ない」
その通りだと思う。
…思っているよ、私は。
私にとってクラシック音楽はとても単純なのだ。
クラシック音楽というものが私にとってそれまで何も思い入れのないものだからこそ、個人的な経験を重ねることも音楽の歴史や事情に思いを馳せることも出来ないので、非常に好ましい、まっさらの状態で聞けるのだ。
聞いていて眠くなることもあれば、感動して泣くこともある。そうなる理由はそのとき聞いていた音以外に何もない。単純という言葉を抽象的と置き換えてもいいのかもしれない。
何ものかが進行する中で、鳴っている音を聞いていた、それだけ。
今作っている作品は、ラヴェルのボレロからモチーフを得ている。
ダンスやる身としては、ボレロなんて恐ろしくて使えたものじゃないと思っていた。が、GWにボレロの生演奏を初めて聞いて、そのとき演奏と共にある海外のアニメーション作家がライブドローイングをやっているのを見、あまりに自由な表現に衝撃を受けた。
だから私もやってみようと思った。
さあ、夜は更けてゆく。
私がダンス作品を作るに当たって参考にすべき時間の扱い方は、演劇ではなく、音楽のそれだということ。
生のクラシック音楽に触れるときの感覚が好きなのだ。
気を衒う照明変化も一切ない、すがるような説明もない。あるのは静寂のみ、その状況で演奏家が楽器一つ手にして人前に身を晒し、たくさんの観客に演奏を聞かせるという状況。
演奏家にとってはごく当たり前のことなのかもしれないけれど、本当にすごいことだといつも思う。鍛錬を積むことで得た自らの演奏に対する揺らぎのない自信と楽曲に対する絶対の信頼がなくては立ち向かえないだろうと想像する。
昨年の、ベートーヴェンの第九を散々聞いた年の瀬に、カツァリスというピアニストがリスト編曲の第九を演奏しているCDを手に入れた。
これが、何度聞いても信じられないんだけど、何十人、下手すると合唱も入れて何百人で演奏される第九がピアノ一台で完全に再現されている。
リストの編曲も恐ろしいが、カツァリスの演奏も狂気じみている。すごいとしか言いようがない。
それよりもただただ、楽器一台に、本当に無限の可能性があるんだと心の底から思った。
ずっと1人で修了制作やってたときに、このCDに相当救われた気がする。
私が作品を作るに当たって重要なのは"見るということ"だと書いた。この前の修了制作作品も、それを一番意識していた。
そのときはPhill Niblockの映像が、そこにあるイメージをただ単純に"見る"ということを教えてくれた。何を見るかではなく、何が私の目を惹きつけ、見させるのか。
先日聞いた講演会で、あるコンテンポラリーダンスのプロデューサーが言っていたこと。
「ダンス作品を見るために、"分かる"ということは必要ない」
その通りだと思う。
…思っているよ、私は。
私にとってクラシック音楽はとても単純なのだ。
クラシック音楽というものが私にとってそれまで何も思い入れのないものだからこそ、個人的な経験を重ねることも音楽の歴史や事情に思いを馳せることも出来ないので、非常に好ましい、まっさらの状態で聞けるのだ。
聞いていて眠くなることもあれば、感動して泣くこともある。そうなる理由はそのとき聞いていた音以外に何もない。単純という言葉を抽象的と置き換えてもいいのかもしれない。
何ものかが進行する中で、鳴っている音を聞いていた、それだけ。
今作っている作品は、ラヴェルのボレロからモチーフを得ている。
ダンスやる身としては、ボレロなんて恐ろしくて使えたものじゃないと思っていた。が、GWにボレロの生演奏を初めて聞いて、そのとき演奏と共にある海外のアニメーション作家がライブドローイングをやっているのを見、あまりに自由な表現に衝撃を受けた。
だから私もやってみようと思った。
さあ、夜は更けてゆく。
2013年6月15日土曜日
職業病らしきもの
たまに銭湯に行くのが好きで、行くと大体2時間位いる。
そもそもリラックスなんて生易しい目的でもなく、娯楽も通り越してもはや儀式みたいになりつつある。
しょっちゅう行こうとは思わない。
やることがたくさんある。
皮膚がふやけていくのを観察したり、普段適当にやってるマッサージを入念にしたり、湯船の中で深呼吸したり動いたりして水の抵抗で遊んだり、サウナで汗をかいたり脈拍が上がったりするのを観察する。
あと何よりも人の身体を観察するのが面白い。こう言ってはなんだが、空を見る振りしておばあさんの身体とか凝視している。
身体の特徴が経年によりデフォルメされているおばあさんの骨格は未知のゾーンなので、非常に勉強になる。
今まで行くのは近所の銭湯だったので、本当におばあさんしかいなかった。
それにしても、銭湯友達と交わされるおばあさんたちの会話はぎょっとするくらいブラックジョークが満載だ。
「お久しぶりね~生きてた~?」
「まだ死んでないわよ~」
しかも耳が遠くて聞き取れなかったりするので、えげつない会話が湯気とともに宙に舞ったまま回収されていない。
最近スーパー銭湯が家から割と近いことを発見したので、そっちへ行く。老若いろんな人が居て私としては何よりです。
まぁ女性しか見れないけど。
前方を歩いてる人の身体を観察して、今後その人の身体がどうなって行くか考えるのが癖だ。その時役に立つのが、銭湯で観察してストックしてある老体の数々。前方の方の後ろ姿におばあさんの裸がこう、トレーシングペーパーのようにうっすらと浮かんでくるのよ。
よく日本人は歩き方が汚いというけれど、まさに汚いので観察のし甲斐がある。
まじかよ?!って振り返って二度見するような変わった歩き方の人とか多い(特に板橋区)。
女の人は筋力がなさすぎて靴が可哀想なことになっている。折角高いヒールを履いているのにヒールの上で歩いてるものだから、脚が短いんですよって逆にアピールしている感じ。
男の人は非常に不思議な筋肉の使い方をしていて非常に不思議な歩き方をしているのを見かける。踵が浮いたまま歩いてるとかアンビリーバボーすぎる。ふくらはぎの筋肉に同情する。
女性のO脚も然りだけど、男性のO脚もなかなかに許し難い。あれはスーツマジックでも隠しきれない。
自分のことはさて置き、O脚や背骨の歪みなどなど、歪な身体はどうにもエネルギーが節々から漏れているような感じを受けるのだ。立っている時にすっと昇っていく筈のエネルギーがいろんな関節で屈曲して上まで行かない感じ。
この間美術モデルやってるお家へ行った時、参考にするために切り抜いたのであろう、サプリメントのチラシが置いてあった。
裸の男女の後ろ姿の写真だったのだけど、写真を逆さに見ると左右の歪みが物凄くはっきり見えることが分かった。
こりゃなかなかの発見じゃないか!と思ったけど、普段逆さから見られるわけじゃないので別に活用する機会もないだろう。
クラシックの演奏家だと、女性は肩や胸を露わにしていても足元の隠れるロングドレスを着ていることが多い。優雅で素敵に見えるんだけど私としては大体ドレスの中の脚が透けて見えるので、時に演奏そっちのけで脚の様子がどうしても気になる。
この間見かけた歌手、「私は女優よ~」とか歌っているのに、言葉は悪いが体つきがとても下品で萎えた。
大方の人はそんなこと気にしてないのだろうけど、そういうことが影響して音にも多少の違いがあるんじゃないかと思っている。…ないかもしれない。
手相や顔相占いではないけれど、体つきや動きが人格を表してるということは少なからずあるんではなかろうか。
…ま、どうでも良いことなんですよね、大体が。
たまに人に話しても「は?」って顔されるので、残念ながら職業病だったのかと最近自覚した。
しかも、人の顔をはっきりと思い出せなくても、その人の立ち姿とかはよく覚えている末期症状。
そもそもリラックスなんて生易しい目的でもなく、娯楽も通り越してもはや儀式みたいになりつつある。
しょっちゅう行こうとは思わない。
やることがたくさんある。
皮膚がふやけていくのを観察したり、普段適当にやってるマッサージを入念にしたり、湯船の中で深呼吸したり動いたりして水の抵抗で遊んだり、サウナで汗をかいたり脈拍が上がったりするのを観察する。
あと何よりも人の身体を観察するのが面白い。こう言ってはなんだが、空を見る振りしておばあさんの身体とか凝視している。
身体の特徴が経年によりデフォルメされているおばあさんの骨格は未知のゾーンなので、非常に勉強になる。
今まで行くのは近所の銭湯だったので、本当におばあさんしかいなかった。
それにしても、銭湯友達と交わされるおばあさんたちの会話はぎょっとするくらいブラックジョークが満載だ。
「お久しぶりね~生きてた~?」
「まだ死んでないわよ~」
しかも耳が遠くて聞き取れなかったりするので、えげつない会話が湯気とともに宙に舞ったまま回収されていない。
最近スーパー銭湯が家から割と近いことを発見したので、そっちへ行く。老若いろんな人が居て私としては何よりです。
まぁ女性しか見れないけど。
前方を歩いてる人の身体を観察して、今後その人の身体がどうなって行くか考えるのが癖だ。その時役に立つのが、銭湯で観察してストックしてある老体の数々。前方の方の後ろ姿におばあさんの裸がこう、トレーシングペーパーのようにうっすらと浮かんでくるのよ。
よく日本人は歩き方が汚いというけれど、まさに汚いので観察のし甲斐がある。
まじかよ?!って振り返って二度見するような変わった歩き方の人とか多い(特に板橋区)。
女の人は筋力がなさすぎて靴が可哀想なことになっている。折角高いヒールを履いているのにヒールの上で歩いてるものだから、脚が短いんですよって逆にアピールしている感じ。
男の人は非常に不思議な筋肉の使い方をしていて非常に不思議な歩き方をしているのを見かける。踵が浮いたまま歩いてるとかアンビリーバボーすぎる。ふくらはぎの筋肉に同情する。
女性のO脚も然りだけど、男性のO脚もなかなかに許し難い。あれはスーツマジックでも隠しきれない。
自分のことはさて置き、O脚や背骨の歪みなどなど、歪な身体はどうにもエネルギーが節々から漏れているような感じを受けるのだ。立っている時にすっと昇っていく筈のエネルギーがいろんな関節で屈曲して上まで行かない感じ。
この間美術モデルやってるお家へ行った時、参考にするために切り抜いたのであろう、サプリメントのチラシが置いてあった。
裸の男女の後ろ姿の写真だったのだけど、写真を逆さに見ると左右の歪みが物凄くはっきり見えることが分かった。
こりゃなかなかの発見じゃないか!と思ったけど、普段逆さから見られるわけじゃないので別に活用する機会もないだろう。
クラシックの演奏家だと、女性は肩や胸を露わにしていても足元の隠れるロングドレスを着ていることが多い。優雅で素敵に見えるんだけど私としては大体ドレスの中の脚が透けて見えるので、時に演奏そっちのけで脚の様子がどうしても気になる。
この間見かけた歌手、「私は女優よ~」とか歌っているのに、言葉は悪いが体つきがとても下品で萎えた。
大方の人はそんなこと気にしてないのだろうけど、そういうことが影響して音にも多少の違いがあるんじゃないかと思っている。…ないかもしれない。
手相や顔相占いではないけれど、体つきや動きが人格を表してるということは少なからずあるんではなかろうか。
…ま、どうでも良いことなんですよね、大体が。
たまに人に話しても「は?」って顔されるので、残念ながら職業病だったのかと最近自覚した。
しかも、人の顔をはっきりと思い出せなくても、その人の立ち姿とかはよく覚えている末期症状。
2013年6月14日金曜日
最近のこと
なんだか書きたいことはいろいろあったのだけど、一つの文章にするのが億劫だった。
最近ここに日記書くときは、一本まとめるのに軽く数時間はかかる。何かを書き連ねるというより、文章として表す、そのエネルギーがふと湧いてきた時でないと書ききれない。
そしてそのエネルギーは最近別のところへ出掛けているので、支離滅裂のまま書いておく。
*
ヨガを勉強し始めたとき、ヨガの思想について知りたくて本屋へ行った。
まずは健康・美容の棚ではなく、それまでの癖でつい東洋思想系の棚へ行ってみた。
本屋と云うのは面白いもので、棚を横へ横へ移動しているとだんだん興味が薄れていったり濃くなったりする。
ヨガについての棚の一つ手前の棚はそれはそれは怪しげな宗教色の強い本や日本でも有名な宗教家の著書がたくさん置いてあったのだが、その中にあった『音の神秘ー生命は音楽を奏でる』という本が気になって、何故か買ってしまった。
この本は、もとはヴィーナーという楽器の奏者だったハズラト・イナーヤト・ハーンという人が、神秘主義を中心とした芸術や音楽、生命についての考えをまとめたものだ。
この本はヨガの思想についても触れていたのだが、何故買う程惹かれたかと言えば、音のことや芸術についても書かれていたと同時に、普段自分の考えていることが随所にそのまま書かれていたこと、また自分が考えていて辿り着けなかった答え(言葉)が書いてあったからだ。
だが、読んでいて非常に気持ち悪い。自分がそれまで探していたある種の結論が、全て「霊感」という言葉に集約されている気がしたからだ。
しかしふと思う、それに嫌悪感を抱く自分が確かにいるのだが、嫌だと思う自分もまた何らかの信念に基づいて思考しているのだろう。少なくとも私はこれまでスーフィーとして生きてきたわけではない。そんなことは当たり前のことだけど、だったら今まで分からないと思っていたことも、ここに書かれた言葉で決着をつけることもなく分からないままで良いか、と思った。この本に書かれていることをそっくり受け取るつもりはないし、分からないままに、その感覚を的確に表現しよう、と思った。
自分が無神論者だとも思わない。ただ信仰に対して意識せず、曖昧なまま生きていられるというだけだ。
*
大学院に居ると、自分の信念(専門)に従ってある種の結論(言葉)を的確に表現しなければならない。
そのためにたくさんの本を読み、たくさんの知識を手に入れ、先行研究が何を結論付け、自分はそこから未来に対して何を語るのかが重要となる。
それが悪いこととは思わない。その労力を間近で見ているからこそ、むしろ個人的にはかなり尊敬している。その方法は私には無理だと思ったけれど、別のやり方で私も同じ位自分の言葉に責任を持ちたいと思った。が、それは博士に進んでやることではないと思った。
人は誰しも言葉を使って考え、語る。
だが多くの人は曖昧な言葉をさも自分の持ち物のように好き勝手に振りかざす。意識していないだけ、といえば、そうだ。
研究者が完璧なまでに客観的な事実に基づいて言葉を扱うとしたら、芸術家は究極に透明な、主観的な言葉を扱う。…ちょっと適当に書いている。
*
それで、大学とはおさらばしてヨガの先生の資格をとってみた次第。
私にとっては、人に身体のことを伝えるのは、自分のダンスで、ダンス作品を制作することとイコールで繋がっている。少なくともヨガは私にとって接客の方法論。
*
前から考えていることで、話したこともあるかもしれないけど、
あくまでも私の考え方だと、ダンスは動きの種類や振付のことだけを指すわけじゃない。というと誤解を招きそうなのだけど、ある特定の動きの、その格好や姿を"ダンスの動き/ダンスでない動き"と区別するのは非常にナンセンスで、むしろ重要なのはどんな人間のどんな動きもダンスになるという可能性。(火曜日に聴いた講演会の言葉で言うなら、振付=買い取られた死んだ身ぶり)
ならば私がダンスである/ダンスでないと区別してみようとする基準は何なのかといえば、動きはどの様なものであったとしても、動き方や質、ないしは動きの見せ方の部分にダンスが見出せるかということ。
身体において、それらの条件を満たし超える可能性を引き出すのが振付だと思う。脚を頭上まで振り上げたり、ものすごいスピードで自転することに意味や価値はあるかといえば、全くない。あるのは人間の身体のスペクタクルだけ。だけどその動きが、例えば美しさも備えていたらそれだけで説明は不要だし、動き一つで観客の知覚を惹きつけることが出来る。
そこで重要なのは、動きの強度だ。例えばより純粋に、スマートに、無駄なく動きを行うこと。一瞬一瞬に生まれては消える動きを、"それでしかない動き"に高めて繋いでいくこと。
*
それでもって、じゃあダンスを作品にするってなんなんだといえば、少々事情が違う気もします。しない気もします。しますが、あんまりよく分かりません。
今度30分作品を発表させてもらえることになって今稽古してるけど、はてどうしたものか。
なんとなく最近思うのは、私が作品において表したいものは、私の"見ているということ"なのかもしれないということ。
*
"何を"見ているかでない。むしろ目に見える物を見ているわけでもない気もするし、
敢えて"目"や"見る"ということを掲げるのは、私がダンスという表現方法を使うからだと思う。
観客に"見ている"という行為を問う、と言ったら言いすぎか。
長らく、目が悪いくせにメガネもコンタクトもせず、あまり見えていない状態のまま過ごしている。今日のような時化ている日は特に見えない。
世の中は少し見えない位がちょうどいい。大切なことは目には見えない。仕事の時はメガネかけるよ。
たぶん、感覚だけで生きている。
*
8月2〜4日に横浜のSTスポットという劇場で、新作の小作品を発表します。
タイトルは「譚々」、テーマはおそらく植物、なのだと思う。
大学学部時代の作品たちは大体タイトルが平仮名だった。院のときは英語。卒業したらとりあえず漢字になった。特に意識はしていないが。
先日は相方を借り出して稽古をしてみたけれど、稽古というよりもはや茶話会だった。
表現やパフォーマンスのこと、よもやま話をして幾つか作品の構成を試してみただけだけど、少しずつ作品の形が見えてきた気がする。相方くん、こちらの「理由は無いけどなんとなくこうしてみようと思った」に対する器の広い対応力が半端なく、これまでどういう鍛錬を積んできたのかと聞きたくなるくらいだ。
私が見失わなければ、繊細で強固な作品になるだろう。
*
数日に渡って書いていたものを、推敲せずに上げている。酷い。酷いけれど、記録しておかないと消えてしまうものがありそうで書いた。
ちょっと書類を書こうと思って昔のブログを見たけれど、書いてることがあんまり変わってなくて萎えた。
ただ言葉の選び方だけが、なんだか気持ち悪く感じた。
最近ここに日記書くときは、一本まとめるのに軽く数時間はかかる。何かを書き連ねるというより、文章として表す、そのエネルギーがふと湧いてきた時でないと書ききれない。
そしてそのエネルギーは最近別のところへ出掛けているので、支離滅裂のまま書いておく。
*
ヨガを勉強し始めたとき、ヨガの思想について知りたくて本屋へ行った。
まずは健康・美容の棚ではなく、それまでの癖でつい東洋思想系の棚へ行ってみた。
本屋と云うのは面白いもので、棚を横へ横へ移動しているとだんだん興味が薄れていったり濃くなったりする。
ヨガについての棚の一つ手前の棚はそれはそれは怪しげな宗教色の強い本や日本でも有名な宗教家の著書がたくさん置いてあったのだが、その中にあった『音の神秘ー生命は音楽を奏でる』という本が気になって、何故か買ってしまった。
この本は、もとはヴィーナーという楽器の奏者だったハズラト・イナーヤト・ハーンという人が、神秘主義を中心とした芸術や音楽、生命についての考えをまとめたものだ。
この本はヨガの思想についても触れていたのだが、何故買う程惹かれたかと言えば、音のことや芸術についても書かれていたと同時に、普段自分の考えていることが随所にそのまま書かれていたこと、また自分が考えていて辿り着けなかった答え(言葉)が書いてあったからだ。
だが、読んでいて非常に気持ち悪い。自分がそれまで探していたある種の結論が、全て「霊感」という言葉に集約されている気がしたからだ。
しかしふと思う、それに嫌悪感を抱く自分が確かにいるのだが、嫌だと思う自分もまた何らかの信念に基づいて思考しているのだろう。少なくとも私はこれまでスーフィーとして生きてきたわけではない。そんなことは当たり前のことだけど、だったら今まで分からないと思っていたことも、ここに書かれた言葉で決着をつけることもなく分からないままで良いか、と思った。この本に書かれていることをそっくり受け取るつもりはないし、分からないままに、その感覚を的確に表現しよう、と思った。
自分が無神論者だとも思わない。ただ信仰に対して意識せず、曖昧なまま生きていられるというだけだ。
*
大学院に居ると、自分の信念(専門)に従ってある種の結論(言葉)を的確に表現しなければならない。
そのためにたくさんの本を読み、たくさんの知識を手に入れ、先行研究が何を結論付け、自分はそこから未来に対して何を語るのかが重要となる。
それが悪いこととは思わない。その労力を間近で見ているからこそ、むしろ個人的にはかなり尊敬している。その方法は私には無理だと思ったけれど、別のやり方で私も同じ位自分の言葉に責任を持ちたいと思った。が、それは博士に進んでやることではないと思った。
人は誰しも言葉を使って考え、語る。
だが多くの人は曖昧な言葉をさも自分の持ち物のように好き勝手に振りかざす。意識していないだけ、といえば、そうだ。
研究者が完璧なまでに客観的な事実に基づいて言葉を扱うとしたら、芸術家は究極に透明な、主観的な言葉を扱う。…ちょっと適当に書いている。
*
それで、大学とはおさらばしてヨガの先生の資格をとってみた次第。
私にとっては、人に身体のことを伝えるのは、自分のダンスで、ダンス作品を制作することとイコールで繋がっている。少なくともヨガは私にとって接客の方法論。
*
前から考えていることで、話したこともあるかもしれないけど、
あくまでも私の考え方だと、ダンスは動きの種類や振付のことだけを指すわけじゃない。というと誤解を招きそうなのだけど、ある特定の動きの、その格好や姿を"ダンスの動き/ダンスでない動き"と区別するのは非常にナンセンスで、むしろ重要なのはどんな人間のどんな動きもダンスになるという可能性。(火曜日に聴いた講演会の言葉で言うなら、振付=買い取られた死んだ身ぶり)
ならば私がダンスである/ダンスでないと区別してみようとする基準は何なのかといえば、動きはどの様なものであったとしても、動き方や質、ないしは動きの見せ方の部分にダンスが見出せるかということ。
身体において、それらの条件を満たし超える可能性を引き出すのが振付だと思う。脚を頭上まで振り上げたり、ものすごいスピードで自転することに意味や価値はあるかといえば、全くない。あるのは人間の身体のスペクタクルだけ。だけどその動きが、例えば美しさも備えていたらそれだけで説明は不要だし、動き一つで観客の知覚を惹きつけることが出来る。
そこで重要なのは、動きの強度だ。例えばより純粋に、スマートに、無駄なく動きを行うこと。一瞬一瞬に生まれては消える動きを、"それでしかない動き"に高めて繋いでいくこと。
*
それでもって、じゃあダンスを作品にするってなんなんだといえば、少々事情が違う気もします。しない気もします。しますが、あんまりよく分かりません。
今度30分作品を発表させてもらえることになって今稽古してるけど、はてどうしたものか。
なんとなく最近思うのは、私が作品において表したいものは、私の"見ているということ"なのかもしれないということ。
*
"何を"見ているかでない。むしろ目に見える物を見ているわけでもない気もするし、
敢えて"目"や"見る"ということを掲げるのは、私がダンスという表現方法を使うからだと思う。
観客に"見ている"という行為を問う、と言ったら言いすぎか。
長らく、目が悪いくせにメガネもコンタクトもせず、あまり見えていない状態のまま過ごしている。今日のような時化ている日は特に見えない。
世の中は少し見えない位がちょうどいい。大切なことは目には見えない。仕事の時はメガネかけるよ。
たぶん、感覚だけで生きている。
*
8月2〜4日に横浜のSTスポットという劇場で、新作の小作品を発表します。
タイトルは「譚々」、テーマはおそらく植物、なのだと思う。
大学学部時代の作品たちは大体タイトルが平仮名だった。院のときは英語。卒業したらとりあえず漢字になった。特に意識はしていないが。
先日は相方を借り出して稽古をしてみたけれど、稽古というよりもはや茶話会だった。
表現やパフォーマンスのこと、よもやま話をして幾つか作品の構成を試してみただけだけど、少しずつ作品の形が見えてきた気がする。相方くん、こちらの「理由は無いけどなんとなくこうしてみようと思った」に対する器の広い対応力が半端なく、これまでどういう鍛錬を積んできたのかと聞きたくなるくらいだ。
私が見失わなければ、繊細で強固な作品になるだろう。
*
数日に渡って書いていたものを、推敲せずに上げている。酷い。酷いけれど、記録しておかないと消えてしまうものがありそうで書いた。
ちょっと書類を書こうと思って昔のブログを見たけれど、書いてることがあんまり変わってなくて萎えた。
ただ言葉の選び方だけが、なんだか気持ち悪く感じた。
2013年5月14日火曜日
雑記「変化」
最近、植物を育てたり切り花を貰ってきたりしていて、現在部屋が軽く植物園みたいになっている。
土に植えている葉っぱ系植物の方が地味だけど成長がポジティヴで良い、切り花は綺麗だけど枯れてゆくばかり。
でもまだ蕾の多かった大量の百合の花は酔いそうなくらいの匂いをワンルームに撒き散らしていて、部屋に帰る度懐かしき発表会気分が味わえる。
植物のみなさんには特に話しかけたりはしない。物言わぬ相手に話すほど飢えてはいない。というかそもそも話さぬ相手に話す気が起きない。
しかし観察していると毎日ちょっとずつ変化していて面白い。ここ数日はニオイシュロランさんと茗荷さんの寄せ植えがデットヒートを繰り広げている。狭い鉢ですまんよ。
*
美術モデルとしてお世話になっている(私、ただ話しに行ってご飯貰うだけ)彫刻家さん、最近作風を変えようと試みているらしく粘土相手に試行錯誤している様子を見ていると面白い。
先週、割と完成形まで持っていった私の形を4〜5体見て、針金の骨組みまで粘土が剥がされるのを2度見た。
長らく作品を作っている中で何時の間にやら出来映えを気にして小綺麗な感じになっていたものを、血気盛んで荒々しかった昔の作風に戻したいらしい。
たくさん作品を作ってきて今、何も考えずにつくっていた頃の作風に近づけるとはどの様な作業なのか。
毎度のことだけど、出来上がるのが楽しみだ。
*
最近、母が変わった。
無論、戸籍などの話ではなく、母の言うことや考えることが以前とは少し違うように感じるということだ。既に7年離れて暮らしていて勿論私自身が変わったことにも依るだろうけれど、それまでは私にとって保護者としての"母親"だった人が、一人のおばさんとしてそこに居るように感じられるのだ。しかしよく云うところの、"母親と友達感覚"とは全く違うことは前置きしておく(そもそも家族は友達ではない)。
このことを悲観したいのではなく、むしろかなり面白いと思っている。母、観察してて大変興味深い。
思い返せば事の発端は、無趣味を豪語する彼女がヨガを始めたことだった気がするのだ。
自分の身体で感じることや身体の変化を私に話す様になり、次第に嫌なことは嫌だと言って避ける様になり、代わりに本を読むようになり、私が東京で連れ回しては見聞きさせる音楽や美術に興味を示すようになった。
アピール上手の弟が課題で作る作品をせっせと母にメールで送りつけていることも手伝ってか、それまでは「よく分からない」と一蹴していた芸術作品等々に対しても今は聞けば感想を言う。
先日は言葉の使い方すら変わっていて、びっくりした。
今後母は一体どうなってゆくのか。
*
永井荷風をしばらく読んでいて、もう一冊行こうかと思う前に口直しで文庫版のつげ義春『義男の青春・別離』を見つけたので昨日一気に読んでみた。
そもそもつげ義春で口直しってのが間違いだったのだが、案の定非常にぐったりだ。挙句、今朝は非情に胸くそ悪い夢まで見る始末。
いいかげん捨ててしまいたい感情をわざわざ掘り起こされるようなシチュエーション、しかもつげ義春風。最悪。
感情という最も主観的なものを、引きで見られるほど私は出来た人間ではない。変わりたいのに、なかなか思うようには変わらない。
さあ、夏が来ることになった
土に植えている葉っぱ系植物の方が地味だけど成長がポジティヴで良い、切り花は綺麗だけど枯れてゆくばかり。
でもまだ蕾の多かった大量の百合の花は酔いそうなくらいの匂いをワンルームに撒き散らしていて、部屋に帰る度懐かしき発表会気分が味わえる。
植物のみなさんには特に話しかけたりはしない。物言わぬ相手に話すほど飢えてはいない。というかそもそも話さぬ相手に話す気が起きない。
しかし観察していると毎日ちょっとずつ変化していて面白い。ここ数日はニオイシュロランさんと茗荷さんの寄せ植えがデットヒートを繰り広げている。狭い鉢ですまんよ。
*
美術モデルとしてお世話になっている(私、ただ話しに行ってご飯貰うだけ)彫刻家さん、最近作風を変えようと試みているらしく粘土相手に試行錯誤している様子を見ていると面白い。
先週、割と完成形まで持っていった私の形を4〜5体見て、針金の骨組みまで粘土が剥がされるのを2度見た。
長らく作品を作っている中で何時の間にやら出来映えを気にして小綺麗な感じになっていたものを、血気盛んで荒々しかった昔の作風に戻したいらしい。
たくさん作品を作ってきて今、何も考えずにつくっていた頃の作風に近づけるとはどの様な作業なのか。
毎度のことだけど、出来上がるのが楽しみだ。
*
最近、母が変わった。
無論、戸籍などの話ではなく、母の言うことや考えることが以前とは少し違うように感じるということだ。既に7年離れて暮らしていて勿論私自身が変わったことにも依るだろうけれど、それまでは私にとって保護者としての"母親"だった人が、一人のおばさんとしてそこに居るように感じられるのだ。しかしよく云うところの、"母親と友達感覚"とは全く違うことは前置きしておく(そもそも家族は友達ではない)。
このことを悲観したいのではなく、むしろかなり面白いと思っている。母、観察してて大変興味深い。
思い返せば事の発端は、無趣味を豪語する彼女がヨガを始めたことだった気がするのだ。
自分の身体で感じることや身体の変化を私に話す様になり、次第に嫌なことは嫌だと言って避ける様になり、代わりに本を読むようになり、私が東京で連れ回しては見聞きさせる音楽や美術に興味を示すようになった。
アピール上手の弟が課題で作る作品をせっせと母にメールで送りつけていることも手伝ってか、それまでは「よく分からない」と一蹴していた芸術作品等々に対しても今は聞けば感想を言う。
先日は言葉の使い方すら変わっていて、びっくりした。
今後母は一体どうなってゆくのか。
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永井荷風をしばらく読んでいて、もう一冊行こうかと思う前に口直しで文庫版のつげ義春『義男の青春・別離』を見つけたので昨日一気に読んでみた。
そもそもつげ義春で口直しってのが間違いだったのだが、案の定非常にぐったりだ。挙句、今朝は非情に胸くそ悪い夢まで見る始末。
いいかげん捨ててしまいたい感情をわざわざ掘り起こされるようなシチュエーション、しかもつげ義春風。最悪。
感情という最も主観的なものを、引きで見られるほど私は出来た人間ではない。変わりたいのに、なかなか思うようには変わらない。
さあ、夏が来ることになった
2013年4月30日火曜日
無題
「…ついでにいっておくが、ハイネは、正確な自叙伝なんてまずありっこない、人間は自分自身のことでは必ず嘘をつくものだ、と言っている。彼の意見によると、たとえばルソーはその懺悔録のなかで、徹頭徹尾、自己中傷をやっているし、見栄から計画的な嘘までついている、ということだ。ぼくは、ハイネが正しいと思う。ぼくにはよくわかるつもりだが、ときには、ただただ虚栄のためだけに、やりもしないいくつもの犯罪をやったように言いふらすこともあるものだ。それから、これがどういう種類の虚栄であるかも、ちゃんと心得ているつもりだ。しかし、ハイネが問題にしたのは、公衆の面前で懺悔した人間のことである。ところがぼくは、ただ自分ひとりのためだけに書いている。そして、きっぱりと断言しておくが、ぼくがまるで読者に語りかけるような調子で書いているのも、それはただ外見だけの話で、そのほうが書きやすいからにすぎない。これは形式、空っぽの形式だけであって、ぼくに読者などあろうはずがないのだ。このことはもう明言しておいた。
ぼくはこの手記の体裁については何物にも拘束されたくない。順序や系統も問題にしない。思いつくままに書くだけだ。
もっとも、こんなことを言うと、その言葉尻をとられて、諸君から質問を受けるかもしれない。もしきみがほんとうに読者を予想していないのなら、順序や系統も問題にしないとか、思いつくままに書くとか、そんな申し合わせをわざわざ自分自身とやっているのはどういうわけだ、しかも紙の上で? いったい何のための言いわけだ? 何のためのわび口上だ?
〈いや、実はそこのところだが〉とぼくは答える。
とはいえ、ここには複雑な心理があるのだ。もしかしたら、ぼくがたんに臆病者だということになるかもしれないし、また、もしかしたら、この手記を書くにあたって、できるだけ羽目をはずすまいために、わざわざ自分から読者を想定しているのかもしれない。そんな理由なら、何千となくある。
だが、もうひとつ、こういうこともある。いったいぼくは何のために、なんのつもりで書く気になどなったのか? もし読者のためでないとしたら、頭のなかで思い起こすだけで、何も紙に移すまでのことはないではないか?
なるほど、そのとおりだ。だが、紙に書くと、何かこうぐっと荘重になってくるということもある。そうすると、説得力が増すようだし、自分に対してもより批判的になれるし、うまい言葉も浮かんでくるというものだ。そのほかに、手記を書くことで、実際に気持が軽くなるということがある。たとえば、きょうなど、ぼくはある遠い思い出のためにとりわけ気持が滅入っている。これはもう数日前からまざまざと思い起こされて、それ以来、まるでいまわしい音楽のメロディーかなんぞのように、頭にこびりついて離れようとしないのだ。ところが、これはどうしてもふり切ってしまわなければならないものである。こうした思い出がぼくには数百もあるが、その数百のなかから、時に応じてどれか一つがひょいと浮かびだし、ぼくの気持を滅入らせるのだ。どういうわけかぼくは、それを手記に書いてしまえば、それから逃れられるような気がしている。どうして試してみてはいけないのだろう?」
ドストエフスキー『地下室の手記』
*
「読者の望み、それは自分を読むことだ。自分がよしとするものを読み、これなら自分にも書けたのになどと考える。また彼は、その本が自分の場を奪ったことや、自分では語るすべも知らなかったことを語ったとして恨む。自分ならもっと巧みに語れるのにと思いさえもする。
本というものはぼくらにとって重要になればなるほど、その読み方は難しくなる。ぼくらの本質はその中に滑り込み、ぼくらの用途に合わせてその本を考えてしまうからだ。」
「ぼくらは誰もが病人で、しかもぼくらの病気を扱った本しか読むすべを知らない。それが恋愛を扱った本の成功となる。だれでも自分だけが恋愛を経験する唯一の人間だと思っているからだ。彼はこう考える。『この本はぼくに宛てて書かれている。他の誰にこれが理解できるだろう。』複数の男性が一人の女を愛しており、自分たちもそれぞれ彼女から愛されていると信じこんでいる。そして皆がその本を彼女に読ませようとあせる。はたして彼女は『この本はなんて素敵なの。』と言う。だが、彼女は別の男を愛していてそう言っているのだ。」
ジャン・コクトー『ぼく自身あるいは困難な存在』ー読書について
*
「主観的であるとは、執筆者が、文章の意味を自分だけで理解して満足していることである。読者は読者なりの理解のしかたで読んでも結構という態度である。つまり執筆者は、あたかも独語調で読者を無視してものを書く。だがペンを執る以上は対話調に書くべきであろう。もっとも対話といってもだれも問い返してくる者はいないのであるから、それだけいっそう明瞭に表現する義務があるのはもちろんである。だからこそ文体が主観的になるのを避け、つとめて客観的にすべきである。それには読者をあらぬ方向に走らせぬ文章、著者が考えたことをそのまま読者にも考えさせる迫力ある文章を作らなければならない。だがこうした文章をものするのは、思想が重量の法則に従うという事実を常に銘記している著者だけであろう。つまり思想というものは、頭から紙に向かうのは容易であるが、逆に紙から頭に向かうのは大変なことで、その場合には手持ちのあらゆる手段に助けを求めなければならないのである。さてこのような法則に従った文章ができあがると、そこに記された言葉は、完成した一枚の油絵のように、客観的に作用する。これに反して、主観的な文体の働きは、あやふやで、壁に付着した染みにも劣る。染みならば偶然想像力を刺激されて、そこにある図柄を見る人が一人くらいはいるにしても、普通の人には要するにただ染みを見るにすぎないのである。」
ショウペンハウエル『読書について』
*
「『私は真実のみを、血まなこで、追いかけました。私は、いま真実に追いつきました。私は追い越しました。そうして、私はまだ走っています。真実は、いま、私の背後を走っているようです。笑い話にもなりません。』」
太宰治『もの思う葦』ー或るひとりの男の精進について
ぼくはこの手記の体裁については何物にも拘束されたくない。順序や系統も問題にしない。思いつくままに書くだけだ。
もっとも、こんなことを言うと、その言葉尻をとられて、諸君から質問を受けるかもしれない。もしきみがほんとうに読者を予想していないのなら、順序や系統も問題にしないとか、思いつくままに書くとか、そんな申し合わせをわざわざ自分自身とやっているのはどういうわけだ、しかも紙の上で? いったい何のための言いわけだ? 何のためのわび口上だ?
〈いや、実はそこのところだが〉とぼくは答える。
とはいえ、ここには複雑な心理があるのだ。もしかしたら、ぼくがたんに臆病者だということになるかもしれないし、また、もしかしたら、この手記を書くにあたって、できるだけ羽目をはずすまいために、わざわざ自分から読者を想定しているのかもしれない。そんな理由なら、何千となくある。
だが、もうひとつ、こういうこともある。いったいぼくは何のために、なんのつもりで書く気になどなったのか? もし読者のためでないとしたら、頭のなかで思い起こすだけで、何も紙に移すまでのことはないではないか?
なるほど、そのとおりだ。だが、紙に書くと、何かこうぐっと荘重になってくるということもある。そうすると、説得力が増すようだし、自分に対してもより批判的になれるし、うまい言葉も浮かんでくるというものだ。そのほかに、手記を書くことで、実際に気持が軽くなるということがある。たとえば、きょうなど、ぼくはある遠い思い出のためにとりわけ気持が滅入っている。これはもう数日前からまざまざと思い起こされて、それ以来、まるでいまわしい音楽のメロディーかなんぞのように、頭にこびりついて離れようとしないのだ。ところが、これはどうしてもふり切ってしまわなければならないものである。こうした思い出がぼくには数百もあるが、その数百のなかから、時に応じてどれか一つがひょいと浮かびだし、ぼくの気持を滅入らせるのだ。どういうわけかぼくは、それを手記に書いてしまえば、それから逃れられるような気がしている。どうして試してみてはいけないのだろう?」
ドストエフスキー『地下室の手記』
*
「読者の望み、それは自分を読むことだ。自分がよしとするものを読み、これなら自分にも書けたのになどと考える。また彼は、その本が自分の場を奪ったことや、自分では語るすべも知らなかったことを語ったとして恨む。自分ならもっと巧みに語れるのにと思いさえもする。
本というものはぼくらにとって重要になればなるほど、その読み方は難しくなる。ぼくらの本質はその中に滑り込み、ぼくらの用途に合わせてその本を考えてしまうからだ。」
「ぼくらは誰もが病人で、しかもぼくらの病気を扱った本しか読むすべを知らない。それが恋愛を扱った本の成功となる。だれでも自分だけが恋愛を経験する唯一の人間だと思っているからだ。彼はこう考える。『この本はぼくに宛てて書かれている。他の誰にこれが理解できるだろう。』複数の男性が一人の女を愛しており、自分たちもそれぞれ彼女から愛されていると信じこんでいる。そして皆がその本を彼女に読ませようとあせる。はたして彼女は『この本はなんて素敵なの。』と言う。だが、彼女は別の男を愛していてそう言っているのだ。」
ジャン・コクトー『ぼく自身あるいは困難な存在』ー読書について
*
「主観的であるとは、執筆者が、文章の意味を自分だけで理解して満足していることである。読者は読者なりの理解のしかたで読んでも結構という態度である。つまり執筆者は、あたかも独語調で読者を無視してものを書く。だがペンを執る以上は対話調に書くべきであろう。もっとも対話といってもだれも問い返してくる者はいないのであるから、それだけいっそう明瞭に表現する義務があるのはもちろんである。だからこそ文体が主観的になるのを避け、つとめて客観的にすべきである。それには読者をあらぬ方向に走らせぬ文章、著者が考えたことをそのまま読者にも考えさせる迫力ある文章を作らなければならない。だがこうした文章をものするのは、思想が重量の法則に従うという事実を常に銘記している著者だけであろう。つまり思想というものは、頭から紙に向かうのは容易であるが、逆に紙から頭に向かうのは大変なことで、その場合には手持ちのあらゆる手段に助けを求めなければならないのである。さてこのような法則に従った文章ができあがると、そこに記された言葉は、完成した一枚の油絵のように、客観的に作用する。これに反して、主観的な文体の働きは、あやふやで、壁に付着した染みにも劣る。染みならば偶然想像力を刺激されて、そこにある図柄を見る人が一人くらいはいるにしても、普通の人には要するにただ染みを見るにすぎないのである。」
ショウペンハウエル『読書について』
*
「『私は真実のみを、血まなこで、追いかけました。私は、いま真実に追いつきました。私は追い越しました。そうして、私はまだ走っています。真実は、いま、私の背後を走っているようです。笑い話にもなりません。』」
太宰治『もの思う葦』ー或るひとりの男の精進について
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