2014年2月25日火曜日

allele 2回目が終わって深夜

絶賛月1で公演中のallele。

2回目が無事に終わりました。
いや、あんまり無事でもなかったかな笑
本番中に床の金具に足を思い切りぶつけたらしく少々流血しましたね。
終演後客出しの時に指摘されて気づきました。
でも最近ムキムキになってきたので大丈夫です。

打ち上げして、さっき終電で帰ってきました。
本当は見にきてくれた方々にそれぞれお礼の連絡をするのが先決なのですがそれは明日ゆっくりということで、
なんだか今、まさに考えてることを書き出したくなって日記を書きます。


2回の本番を終えて今、完全にネタが尽きました。

ここからが勝負だと思います。

やり尽くした先に行かなければいけません。
やり尽くした先に行くには、まずやり尽くさなければなりません。


稽古で良い感じに踊れた日があるとします。
しかし次の日の稽古で、昨日良い感じの内容をトレースしようとすると絶対にうまくいきません。
何度も何度も失敗しました。
上手くいった日こそ、翌日それは捨てるべきなのです。全て真っさらに忘れてやるべきです。
上手く行ったものを捨てるのは惜しいし、それを高めたら良いのではないかって揺らぎます。
でも、良い感じに踊れたということは経験として蓄積され身体に残っています。それがいつか身になるのだと思います。

最近はそういうスタンスなので、昨日上手く行った構成を翌日にまず疑って否定してみます。

こんなに即興ばかりで踊っていると当然、動きの癖もあるし限界を感じたり飽きがきたりします。
でも、それでも我慢してひたすら踊るとふと、ほんの些細なところで今まで経験したことのない動きが自分の身体で実現するのです。
本当に、ほんの少しだけ。ミラクルだ!ってちょっと自分で興奮してる。


誰もやっていないダンスを、誰よりも上手に踊っている自信があります。

でもやっぱり、芸術は誰かと比べるものではないと思います。
しかしながらそれは、どれだけ本人が深みにはまってそれを突き詰めたか、そこから始めて価値が決まる気がします。その点では相対評価ではなく、絶対評価です。

相対評価は、例えばまだ突き詰められていない段階、突き詰めていく段階で行われるものだと思います。評価軸は単一です。
絶対評価は、評価軸が評価するものの分だけあるのです。
どちらが良いとも悪いとも言いたいわけではありません。


なんとなく、
ダンス踊ってる、とか、舞台やってる、とかじゃなく、
芸術として、きちんと作品を作りたいのです。
同じに聞こえるかもしれませんが、というかほぼ同じなんですが、
ダンスや舞台の実際の現場では芸術という言葉はなんかどストライクすぎて恥ずかしいというか小難しくてむずがゆい感じなんです私だけかもしれませんが。
上手く言えない。

芸術という言葉に付かず離れずえもいわれぬ魅力を感じてここまできた気がします。なんですかね、大学の進路を選ぶときに芸術という言葉でふるいにかけていたあの感じ。

踊る私そのものをきちんと形にしたいのです。



というわけで昨夜これ打ちながら寝落ちしました。
今日も梯子仕事です。

さぁ3月いくぜ。

2014年1月30日木曜日

allele 1回目が終わって。

久しぶりの自催公演、fundada-②[allele](ちなみにアレルと読みます)。

一回目の公演が昨夜無事に終わりました。

この告知の少なさでご来場下さった皆様には本当に感謝します。いつもより力強くて長い拍手を頂けて、とても嬉しかった。
また、気にかけて頂いた方々も、是非2/24,3/26の本番へ足を運んで頂けましたら幸いです。
まだまだ、やります。


[allele]はソロの作品です。
今回は2シーン構成で45分ちょいの作品でした。

本番一週間前に構成が固まり、2日前に構成が前後逆転し、本番数時間前からの怒涛の仕込み、時間なくてゲネは全部通せず、なんだか怒涛の本番。
劇場さんの大いなる力添えにより、無事に終えられました。

今回のスタッフは以前の公演にも付いてもらった照明さん、伊藤侑貴氏にやってもらいました。(ちなみに結局音響までやってもらうという…)
ちなみに彼は普段演劇現場につく方が多いそうですが、自分の見るものにはかなりはっきりと良し悪しを言い切るやつなのでダンスでもなんでも残酷にバッサリです。
揺るがない自分の尺度を持ってる人は信用できます。

照明指定プランは一切なしの全権委譲、彼がやりたい様に作った明かりに当たりにいくというスタンス。
どっちも本番のそのときまで細かく何をするか全く決めてないという、自分で決めておいてなかなかスリリングで楽しい本番でした。



最近、私のダンスを見てくれた人に、「新しいダンスだね」と言われることがしばしばあります。
自分としてはものすごく根源的で原始的な衝動だけに削いで踊ってるだけなので、その感想を初めてもらったときには意外な気分がしました。

でも、明らかなことは、私は自分が今まで見たり実際踊った経験のうちから、好き/嫌いの感情をはっきりと意識し、疑問を自分なりに解決しようとやってきた結果が今のダンスです。
もし、今、つまり私が生きているこの時代で新しさを手に入れられるのであれば、それはおそらく「今」の「このとき」をきちんと踊れていることになるのかもしれない、なんて思います。


ダンスは、より明確な情報が伝達され共有される、例えば単純に言葉のような表現とは違って、見る人それぞれがダンスを見ていろいろなことを感じ、考えます。

だけど最近はっきりと感じるのは、自分が身体に新鮮な発見を見出しつつ集中しているときにはお客さんも興味を持って見てしているし、自分が集中力切れたときにはお客さんもつまらなくなっている。それだけは、ものすごくはっきりと伝わってしまうのです。

びっくりします、見てる人とタイミングを照合すると、完璧に自分の心の機微がまんまお客さんと共有されてるのです。考えてることがまんまばれている。笑
その昔、テーマが上手く表現できないと悶々としていたあれは一体なんだったのか!こんなにもはっきりと伝わるものがある。
これは私が今のようなダンスをしているせいなのかどうかは分かりません。
しかし私がダンスを通して何か伝えたいことがあるとすれば、踊るのが楽しいってことだけなんだろうな、と思ったりします。

よく考えれば、私が今でも踊る理由はたしかにそれだけです。


私は、ダンスを踊ることもなければ見ることもないという人に自分のダンスを見せるのが割と好きです。

最近の自分のダンスには、解釈や説明は一切つけませんし、もちろんダンスには言葉はありません。
だけど、見てくれた人たちはそれぞれ自身のうちに起こった経験をものすごく多彩な言葉にして投げかけてくれます。
そしてその感想の言葉には迷いがなく、もちろん他人の物差しも一切なく、その人自身の内から発せられる言葉だと感じることが出来ます。
それが私にとって何よりも嬉しく、また自慢でもあります。

誰か他人の言葉を借用してみたり、格好つけて難しい言葉を使ったり、そういうのは判別できる気がします。だって自分がかつてそうでしたから。
言葉は情報だけを伝える訳ではなく、使う人のひととなりや心の機微も感じさせてくれます。
その点、つまり表現するという点においては言葉もダンスとなんら変わりありません。



だんだん話がそれてしまいましたが、
次は2/24、二回目の本番です。
何しましょうかね…笑

色々突き詰めてやってしまったので、もう少しこのやり方で落ち着いたら、今まで嫌だやりたくないと手放したものや恐がっていたものへも少しずつ手を拡げていきたいですね、なんて、先は長いねぇ。

もし興味を持って頂けるのであれば、是非劇場へ足を運んで頂けましたら幸いです。
何かしら、良いもの、ダンスをお見せできるつもりです。



寒いのか暖かいのかよく分からん日々がつづきますね、
身近でインフルエンザに討死した戦友がちらほら。
どうぞご自愛くださいませ。

では!

2013年12月15日日曜日

最近のもろもろ

今週ははじめてのことづくしの一週間でした。

こども向けのバレエクラス、大人向けのバレエクラス、バレエヨガクラスが始まって、別の新しい仕事が初勤務、ホールの仕事もこれまでと違って人をまとめなきゃいけない配置に初めてつかせてもらい、
なんだか大変刺激の多い一週間でした。

そして合間に細々と1月からの本番の稽古もしております。



数年前にはあんなにやりたくないと思っていたインストラクターの仕事も、色んなレッスンを持たせてもらえて学ぶことも多く、徐々にはまりつつあります。

先生業ってのは人様に自分の何かを押し付ける気がしてなんとなく嫌でした、
だけど"押し付け"なんて奢りを言う以前に、人に何かを教えたり伝えたり為にどういうパフォーマンスをするかという地点で、改めて自分自身に何ができるのかを考えさせられます。


(できますよ!って軽いノリで言ってしまった)子供向けのバレエクラスは、正直暗中模索でかなりどきどきでした。
お母さんの背後から恥ずかしそうにこっちを見る子供を見て、私も同じ気持ちさね!と思いました。

「みんな初めてのバレエでどきどきしてるかもしれないけど、私も初めてのレッスンでどきどきしてるんだからね!」って言う私を、8つの目がじーっと見てた。


初めてバレエ教室に行った3歳のときのことは一切覚えていませんが、見学に行ったその日からバレエのお稽古に参加しのめり込んで以降23年踊って来てしまった私としては、とにかく楽しくてもっとたくさん踊りたいと思ってもらえるクラスにしたいと思っています。

小さい頃にバレエのお稽古を通して色々考えて、未だに自分の考え方として残っているものもたくさんあります。
例えば、踊りに順番は付かないこと。
人それぞれの踊りに世界で1番素敵なところがあること。
これは自分のクラスでは絶対に大切にしたいと改めて思います。
伝えるの難しいと思うけど、他人に自分の評価を全て委ねるまえに、自分と自分の身体と他人にちゃんと向き合えるようになってほしいな、と思う。
そしてこれが正に、私の通ってたバレエ教室の方針だと気づくのだけれど。

大人の、バレエにしてもヨガにしても、向き合うのは自分と自分の身体。

全体を通して私の伝えたいことの根っこは一つ。
身体は日々変わっていく。それを恐れて"変わらないもの"に縋るより、変化をコントロールし自身のうちで産み出し、"変えていく"こと。
例え世の中から明るい可能性が潰えたとしても、自分の身体には最後まで可能性がある。

なんて、思っている。
そんなんだから、どんどんどんどん社会から切り離されてっちゃうの。



切り離されちゃてるついでに、作品の稽古もしてますの。

自分の出た作品の映像とか稽古の映像とか、2〜3年前までとてもじゃないけど見られなかった。でも最近は毎回最後に、自分の動きを映像で撮って見ます。

昔は10分撮っても面白いとこ一箇所か二箇所くらいだったけど、最近は割と自分で見てて面白い。でもなんかこう、もっとすごい感じになる気がする。
もう一つ間が伸びたり、縮んだりしないものか、もう一つ大きく、小さくならんものか、そんなこと考えながら映像を見ております。
身体の精度を上げたい。

8月にやった「譚々」と言う作品は、ドラムを叩いてくれたハタヤマンと共に私も20分以上椅子に座って踊りました。
最後に立ち上がって踊りながらはけていくのだけど、これがどうにも上手くいかない。普段は立位で30分は軽くいくのに、この作品では立ち上がったあとダンスが5分と保たなかった。
そのときはどうしてか分からなかったのだけど、どうやら演出に身体が甘んじていて身体そのものを俯瞰的にコントロールできていなかった、椅子に座ることを踊る間常に選択していなかったのだとのだと思い至りました。

身体の精度を上げるってことはコントロールするということと常に密接に関係しているようです。

1月の本番は、そんな感じでやろうと思っています。


あと、最近改めて自分の立ち方を考えています。立っている姿。
どうやら足裏の体重の掛け方がよろしくないということに気づきまして、歩き方や立ち方全体的に見直しています。
目指しているのは宮本武蔵の立ち方です。すっと、たち上がるような立ち方。


以上最近のことでした。

寒い日々が続きますので、暖かくしてお過ごしくださいませ。

あと、
"allele"、1月の本番は29日(水)夜20:00〜明大前KID AILACK ART HALLでございます。

2013年11月17日日曜日

新作をやるよー "allele"

1月末から、新作やります。

1/29,2/24,3/26の月一で。
3回共通で、タイトルは"allele"。


ブラッシュアップしていくというか、コンスタントに本番をやってみるとどうなるか、ということをしてみます。
おおよそソロです。

各日ともにおそらく20時開演、
場所は明大前駅近くのキッドアイラックアートホール。
床は広くないけれど天井が高くて、見てすぐに気に入りました。


効率の良い本番のやり方ではないことは重々承知の上です。
そりゃまとめて週末とかに本番やった方が良いよね、そう思います。
だけど、昔から舞台の本番を何度もやってきて色々考えたことがあります。

皆そうだと思うけれど、
本番が終わると燃え尽き症候群になっちゃうのです私。
本番前は生活を全部投げうってでも本番を頑張って、終わると達成感でぼーっとしちゃうのです。
それが悪いことだとは思ってないし、当たり前の事だとも思うし、舞台人としてのキャリアだけを考えれば生活を掛けて舞台に出る方が良いのかもしれん。

しかし舞台や本番のことだけを夢現に考えていても、人間の生活の出来ない人になっちゃう。端的に言えば、生活が成り立たない。
どれだけ貧相に生活しててもある程度ご飯食べなきゃいけないし、家賃も払わなくちゃならないし。
それは誰の所為にも出来ないことで、踊るために身を立たせる最低限のことは出来なくちゃならないのです。
生活のお金の計算が壊滅的に下手な私でも、それ位は薄々気づいてる。

舞台の本番は、せいぜい60分くらい。その本番をするために何ヶ月も何日も、相当の時間を掛けて稽古をする。
その60分は何ものにも変え難い、特別な時間。踊るのは本当に好きだし面白い。
だけど、その60分が特別であればあるほど、その他の時間がとても長いことを知る。
劇場に住めたらいいのにね。


ここ何年か、人間の動きをダンスである動きとダンスでない動きに分けられるだろうか?ということを考えてた。
生活と踊ることの境目も、その考え方の延長だと思う。

ダンスそのものは私自身を踊るものだと思う。私が生きていることそのものを踊る、だからこそ、消費されるのではなく、生産する為に。
ダンスが特別なものじゃなくて、ダンスは身の回りに溢れていて、もしくは私自身がダンスで、生活の全てを踊れたら良いと思う。
ハレとケの区別なく、生活の全てをダンスに出来たら、そう考えて今回の作品をやってみようと思いました。

単純にコンスタントに本番が迫ってくる状況を作るってのは、色んな意味で自分への挑戦です。


本番それ自体の、パッケージングの方に話の比重が大きくなってしまった。
テーマや内容はぽつりぽつりと思いつくことはあるけれど、それは稽古しながら詰めていきつつ、今回は上に考え方も作品そのものに多少なりとも関わっている気がします。

お上品な作品を作る義務もないので、割と思い切ったことをやってみようとも思っている。コンスタントに狂ったことをしてみよう。
実験的な要素が大きいかな。


私の考え方ややり方も好い加減に極端なのはわかっているし、これが正解で他はダメだ!とか断言したいわけでもないけれど、
自分のダンスや作品に対して、多角的な試行錯誤が出来ればと思っている。
今考えていること、今やりたいことをとりあえずやってみる。

真面目過ぎやしないか、と言われることもままあるけれど、ダンス以外真面目にやることもないし、
他のことはどれだけ手抜きしたり腐ったりしても、自分のダンスのこと位は、絶対に信念を曲げたくないね。

2013年11月8日金曜日

PIANIST

内田光子のピアノリサイタルを聞きに行ったのです。

クラシック音楽は明るくない私が、幸運にも何人かピアニストの演奏を聴き比べることが出来て感じたのは、内田光子の演奏が明らかに他の人の演奏とは一線を画す、ということ。
あくまでも主観的意見。でも私の中で何かが違う。

相変わらず楽曲や演奏法、解釈の云々は私とんちんかんだけれど、
この人は、ピアノという楽器を演奏してるんじゃなくて、ホールをまるごと楽器にしてしまう演奏をピアノを使ってやっている、と感じるに至った。

1回目に聞いたときは分からなかった、2年ぶりに聞いてはっきり感じた、
ホール全体を飲み込む演奏、ないしは、ピアノがブラックホールのように人の意識を飲み込んでゆく様。

なぜならおそらく、この人は、自分の音の響きを"聞いている"。

空気中に消えていく音の美しさは何度触れても鳥肌が立つ。


今年コンサートがあるのを知って、邪な気持ちは捨てて、ちゃんとチケットを買った。

実際に聞いて、引きで演奏を聴き比べるより、受け取るものは少なかった気がする。
「この人こんなに手が大きいんだ」って、鍵盤と手から目が離せなくて頭に血が昇った。
どんな曲だったか、とかあんまり分からない。

ピアノの蓋が被っている方に座ってたから、音は遠かった、というか跳ね返って届くまでに若干ぼやけてた。
それでも迫力は十分、演奏はクリア。

ぼんやりした頭で、作曲者のことを考えた。

100もない鍵盤の上で、
例えばドの音の次にレの音を弾くと作曲(指示)するのにどれだけの思考と苦労と閃きがあるのかしら。

音楽を全体のまとまりとして聞くよりも、極端に言えば一音づつの連なりはどうやって紡がれていくのか、ということに意識を向ける方がスリリングだ。
直前、今、直後。

"差異"と"反復"?
薄れていく少し前の響きが蘇って、少し先の準備をしている。

そのスリルは私が自分の身体で踊るときに差し向けて持っていく意識のレベルとどこか似ていて、
例えば手を動かしたあと、その余波はどこへ伝達する?身体の中心へ伝播した運動が身体の内で反響する、連なりは止まらない。

最近そんなことを考えてたら、なんとなく、今まで退屈だったバッハの曲が聞いてみたくなっている。

作曲家が音を紡ぐ果てしない苦労を、演奏者は追体験するものなのかしら。
少なくとも内田光子の演奏は、一音も捨てがなく、彼女なりの解釈と愛に満ちている。


内田光子はなんとなく怖い、って言う人もいる、雪女みたいって、
プリーツ・プリーツが最高に似合う雪女はお辞儀が異様に深い(コンテのダンサーみたい)。とても身体が柔らかいのか、髪の毛バッサバッサしてお辞儀をする。
私、おばあさんになったらガリガリになってイッセイミヤケのプリーツ・プリーツを着るのが目標。

今年たまたま彼女のトークを聞く機会があったのだけど、まぁこの人がよく喋る人で驚いた。2時間くらいノンストップで一人漫談みたいに喋ってた。
あれはあれで怖い。


以上、勢いで書留

聞きながら自然と身体がうずうずして、頭が揺れてしまってた気がする。隣の近所の人に迷惑掛かってないと良いけれど…

2013年10月9日水曜日

ともだちのこと

風が強い。

今日は、外回りで近所に来ていた大学の友達と昼ご飯を食べました。
彼女とは、いつもお互い自分のことをペラペラしゃべってるだけなのに、不思議と話がかみ合う気がします。

その後用事があって行った大学院で友達に珈琲をご馳走してもらいました。
「古い珈琲豆消費したいから」って言ってたけど、淹れてもらった珈琲ってとても美味しい気がする。

ついでに後輩のチャリンコ組み立ての手伝いをしました。
後輩くん、口の立つ頭の良い奴なのに、カッターの刃の戻し方も知らないぶきっちょさには驚きました。



私の身の回りにはいろんな友達がいて、皆好き好きに生きております。

割と個を持っている人が多いので、
川の流れに乗って行くと云うよりは、常に水流に晒されすり減らされながら川底でじっとしている小石の様な方々が多くいます。
小石だけれども、いつか川の流れを変える一石になるかもしれない。
ならないかもしれない。笑

計画性の無い生き方を非難されれば反論の余地はありませんが、
それでも皆自分自身に対して正直に生きている気がするから、誰も誤魔化したり繕ったりしないから、"間違える"ことはないと思っているし、だから私は私の友達が好きなのです。


先日大学院の同期が結婚式を挙げました。
彼は大学院在籍中に結婚を決意し、結果的に就職したあと退学しました。

結婚式には院生の同期を揃えて呼んでもらいました、
研究は放棄する形になってしまったけれど、これが彼の選んだことの成果発表なのかなと思いました。

「俺は本当は痩せてるんだ」って言いながらも樽の様な腹してるからいつもバカにしてたのにちゃんと体絞ってきて、精悍な顔つきはなんとも言えずかっこよかった。


外側からの、他人からの良し悪しの判断はあまり意味がないと思っています。
どっちかだし、どっちでもいいし、本人が良し悪しを決められればそれで良いのです。



話題は少し変わるけれど、

ダンスしていることもあってか、あけっぴろげな性格のせいか、恥ずかしいことや隠し事、他人には見せられない自分っていうものは今まであんまり無い気がしていた。

けれど、思っているより深いところに、「自分探し」とかのレベルではなく、自分でも気づいてないような何かが居るものなのかしら?とふと思うようになってきた。

知らない方が良い類のものかもしれないし、まぁ、居ないかもしれない。

どっちでも良いのだけれど、今は。

2013年10月3日木曜日

久しぶりに、日記

「人間観察が趣味です」という女子をよく見かける。

女子に限らないのかもしれないけれど、趣味が人間観察と言う男子はあまり見ない気はする。
…私だけだろうかしら?

各人が人間の何を観察しているのか聞き正したことはないけれど、かく云う私も何の気なしに人を見ていることは多い。
しかし私の場合、背後から観察しつつ後をつけている。

人間の身体の動きは実に面白い。ただ見ているだけで十分に面白いものであることは間違いない。
さらに骨とか筋肉とかについて少しかじってみると、身の回りの動いている人をみるだけで人間ってすげーなぁ、良くできてるなって感動しそうになる。


最近は逆に、ダンスを踊る人を見ていられないという場合に多々遭遇する。
「見ておくれ!」と言わんばかりに設えられた身体と空間で、こちとら逃げることも出来ずに苦しい時間を過ごすこともたまにある。

だからといって、ダンスのことが嫌いになった訳ではない。
大学からこちらへ出てきて、沢山のダンスや舞台の作品を見てきて、分母がどんどん大きくなって、そのうち何年経っても忘れられない舞台が占める割合はどんどん下がっていく。

どんな賞を取ったとか世界中で評価されているとかそんなことは関係なく、むしろそういう評価を受けているもののうちにおいてすら、十分に感じ入ることの出来るものはほんの一握りでしかなかったりする、
ダンスに限る話ではなく、どんな芸術においても。

不幸なことではなく、当たり前のことなんだと思う。
感覚がショートして衝撃の波に引き摺り込まれるような、
"本物"にはそうそう出会えない。

しかし、それは確かに、ある。





田中泯さんの場踊りを見た。

立教でお世話になった宇野邦一教授が田中泯さんの古くからのご友人らしく、教鞭を執る大学で場踊りを、という退職の近づいた宇野さんの要望により実現したそうだ。

大体1時間位、キャンパスを舞台に泯さんが舞った。それを目撃出来たののが何よりも嬉しくて幸せなことだった。

時間とか空間とか身体とか、難しい言葉で語るのはよそう、
泯さんのダンスはただただ、美しかった。
無駄が一切なく、いい意味で軽く、まさに舞い踊っている。

無駄のない人間の動きを形容する言葉は「美しい」なのではないかと、最近感じる。別の言葉ならば、「惹きつける」「ただ見ることを要請する」とか。
人間観察をする対象となる人々は、見られることを意識していない、スマートで単純な動きをしている身体だ。
しかし何の気なしに動くその身体の美しさは偶然の産物であり、私が目端に盗み見た美しさでもある。

ダンスを踊る身体は、まさに観客に見入(射)られる状況の中で、美しさを実現する。偶然でなく、必然に。

踊り始めにそこで立っている姿だけで、その人のダンスの結果は見える。
そう言うものだと思うし、私自身そう言っていられるダンサーで居たいと思う。
"何を"踊るのかが常に問題であって、少なくともダンスは発明ではなく、見出すものだから。


場踊りの後質疑応答の時間があって、質問させて貰うことができたので
「日常生活とダンスとの間に境界はあるか」という質問を訊いてみた。

人間であればどんな時でも身体を使って動き、生活しているけれど、
その動きとダンスの違いをどこに設けるかということがその人にとってのダンスそのものだと考えている。

泯さんはとても丁寧にたくさんの言葉を返してくれた。
印象に残ったのは、「いつか境界がなくなるとしたら」という言葉だった。





泯さんのダンスを見て、友達と話をして、久しぶりに日記を書こうと思った。

最近は頭の中の考え事も、浮かんでは消えて行く。
書き残しておこうとしなければ生まれることすらかなわない言葉がとにかく頭の中を洗い流してゆくようです。

短い言葉を気分で発信して、それは私のことを知っている人たちに私ありきで理解されて、
そう云う場でしか言葉を使っていないとちゃんと言葉を使って文章が書けなくなってしまう。

言葉は私の所有物ではない、と思うのです。
それにしても、お前はダンサーなんだからブツブツ言ってないで踊れよ、って声が聞こえてきそうです。
それでもやっぱり、いろいろ考えてないと踊ることもなくなってしまいそうなのです、
踊ることは私にとって、常に何某か意思の表明でもあるのです。


とりあえず力尽きたのですが、後半の失速具合が半端ないな。
だけどまたここでやめると書けなくなるから。

今日はここまでー。