2019年4月10日水曜日

眈々、淡々、譚々(ダンス作品の前と後と、映像のはなし)

昨日、立教の映身の教授で映画監督の万田さんと、これから映画撮ろうとしてる浅雄との飲み会になぜか呼んでもらった。


万田さんには直接指導は受けなかったので、しっかり話したのは初めてだった。

7年くらい前に、友人の授業課題で製作した映画に出させてもらったんだけど、万田さんがその作品の中の私をいまだに覚えてくれている。

なんともフラットで、柔和なおじさま。こういうおじさんになりたいとさえ思うくらい。




ふと、気になったことをつらつら喋った。

その前日に「魅惑のダンス会」の上映会をしたこともあり、
人の動きと映像の関係の話を聞かせてもらった。

ダンス作品、ひいては舞台作品は、記録映像として撮影した場合、その魅力や作品の意図するところが抜け落ちてしまうことは当然のことだ。
上映会で「映像で見るより生で見た方が絶対面白いんだけどね」と言いながら上映していたけれど、それは当たり前なんだけど、少し引っかかったこともあった。

その時は必要ないと思ったので特に言わなかったけど、
生>映像という捉え方で一括りにするのは勿体無いかもしれないと。

あの会に関して言えば、映像を見ながら、出演者がその場で解説やその時の感情を話しながら、それも踏まえて記録映像を見ているのだから、また実際の舞台とは違った面白さを提供できていると思った。




ダンスと映像の関係を、雑に扱ってしまうのは惜しいとも思う。
映像が生に、必ず劣るということもないし、映像だから生まれる情報もあると思う。
むしろ、映像という手法を、ダンスが選択することだってできるはずだと思う。




万田さんに、映画を監督・撮影する時の演出方法を簡単に教えてもらった。
かなり面白い。


まず、芝居を生で見る。
生で見て、芝居に違和感がないか、この場合の違和感とは演者がその動きに対して無理をしていないかどうか、もしそういう様子であれば、生のその場で演出を変えていくらしい。

そのあとカメラ越しに見て、生で見てその芝居を見て面白いと思ったことを、画角の中で再現するそう。
だから、カメラ越しに見て、新たに演出を変えることもあると。

映像の人からしたら当たり前なのかもしれないけど、私にとってはかなり新鮮な話で面白かった。


ちなみに、万田さんは舞台作品が苦手と言っていた。笑
暑苦しいんだって。




「芝居に違和感がないか」という演出の方法は、かなり私自身も共感する点だと思った。
大小かからわず、エネルギーが屈折していないかどうかはとても大切なことだと思う。

その中で見つけた面白さを映像の中で再現する?とはっ!どうやってっ!!?と思ったけど、それは隣で見てる浅雄の方がよくわかってるんだろう。




院生になって、ソロで作品を作ってみようと思って試行錯誤していた頃、
どうしても自分のダンスが面白くないことにもやもやしていたことがあった。


その状況の中で、ひたすら自分の動きを映像で撮っていた。
形やシークエンスの振付を作ってみたり、即興で踊ってみたり。

ある日、即興で踊って数分回した映像の中で、一瞬だけ「この動き面白い」と思えた瞬間があった。

そこからは、その「この動き面白い」と思える瞬間をどれだけ増やしていけるかが課題になった。
まずは映像で、そのうち動いている中でも、これは面白くなるだろうって思える瞬間が増えていった。



この頃すでに、自分で自分に形を振付けるということは諦めかけていた。

振付を処理する自分の身体が気持ち悪くてしょうがなかった、結果、まだ自分の身体に興味を持っていられる即興の方が幾分、自分自身に違和感なく動けるような気がしていた。

その時感じた振付けに関する違和感とは。
振付にすると、達成すべき点と点を繋いでいるような気分になって、
その点と点の間の感覚が抜け落ちるというか、ムラがあるというか。
だから、その点を捨てて、“動き方”の方に、つまり“線の書き方”の方に全精力を振ることにした。

だから私のダンスは、達成すべき点をつなぐものでなく、動いた結果であり、軌跡のようなものに近い。




魅惑のダンス会では、「譚々」(たんたん)という作品を上演した。
この時で3回目の上演になる。

この作品は、ラヴェルのボレロを参考にした作品。

ボレロの何が面白いかって、段々テンションが階段を上っていくところ。
矢印は一方向、上がるのみ。
ハイになって上っていく様をあんなに丁寧に、しかもそれを15分ちかい長尺でやるという変態作品。


その構成をダンス作品として再現する。片方はスネアドラムで、片方はダンスで。

何を見せたいかというと、段々ハイになってくヤベーやつらを見せたいんだよね。
ぶっ飛んでいって欲しい。見ちゃいけないものを見せてほしい。


上映会のあと、出演者の金井さん(ダンサーではなく音楽家)にも指摘してもらったけど、その目的にしては、ぶっ飛び方がまだ足りないと。
本当にその通り。




トランスを自己生成するのは、思ってるより難しい。

3歩進んで2歩下がりながら、というより、2歩下がりながら3歩進むような絶妙なテンションで自分の身体を徐々にハイにしていく。

違和感がないように、なめらかに。
雪の斜面を滑り降りるスキーのように、上がっていく。




それを、だ。

そのダンスをお客さんにどう共有してもらうかというと、また話が一段階ややこしくなる。


有機的な物語のある作品とちがって、私のやっていることはとても抽象的。
音楽の演奏や、お祭りのようなものに近い。
その分、根源的な身体の在り方に関わっていると思う。

ただ、今の所は、抽象的だから伝わらないとかそういう問題でもなく、ただ圧倒的なぶっ飛び方が足りないってことなんだろうけど。
0か100。中途半端はあんまり意味がない。


それで、現時点で、自分の身体で起こっていることを一番ストレートに体験してもらえる方法として分かっているのが、自分が身体に関わるレッスンをすること。
ヨガやバレエ。

現時点で一番それを実現しやすい環境は、パワーヨガ。
おそらく、呼吸の使い方と身体の変化をコントロールしていけるからだろう。

動きながら私がハイになっていく状況に、ついてきてもらえる。なんだったら、同じような感覚を共有してもらえるかもしれない。



この状況を作品化できないだろうか、と思っている。

実現した時には、既存の舞台機構や上演方式の枠に当てはめる必要はなくなっているかもしれないと思う。
もしくは、側は変わらなくても、もっと鮮烈な感覚を提供できるくらいには、精度をあげたい。

それは、自分が音楽の演奏会で感じた圧倒的なエネルギーや、お祭りなどの神聖な高揚感を体験した感覚にすり寄っていっている。
(…宗教ってこうやってできあがっていくんだろうか笑)




譚々は、これからも上演したいと思う。

まだ足りないね。

2019年4月5日金曜日

最近の考えごと

新年度のはじまり。

風邪ひいた。花粉じゃないと信じたい。
おかげで声が飛びかけた。


バレエに通っている子供たちに、次は何年生?と訊くと、自慢げに答えてくる姿がかわいい。
年中と年長の違いがわからない5歳ちゃんたちも、新しく入ってきた4歳ちゃんたちにはしっかり先輩やってる。これはこうだよ!って一生懸命教えている。


そういや自分も子供のとき、本番の舞台上で隣の子に、間違いを直してあげようと指摘したことがあったな。
写真に残ってしまったんだっけ?




今年も上半期はまた一本論文を書いてみようと思っている。
がしかし、なかなか何を明らかにするのか、軸がはっきりしない。
正直、間に合っていない。

去年の反省としては、自分の言いたいことを書きすぎて、客観的な論証を示しきれていなかった。
書き方の問題も大きい。しかし、そもそも何をはっきりさせたいのか、その範囲が明らかになっていなかったことが一番の問題だと思う。

結論を書いたところでそれが結論になっていない、というそもそもすぎる問題にぶち当たった。
結局出したかった論文誌の査読は落ちてしまい、別の媒体でどうにか掲載してもらったけれど、課題は多かった。




博士課程の友人から、
何かをゼロから書くのは難しいから、先行研究としてあるものをきちんと提示してから、「でもですね、私は」で言いたいことを書いた方がいいと、アドバイスをもらったことを、今思い出した!

そうだった、そうだった。友人の披露宴の二次会でね。
あれは非常に楽しい夜だった。
論文の書き方指南に「さすが博士!」と唸ったあと、その彼のトークに磨きのかかった恋愛漫談で死ぬほど笑ったんだった。




ここ最近興味があるのは、能楽師の安田登さんの本。
伝統芸能である能を通して、日本独自の文化を探り、日本人はどう感じ、何を考え、何を共有しているのかということを語っている。

とても、面白い。

絶対言い過ぎだと思うけれど、自分がダンスの作品を作る中で大切にしていたキーワードが、安田さんの本にたくさん出てくる。
はぁぁう!なぜここに!!ってなる。

例えば、「風景を作りたい」「振付に意味を持たせない」「見られる側が見る/見る側が見られる」とか。
私はお能を作りたかったのか?と、甚だしい勘違いもしたくなる。

能、観に行こう。



日本人の身体観に興味がでてきたのは、
昨年度の大学生へ向けたヨガの授業で、「あなたにとって身体とは何ですか?」という絶妙に微妙な質問をしたことから。

回答用紙に、「そんなこと考えたこともないし、訊かれても困ります」と書かれるくらいには、難しい質問だったと思う。

答えは様々で、みな何とか自分の感覚に近い言葉を手繰り寄せて書いてくれていた。
多かったものや印象に残っている回答は、
「脳の指令で動くロボット」
「自分の心の容れ物」
「感情を表現するもの」
「自分の生きてきた証」
「大切にしなければならないもの/大切にしたいとは思えないもの」
「自分と社会を繋ぎどめておくもの」
などなど、思い出すと色んな答えがあった。

わかるー、と頷く答えも、そうか?、と首をかしげる答えもいろいろあって面白い。

それぞれ、そう思うに至った経験がいろいろあったんだろうなぁと想像すると面白い。





ぼんやりとした彼女らの答えは、ざっくりと、
・心を身体の対のものとして捉えているもの
・ひとまとまりのものをして捉えているもの
に分けられるなと思った。

心、と書いたけれど、心に限らない。
心と書いたり、脳だったり、思考だったり、形を持たない意思のようなものと身体が対立するような感じの。

自分もかつてそう思っていたり、そう思っている節があるけれど、
この考え、一体何を経験してそう思い至ったんだろう、と。

そして、この二項の対立が、果たして身体を取り巻く思考においてふさわしいのかどうかもずっと疑問だ。

このぼんやりを何と無く晴らしたくて、「日本人の身体」という安田登さんの本を読んだ。

その答えが、安田さんの本に多く書いてあった。





話それるけど、
自分がこの人好きだなと思う文筆家って、何か共通点がある気がする。

少なくとも、トゲのある人の文章はあまり好きじゃない。
言うなれば、木みたいな、どっしり構えておおらかにユーモア語るおじさんの本が好み。
金子先生とかも。





話戻ると、

自分がレッスンをしていてよく遭遇する、
私の、この場所をこう動かしてほしい、という指示に対して、本人はそう動いているつもりでも、動いていないという場面。

多くは、動かしたい場所と違うところに力が入っている。
それでも、できたつもりになっている。


それを見ていると、いかに身体が不自由で、自分の思い通りにならないか、ということを考えさせられる。
思い通りにならないということは同時に、思ってもいないように動いているということでもある。
自分の感情の自制を振り切って身体が動くこともあるし、動かないこともあるし。

もっと広く考えれば、心臓が動いていることだって、呼吸を絶えずしていることだって、内臓が常に働いていることだって、何も自分の思いの通りではない。





思い通りにならなさは、私自身も結構経験している。
胃痛でゲーゲー吐いてた時は、誰かに乗っ取られている気分だった。

自分は2つ目の身体を生きているとさえ、最近は思う。
2つ目はとても穏やかで快適だ。





思い通りにならない身体に、思いもしなかった身体の動かし方を伝えたい、
それが自分が運動を指導するときの一番のモチベーション。

その人の身体の、当たり前を崩したい。

レッスンの時間の中では伝えるのに十分な時間はないかもしれない。
それに、今でなくてもいい。
この、不思議な身体の動かし方が、いつか何かのきっかけで、その人の新しい身体の使い方になってくれ!と思いながらやっている。
ような気がする。


レッスンしている時間は、目の前にいる人の身体と戦っている気分。
もしくは、登山口に立つ登山家の気分。





私の最近のレッスンの流行は、
この運動をする前とした後で、身体のこの部分がこう変化した!というストーリー仕立てでお送りするレッスン。

変化をより印象的に、感動的に。





全く話は変わるけれど、
デュオのダンス作品を作りたいと、ふつふつ思っている。
だれか相方やってくれないかな、もしくは二人組まるごと。


本当は、自分が論文で示したいことだって、アート作品として結論の昇華をその作品に触れる人たちに託すことができたらどれだけ楽しいだろう、と思う。

弟たちからもらったアイデア、レッスン受けてくれてる人たちの心拍数を電球のチカチカで表す、とかっていうアイデアも面白そう。

それにしても、まずは自分の中でテーマがはっきりして論文書けるくらいには考えをはっきりしないといけないとは思うけれど。

どっちみち論文書いてから制作だなー。

2019年3月1日金曜日

ダンサーと、インストラクターの違い。試論


先日のこと。

代行で、ご年配の方の健康体操レッスンを担当した。

かなり軽度の運動を1時間、その日は45人のご参加だった。

レッスン終わりにお客さんのお見送りをしていたら、
「スタイルいいわねぇ」とやたら褒めていただいた。

最近はボディラインの見える仕事服を着ることが多い。
腹筋全開スポブラだけ!、とまでは行かないけど、
動きの説明に邪魔な緩い服はどんどん少なくなる。

その日はレギンスにタイトな長袖のシャツを着ていたのだけれども、
おばあちゃま達があまりに褒めてくれるから勘違いしそうになったわ。




インストラクターとして人の前に立つ限りは、やはり、「運動をすればこうなる」というわかりやすい見本になるべきだとは思う。

もちろん、体格云々以前に、教え方やインストラクター自身のキャラクターの問題もある。
けれど、今回は主にお客さんからどう見られるか、という話。


もちろん、対応するお客さんによってその基準は変わってくるけれども、
私がレッスンをしている多くの場所では、痩せていることがいいことであるわけでもない模様。
結構体格のしっかりしたインストラクターも少なくない。年齢も様々だし。

もしかしたら、インストラクターがその人からかけ離れすぎているのも、性格によってはネガティヴに捉える(「頑張ったってああはなれない」)こともあるかもしれず、
自分も頑張ればこうなれるかも、という親み(可能性)も、ある程度必要かもしれないとも思う。

運動をしたいとその場に足を運ぶ人たちに、「こうなりたい」と思ってもらえるような人間として、もしくはそのお客さん自身の描く「こうなりたい」の助けとなるインストラクターとして、レッスンをさせてもらうことが大事なのかなと。




それは、自分がかつて、子供の時にバレエ教室で感じたことと似ている。


私の通っていた教室は、年齢である程度教室の所属は区分されていたものの、3歳から60歳近いダンサーまで、本当に幅広い人がレッスンをしていた。

自分から上のお姉さん達は、当然憧れの存在だった。


今思えば、レッスンの仕方にも工夫があったのかもしれない。


レッスンのはじめに必ずその日の班決めがある。
学年と経験年数順に一列に並んで、点呼をして、
必ずお姉さんから一番末っ子までが均等に班になるようにする。

自分がどれくらいの立ち位置かも自覚するし、班長のお姉さんを頼りにして付いて行こうとその姿を追いかける。




自分が今、子供のバレエの教室を見ていると、
やはり練習好きで上手なお姉さんがいると、クラスのレベルが格段によくなる。

「こうなりたい」という手本がそこにいることが、とても重要なのだと思う。

その関係は、自分と指導者という関係より、自分と少し上の先輩との関係の方が馴染みやすく、憧れの立場に立つ自分を想像しやすいだろうし、その分頑張ろうと前向きに頑張れる。




インストラクターとお客さんという関係でも、様々な捉え方はあると思う。

ある人にとっては、「こうなりたい」と思わせる存在かもしれないし、
見ているだけで楽しい、きれいと思わせる存在かもしれない。
もしくはレッスンに出ることで、自分に鞭打つ存在かもしれない。

どれか一つであるべきとも思わないし、十人十色、様々な関係性があるだろう。




次に自分のダンス作品について考えようと思う時、
インストラクターとしての自分とお客様の関係と、ダンサーとお客さんの関係にどう違いがあるのか?と考える。

最近思っていたのは、舞台上で上演されるダンスが、客席に座るお客さんにどう共有されるのか?ということだった。
客席に座っているとしても、ダンスを受け取るその身体になんらかの変化を与えられないのか?と。

それを考えるとき、一番手っ取り早い方法として思いつくのは、自分がレッスンをしている環境だった。

レッスンをしているときの、私の一番の快感は、
自分の動きが伝播していく感じ、自分の感覚を身体で追体験してもらって、それがなんらかの変化をもたらしたことを確認できたとき、目の前に立ちはだかる強情な身体を自分の狙い通りに動かせた時だ。


その快感を、ダンス作品にも、応用できないのかと思った。

何か、自分がやること、ダンスというものが何を伝えるのかの確証が欲しいと思ったのかもしれない。
同時に、舞台上で踊られるダンスと、それを見る自分との間に、ものすごく距離を感じる作品を最近見たからかもしれない。




だけど結局、ダンサー/お客さんとインストラクター/お客さん、その二様の取り結んでいる関係は、明らかに違う。

インストラクターは自分の理想を投影する「こうなりたい」の身近な憧れの存在かもしれないが、
ダンサーはその身体とその身体から発せられる動き自体が作品であり、鑑賞される対象。
お客さんがダンサーを見て、「こうなりたい」と思ってもらわなくても、それはそれでいいんだ。


ダンスを観るということは、美術館で絵を観るということと同義。
ダンスは鑑賞される対象で、もちろんそのダンスを踊るダンサーの身体も作品の一部。


だから、客席の割と心地よい環境でゆったりと腰掛けるお客さんのあり方に、別に間違いはないし、
お金を払って舞台上で行われている作品に批判的な目を向け、自分のモヤモヤに向き合うことだって、何も間違ってない。




自分のレッスンのお客さんが、私のダンス作品を観にくることもある。

ただその時思うのは、
もちろん作品や私の動きを見て面白いと言ってくれる反応もあるけれど、
ダンス作品を作っている私に対するある種の尊敬のような、「すごいですね」という感想があることもまた事実。

自分の世界観を持って好きなことをやっているということに対する「すごいね」。
人としての同じ線の上に在る私に対する言葉。
それとそこで踊られるダンスに関係はあるかというと、厳密には、ない。

だけど、それは同時に起こっているし、別にどちらかが必ず抜け落ちるわけでもない。スタンスの違う、2種類の感想。




自分がこれまで、心から感動したと思った色々な芸術作品について思い出してみる。

そのとき思うのは、その作品に感動することができたのは、
それまでの自分の経験があったからであって、自分でも覚えていなかったくらいの出来事が呼び起こされたり、それまで感じていたものから何かがずらされたり、
全て自分の記憶があるからこそ、感動することができるように感じている。

また、何かを好きと感じるのは、その時は理由がわからなくたって、
何かしらそう思うに至る原因や性格的な、それまでその人がそうあったことが影響している。




一方、人が何かを習いたいと思うとき、
それはまだ見ぬ自分に出会いたいと思うからそれをするのだと思う。

「こうなりたい」自分は、過去の自分ではなく、未来の自分。


もの凄く大雑把な言い方でまとめると、
ダンサーはお客さんの過去にアクセスするもので、インストラクターはお客さんの未来にアクセスするんだと思う。




週に1本だけ、自分が担当するあるレッスンでは、
限りなく自分のやりたい様に突っ走ることにしている。

それはもう、自分が踊る時の様に、自分が一番望む流れに沿って身体を動かし、それについてきてもらうというクラス。


これが不思議なもので、2ヶ月に1回くらい、自分の流れみたいなものが、お客さんと、これしか言葉が今思いつかないんだけど、共鳴していると感じられるレッスンになる。

いろんな人に気を配ったり、あの手この手で説明を加えて理解してもらおうと躍起になるわけでもなく、
自分の身体とその動きがお客さんに見られ、再現される中で一つの大きな流れの様なものが共有される感覚。

あれは教えると同時に、自分の感覚をまさにライブで伝えている感じもするし、
私の中では新しい感覚で楽しい。
音楽のライブの感覚に近いのかなと思ったりする。




ダンスを踊っていても、
今、自分の動きが、見る人の集中を引き付けていると、簡単な言葉で言うと"ハマった"と思う瞬間がある。

なんていうか、踊ってるのはもちろん私で、ダンスも私の身体のところにあるんだけど、なにかが届く気がする。


…実際のところは、どこまで行ってもわからないけどね。
でも何かやり方が、ある気がする。

2019年2月15日金曜日

Banksy/落合陽一/東京デスロック『RE/PLAY』/金子友明/今年の論文


今年も、夏までに研究論文を一本書く予定です。

テーマは、金子友明先生の運動学をベースに、
"動きを伝えるコツとカンはどのように生まれるか"、また"運動は人と人との間でどのように共有されるのか"といったことを、実践研究(が中心にならざるを得ないと思うけれど)でまとめようと思います。

まだ十分な研究には至っていませんが、
最近見た作品とその所感から、現在の考えごとの方向性を書きたいと思います。




バンクシーの『Exit Though The Gift Shop


最近ふとニュースでも取り上げられることもあって、目に触れる機会の多かったバンクシー。

そういえば12年前に、アップリンク系でバンクシーの映画がちょっとした話題になってたなと思い出して調べていたら、
その作品『Banksy Dose NewYork』ではないのだけど『Exit Though The Gift Shop』を上映していたので観に行った。


タイトルの示す通り、ミュージアム出口付近にある土産屋さんで売られる、展覧会の収益の屋台骨とも言える作品をモチーフにした種々様々なお土産売り場を皮肉ったタイトル。
テーマはざっくり、"芸術の価値とは"

マスメディアとSNSに踊らされ、またそれを利用し成り上がる(ポンコツ)芸術家を滑稽に描いていた。
笑い所の多い映画ということが、うんざりする世の中にも情と救いがあるように思えたし、バンクシーの優しさのような気もした。


バンクシーの作品について語ろうとするほど、自分の立ち位置の危うさというか、お前はどうなんだ?と問われるような気がする。
本当にお前はそれを自分の考えだと言い切れるのか?と。
誰かにそう思わされていないか?という問いが頭から離れない。
それは他人の意見なのかもしれないし、バンクシーに思わされていることかもしれない。

そういう世の中の状況を掌の上で弄ぶバンクシーに、作品を見ている自分が逆に笑われているかのような気分。




私が住む東京都首長が、嬉しそうにバンクシーの作品と考えられる落書きの前で撮っていた写真を思い出す。




何か世の中を騒がせるトピックが報じられるごとに、自分の意見を発信する昨今。
そしてそれを一つでも上の階から俯瞰しようと、マウントを取り合う。

限りがない。
そこに真実がなければ、優劣もない。



自分の感覚に自信を持つことだけが、意味を作るのではないか。

感情的といえばそうかもしれないけど、優劣は思いの強弱にあるのではないか。

どれだけ自分と向き合い、その感覚(身体)を研ぎ澄ませるか。

思いの強い人が面白い。
例え周囲から狂人と呼ばれても、貫き通した人が強い。




随分前、たぶん6年くらい前だと思う、

今は随分有名になった落合陽一さんのインスタレーションを見たことがある。

コンテナのような小さな暗い空間の中で、鉄板を何枚か吊るし、ドローンな音響を響かせている作品だった。


やっていること自体、自分の好みで面白いなと思ったけど、
それ以上に、同じような作品の手法は数あれど、なんというか、説得力の厚みというか、意思のはっきりした強い作品だと思った。

同い年、その当時25才くらい、でこれだけはっきりとした作品を作れるのは、相当センスがあって明晰な人なんだろうなと思った。




月曜日に、東京デスロックの多田さんが演出したダンス作品『RE/PLAY』を見た。
ダンスのこれまで//これからをテーマに、と書かれていて興味が湧いたから。


作品としては洗練されているかもしれないけれど、正直に言って、テーマに関しては「?」だった。
引っかかる点も多く、納得いってない。


8人?のいろんな国のダンサーが繰り返される爆音の中で同じフレーズの振り付けを延々と踊る。
途中、居酒屋での打ち上げのひと場面のような、自分たちの置かれたお先の見えない状況を語り合う場面を挟んで、また繰り返されるperfumeGRITTERの中で、さっきよりダンサブルな振付をやシークエンスを繰り返し踊る。
ダンサーはだんだん疲れていく。それでも音楽が鳴れば踊り続ける。


正直、踊る方は楽しいと思う。
でも見る方としては展開が読めるし、これといって驚きはない。


見終わって悶々とした気分で、
久しぶりにアンケートを書きなぐって、劇場出てTwitter検索したら絶賛の嵐だったから、なんていうか。


ダンス無しにして成立しない作品ということが、しかもその"ダンス"が何を指すのかがわからない、もしくは振付を踊ることがダンスということで済んではいやしないかと、

絶賛の感想を読んで感じたのは、ダンスそのものに対する感想というより、ダンサーへの憧憬が全てで、

人が一生懸命動いたから同情するって、どうなの?
なんてね、
オリンピック選手を追ったドキュメンタリー番組みたいな。


形を指示する振付がダンスの全てではない、と私は思っているし、
その点においては、踊るなと指示されて動いている最初のシークエンスも、ダンサブルな振付で動きそれを超えろと指示されているらしいラストのシークエンスも、どっちも同等(どちらもダンスでありダンスでない)だと思う。




ダンサーの置かれた状況と、ダンサーによって踊られるダンスは、関係があるとも言えるし、ないとも言えると思う。


上手く説明できるか分からないけれど、

関係あるとすれば、動き方はその人自身を表していると思う。
バルザックが「歩き方は身体の表情である」と言ったように。


自分の経験的に、身体の状態が性格を示していることは、色んな身体の人に接していて感じている。

コリが身体の柔軟性を奪い、定型化された動きが慣れと安心感の中で刺激を避け、思考も固定化しがちであるように感じることがある。

逆に刺激を全身で浴び、その中で暴れる子供の身体の柔らかさに触れると、こういうのが純粋と言うんだろうなと思う。

ピナ・バウシュは、「私は私の人生を踊っている」と言った。
好きな言葉だ。
その人の経験の蓄積がダンスとして現れるという考え方。



一方で、身体の動きそれ自体に意味はなく、意味を与えているのはそれを見ている側の問題なのではないかと思う部分で、ダンサーとダンスの間に関連はないとも言える。

そもそも、ダンサーは自分のダンスを永遠に見ることができないという特殊な事情がある。

ゆえにダンサーは、振付家ないしは演出家の指示によって動かされているだけであり、動きの形や良し悪しは演出家によって与えられ、ダンサーという技術者の良し悪しはその再現度の高さにあるとも言えると思う。
時に自分の身体がしたくない動きを、作品のために行うことだってありえる。


たしかに、昨今のダンサーを取り巻く状況を踏まえた「今」の身体に寄ったテーマかもしれないが、
RE/PLAYはピナ・バウシュの現代版再現なのではないかということ、
また、ダンスを新しく構築しているわけではないのではないかということを漠然と考えた。

つまり、身体に寄り添った、ドキュメンタリーに近い演劇だと思った。


この作品をダンスと呼んでいいのかはわからない、良い意味で。
とアンケートに書いた。
良い意味とは、何かその先にまだ別のふさわしい形があるのではないかという意味で。




金子先生の運動学がめちゃくちゃ面白い。
こんなに身体哲学に満ちた実践者が、なんで映身で取り扱われていなかったんだ?と思うくらい。
元オリンピックの体操選手で、東京教育大学で教鞭を取っていた先生らしい。


金子先生は自身の経験をもとに、
スポーツ指導の場面において、動きのコツやカンは計測器で測られるものではないとし、それを伝えるためにどうしたら、と考えた方(まだ読み込めてなくて超浅いけど)。

人の動きを正確に精密に計測する方法は年を経ることにその精度が増して言っている。ロボットにその動きをコピーさせて、人間の動きと全く同じように動かす技術はついに完成しようとしている。

しかし、その動きは全く人間の動きと同じと言えるだろうか?

また、人間がその精密に計測された動きを再現することができれば、皆、より速く、より高く、より強くすることが可能なはず。
しかし、それができない理由は?
達成すべき数値は明確なっているのであれば、それにむかって筋力を増強すればすむはずなのに、それが困難である理由は?

そういった問いから、スポーツ生理学のみならず、そのスポーツを取り巻く文化、社会学や倫理学に至るまで考察を広めて論じてらして、
その見識の広さは本当にすごい。




周囲の意見の渦の中で立脚する自分の意見のあり方と、客観的立場による計測と主観的な運動のコツやカンといったものとの違いを、同じ対比として扱うのは少し荒々しいけれど、
自分の身体で感じ取ろうとすること、またそのきっかけを身体において作ることにおいては何か自分の中で繋がるものがある気がしている。


動き方を伝える、この場合私の身体で起きていることを伝える時、形を伝えるだけでは不十分なため、どの場所にどのような方向でどのような力を加えるかを伝えたり、自分がイメージするものを伝える。
時に実際に動かす自分の身体を触ってもらうこともある。

けれど同時に、それは私の身体においてそう感覚されているに過ぎず、承け手の身体において同じことが起こるとは限らない、ということも同時に思う。

だから、感じ取るかもしれない可能性のある事象を出来るだけ多く(自分がこれまで伝える中で却ってきた反応を基にしている)分かりやすく伝えることで、承け手が自分の身体において納得して運動を獲得できるよう促す。
(この二点において、私は他のインストラクターと違いがあり、私のレッスンを良いと言ってくれる人たちに気に入ってもらえるところだと思う。)



自分の身体で何を感じ、どう考えるかという、私にとって当たり前のことは、多くの人とってさほど重要視されていないということに驚く。

学生のレポートを読むと、無頓着さにびっくりする。
体調不良が原因で心理的に不安定になっていることすら気にしてこなかったり、体調不良や身体の不全にすら健康を損なうまで意識が及ばなかったり。

その無頓着さのまま大人になる人も少なくないということは想像に難くない。
だって、きっかけがなければ、当たり前というベールに包まれた、さして考えるまでもないことかもしれないから。


自分が出会う、例えばレッスンで出会う人たちだって、自分の身体の認識が抜け落ちている部分をもつ人は少なくない。
自分の身体を思い通りに動かせていると過信している。

とはいえ、自分が外からその身体を眺めるからそう思うのであって、自分も自分の身体について、わかりきっているとは言えないと思う。




さてそう考えていても、それを論文としてどう提示するかはまだ明確なビジョンが描けていない。

自分がどう感じているかということに敏感になる、

なぜそうする必要があるのか?
誰もがそうする必要が本当にあるのか?

何をきっかけとして教えるのか?
ただヨガを教えるだけが本当にベストな方法なのか?
どのような指導法を取り入れる必要があるか?
私が教師役で、学生が承け手としているということは本当にふさわしい方法か?
学生が相互的に指導しあう場があってもいいのではないか?

それを客観的に論証する必要がどうしてあるのか?
もし自由記述からそれを立証するとして、本当にその記述は検証するに値するものになり得るのか?
学生の表現力の差になってはいないか?
そもそも、敏感になったこと表明させる必要はあるのか?
表現力以前に、感得する能力の差はないのか?

自由記述でなく、もっと客観的に立脚した計測方法がふさわしいのではないか?
例えば心理尺度のような。
心理的な部分で計測せず、感じ方ということをどうやって計測するのか?

感じたことを表す方法は、言葉が最適か?
日本人の、周りを気にして同調する文化が身体に染み付いている場合、感得する力の差を個人のせいにできるのか?

問題提起は何か?
本当に具体的に示せているのか?


達成度を図る体育でなく、身体全体の、感じ取る力と自分の体で創発的に動くことのできる力、自分の体で工夫する力を養うことを目的とした指導をしたいと思う。


はたして。。