2018年9月9日日曜日

9月

先生方や周りの方々に助けていただきながら、年明けから準備をしていた研究論文をやっと提出しました。

大学で担当している一般教養体育でのヨガの授業内容、学生へのアンケートとその分析をまとめました。
テーマは身体感性と主体性の向上です。


ここ5年ほど大学で授業をしていますが、毎回半期終了時に学生には授業の感想を書いてもらっています。

今回は明確なテーマと段階的な授業の構成で授業をしたせいか、学生の感想がすこぶる良く、(例え彼女らが成績目当ての口先だけだったとしても)私の伝えたいことはほぼきちんと伝わったように感じました。
手前味噌ですが、ただヨガの実践をするだけでなくもう一歩身体の在り方に踏み込んだ授業はしていると思っていて、
それを手前味噌で終わらせないように論文を書いてみようというという感じです。


それにしても、付け焼き刃で論文の体裁を整えたようなもの。もし審査に通らなかったらこのまま闇に消えていくだけの論文ですが、
半年真面目にヨガの歴史や思想、方法論を洗い直せたのはとても良い機会で、与えていただいた機会に感謝しています。


修士にいた頃、
同期の"どの本のどのページに何が書いてあるのか分かってる能力"はそれはもう羨ましく、ああはなれん、と博士に進む彼の背中を見送ったものですが、
結局自分も論文を書き始めてみたら"あの本でああ言ってたからこれが言える。どうにかしてこれと繋げて…"、と考えていました。
語ろうとしなければ、言葉も入ってこないのね。

しかし自分の語彙の引き出しの限界も感じました。
内容をうまく匂わせて感じさせる、いい感じの言葉が出てこない。
その雰囲気を醸し出す文章の構成が下手くそ。


今回、教育学の樋口聡先生の本からだいぶ影響を受けた。
この本の「感性教育」や「身体教育」にまつわる話をがなければ、自分の考えていることは面白がってもらえるんじゃないか?とはついぞ思えなかったと思います。

そして何より、樋口先生の文章の書き方がなんとも気持ち良い。
冷静で押し付けがましくなく、それでいて論旨が明確。行間のスマートさ。
ただ純粋に憧れる、こういう文章が書けるようになりたい、と。

自分の言い表したいことをどうしたら文字や文章で表現できるか、
そうやって唸っている時間は本当に楽しい。




11月頭に[譚々]という作品を再演する機会を頂いたので、
これからはその準備をしていこうと思ってます。
スネアドラムの人と私が座って20分くらい踊るやつ、3回目の上演。

参考になるかなと思って、「ミケランジェロの理想と身体」という展覧会を上野で観てきた。

人体の彫塑の作品は本当に興味深い。
以前モデルをしていて、創る現場に立ち会うことがあったから思うのだろうけど、
空間にゼロからヒトの身体を立ち上げるのはすごく自由なようでいて制限がとても多い。
あたかも自然にそこに居るようにヒトを創ることがそもそも高度な技術で、そこからさらに不自然さをうまくコントロールしながらその人独自の表現を加える。
そのままの身体ですぐ踊っちゃう私からすると、難しさのヴェールが厚い。

なかなかお目にかかれない、歴代のいろんな作家の裸体像を並べた展示を見て、ミケランジェロの表現もそれはそれで独特なんだと見比べられたし、
私の好きな身体、そうでもない身体があるんだなぁと当たり前のことを漠然と改めて思った。


普段いろんな方の身体を見ていて、全体/部分における「違和感」や「不自然さ」は目を引くし、それが不調の原因であり、それが個性でもある。
調和がとれて安定しているほど美しく、純粋であるほど尊い。望ましい、普遍的な身体の在り方だと思う。
そして違和感や不自然さが人の目を惹く。
高須クリニックの高須院長は「人は欠損に恋をする」と言ったそうな。


私は何を面白いと思うのか、何を素敵だと思うのか、何に惹かれるのか、また必死に考えようと思う。




ヨガの思想について調べているとき、なるほど興味深いなと思った一節。

ヨガの行法、つまり修行をする一番の目的は、
「心の作用の止滅」、つまり心をコントロールすることにあるそうだ。
心をコントロールすることができれば、その心、そして身体で受け取る世界もコントロールすることができる。なぜなら、

「この『宇宙』は、天と地があり、陸や海に生物があり、人間もその一部であるというかたちで考えられた世界ではなくて、一人の人間が自分の感覚器官をもちいて経験した『世界』である。〜つまり、ヨーガの行法が統御すべき世界は、ヨーガ行者個人が自らの感覚器官をもちいて経験することのできる、『周囲の世界』なのである。」

少し暴力的な解釈かもしれないけれど、
周囲を感覚する身体があってはじめて、その人にとっての世界が立ち現れるのであって、身体の在り方如何によってその人が感じる世界も変わってくる。


論文を書いていた間、少しだけお休みした日舞のお稽古も復活した。

お稽古では、とにかく作品を覚えては踊り、覚えては踊りの繰り返し。
踊りの中で、日本舞踊独自の動き方を身につけていく。

私はすぐ真面目に振付を頑張って踊ろうとしすぎで力が入ってしまう。
なので、とにかく角や点をつくらず流す。できるだけ楽をしようとする。
2年くらいかけてやっと、力を抜いて動いてみようという感覚が身についてきたような気がする。
より滑らかで純粋に動けるようになりたい。

日常生活でも、なるべく力まず最小の力で動くことを意識して動いている。
気のせいか、気持ちも穏やかでいられるような気がするのだけれども、気のせいだろうか。気のせいか。


数日前は、ランニングマシーンで走ってた時、疲れてくると脚を上げながら肩も上げて身体を持ち上げようとしていることに気づいた。
それをやめて地面を蹴った脚の反動の影響で少し上がるだけにしたら、息が上がりにくくなった。

そんなことがまだまだ、いっぱいあるのです。

2018年7月25日水曜日

ロンシ

タイトルは一体何にしたらいいだろうか。

大学でヨガを実践しました。私が普段レッスンをするにあたり大切にしていることを丁寧にカリキュラムとして組んでみました。学生にその感想を訊くアンケートをとってみました。

でタイトルは何にしよう。

「大学体育におけるヨガの実践」としたら、先生から漠然とし過ぎていると言われた。
そうだ。

何を言いたくて書くのか、はっきりしていないから。


私がレッスンで大事にしていること、、、
自分の身体に集中し続けられるようにすること。余計なことを考えず、ひたすら身体のことを考えざるを得ない状況に持っていくこと。
集中を切らさないようにいろんな場所を意識して行くことももちろんだし、手先を意識して、太ももを意識して、足先を意識して、顔の向きを気にして、という感じで、どこか一箇所というより可能な限り身体のいろんな場所を意識してもらうように言葉がけする。呼吸も然り。

完成形を説明するのでなく、その形に向かうための動きや方向性や狙いを説明する。
でないと、身体の状態の違う人たちを同時に動かせない。

身体を動き方を説明する語彙の数は多いし、的確だと思う。
絶対狙いを伝えるために頑張っていろんな方法も試すし。


私のヨガをして、みんなどう思っているんだろう。
わかりやすい、というのは聞いたことがある。雰囲気でごまかさず、どう動くのか的確に言うから。
集中を切らさないようにさせるから、飽きさせないとは思う。


大学でやるときはどうだろうか。
もっと自分の身体を知ってほしいと思う。

「自分の身体を知るためのヨガ」

“大学体育における自分の身体を知るためのヨガの実践”
とか。

自分の身体、その形もそうだし、動き方や機能、それから性格含め考え方や感じ方まで。
全部身体で起こっていることだから。
身体がなければ何も起きないことだから。

身体と心を分離しないものとして。
それは最近の教育の現場でも大切にされていること。

ちょっと飛躍するけれど、
私たちは身体というものがあって、初めて世界と接続している。
その身体は常に変わっていくし、変えられる。
身体が変われば、世界も変わると思う。身体を変えられれば、世界も変えられると思う。

(今私が言っている身体は、物理的な身体もだし、心も含む。
身体で起こっていることすべてを指している。)

そんなに何かが大々的に変わるわけではもちろんないんだけど、
例えば、
脚の筋肉が凝っていたり股間節が硬かったりして歩幅が狭い人が、その凝りや硬さを解消して歩幅が大きくなったら、一歩ずつ歩いて得る情報は変わると思う。
肩こりがひどい人が首が思うように回らないところからその緊張がほぐせたら、もっと視界が広がると思う。
大きな違いで言ったら、身体をいつまでも自分で動かすことができたら寝たきりになることなく自分の足でどこまでも歩いて行くことができる。

それから、身体の状態を性格もだいたいリンクしている気がする。
もちろん、わかりやすい人もそうでない人もいるけれど。
手相とか顔相とかと同じようなもので。
体つきから得られる、もしくは与えている情報は多い。

アレクサンダーテクニークをやっている人たちの、あの人の話を飲み込んで行くような柔軟性。背骨でものを考えている人たちの独特の雰囲気、余裕。

身体がバキバキで硬い人ほど、どこか真面目で融通がきかない。

じゃあ自分はどうかっていうとまぁ、怒りの感情はないかな。
少なくとも今の自分の身体の状態には何の不満もない。



意外とみんな、自分の身体に興味がない。
そして、興味があったとしても、それは健康や美容についての「こうでなくてはならない」というようなだれかが言っていたそうすべき身体のあり方のようなもの。
例えば、自分に似合う服を選べていない人。そりゃ服にどれくらいの熱意があるか?という別の話もあるけれど。
逆に綺麗な洋服を着てヒールを履いて歩いているお姉さんがきちんとガニ股で膝が合わさらずに歩いている人もよく見る。おっさんみたい。

痩せたい、綺麗になりたい、あれをやったらいい、これをやったらいいにちゃんと振り回されてお金を払っているだけの人。誰かの養分にしかなってない。


考え方も。癖だったり、そう考えがち、ということは誰だってある。
気づくことで視野も広がる。


もっと自分の身体に興味を持って楽しんでいけば、少しずつ変えていけるのにと思う。
そりゃすぐには変わらないけれども。

楽しんで。そう。それも大事だな。

興味を持つことは義務ではないけれど、もっと楽しむ探究心を持っていれば発見は無限にある。

その時、客観性を持つことも大事よね。
ヨーガ・スートラに自分自身は「かの見る者である」っていう表記があったな。
自分とは常に、一歩引いたところで見ている者であるという。
自分が何をしているのか、何を感じているのか、何を考えているのか観察する。

自分を知ることは、世界を知ることでもある。ような気がするから。



さて今週末の最終回で聞くアンケートの内容はどうしよう。
3部門で分けて考えるようにさせようかな。
この授業を受けるの自分の身体で起きたことや感じていたこと、授業で学んだことや体験したこと、それをこれからどういうものに生かしていけるか考えてみて。



自分の考えの正しさを客観的に証明しなくてはならない。
誰が見ても、論理的に私の言いたいことが伝わるようにしなくてはならない。
私の授業が意味があったって、誰もが納得できる形にしなくてはならない。

今日はこんなところかな。




2018年7月23日月曜日

最近の頭の中

研究論文を書かねばならないのだが筆が進まない。
多分、論文を書くためにためのもう一人別の自分を用意しなければならない気分になっているのが問題をややこしくしている原因な気がする。
おそらく気取らず自分のまま書くべきで、そのためにはもっと自分が何を言い表したいのか明確にしなければならない。

もう少し具体的に何を考えているのか考えてみようか…
暑くてしんどい。



〈私は研究者じゃなくて表現者なんじゃないか、なんて〉
研究者って本をたくさん読んでいて、知識が沢山ある人のことを言うんでしょう。修士から博士に進学する同期を見て、この知識と勉強量は私には無理〜なんて言って他人事だと思っていた。
論文を書くと決めた時、私は研究者としての顔をも持つのねなんてちょっと自負があったりしたものだが、別の人格を用意して書けるほど優秀ではなかった。
それっぽく研究者面は無理だし、それをやっても意味はない。当たり前だけど。
そもそも研究者てなんだよ。そんなおしゃれな仕事はない。

あくまでも実践研究の立場で、自分がこれまでやってきたことを言葉でまとめるべきだ。素材は揃っていて、どう言う切り口で語るのかが問題。


〈教える仕事〉
大学生の頃は、教えの仕事は絶対したくないと思っていた。
今の仕事は、別に自分のダンサーとしてのやりたいことを全く無下にしているわけではなく、むしろプラスだと思うからこそやっている部分もある。

自分の身体でない他人の身体がどう動いて、どう考えて、どう変化するのか、こんなに近くで観察できて、かついくらでも試したいことができる。
身体という共通するモノについて、いろんな人と話ができる。
他人が何を望んでいて、どこへ向かっていくのか、寄り添うことができる。

私のこの感覚、自分の身体で起こっている面白いことを、より多くの人と共有するためにはどういう手段をとるべきなのかをずっと考えているわけだ。それが自分の作品だ。


〈私が見たい画〉
心酔させたい。人が何かに夢中になる、一点に向かわせる。
たくさんの人がいっぺんにそうなった時、人間が並んでいるだけだけどそれが美しい自然の風景と同じくらい静謐でそれでいて鮮やかな風景になる。これは本当に快感で、独り占めできるご褒美のようなものだ。すごく綺麗な景色。

たくさんの人数を思いのままに動かすことは面白い。たくさん人がいて、みんな違うけれど、それを統一できた時、何か真理を突いた気がして楽しい。


〈自分のダンス〉
動画で見てて、面白い。捉えどころがないけれど、違和感のようなはっとするようなほんの小さな繋がりみたいなものが繋がっている感じは、他のダンサーにはない動き方だと思う。
だから、はっきりとわかりやすいダンスが好きな人は見逃してしまうと思う。見る方にも集中力や注意力を要請しているから。
踊ってるか踊ってないかの境目が面白い。私がやろうとしていることはすごく難しいけれど、うまく行ったら絶対私にしかできないモノが生み出せると思う。そしてその境目を探してるってことは、私にとってダンスって何かということを探していることでもある。

踊っているときの面白さは、自分のダンスが今絶対的に見ている人の身体にリンクしている、と自分の身体で実感できる感覚がある。集中力が自分の身体に向いているその目には見えない光線のようなものを一身に浴びているような。ぞくっとする。


〈ヨガや身体のこと、哲学に関する本を読むことは面白い〉
多角的な考え方ができる気がするから。これまで知らなかった視点が得られる。
逆に、自分が一生懸命考えてたどり着いたことがいとも簡単に書いてあることもある。


〈大学生に言いたいこと〉
「自分はこう考えている」ということをきちんと表現できる人になってほしい。そういう人が増えたら、多分世界が面白くなるから。
自分の考えを言えない人ほど張り合いのない人はいない。というか、私は結局自分の意見をはっきり言える人の方が面白いと思っている。思いの強さやそのパフォーマンス含め。そういう人の方が人目を引くし、集団の中で尊重されやすいと思う。思っていても言っていないのなら考えてないのと一緒、という暴論があるけれど、あながち間違っていないと思う。
もちろん、引っ込み思案だったり、自信がなかったり、ネガティヴな気持ちはあるかもしれないけれど、それはあなたの都合でしょと思ってしまうのよ。
自分がどう思っているのか、徹底的に突き詰めてみればいいし、言ってみて何か変わることがあるかもしれない。そんなに他人は自分のこと気にしていないし、所詮同じ人の形をしたやつの集まり、そこまで他人を出し抜くほどの大したことを考えられる訳でもない。

〈だけど、みんながそうしているから自分もそうしなければならないとは思わない〉
みんながしていることはみんながすればいいのであって、私がそれをやる理由にはならない。これは私の中の絶対的な基準であって、性格だと思う。


話が逸れた

樋口聡先生の「身体知」という考え方の書かれた本を読んで、私のやろうとしていることの行先を指し示してくれている気がしてすごく面白かったんだ。
私の言いたいことなんで思い込みの戯言でしかないけれど、確かに誰かが同じようなことを目指して頑張ってる。
あの本を読んで、自分のやっていることを言葉でまとめてみたいと思ったんだ。

走り書きでした。

2018年6月7日木曜日

“分からなさ”を生きる

という漢字の成り立ちは、長さのある棒を刀で切り分けた様子だそうだ。

分ける、分かる
目の前にある理解しがたいものを、切り分けていくことでそれが何であるのか知ることができる。



訳の分からないものへの恐怖心も、分かることでその恐怖心は収まる。

心霊現象はその原因がわかれば全く怖くないし、挙動不審な街のおじさんだって心理学でその行動の理由もわかったりする。訳の分からないアート作品だって解説がつくと安心して見られる。
分かることで恐怖心を克服でき、さらには心を通わせることだってできる気がする。


分からないということは、ちょっと恥ずかしいことだと思う。
自分の見識の狭さや不勉強さが嫌になる。
分からないことに上手に向き合わないようにしたりもする。


そうやって避けてきた英語もそうだ。

最近やっと重い腰を上げて英会話をやるようにしている。
私にとって漠然とした意味のない音の塊だった英会話が、徐々に単語が分かれて聞こえ意味を追えるくらいにはなってきた。
街に溢れる外国人旅行者の人の会話を盗み聞くくらいには興味が持てるようになった。


だけど、喋る方となると
言いたいことはあっても出てこない単語に本当にイライラする。
伝えたい出来事や自分の情報もたくさんあるのに、それが言葉にならない。
スカイプのオンライン学習なので伝家の宝刀・身振り手振りができなくて本当に焦る。

とりあえずしのごの言わずに単語を覚えれば解決するんだろうけれど。


チューターからよく訊かれる質問は「なぜ英会話の勉強をするの?」
「旅行先で現地の人と話がしたいから」と答える。

ただ見たことのない風景に身を投げるだけの旅行から、もっとその土地の人になってその環境を分かりたいと思う。なんだったらその場所で生活したい。





いろんなことを分かるようになりたいと思って勉強する一方、
分かることが必ずしも是ではないかもしれないなと思うこともある。

この矛盾がうまく言い表せないのだけれど。




ハル・ハートリー監督の『トラスト・ミー』という映画を観た。

ハル・ハートリーはNYのインディペンデントムービーの権化だった人だそうで、UPLINKで特別上映をしていた。1990年の作品。

妊娠がわかってすぐに父親が心臓病で突然死しそれを母親に攻められる女子高生と、屁理屈で仕事が全く続けられないものの父親の支配から逃れられずにいる青年が出会う作品。

妊娠、彼氏の裏切り、家出、父親の死、強姦未遂、幼児連れ去り、失業、虐待、暴力、求婚、罠、堕胎、立て籠り・・・
これでもかってくらい人生の荒波に揉まれている話で、イベントが多すぎて余韻や意味に浸る意味もない。あえて浸る間を作らなせないようにしているんだろう。



意図しない追い詰められた状況の中でちょっとしたきっかけ、それは周囲の人のほんの一言だったりわずかな感情の揺れだったり、その中で少しだけ舵を切っていく。

彼らが出来事の価値を考えたり意味を理解する様子は一切描かれず、身体ひとつで感じて乗り越えていく感じにとても好感が持てた。

30年近く前の作品なのに、この分からなさとの向き合い方に心から共感したし、新鮮なワクワクがあった。
10年くらい前の自分が見ていたら、どう思っただろう?




どうしたっても分からないことは、分からないままで受け取ることも必要かと思うこともある。
分かろうとして自分の持っている刃こぼれした刀で下手に切り刻んで、却って物事の厚みが薄れていく。
もっと漠然としている方が豊かだ。


それと、分からないで済んでしまっていることも案外多い。

こんなに近くにある自分の身体だって、「これはなんでこうなの?」と思って調べると「なぜそうなるのかは解明されていません」という答えにたどり着くことが多すぎる。

まぁそのためには、まずは分かることをとことん突き詰めなければならないんだろうけれども。

意外と分からないことだらけ。
でもなんとかなっている。なってないのかもしれない。それも分からない。
それが面白いのかもなと思う。




植島啓司さんと伊藤俊治さんの対談本『共感のレッスン-超情報化社会を生きる』という本を読んだ。
とても面白い一節があったので抜粋して紹介したい。


植島 『錯乱』というのは、人が理解できないことが錯乱なのであって。もしかすると、錯乱とは生命体にとって、もっと高次な段階で働いている機能なのかもしれない。それをたまたま論理的、合理的に理解できないから、錯乱としてしか見ることができないということだと思うんですけどね。これは恐らく遺伝子レベルでもそういう働きがあって、決してある一方向には動いていないということによって、何て言うのかな、動きが多様化して、生命体が一斉に滅びたりすることがないようにしている。そういうふうに理解できると思うんですけれど。
伊藤 生命の本能的なふるまいに近いものを感じますね。トランスを周期的に繰り返すことで、特別な精神の創造性のプログラムを伝え続けようとしたというふうにも考えられる。儀礼の継承というのも、共同体のDNAの保存システムとも見なされうるのではないでしょうか。
植島 ええ、そうですね。
伊藤 それと、理解できないものに向き合うには、自分が理解できないものになるしかない。トランスにはそうした要素があります。環境というものが偶然性に満ちたものなので、人間の身体性を無意識のうちに対応させる。何が起こるか分からないので、意識的に脳を使うと、多分できない。
植島 遅くなるし、うまくいかない。
伊藤 考えていたら終わってしまう。ランダムさがとても重要で、遺伝子とか免疫系というのも、結局何が来るか分からないところに対応するということですよね。

2018年6月1日金曜日

やる気のはなし

よく行くご飯屋さんでのこと。


その晩はママさんと最近入ったばかりのママさんと同年代の女性がパートで入っていた。
雨が降っていたこともあり早めにお客さんもはけ、ママさんとパートさんも含めて3人で飲んでいた。

なんとなく見た目の若さの話になって、ママさんがパートの方の姿勢が気になると言った。
確かにパートの方は左の腰が落ち右の肩が落ち、右の脇腹が少し潰れた感じに猫背も少し入っている姿勢。頭も前に来ている。

ママさんが
「やっぱり姿勢が一番大事なのよ!〇〇さんそのままだと腰曲がっちゃってどんどん老けて見えちゃうわよ。私も足つぼ月一でやってもらってるけど、やっぱり身体のこと気にするようになったもの。姿勢のことはすごく気をつけてるのよ。」

まくし立てられて「うーん」と唸るパートさん。

「そうだマキちゃんにヨガ習ってみたら?大事なのは経絡とかヨガでもそれで完璧に治すってよりそれがきっかけで体の変化を気にするってのが大事なのよ!〇〇さんは自分の身体のこともっと知った方がいいって絶対!」

マイペースでのんびり屋のパートさんはどこか納得していない感じ。


側からそのやりとりを見ていて、ママさんに加勢して自分のレッスンの営業をかけようかとも思ったけれど、
ただ情報や意見を押し付けられて納得していない人が無理くりトレーニングをしたとて、たかが1、2回“やってみた”で終わってしまうだろう。

ママさんの言っていることは心から同意するけれど、
本人がトレーニングを必要とする「きっかけ」が必要なのであって、どれだけ素晴らしいトレーニングだけあったとて何にもならない…本当に。

だって私自身、今だにヨガのレッスンに続けて行くことができないでいる。
お試しに行ったきりだったり、続かなかったクラスは数しれず。

私は、自分のレッスンに毎週来てくれる方々を心から尊敬している。


結局パートさんは「えーそうなんですかぁ」みたいなことを連発したまま。
全員酒を飲んでいてちょっと酔っ払っていたので、そのままその話はなかったかのように次の話題に流れていった。





女子大生へのヨガの授業でのこと。


4月から新年度が始まって、授業も折り返しに近い。
初回では子鹿のように頼りない足腰だったけれど、だいぶ動きにも慣れてきて様になってきた。


せっかくの大学での授業、普通のフィットネスクラブでヨガをするよりもっと丁寧に、かつ教養として身につけるヨガにしようと思っているので、
ヨガの成り立ちや思想、解剖学や生理学も可能な限り授業の内容に取り入れるようにしている。


その日は自律神経のことに触れようと思っていた。

ただ体育すわりで話をしても絶対右から左に流れて行くだろうと思って、正座で目を瞑って自分の呼吸に集中しながら、という状況で話をしてみようと思った。

不随意に働く自律神経、交感神経と副交感神経、過剰なストレスによる自律神経失調症…

お昼ご飯直後の3限、ヘドバンしてんのかってくらい、さざ波のように揺れる頭の間を私の言葉がすり抜けていく。
「あ゛ー!!」て叫ぼうかと思ったけどやめた。
なんか久しぶりにちょっとイラっとした。きっと、“どうしたら伝わるだろうか”って事前にしっかり考えてちゃんと原稿まで作ってたからだと思う。


大学で授業するからには、なんてかっこいいこと言いながら、
つい自分がフィットネスでお客さんを相手にしているときみたいにしてしまう。
興味を持っていただけるように創意工夫をして、エンターテイメントにしてしまう。
それもそれで大事なんだけど。

なんというか、彼女たちの興味に寄り添うように言葉を選んであげないと届かない、という状況に危機感を感じる。
ダイエットとか、シェイプとか、美容とか、毎回そういう言葉に落とし込んで初めて顔が明るくなる。

分からない知らないことに対する興味の薄さ。
いちいち意味を説明してあげないと繋がっていかない何か。
凪いだ彼女らの水面を、私が手を突っ込んでかき混ぜなければならない。


とはいえもう少し私が大人の魅力で、ミステリアスに話ができたらいいんだけれども。
衝動を掻き立てるような駆け引きが、下手くそなのよ私は。





お手伝いしてる小学生のバレエクラスでのこと。


一番お姉さんのクラスには小2〜小6の子たちが参加している。

いつも真面目で一生懸命練習していた子たちが5人いたのだが中学に上がるタイミングで全員3月に卒業してしまって、そのかげに隠れていたいつもふざけてばかりいる子が小6で一番年長者となった。

彼女はとにかくダラダラしていることが多くて、やりなさいと指示されたことすらヘラヘラして真面目に取り組まない。
決してやる気がないわけではないようなのだが、できなくて不貞腐れている状態や照れ隠しも相まってとにかく素直に取り組んでくれない。


教える側だってちょっとだけ思っている、
「別にプロになるわけでもないし、上手くなる必要だってない。やる気がないなら早くやめたほうがいい。」

他の真面目に取り組もうとしている子たちの手前、先頭で頑張って欲しいところなのだが、そんな自覚や責任を理解してくれるくらい達観してたらこうはなってないだろう。

そうやって思い通りにならない自分と折り合いをつけることがそもそも勉強なのかもしれないけれど。


彼女はどうしたらやる気になるんだろうなぁとレッスンを見ながらいつも考える。
何だろう?好きな男の子にでも見にきてもらったりすればいいのかな。
…そんなバカな。

2018年5月13日日曜日

最近観たものなど。映画、音楽、舞台、服

●MO
『ラッカは静かに虐殺されている』

ISに占拠された街ラッカに住む若者たちが、facebookなどSNSを用いてISと戦う姿を収めたドキュメンタリー映画。

ISがハイクオリティなメディア戦略で自分たちの活動を美化することを非難しているが、そもそもこの映画の善悪の脚色も一つの作られた物語だよななんてそんなことを言い始めたら論点はいくらでも湧いてくる。

そこにあるお豆腐にどう包丁を入れるか、みたいな。
どう切り取るかによって断面も違ってくるし、切る目的も違えば豆腐の用途だって違う。
お豆腐だから丁寧に扱うけど、叩き潰すのも簡単だし。

ドキュメンタリーは、観終わったあとなんかスッキリしない感じが納得いかないこともあるけれど、ドキュメンタリーはそれでいいのかもしれないと初めて思った。
まるごと感じ取れるモヤモヤも、ラッカをめぐる状況を感受するという意味では相応しい感情のような気がした。

豆腐を目の前にして、豆腐を見て触れて、知ろうとすることがドキュメンタリーを観る体験そのものなんだろうと私なりに思った。



●MU
Yom&Quatuor ⅠⅩⅠ : illuminations(ラ・フォル・ジュルネ)

Yomさんは、クレズマー(東欧系ユダヤ)音楽から、ロック、ブルース、フォーク、カントリー、さらにクラシックに至るまで、多様なジャンルを縦横無尽に行き来するヴィルトゥオーゾ・クラリネット奏者。
Quatuor IXIはコンテンポラリー・ジャズを得意とする凄腕のストリング・カルテット。(LFJ HPより)

さいっこうに良かった。
久しぶりにぞわぞわして超気持ちよかった、ノンストップ45分。

終わった瞬間、音が消えていくけれど「あー、まだ拍手したくない」っていう間で全員の深呼吸が聞こえそうなくらい、みんな酔ってた。

できれば室内楽専用ホールで聴きたくはあったけれど(近い距離なのにスピーカーはいかがなものか?よく聞こえることより、いびつな場所で歪んで消えていくことのほうが良いことだと思うんだけど)、それを抜きにしても迫真の演奏で満足。



●TH
『白鳥の湖』(新国立劇場)

恥ずかしながら全幕生で初めて観た。4階席からだけど。

もはや伝統芸能、観ておくべきものだと思うし、心から観てよかったと思った。
しかしスポーツ観戦しにいったのと同じ気分だった。


何かこう、生で見るものに対して自分のなかでこれが好きだっていう、琴線に触れるっていう感じの種類の何かがあるんだろうなと考える。
それが何かはっきりしないし、あまり限定して視野を狭めてしまうのもどうかと思うのでそこまで真剣に考えてはいないけれど、何か好きなものルールはあるみたい?



●MO
『君の名前で僕を呼んで』

油断してた。
GW最終日、カリテで狙った時間がまさかの満席。
仕方なく武蔵野館へ移動したけど、それでも最前列。

武蔵野館の最前列は想像以上にしんどかった。
スピーカー激近、スクリーン激近の上に結構上目、首死亡。
すごく良くまとまってるぽい作品だったからこそ、引きで観たかった。


例えば、主役の二人がゲイじゃなかったらどう感じただろう?
マイノリティな存在に感情移入することで、より人間の本質的な部分がクリアに感じ取れたりするのだろうか。

なんにしてもお父さんのセリフ、個々人が自分の感覚に敏感になることや自分の意見をはっきり持つことを大切にしなさいって、
とても現代的な話だなぁと思った。

そう思うと、時代設定がわざわざ少し前のことになっているのがなんでだろう?という感じになるのだけれども。


いろんな見方はあるみたいだし謎解きをしたところで面白さが変わるものでもない気がするけれど、
とりあえずDVDで見直そう。



●FA
collection PRIVEE?のワンピース

イタリアのバッグや靴のブランド、collection PRIVEE?というブランドの、超シンプルな黒リネンのワンピース。
自分ではかつて買ったことない値段の服を買ってしまった。

肩出しで深いスリットの入ったものだけれどエロすぎず、出す部分隠す部分が絶妙に自分の身体に合っていて、
リネンの素材感もきちんと出る形でとても素敵。

試着室で値段見てのけぞったけど、頑張ったら買えないことない
コートにこの値段だったら面白くないけど、リネンのだたのワンピースでこれは強気で好い。

これ買ったとて地球が滅びるわけでもないし、とか、アート作品買ったと思うにする、とか、もっと高い服買ってた友人を頭に思い浮かべながらどうしようもない言い訳して数日たったのでもういよいよ買った。
こわいこわい。

当たり前に良いものは高いけど、ちゃんと高いもの買えるようになりたい。
自分もちゃんとお金払ってもらえるようにならなきゃだからね。

そういって、節約ご飯になるんだけども。

2018年4月19日木曜日

何を教えるのか

私が身体の仕組みについて興味を持ったのは、おそらく小学4年生の時。
担任の沢田先生の影響だと思う。

今思うと、沢田先生は体育専攻だったんだろう。
授業で速く走るためのコツを教えてくれた。

速く走るためには単純に一歩が大きい方が良い。
そのためにウエストを軽く捻る感じで出す方の脚の腰を少し送りだす。足の長さだけでなく、腰のねじりも手伝って足がより遠くだせるという仕組みだ。

子供心にとても納得し、実際速く走れたのかは覚えてないけれど、ことあるごとにこのことを思い出す。




私が大人のバレエのクラスを教えるときに何と無く決めている方向性がが二つある。


一つは、バレエの完成形を叩き込むのではなく、その完成形にどう近づいていくのかアプローチの方法を教える。

バレエという本来身体が柔らかくないとできない曲芸を誰でも踊れるようにするために、
どうして身体がそう動くのか解剖学に沿って説明し理解してもらうようにしている。
こうすることで身体の柔軟性が皆違うの初心者クラスにおいても各人が身体のレベルに合わせ動きに取り組むことができる。


先生によっては、形が完璧でなければバレエではない!ということでビシビシ言っていく先生もいらっしゃる。そして、それを望む生徒さんもいる。
それがバレエの魅力の一つでもある。

だけどそうやって目指す先はとてつもなく遠い。バレエはやっぱり難しい。
私はそうではなくどちらかというと、どんな身体でもバレエを踊れるようにするためには、というところから考える。
これはヨガの教え方から学んだ部分だ。


もう一つは、踊るのが楽しいということを感じてもらう。

バレエのように振付が細かく決まっているとつい力が入って呼吸も浅くなって動きも鈍い。
見ていてこちらも息苦しい。

なので振付がある程度入ってきたら、どういう風に踊ってほしいのかイメージを伝えるようにしている。
例えば「波のように」「目の前のお客さんに話すように」「遠い空を飛んでる鳥を見るように」「ハイジに出てくる崖、その崖下の草花を見るように」。

なんにせよその気になって踊ってもらう。形だけでは補えない運動が鮮やかになる。




それにしても、子供の自分がバレエに通っていた時には“上手に踊っているように見せる方法”ばっかり習得していたように思う。

「手先の動きが綺麗ね」って誰かのお母さんに褒められた覚えがある。
確かにそれは上手に踊っているように見えただろう。
だけどそこじゃない、と今は思う。

身体の動きやポジションについて「これはこう」としか教えられなかった気がする。
小学生くらいなら、身体をどう使うとどう動くのか仕組みは理解できたのだから、もっと解剖学的に仕組みを教えてくれても良かったのにとちょっとだけ思う。
もしかしたら教えてくれていたのかもしれないが、理解しきれていなかった。
腰を怪我をした理由もその時はわからなかった。

自分の身体をきちんと観察することができたら、それは一つ客観視を養うことにもなる。
なんて理屈を言っても、実際子供にそれをさせるのはかなり難しい。

動きは、習慣の成すものだ。
だからこそ、身体の仕組みから意識を変えて習慣的に身体の使い方を変えていっていたら今頃私はどうなっていたでしょうか。


自分がアシスタントをしている子供のバレエクラスでたまに主担当するときは、
「伝われ!誰か一人でも何かに気づけ!!」と思いながら身体の仕組みから教えるようにしている。




その子供のバレエクラスの子たちは小学校卒業とともにバレエも卒業していく。スタジオの関係上、トゥシューズも履かず。

もっと踊りたい、トゥまで行きたいという子は途中で他のバレエ教室に移っていく。
私たち講師はそのやる気を喜び、頑張ってねと送り出す。


そんな週1回のほんわかとしたお教室で、何をどこまで教えるのかというのはとても難しい。

80人以上いる生徒たち、みんながバレリーナになれるわけではないし、ましてやみんながバレエが上手なわけでもない。
運動神経の良い子も悪い子もいるし、お母さんの理想を背負ってレオタードを着てる子もいる。

そんなお教室で、プロのバレリーナだった主担当の先生たちは子供達のレベルに悩んでいる。
私は身体に興味を持って欲しいってことと、この先を楽しく生きるためにもはやもっと違うダンスとかオリジナリティを競うダンスとかを教えちゃう方がいいんじゃないかとこっそり思っている。


何を教えるのか、
その答えは教える側一人一人が違っているものだし、結局その人が何を経験してきたのかをなぞっていく気がする。