2019年6月4日火曜日

オリジナルコンテンツとプライドの、かなり曖昧な話

久しぶりに、ヨガインストラクターの資格取るのに通ってたスタジオで、レッスンを受けた。

たまには気分転換に、喋らずヨガしないとね。呼吸のタイミングが掴めなくなるんだよね。

しかもラッキーなことにマンツーマンレッスン。
先輩インストラクターさんに色々と疑問に答えてもらえて、とても勉強になった。
結局かなりお喋りしながらのレッスンだった。


✳︎


同じ資格をとって同じようにヨガを教えているとはいえ、私があまり使ったことのない表現や指示出しのワードが使われていた。
その先生は、解剖学専門のヨガの先生の元で学んでいるらしい。
せっかくマンツーなので、それってどう言う意味で使ってますか?と意地悪な質問をしてみた。

例えば「骨から動く」という言葉。
その人は滑らかにその言葉を口にしていた。

表層の筋肉でがつがつ動くのではなく、よりコアな部分から繊細に動いていくという動き方の様子は理解できるのだけど、
果たして、本当に骨から動けるのか?という所で私は立ち止まってしまう。
"" 動かす。わかる。
"から" 動く。うーん。
"" 動く。いや。

骨は身体をその形に成らしめている芯というか核であって、骨自体が動くわけではない。
むしろ骨は重力につなぎとめられて空中にういているだけ。
骨に神経はないし、骨を主に動かすのは筋肉だ。
じゃあ、より骨に近い深層筋を使うのか?と聞けば、それも何か違うという。

その人いわく、人間の身体において、筋肉の数と骨の数を比べれば筋肉の数の方が圧倒的に多いし、特定の筋肉の動きを感じ取ることは難しい。
骨をイメージして動く方が、シンプルに体の動きを理解しやすい。
そういう理由でその人は骨からアプローチするそうだ。





こうなってくると、あとはその言葉を使う人が実感としてその言葉をどう理解しているか、
あとはどういうお客さんとレッスンをしているか、ということになってくる。


私のレッスンの多くは、ちょっとふらっとレッスンに出てみた、運動は久しぶり。何したらいいかわからない、という方も多い。

そうなってくると、どこからどこが骨かとか骨の形だって、厳密に分かっているわけではない。
専門用語はもってのほか。
そして、圧倒的に身体が硬い。その人の思う場所を動かそうとしても、意識が届かなかったり、周りの硬い筋肉が障害となって違う場所が必要以上に使われてしまったり。

例えば胸の引き上げに、
「胸鎖関節を開いて、胸骨を突き出すようにしてください」って言ってたら、どこやねんで終わる。疑問を持たれる時間がもったいないし、間に合わない。
よって、
「ウルトラマンのピコーンピコーンのバッジがよく見えるようにしてください」といった具合になる。
笑いが起きればなお良し。楽しいし。


レッスンは、教える人によって全然クラスの色も違うし、教える内容も、何を大切にしているかも、千差万別。
同じくポーズをしていても、インストラクションの指示の言葉選びから、何に効果を期待するかまで、本当にそれぞれ。
でもどれが正解でどれが不正解というわけでもない。

先の先生のレッスンも、私のお客さんには難しいかもれしれないけれど、私にとってはかなりおもしろい。


どちらかというと、正解不正解は、教える方と教えられる方の相性の部分にある。合うか合わないか。

あまり気にしてはいなかったけれど、やはりお客さんが求めるものを提供しようとすることで、自分自身の中で出来上がっていくインストラクションの傾向もある。
改めて、昨日思った。




とにかく体を動かしたいの!という人が多い場所にいるから、ヨガの心理的作用の部分のことに言及することはすくない。
本当は、人生の哲学のような内容も、ヨガの教えには多く含まれる。スピリチュアルな内容も含めて。

それでもヨガの心理的な部分を全く排除しているわけではないけどね、と思ってはいたけれど、久しぶりにヨガ一直線の先生のレッスンを受けると、心理的な部分への言及がかなり色濃い。
自分自身との向き合い方というか。

私はおそらく変に心が強すぎるから、優しい語り口調で、「ありのままの自分の存在を肯定して受け入れてあげましょう」という指示は、ちょっと気持ち悪いと感じることさえある。

ヨガの懐の広さを思えば、その気持ち悪さは、別に否定することではないかもしれないけれども。





だから結局、ヨガについて論文を書こうとしても、
私は心理的な部分までは十分に言及できてないのかもしれない、と思ったり。
私の指導内容で、ヨガの心理的な部分まで言いましたというのは、十分ではないのかもしれない。
専門性、客観性、そういった櫓門は一体どの辺りに立てるべきなのか。

いろんな指導法がある。
何が正解なのかも、その基準点も、本当に多様。曖昧ではなく、多様。
多様にそれぞれが語られ、小さな事実を提供しているだけなのかもしれない。

その謙虚さが、去年の論文には足りなかったんじゃないか。





一方で。
自分は選ばれるコンテンツの一つの種類を提供していると考えるのが、一番健全なあり方なのかもね、思ったりしている。

自分が絶対ではない。
でも自分の性格的に、これはこう、と決めつけてしまいたくなる衝動は尽きない。
一生懸命考えて、考えた結果、これが一番だろうと自信を持ってお伝えする姿勢は悪いことではないとは思うし、いろんな考え方があるよねと頭では漠然と分かっていても、自分の身体で納得した答えはせめてその瞬間なるべくクリアでありたいと思う。(待った、情報の選択と創造をごっちゃにしている気がするが)


でもダンスも、アートもそうなのかもね、と思う。
自分が一番になろうとするのではなく、いろんな人に見てもらう、その人にとってのいちコンテンツとしてあろうとするくらいの気分が私にとってがちょうどいいのかもしれない。
その方が何か吹っ切れる気がするし、だったらとことん突き詰めてやってやろうと思えるし、不要な意地やプライドもちょっとは脱ぎ捨てられるかもしれない。

自分だっていろんなものを見て、いろんな人の価値観や考えを取り入れてるんだから。盲信的に何か一つのものにすがったりすることはない。

プライドとは。





確実なものは、自分のやっていることに対する信頼度というより、それはあるべきだけど、とても小さな核のような、そこの透明度はプライドを持って望むべきものでああるかもしれないけど(プライド、誇りといって奢りになるより、誠実さといった方がこの場合適切かもしれない。)、それが他人に共有され、全く同じように伝わらないかもしれないけど、同じ時間を共有して、良いものも悪いものも、何かを与え与えられたという関係だけは確実なんじゃないか。

と言う考え方も、だいぶ日本人的考え方なのかもしれないけど。安田先生の言う、間身体的なあり方のような。





自分の考えうることは、だいたい誰かがすでに言っている。それはもう切なくなるくらい。
返せば、誰かの考えをたくさん取り入れて、自分が成り立っている。

もっと汚れてしまったほうがいいのかもしれない。その方が、揉まれるなかでそれでも揺らがない微かな何かが、見つけられるのかもしれない。

こんな、糸の切れた凧のような睡眠不足の考え事。

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