2019年6月27日木曜日

言葉の選びかた、愛おしさ

論文を書くための素材として、ヨガの授業を受講している学生に、自由記述のアンケートを書いてもらっている。
これまでに、3回。


授業はせいぜい10回ほどしかしてないけれど、回を増すごとに、学生の言葉は実感の重みが増していって、読んでいて面白い。





私は自分の身体を通して語っていて、少なくとも自分の身体で実感したことや、自分の身体において責任を持てると感じられたことを喋っているつもり。

だけど、一方で、
私の正解を、私の何かを押し付けたくないなとも教えていてふと思う。


何も誘導せず、透明なままでアンケートに答えてほしいと思っても、どうしてもなんらかの恣意は入り込む。
だって、論文を書きたくてとってるアンケートだものね。

限りなく私の意図が入り込まない最低限の設問にしているけど、私の方に書きたいことがある意図は消せない。
そのために導き出したい感覚や、狙っている回答はどうしても、ある。


その狭間で、なんとなくモヤモヤしたり、しなかったり。
回答中は努めて黙ってるけど、
授業してるとつい小声で要らないこと言ってしまう。





教育の場では、私の身体を、押し付けることはいけないと思う。
各々が導き出す答えとは何か、尊重すべきことは何か、ということに常に気を張っていなくては。


例えば、スポーツジムなら少し違う。

"これをやったらこうなる"の見本として私がいるのも、いいと思う。
そのためには、多少強引に私の感覚を押し付けても良いかもしれない。
もしその感覚と合わないと思っても、お客さんの方がインストラクターを選べるから。
合わないと思ったら止めることができる。

私もお客さんの変化を観察しながら、執着しないようにしよう、と思ったりする。
一期一会、また私のレッスンに参加してくださって、身体見させてもらってありがとうという気持ち。


でも学校だとそれは少し違う気がしている。

例え、通う学校や受講する授業を選んでいるとしても、先生は選べないことが多い。
だからこそ、長い時間をかけて向き合える関係もあるだろうけれども。


非常勤である私は、1コマ15回限りの付き合いで、それが少し心残り。

最終レポートにはいつも、「これからも先生に教わったヨガを、家でも続けていきたいと思います!」という気遣い(阿り)の溢れた言葉がちらほら。
「正直やらんだろ」と心の中でつっこんでる。

身体のことを、あーだこーだ言う変な先生がいたな、と数年後に思い出してもらえたら幸せだな、と思うくらい。





論文を書くために、
ざっくりとした正解、例えば今回のことで言えば、大まかな"健康"という概念を、私は決めたがっている。


一説にヨガは、"結ぶ"を意味する"yuj"と言う言葉が語源と言われていて、
何と何を結ぶか諸説あるけれど、それらを乱暴にまとめれば、"心と身体を結ぶ"という解釈が多い。

解剖学のように身体を切り刻み病因に対処するのでなく、
バラバラになって暴走する心や身体をつなぎとめ、全人的な視点でアンバランスさを改善するのがヨガ、
と言った感じかしら。


ヨガというのは歴史が長すぎて拠出のはっきりしない部分も多く、体系付けようにも難しい部分があるみたい。
何かにつけ言い切るのが非常に危ないと足踏みしてしまう。

そして、ヨガは潜っていくほどスピリチュアル。
どんどん説明が難しくなる。

それである程度明確な根拠を与えてくれるソマティック心理学、プロセス指向心理学というものをちょい借りして、ヨガの"結ぶ"ということを今回説明してみようと思っているけど、なんか手を広げ過ぎる気もする。危ない…

だってせいぜい11枚の論文で、記述の分析だけで膨大すぎるよこれじゃ。





去年も同様に、アンケートをまとめる論文を書いたけど、
学生のアンケートは読んでいるだけで「なんて良い回答なんだ!」と感心するようなものがある。

そりゃ、私が授業して喋りまくったことを学生がまとめてるんだから、自分は至極納得できるだけど。
「ああ、私はなんて良い授業をしたんだ」って自惚れてしまうくらいには、伝わっている。

その「良い授業」をまとめたくて、褒めて欲しくて、去年は書いていた気がする。
たった一年ですでに読み返すのが恥ずかしいレベルには香ばしい。
なんか全体的に自信過剰で偉そうなんだよね。
本当に、こういう性格直したい。





例えるなら、飛んでったボール咥えて全力で帰ってくる犬のような自分。恥ずかしい。

それでも、エラい大人が書いている文章には割と「自分結構すごいんですよねー」という一文はちゃんと入り込んでたりするもんじゃん?

文章の説得力に加勢するためで、自己顕示欲ではないとは思う(思いたい)けれども。
ちゃんと他人から見て、「へーすごい人なんだ」て言ってもらえるような書き方よ。
技術よねぇ。





さて、今年は去年のリベンジなので手法はほぼ変わらないけど、少し感触の違うこともある。


去年より漠然とさせた今年のアンケートは読んでいて、確かに私の言ったことを基にしてるだろうけど、なんだろう、学生の回答が私の考えの範疇を微妙に超え始めている。
とても良いことだと思っている。


まだちゃんと説明できないはずの最近読んだ本の内容が、アンケートの答えに書いてある。
言ってはいないと思うし、というかまだ理解しきっていないから、ここまでちゃんと説明できていないはずなのに、確かに学生が何か感じてる。


頭抱えるくらい崩壊した日本語の子もいるけれど、
それでも、誠実に私と自分の身体に向き合ってくれてる子の、浮ついた助詞の選び方や言葉の狭間に漂うニュアンスの瑞々しさは、とても愛おしい。

そういうのを書き残せないものか、という気分に、今はなっている。

2019年6月17日月曜日

やる気が出る前 * * やる気が出て来た後 

細々と書いているこのブログも、「読んでますよ」と言ってもらうことが増えた。

「ダンスって言葉で説明できないじゃん?」と知った顔だった大学生の頃の私に、
「ダンサーも言葉を扱えなきゃダメだ」とさらなる知った顔で諭してきた大嫌いなお兄さん。


そんな影響でブログを書いてみようと思ってから早10年。
その人はまだ、果たして踊っているのかしら?






その時はまだ、言葉の能力(ちから)を今ほど信じてはいなかったけど。


手記のような読み物が割と好き。
ただし、読み手に媚びおもねる感じのエッセイのようなものは苦手。

最近読んだ三島由紀夫の「太陽と鉄」は良かった。他、アルトー、ドストエフスキーなど。
個人の感情のうねりが言葉の芸術まで昇華してかっ飛ばしてるくらいが気持ちいい。
だからたまにわけわからんけど。

詩になると言葉が上滑りしていって沁みてこない。
俳句の方が余白が多いから仲間に入れてもらえる感じ。





自分自身を客観視することは簡単なことではないけれど、言葉にしてみることで、一つ自分の外側に立ち位置を持つことはできると思う。

何かを語ろうとする時、その思考に形を与えようとする時、自ずと客観的な立場に立つことになるから。

みたいなことふと考えていて、今日の授業で学生に言ってみた。
伝わってなくてもいい。私が私のために言った言葉。


そうしたら、昨日ぼーっと見ていたヤフーニュースの記事で、「失恋した時は手紙を書きなさい、ただし相手にそれを送らないように」と書いてあったのも思い出した。






携帯のメモには、書き上げることのなかった言葉の切れ端がものすごい数眠っている。

最近は、一方通行の一つの文章にまとめようとせず、説明しすぎないように、*で余白をとることにしている。

*で留めておけば、前後を飛び越えて繋がりができる気がする。
それが言葉でちゃんと表せればいいんだけど。





こんな稚拙でも、一つの文章をまとめるのにすごくエネルギーが必要で、力尽きている間に風化していく。

去年書いた拙論文の抜刷りを職場の先生に渡したら、
「まずは書き上げるだけでいいんだよ!とにかく、書き上げて形に残さないと、無かったのと同じだから!」とやたら励ましていただいた。

本当はそれだけではいけないと、わかっているけれど。







いろんな人の身体を見ることが仕事のひとつだけど、
その身体の状態から、どういう性格や考え方なのかとか、どういう生活を送っているのかとか、色々想像する。

そうして結局、
私にとって他人の身体は、その人の生活が創り出した(まだ昇華しきっていない)アート作品なんだと、
色々考えた結果たどり着いた。

身体の状態は、その人の在り方を多少なりとも反映している。
身体の状態がその人となりを作ることもあるし、気持ちのコントロールで変わる身体もある。
身体を知っていくことの面白さが自分自身への興味や感受性の幅を広げることにもなるんじゃないかと。

そしてそういう方向性で論文をまとればいいんだと、ようやく入り口にたどり着いた。
時間かかったなぁ。間に合うんか?

自分で設問しといて目的を見失ってた学生へのアンケートも、参考にすべき先行研究も、少し明るくなった。

とりあえず130枚近い記述アンケートの文字起こしと分析からだ…やるぞー





去年、論文を書くために集計していた学生のアンケートを読んでいて面白いと思ったのは、
「脳が司令塔みたいな感じで、体はその操縦に従って動くロボットだ。だけどロボットがポンコツすぎて、思い通りに動いてくれなくてもどかしい」
という記述だった。

原因と結果を考察し、病因に対し処置をする西洋医学に対して、東洋医学は全人的な処置を行う。
インダス文明からアーユルヴェーダのいち医療行為としてとして取り入れられてきたはヨガも東洋医学に属しており、のちの仏教の言うところの心身一如の考え方とも通じる。

日本人としては、日本語に身体と感情を結びつける慣用句がたくさんあることもあり、心と身体は連動しあうという感覚の方が強いのかなと想像していたのだが…

そのはずなのに、脳が身体をコントロールするという発想はどこから来たのか。
でも彼女な丁寧な説明に膝を叩いた。溜飲を下げた。目を開いた。


アニメオタクを自称する彼女は、「自分の思考や感情など心の部分があれば、インターネット上に存在することができる。だから身体は社会に自分をつなぎとめているものに過ぎない」と言っていた。

最高にクール。情報化社会ここに極まれり。

そんなことあるかい、と思ったけど、そんなこともあるか、と思った。





先行研究を漁っていて面白かった部分を。

プロセスワーク(プロセス指向心理学)のアーノルド・ミンデルの著書から引用されたもの。

『当時私が見ていた患者は胃癌で死にかけていた。…ある日話をすることができたとき彼は、胃の腫瘍が耐えられないほど痛むといった。私は、彼の身体感覚、すなわち痛みの体験に焦点を当ててみようと考えた。…彼はどうすればそれができるかをよく知っており…あおむけに横たわり、おなかに力を加えはじめた。…まるで自分が爆発するかのように感じてきたのである。そして痛みの頂点で突然、叫び声をあげた。「ああ、アーニー、僕は爆発したい、今まで爆発することができなかったんだ。…僕の問題は、自分自身を決して十分に表現することがなかったということなんだ。」』(アーノルド・ミンデル:ドリームボディ・ワーク、1994)

なんて、面白いんだ。その動き見てみたい。そんなやり方があったのか。

表現かー!

2019年6月4日火曜日

オリジナルコンテンツとプライドの、かなり曖昧な話

久しぶりに、ヨガインストラクターの資格取るのに通ってたスタジオで、レッスンを受けた。

たまには気分転換に、喋らずヨガしないとね。呼吸のタイミングが掴めなくなるんだよね。

しかもラッキーなことにマンツーマンレッスン。
先輩インストラクターさんに色々と疑問に答えてもらえて、とても勉強になった。
結局かなりお喋りしながらのレッスンだった。


✳︎


同じ資格をとって同じようにヨガを教えているとはいえ、私があまり使ったことのない表現や指示出しのワードが使われていた。
その先生は、解剖学専門のヨガの先生の元で学んでいるらしい。
せっかくマンツーなので、それってどう言う意味で使ってますか?と意地悪な質問をしてみた。

例えば「骨から動く」という言葉。
その人は滑らかにその言葉を口にしていた。

表層の筋肉でがつがつ動くのではなく、よりコアな部分から繊細に動いていくという動き方の様子は理解できるのだけど、
果たして、本当に骨から動けるのか?という所で私は立ち止まってしまう。
"" 動かす。わかる。
"から" 動く。うーん。
"" 動く。いや。

骨は身体をその形に成らしめている芯というか核であって、骨自体が動くわけではない。
むしろ骨は重力につなぎとめられて空中にういているだけ。
骨に神経はないし、骨を主に動かすのは筋肉だ。
じゃあ、より骨に近い深層筋を使うのか?と聞けば、それも何か違うという。

その人いわく、人間の身体において、筋肉の数と骨の数を比べれば筋肉の数の方が圧倒的に多いし、特定の筋肉の動きを感じ取ることは難しい。
骨をイメージして動く方が、シンプルに体の動きを理解しやすい。
そういう理由でその人は骨からアプローチするそうだ。





こうなってくると、あとはその言葉を使う人が実感としてその言葉をどう理解しているか、
あとはどういうお客さんとレッスンをしているか、ということになってくる。


私のレッスンの多くは、ちょっとふらっとレッスンに出てみた、運動は久しぶり。何したらいいかわからない、という方も多い。

そうなってくると、どこからどこが骨かとか骨の形だって、厳密に分かっているわけではない。
専門用語はもってのほか。
そして、圧倒的に身体が硬い。その人の思う場所を動かそうとしても、意識が届かなかったり、周りの硬い筋肉が障害となって違う場所が必要以上に使われてしまったり。

例えば胸の引き上げに、
「胸鎖関節を開いて、胸骨を突き出すようにしてください」って言ってたら、どこやねんで終わる。疑問を持たれる時間がもったいないし、間に合わない。
よって、
「ウルトラマンのピコーンピコーンのバッジがよく見えるようにしてください」といった具合になる。
笑いが起きればなお良し。楽しいし。


レッスンは、教える人によって全然クラスの色も違うし、教える内容も、何を大切にしているかも、千差万別。
同じくポーズをしていても、インストラクションの指示の言葉選びから、何に効果を期待するかまで、本当にそれぞれ。
でもどれが正解でどれが不正解というわけでもない。

先の先生のレッスンも、私のお客さんには難しいかもれしれないけれど、私にとってはかなりおもしろい。


どちらかというと、正解不正解は、教える方と教えられる方の相性の部分にある。合うか合わないか。

あまり気にしてはいなかったけれど、やはりお客さんが求めるものを提供しようとすることで、自分自身の中で出来上がっていくインストラクションの傾向もある。
改めて、昨日思った。




とにかく体を動かしたいの!という人が多い場所にいるから、ヨガの心理的作用の部分のことに言及することはすくない。
本当は、人生の哲学のような内容も、ヨガの教えには多く含まれる。スピリチュアルな内容も含めて。

それでもヨガの心理的な部分を全く排除しているわけではないけどね、と思ってはいたけれど、久しぶりにヨガ一直線の先生のレッスンを受けると、心理的な部分への言及がかなり色濃い。
自分自身との向き合い方というか。

私はおそらく変に心が強すぎるから、優しい語り口調で、「ありのままの自分の存在を肯定して受け入れてあげましょう」という指示は、ちょっと気持ち悪いと感じることさえある。

ヨガの懐の広さを思えば、その気持ち悪さは、別に否定することではないかもしれないけれども。





だから結局、ヨガについて論文を書こうとしても、
私は心理的な部分までは十分に言及できてないのかもしれない、と思ったり。
私の指導内容で、ヨガの心理的な部分まで言いましたというのは、十分ではないのかもしれない。
専門性、客観性、そういった櫓門は一体どの辺りに立てるべきなのか。

いろんな指導法がある。
何が正解なのかも、その基準点も、本当に多様。曖昧ではなく、多様。
多様にそれぞれが語られ、小さな事実を提供しているだけなのかもしれない。

その謙虚さが、去年の論文には足りなかったんじゃないか。





一方で。
自分は選ばれるコンテンツの一つの種類を提供していると考えるのが、一番健全なあり方なのかもね、思ったりしている。

自分が絶対ではない。
でも自分の性格的に、これはこう、と決めつけてしまいたくなる衝動は尽きない。
一生懸命考えて、考えた結果、これが一番だろうと自信を持ってお伝えする姿勢は悪いことではないとは思うし、いろんな考え方があるよねと頭では漠然と分かっていても、自分の身体で納得した答えはせめてその瞬間なるべくクリアでありたいと思う。(待った、情報の選択と創造をごっちゃにしている気がするが)


でもダンスも、アートもそうなのかもね、と思う。
自分が一番になろうとするのではなく、いろんな人に見てもらう、その人にとってのいちコンテンツとしてあろうとするくらいの気分が私にとってがちょうどいいのかもしれない。
その方が何か吹っ切れる気がするし、だったらとことん突き詰めてやってやろうと思えるし、不要な意地やプライドもちょっとは脱ぎ捨てられるかもしれない。

自分だっていろんなものを見て、いろんな人の価値観や考えを取り入れてるんだから。盲信的に何か一つのものにすがったりすることはない。

プライドとは。





確実なものは、自分のやっていることに対する信頼度というより、それはあるべきだけど、とても小さな核のような、そこの透明度はプライドを持って望むべきものでああるかもしれないけど(プライド、誇りといって奢りになるより、誠実さといった方がこの場合適切かもしれない。)、それが他人に共有され、全く同じように伝わらないかもしれないけど、同じ時間を共有して、良いものも悪いものも、何かを与え与えられたという関係だけは確実なんじゃないか。

と言う考え方も、だいぶ日本人的考え方なのかもしれないけど。安田先生の言う、間身体的なあり方のような。





自分の考えうることは、だいたい誰かがすでに言っている。それはもう切なくなるくらい。
返せば、誰かの考えをたくさん取り入れて、自分が成り立っている。

もっと汚れてしまったほうがいいのかもしれない。その方が、揉まれるなかでそれでも揺らがない微かな何かが、見つけられるのかもしれない。

こんな、糸の切れた凧のような睡眠不足の考え事。

2019年5月27日月曜日

ボディ・ビル哲学

書いては消し、書いては消し。
最近、いっそう自分の文章が好きじゃない。
どうしたものか。

一本線が通ったときに、よしまとめられた!、と思うけれど、読み返してみると言いくるめたい感が強すぎて、どうにも。
揺らぎがなかったり、隙間がなかったり。

我が強い感じがそのまま出てしまって、少しうんざり。というか、はずかしい。




それにしても、昨日の日舞の稽古は刺激的だったな!

日舞は、明確に綺麗に見える形をとるべき瞬間が点々とあるんだけど、その点と点をつなぐ間は自由であることが多いらしい。
個人の身体に合わせて違和感なく綺麗につないでいればオーケー。
手の通る経路も、歩数も、音楽の捉え方ですらも。

だから、綺麗な形を覚えこむことより、身体が自ずから自由に動くけれども綺麗に見えるラインを探るのがかなり難しい。

どうしても力みが抜けなくて、ギシギシと力で踊ってしまう。


それがどうやら、足首に根本原因がある気がしてきた。

今までの足首の使い方は、足(指先、足の甲、踝)という部品に脛をジョイントして押し込んでるような使い方で、
オフバランスになろうとするとき、足首を踏み込んで止めようとしてしまう。

日舞の歩き方は重力に乗って倒れこむように足を出して行くべきなんだけど、それを足首が止めようとしている。


そこで、もう少し踝の位置を高く浮き上がらせるような感じで、隙間を持たせ摩擦が出来るだけ起きないように、揺らぐように使うと全身が軽くなった。

もともとそれが身についてる先生は「どゆこと?」と首を傾げていたけど、私的には非常に大興奮だった。

これが身体に馴染んで習慣化すれば
もう少し滑らかに動けるかしら。




大昔、千駄木のBrick-oneに出入りしていた頃、
「あなたは足首が強すぎて、全部足首で処理しちゃってる」
と指摘されたことを思い出す。
そのときは意味不明で、何言ってんの?て感じだったけど、
いまやっと、理解したぞ。

しかも、ほかの身体のコリは最近大体どうにかできるけど、ふくらはぎのコリだけはどうにも治らない。

踊るときや仕事のときは難しいけど、まずは歩き方から変えてみよう。
ふくらはぎの形も変えられる気がする。




そうやって自分の身体をちょっとずつ作り変えてきていて、
太ももの形は昔と今でだいぶ違うし、靴擦れにならない歩き方に直したし、
アレキサンダーテクニックを参考にして首の位置と体軸を直してる途中。
体幹がなかった仕事始めた頃は、二の腕の形がどんどん太くなってたけど、ようやっと最近そうならない使い方ができるようになってきた。

それでも、ふくらはぎだけが、いつまでも疑問だった。
ひざ下の骨が出てると昔整形外科で言われたのと、腰椎分離症はあるとして、かかとの骨が出てるのも気になる。




身体に性格が出る。

単純に、筋肉の質とモノの考え方はリンクしているように思う。
ただよく伸びる柔軟性というより、受け止め方のような点において。

細かく調べたことないから勘だけど、まぁそういうものなんじゃないかと思う。
いろんな人の身体を見てると、どんな生活なんだろうとか、どうしてこうなってるんだろうとか、自ずと考えてしまう。




そうやって、人の身体を扱う仕事をしているせいか、顔つきというのはあまり見ていないくて、やっぱりひたすら身体を見ている。

仕事で一度会った人も、覚えているのはその人の顔よりその人の身体の動き方で、
レッスン前に「この間はどうも」って言われても「はて?」で、レッスンしてると思い出す。

さらに、目が悪いまま仕事をしてるから、細かい表情は見過ごしていることが多い。
それでも、その人の意思は身体全体から感じ取れる。

私にとって意味ある情報を発信しているのは身体であって、顔はパーツの配置くらいにしか捉えられていなくて、全ては個々人の差でしかなくて、
もちろん見てしゃべってるんだけど、相手の目を見て話しすぎて、目がゲシュタルト崩壊することもある。
所謂美人だとかイケメンだとか、そこに価値があるかどうかはわからない。


それでも一応私にも顔がついてるんだけど(自分の顔は人のためにある気がして)、鏡で自分を見ると「誰だこれ」って不思議な気分と恥ずかしい気持ちになる。




身体の使い方を学ぶということは、考える力を学び、心を豊かにすること?

心が豊か、って、なんだろうと思うけど、豊か、数をたくさん持っているということかしら。
たくさんの心を知っている。他人の心を知って思いやり、自分も思いやる。そんな感じ?


子どものぶっとんだ発想や理論立てられていない空想は、あの肉の柔らかさが生み出しているものだと思う。
水が高いところから流れ落ちるように、肉も流動的。

だけど子どもは、ずるや楽をしたがる。楽な方に流れていく。
身体を律して自分を立てる力をまだ知らないからだと思う。
その力を経験というのだと思う。




大人はまた違う問題。
レッスンしてて出会う、なんとも頑固な身体つきの人。
並大抵の指示では聞き流され、本人がやりやすいように処理してしまう。

お医者さんだったり、直接全部触って施術できるようなマッサージだったり、
薬とかでもっとわかりやすく(半ば強制的に)変化(効果)をつけるようなものならいいんだけどね、
運動の指導となると。


経験を積み重ね、慣れ親しんだ身体で慣れた動きしかしないことには、どうしてもある程度考え方も固執していく。
身体が凝り固まって可動範囲が狭くなれば、刺激に鈍感になり、思い及ぶ範囲も狭まっていく。

そんな中で、新しい動きや身体の使い方を身につけてもらうのは、そう簡単なことではない。
たまたま自分のレッスンがクリーンヒット!になることもあるかもしれないけど、一応お金もらってるので、
奇跡でなく毎回できるだけ発見があるようにしてみている。
レッスンは、身体をめぐる物語。起承転結。


この、むしろ押し付けがましい私のレッスンが、果たして良いのかどうかもわからない。
自分の正解を押し付けてはいないかと、たまに不安になってはいるんだけど、

せめて私だけは楽しんでるということをお見せするということで許してくれとは思ってる。




終わらないので一旦終了
あー論文どーしたものか。




三島由紀夫のスポーツ論集が面白かった。
「ボディ・ビル哲学」という節より。

 『近代芸術の短所は、まさにその点にある。知性だけが異常発達を遂げて、肉がそれに伴わないのだ。
肉というものは、私には知性のはじらいあるいは謙抑の表現のように思われる。鋭い知性は、鋭ければ鋭いほど、肉でその身を包まなければならないのだ。ゲーテの芸術はその模範的なものである。精神の羞恥心が肉を身にまとわせる、それこそ完全な美しい芸術の定義である。羞恥心のない知性は、羞恥心のない肉体よりも一そう醜い。
 ロダンの彫刻「考える人」では、肉体の力と、精神の謙抑が、見事に一致している。

 だまされたと思ってボディ・ビルをやってごらんなさい。もっとも私がすすめるのはインテリ諸君のためであって、脳ミソ空っぽの男がそのうえボディ・ビルをやって、アンバランスを強化するのは、何とも無駄事である。』

2019年4月10日水曜日

眈々、淡々、譚々(ダンス作品の前と後と、映像のはなし)

昨日、立教の映身の教授で映画監督の万田さんと、これから映画撮ろうとしてる浅雄との飲み会になぜか呼んでもらった。


万田さんには直接指導は受けなかったので、しっかり話したのは初めてだった。

7年くらい前に、友人の授業課題で製作した映画に出させてもらったんだけど、万田さんがその作品の中の私をいまだに覚えてくれている。

なんともフラットで、柔和なおじさま。こういうおじさんになりたいとさえ思うくらい。




ふと、気になったことをつらつら喋った。

その前日に「魅惑のダンス会」の上映会をしたこともあり、
人の動きと映像の関係の話を聞かせてもらった。

ダンス作品、ひいては舞台作品は、記録映像として撮影した場合、その魅力や作品の意図するところが抜け落ちてしまうことは当然のことだ。
上映会で「映像で見るより生で見た方が絶対面白いんだけどね」と言いながら上映していたけれど、それは当たり前なんだけど、少し引っかかったこともあった。

その時は必要ないと思ったので特に言わなかったけど、
生>映像という捉え方で一括りにするのは勿体無いかもしれないと。

あの会に関して言えば、映像を見ながら、出演者がその場で解説やその時の感情を話しながら、それも踏まえて記録映像を見ているのだから、また実際の舞台とは違った面白さを提供できていると思った。




ダンスと映像の関係を、雑に扱ってしまうのは惜しいとも思う。
映像が生に、必ず劣るということもないし、映像だから生まれる情報もあると思う。
むしろ、映像という手法を、ダンスが選択することだってできるはずだと思う。




万田さんに、映画を監督・撮影する時の演出方法を簡単に教えてもらった。
かなり面白い。


まず、芝居を生で見る。
生で見て、芝居に違和感がないか、この場合の違和感とは演者がその動きに対して無理をしていないかどうか、もしそういう様子であれば、生のその場で演出を変えていくらしい。

そのあとカメラ越しに見て、生で見てその芝居を見て面白いと思ったことを、画角の中で再現するそう。
だから、カメラ越しに見て、新たに演出を変えることもあると。

映像の人からしたら当たり前なのかもしれないけど、私にとってはかなり新鮮な話で面白かった。


ちなみに、万田さんは舞台作品が苦手と言っていた。笑
暑苦しいんだって。




「芝居に違和感がないか」という演出の方法は、かなり私自身も共感する点だと思った。
大小かからわず、エネルギーが屈折していないかどうかはとても大切なことだと思う。

その中で見つけた面白さを映像の中で再現する?とはっ!どうやってっ!!?と思ったけど、それは隣で見てる浅雄の方がよくわかってるんだろう。




院生になって、ソロで作品を作ってみようと思って試行錯誤していた頃、
どうしても自分のダンスが面白くないことにもやもやしていたことがあった。


その状況の中で、ひたすら自分の動きを映像で撮っていた。
形やシークエンスの振付を作ってみたり、即興で踊ってみたり。

ある日、即興で踊って数分回した映像の中で、一瞬だけ「この動き面白い」と思えた瞬間があった。

そこからは、その「この動き面白い」と思える瞬間をどれだけ増やしていけるかが課題になった。
まずは映像で、そのうち動いている中でも、これは面白くなるだろうって思える瞬間が増えていった。



この頃すでに、自分で自分に形を振付けるということは諦めかけていた。

振付を処理する自分の身体が気持ち悪くてしょうがなかった、結果、まだ自分の身体に興味を持っていられる即興の方が幾分、自分自身に違和感なく動けるような気がしていた。

その時感じた振付けに関する違和感とは。
振付にすると、達成すべき点と点を繋いでいるような気分になって、
その点と点の間の感覚が抜け落ちるというか、ムラがあるというか。
だから、その点を捨てて、“動き方”の方に、つまり“線の書き方”の方に全精力を振ることにした。

だから私のダンスは、達成すべき点をつなぐものでなく、動いた結果であり、軌跡のようなものに近い。




魅惑のダンス会では、「譚々」(たんたん)という作品を上演した。
この時で3回目の上演になる。

この作品は、ラヴェルのボレロを参考にした作品。

ボレロの何が面白いかって、段々テンションが階段を上っていくところ。
矢印は一方向、上がるのみ。
ハイになって上っていく様をあんなに丁寧に、しかもそれを15分ちかい長尺でやるという変態作品。


その構成をダンス作品として再現する。片方はスネアドラムで、片方はダンスで。

何を見せたいかというと、段々ハイになってくヤベーやつらを見せたいんだよね。
ぶっ飛んでいって欲しい。見ちゃいけないものを見せてほしい。


上映会のあと、出演者の金井さん(ダンサーではなく音楽家)にも指摘してもらったけど、その目的にしては、ぶっ飛び方がまだ足りないと。
本当にその通り。




トランスを自己生成するのは、思ってるより難しい。

3歩進んで2歩下がりながら、というより、2歩下がりながら3歩進むような絶妙なテンションで自分の身体を徐々にハイにしていく。

違和感がないように、なめらかに。
雪の斜面を滑り降りるスキーのように、上がっていく。




それを、だ。

そのダンスをお客さんにどう共有してもらうかというと、また話が一段階ややこしくなる。


有機的な物語のある作品とちがって、私のやっていることはとても抽象的。
音楽の演奏や、お祭りのようなものに近い。
その分、根源的な身体の在り方に関わっていると思う。

ただ、今の所は、抽象的だから伝わらないとかそういう問題でもなく、ただ圧倒的なぶっ飛び方が足りないってことなんだろうけど。
0か100。中途半端はあんまり意味がない。


それで、現時点で、自分の身体で起こっていることを一番ストレートに体験してもらえる方法として分かっているのが、自分が身体に関わるレッスンをすること。
ヨガやバレエ。

現時点で一番それを実現しやすい環境は、パワーヨガ。
おそらく、呼吸の使い方と身体の変化をコントロールしていけるからだろう。

動きながら私がハイになっていく状況に、ついてきてもらえる。なんだったら、同じような感覚を共有してもらえるかもしれない。



この状況を作品化できないだろうか、と思っている。

実現した時には、既存の舞台機構や上演方式の枠に当てはめる必要はなくなっているかもしれないと思う。
もしくは、側は変わらなくても、もっと鮮烈な感覚を提供できるくらいには、精度をあげたい。

それは、自分が音楽の演奏会で感じた圧倒的なエネルギーや、お祭りなどの神聖な高揚感を体験した感覚にすり寄っていっている。
(…宗教ってこうやってできあがっていくんだろうか笑)




譚々は、これからも上演したいと思う。

まだ足りないね。

2019年4月5日金曜日

最近の考えごと

新年度のはじまり。

風邪ひいた。花粉じゃないと信じたい。
おかげで声が飛びかけた。


バレエに通っている子供たちに、次は何年生?と訊くと、自慢げに答えてくる姿がかわいい。
年中と年長の違いがわからない5歳ちゃんたちも、新しく入ってきた4歳ちゃんたちにはしっかり先輩やってる。これはこうだよ!って一生懸命教えている。


そういや自分も子供のとき、本番の舞台上で隣の子に、間違いを直してあげようと指摘したことがあったな。
写真に残ってしまったんだっけ?




今年も上半期はまた一本論文を書いてみようと思っている。
がしかし、なかなか何を明らかにするのか、軸がはっきりしない。
正直、間に合っていない。

去年の反省としては、自分の言いたいことを書きすぎて、客観的な論証を示しきれていなかった。
書き方の問題も大きい。しかし、そもそも何をはっきりさせたいのか、その範囲が明らかになっていなかったことが一番の問題だと思う。

結論を書いたところでそれが結論になっていない、というそもそもすぎる問題にぶち当たった。
結局出したかった論文誌の査読は落ちてしまい、別の媒体でどうにか掲載してもらったけれど、課題は多かった。




博士課程の友人から、
何かをゼロから書くのは難しいから、先行研究としてあるものをきちんと提示してから、「でもですね、私は」で言いたいことを書いた方がいいと、アドバイスをもらったことを、今思い出した!

そうだった、そうだった。友人の披露宴の二次会でね。
あれは非常に楽しい夜だった。
論文の書き方指南に「さすが博士!」と唸ったあと、その彼のトークに磨きのかかった恋愛漫談で死ぬほど笑ったんだった。




ここ最近興味があるのは、能楽師の安田登さんの本。
伝統芸能である能を通して、日本独自の文化を探り、日本人はどう感じ、何を考え、何を共有しているのかということを語っている。

とても、面白い。

絶対言い過ぎだと思うけれど、自分がダンスの作品を作る中で大切にしていたキーワードが、安田さんの本にたくさん出てくる。
はぁぁう!なぜここに!!ってなる。

例えば、「風景を作りたい」「振付に意味を持たせない」「見られる側が見る/見る側が見られる」とか。
私はお能を作りたかったのか?と、甚だしい勘違いもしたくなる。

能、観に行こう。



日本人の身体観に興味がでてきたのは、
昨年度の大学生へ向けたヨガの授業で、「あなたにとって身体とは何ですか?」という絶妙に微妙な質問をしたことから。

回答用紙に、「そんなこと考えたこともないし、訊かれても困ります」と書かれるくらいには、難しい質問だったと思う。

答えは様々で、みな何とか自分の感覚に近い言葉を手繰り寄せて書いてくれていた。
多かったものや印象に残っている回答は、
「脳の指令で動くロボット」
「自分の心の容れ物」
「感情を表現するもの」
「自分の生きてきた証」
「大切にしなければならないもの/大切にしたいとは思えないもの」
「自分と社会を繋ぎどめておくもの」
などなど、思い出すと色んな答えがあった。

わかるー、と頷く答えも、そうか?、と首をかしげる答えもいろいろあって面白い。

それぞれ、そう思うに至った経験がいろいろあったんだろうなぁと想像すると面白い。





ぼんやりとした彼女らの答えは、ざっくりと、
・心を身体の対のものとして捉えているもの
・ひとまとまりのものをして捉えているもの
に分けられるなと思った。

心、と書いたけれど、心に限らない。
心と書いたり、脳だったり、思考だったり、形を持たない意思のようなものと身体が対立するような感じの。

自分もかつてそう思っていたり、そう思っている節があるけれど、
この考え、一体何を経験してそう思い至ったんだろう、と。

そして、この二項の対立が、果たして身体を取り巻く思考においてふさわしいのかどうかもずっと疑問だ。

このぼんやりを何と無く晴らしたくて、「日本人の身体」という安田登さんの本を読んだ。

その答えが、安田さんの本に多く書いてあった。





話それるけど、
自分がこの人好きだなと思う文筆家って、何か共通点がある気がする。

少なくとも、トゲのある人の文章はあまり好きじゃない。
言うなれば、木みたいな、どっしり構えておおらかにユーモア語るおじさんの本が好み。
金子先生とかも。





話戻ると、

自分がレッスンをしていてよく遭遇する、
私の、この場所をこう動かしてほしい、という指示に対して、本人はそう動いているつもりでも、動いていないという場面。

多くは、動かしたい場所と違うところに力が入っている。
それでも、できたつもりになっている。


それを見ていると、いかに身体が不自由で、自分の思い通りにならないか、ということを考えさせられる。
思い通りにならないということは同時に、思ってもいないように動いているということでもある。
自分の感情の自制を振り切って身体が動くこともあるし、動かないこともあるし。

もっと広く考えれば、心臓が動いていることだって、呼吸を絶えずしていることだって、内臓が常に働いていることだって、何も自分の思いの通りではない。





思い通りにならなさは、私自身も結構経験している。
胃痛でゲーゲー吐いてた時は、誰かに乗っ取られている気分だった。

自分は2つ目の身体を生きているとさえ、最近は思う。
2つ目はとても穏やかで快適だ。





思い通りにならない身体に、思いもしなかった身体の動かし方を伝えたい、
それが自分が運動を指導するときの一番のモチベーション。

その人の身体の、当たり前を崩したい。

レッスンの時間の中では伝えるのに十分な時間はないかもしれない。
それに、今でなくてもいい。
この、不思議な身体の動かし方が、いつか何かのきっかけで、その人の新しい身体の使い方になってくれ!と思いながらやっている。
ような気がする。


レッスンしている時間は、目の前にいる人の身体と戦っている気分。
もしくは、登山口に立つ登山家の気分。





私の最近のレッスンの流行は、
この運動をする前とした後で、身体のこの部分がこう変化した!というストーリー仕立てでお送りするレッスン。

変化をより印象的に、感動的に。





全く話は変わるけれど、
デュオのダンス作品を作りたいと、ふつふつ思っている。
だれか相方やってくれないかな、もしくは二人組まるごと。


本当は、自分が論文で示したいことだって、アート作品として結論の昇華をその作品に触れる人たちに託すことができたらどれだけ楽しいだろう、と思う。

弟たちからもらったアイデア、レッスン受けてくれてる人たちの心拍数を電球のチカチカで表す、とかっていうアイデアも面白そう。

それにしても、まずは自分の中でテーマがはっきりして論文書けるくらいには考えをはっきりしないといけないとは思うけれど。

どっちみち論文書いてから制作だなー。

2019年3月1日金曜日

ダンサーと、インストラクターの違い。試論


先日のこと。

代行で、ご年配の方の健康体操レッスンを担当した。

かなり軽度の運動を1時間、その日は45人のご参加だった。

レッスン終わりにお客さんのお見送りをしていたら、
「スタイルいいわねぇ」とやたら褒めていただいた。

最近はボディラインの見える仕事服を着ることが多い。
腹筋全開スポブラだけ!、とまでは行かないけど、
動きの説明に邪魔な緩い服はどんどん少なくなる。

その日はレギンスにタイトな長袖のシャツを着ていたのだけれども、
おばあちゃま達があまりに褒めてくれるから勘違いしそうになったわ。




インストラクターとして人の前に立つ限りは、やはり、「運動をすればこうなる」というわかりやすい見本になるべきだとは思う。

もちろん、体格云々以前に、教え方やインストラクター自身のキャラクターの問題もある。
けれど、今回は主にお客さんからどう見られるか、という話。


もちろん、対応するお客さんによってその基準は変わってくるけれども、
私がレッスンをしている多くの場所では、痩せていることがいいことであるわけでもない模様。
結構体格のしっかりしたインストラクターも少なくない。年齢も様々だし。

もしかしたら、インストラクターがその人からかけ離れすぎているのも、性格によってはネガティヴに捉える(「頑張ったってああはなれない」)こともあるかもしれず、
自分も頑張ればこうなれるかも、という親み(可能性)も、ある程度必要かもしれないとも思う。

運動をしたいとその場に足を運ぶ人たちに、「こうなりたい」と思ってもらえるような人間として、もしくはそのお客さん自身の描く「こうなりたい」の助けとなるインストラクターとして、レッスンをさせてもらうことが大事なのかなと。




それは、自分がかつて、子供の時にバレエ教室で感じたことと似ている。


私の通っていた教室は、年齢である程度教室の所属は区分されていたものの、3歳から60歳近いダンサーまで、本当に幅広い人がレッスンをしていた。

自分から上のお姉さん達は、当然憧れの存在だった。


今思えば、レッスンの仕方にも工夫があったのかもしれない。


レッスンのはじめに必ずその日の班決めがある。
学年と経験年数順に一列に並んで、点呼をして、
必ずお姉さんから一番末っ子までが均等に班になるようにする。

自分がどれくらいの立ち位置かも自覚するし、班長のお姉さんを頼りにして付いて行こうとその姿を追いかける。




自分が今、子供のバレエの教室を見ていると、
やはり練習好きで上手なお姉さんがいると、クラスのレベルが格段によくなる。

「こうなりたい」という手本がそこにいることが、とても重要なのだと思う。

その関係は、自分と指導者という関係より、自分と少し上の先輩との関係の方が馴染みやすく、憧れの立場に立つ自分を想像しやすいだろうし、その分頑張ろうと前向きに頑張れる。




インストラクターとお客さんという関係でも、様々な捉え方はあると思う。

ある人にとっては、「こうなりたい」と思わせる存在かもしれないし、
見ているだけで楽しい、きれいと思わせる存在かもしれない。
もしくはレッスンに出ることで、自分に鞭打つ存在かもしれない。

どれか一つであるべきとも思わないし、十人十色、様々な関係性があるだろう。




次に自分のダンス作品について考えようと思う時、
インストラクターとしての自分とお客様の関係と、ダンサーとお客さんの関係にどう違いがあるのか?と考える。

最近思っていたのは、舞台上で上演されるダンスが、客席に座るお客さんにどう共有されるのか?ということだった。
客席に座っているとしても、ダンスを受け取るその身体になんらかの変化を与えられないのか?と。

それを考えるとき、一番手っ取り早い方法として思いつくのは、自分がレッスンをしている環境だった。

レッスンをしているときの、私の一番の快感は、
自分の動きが伝播していく感じ、自分の感覚を身体で追体験してもらって、それがなんらかの変化をもたらしたことを確認できたとき、目の前に立ちはだかる強情な身体を自分の狙い通りに動かせた時だ。


その快感を、ダンス作品にも、応用できないのかと思った。

何か、自分がやること、ダンスというものが何を伝えるのかの確証が欲しいと思ったのかもしれない。
同時に、舞台上で踊られるダンスと、それを見る自分との間に、ものすごく距離を感じる作品を最近見たからかもしれない。




だけど結局、ダンサー/お客さんとインストラクター/お客さん、その二様の取り結んでいる関係は、明らかに違う。

インストラクターは自分の理想を投影する「こうなりたい」の身近な憧れの存在かもしれないが、
ダンサーはその身体とその身体から発せられる動き自体が作品であり、鑑賞される対象。
お客さんがダンサーを見て、「こうなりたい」と思ってもらわなくても、それはそれでいいんだ。


ダンスを観るということは、美術館で絵を観るということと同義。
ダンスは鑑賞される対象で、もちろんそのダンスを踊るダンサーの身体も作品の一部。


だから、客席の割と心地よい環境でゆったりと腰掛けるお客さんのあり方に、別に間違いはないし、
お金を払って舞台上で行われている作品に批判的な目を向け、自分のモヤモヤに向き合うことだって、何も間違ってない。




自分のレッスンのお客さんが、私のダンス作品を観にくることもある。

ただその時思うのは、
もちろん作品や私の動きを見て面白いと言ってくれる反応もあるけれど、
ダンス作品を作っている私に対するある種の尊敬のような、「すごいですね」という感想があることもまた事実。

自分の世界観を持って好きなことをやっているということに対する「すごいね」。
人としての同じ線の上に在る私に対する言葉。
それとそこで踊られるダンスに関係はあるかというと、厳密には、ない。

だけど、それは同時に起こっているし、別にどちらかが必ず抜け落ちるわけでもない。スタンスの違う、2種類の感想。




自分がこれまで、心から感動したと思った色々な芸術作品について思い出してみる。

そのとき思うのは、その作品に感動することができたのは、
それまでの自分の経験があったからであって、自分でも覚えていなかったくらいの出来事が呼び起こされたり、それまで感じていたものから何かがずらされたり、
全て自分の記憶があるからこそ、感動することができるように感じている。

また、何かを好きと感じるのは、その時は理由がわからなくたって、
何かしらそう思うに至る原因や性格的な、それまでその人がそうあったことが影響している。




一方、人が何かを習いたいと思うとき、
それはまだ見ぬ自分に出会いたいと思うからそれをするのだと思う。

「こうなりたい」自分は、過去の自分ではなく、未来の自分。


もの凄く大雑把な言い方でまとめると、
ダンサーはお客さんの過去にアクセスするもので、インストラクターはお客さんの未来にアクセスするんだと思う。




週に1本だけ、自分が担当するあるレッスンでは、
限りなく自分のやりたい様に突っ走ることにしている。

それはもう、自分が踊る時の様に、自分が一番望む流れに沿って身体を動かし、それについてきてもらうというクラス。


これが不思議なもので、2ヶ月に1回くらい、自分の流れみたいなものが、お客さんと、これしか言葉が今思いつかないんだけど、共鳴していると感じられるレッスンになる。

いろんな人に気を配ったり、あの手この手で説明を加えて理解してもらおうと躍起になるわけでもなく、
自分の身体とその動きがお客さんに見られ、再現される中で一つの大きな流れの様なものが共有される感覚。

あれは教えると同時に、自分の感覚をまさにライブで伝えている感じもするし、
私の中では新しい感覚で楽しい。
音楽のライブの感覚に近いのかなと思ったりする。




ダンスを踊っていても、
今、自分の動きが、見る人の集中を引き付けていると、簡単な言葉で言うと"ハマった"と思う瞬間がある。

なんていうか、踊ってるのはもちろん私で、ダンスも私の身体のところにあるんだけど、なにかが届く気がする。


…実際のところは、どこまで行ってもわからないけどね。
でも何かやり方が、ある気がする。