2018年6月7日木曜日

“分からなさ”を生きる

という漢字の成り立ちは、長さのある棒を刀で切り分けた様子だそうだ。

分ける、分かる
目の前にある理解しがたいものを、切り分けていくことでそれが何であるのか知ることができる。



訳の分からないものへの恐怖心も、分かることでその恐怖心は収まる。

心霊現象はその原因がわかれば全く怖くないし、挙動不審な街のおじさんだって心理学でその行動の理由もわかったりする。訳の分からないアート作品だって解説がつくと安心して見られる。
分かることで恐怖心を克服でき、さらには心を通わせることだってできる気がする。


分からないということは、ちょっと恥ずかしいことだと思う。
自分の見識の狭さや不勉強さが嫌になる。
分からないことに上手に向き合わないようにしたりもする。


そうやって避けてきた英語もそうだ。

最近やっと重い腰を上げて英会話をやるようにしている。
私にとって漠然とした意味のない音の塊だった英会話が、徐々に単語が分かれて聞こえ意味を追えるくらいにはなってきた。
街に溢れる外国人旅行者の人の会話を盗み聞くくらいには興味が持てるようになった。


だけど、喋る方となると
言いたいことはあっても出てこない単語に本当にイライラする。
伝えたい出来事や自分の情報もたくさんあるのに、それが言葉にならない。
スカイプのオンライン学習なので伝家の宝刀・身振り手振りができなくて本当に焦る。

とりあえずしのごの言わずに単語を覚えれば解決するんだろうけれど。


チューターからよく訊かれる質問は「なぜ英会話の勉強をするの?」
「旅行先で現地の人と話がしたいから」と答える。

ただ見たことのない風景に身を投げるだけの旅行から、もっとその土地の人になってその環境を分かりたいと思う。なんだったらその場所で生活したい。





いろんなことを分かるようになりたいと思って勉強する一方、
分かることが必ずしも是ではないかもしれないなと思うこともある。

この矛盾がうまく言い表せないのだけれど。




ハル・ハートリー監督の『トラスト・ミー』という映画を観た。

ハル・ハートリーはNYのインディペンデントムービーの権化だった人だそうで、UPLINKで特別上映をしていた。1990年の作品。

妊娠がわかってすぐに父親が心臓病で突然死しそれを母親に攻められる女子高生と、屁理屈で仕事が全く続けられないものの父親の支配から逃れられずにいる青年が出会う作品。

妊娠、彼氏の裏切り、家出、父親の死、強姦未遂、幼児連れ去り、失業、虐待、暴力、求婚、罠、堕胎、立て籠り・・・
これでもかってくらい人生の荒波に揉まれている話で、イベントが多すぎて余韻や意味に浸る意味もない。あえて浸る間を作らなせないようにしているんだろう。



意図しない追い詰められた状況の中でちょっとしたきっかけ、それは周囲の人のほんの一言だったりわずかな感情の揺れだったり、その中で少しだけ舵を切っていく。

彼らが出来事の価値を考えたり意味を理解する様子は一切描かれず、身体ひとつで感じて乗り越えていく感じにとても好感が持てた。

30年近く前の作品なのに、この分からなさとの向き合い方に心から共感したし、新鮮なワクワクがあった。
10年くらい前の自分が見ていたら、どう思っただろう?




どうしたっても分からないことは、分からないままで受け取ることも必要かと思うこともある。
分かろうとして自分の持っている刃こぼれした刀で下手に切り刻んで、却って物事の厚みが薄れていく。
もっと漠然としている方が豊かだ。


それと、分からないで済んでしまっていることも案外多い。

こんなに近くにある自分の身体だって、「これはなんでこうなの?」と思って調べると「なぜそうなるのかは解明されていません」という答えにたどり着くことが多すぎる。

まぁそのためには、まずは分かることをとことん突き詰めなければならないんだろうけれども。

意外と分からないことだらけ。
でもなんとかなっている。なってないのかもしれない。それも分からない。
それが面白いのかもなと思う。




植島啓司さんと伊藤俊治さんの対談本『共感のレッスン-超情報化社会を生きる』という本を読んだ。
とても面白い一節があったので抜粋して紹介したい。


植島 『錯乱』というのは、人が理解できないことが錯乱なのであって。もしかすると、錯乱とは生命体にとって、もっと高次な段階で働いている機能なのかもしれない。それをたまたま論理的、合理的に理解できないから、錯乱としてしか見ることができないということだと思うんですけどね。これは恐らく遺伝子レベルでもそういう働きがあって、決してある一方向には動いていないということによって、何て言うのかな、動きが多様化して、生命体が一斉に滅びたりすることがないようにしている。そういうふうに理解できると思うんですけれど。
伊藤 生命の本能的なふるまいに近いものを感じますね。トランスを周期的に繰り返すことで、特別な精神の創造性のプログラムを伝え続けようとしたというふうにも考えられる。儀礼の継承というのも、共同体のDNAの保存システムとも見なされうるのではないでしょうか。
植島 ええ、そうですね。
伊藤 それと、理解できないものに向き合うには、自分が理解できないものになるしかない。トランスにはそうした要素があります。環境というものが偶然性に満ちたものなので、人間の身体性を無意識のうちに対応させる。何が起こるか分からないので、意識的に脳を使うと、多分できない。
植島 遅くなるし、うまくいかない。
伊藤 考えていたら終わってしまう。ランダムさがとても重要で、遺伝子とか免疫系というのも、結局何が来るか分からないところに対応するということですよね。

2018年6月1日金曜日

やる気のはなし

よく行くご飯屋さんでのこと。


その晩はママさんと最近入ったばかりのママさんと同年代の女性がパートで入っていた。
雨が降っていたこともあり早めにお客さんもはけ、ママさんとパートさんも含めて3人で飲んでいた。

なんとなく見た目の若さの話になって、ママさんがパートの方の姿勢が気になると言った。
確かにパートの方は左の腰が落ち右の肩が落ち、右の脇腹が少し潰れた感じに猫背も少し入っている姿勢。頭も前に来ている。

ママさんが
「やっぱり姿勢が一番大事なのよ!〇〇さんそのままだと腰曲がっちゃってどんどん老けて見えちゃうわよ。私も足つぼ月一でやってもらってるけど、やっぱり身体のこと気にするようになったもの。姿勢のことはすごく気をつけてるのよ。」

まくし立てられて「うーん」と唸るパートさん。

「そうだマキちゃんにヨガ習ってみたら?大事なのは経絡とかヨガでもそれで完璧に治すってよりそれがきっかけで体の変化を気にするってのが大事なのよ!〇〇さんは自分の身体のこともっと知った方がいいって絶対!」

マイペースでのんびり屋のパートさんはどこか納得していない感じ。


側からそのやりとりを見ていて、ママさんに加勢して自分のレッスンの営業をかけようかとも思ったけれど、
ただ情報や意見を押し付けられて納得していない人が無理くりトレーニングをしたとて、たかが1、2回“やってみた”で終わってしまうだろう。

ママさんの言っていることは心から同意するけれど、
本人がトレーニングを必要とする「きっかけ」が必要なのであって、どれだけ素晴らしいトレーニングだけあったとて何にもならない…本当に。

だって私自身、今だにヨガのレッスンに続けて行くことができないでいる。
お試しに行ったきりだったり、続かなかったクラスは数しれず。

私は、自分のレッスンに毎週来てくれる方々を心から尊敬している。


結局パートさんは「えーそうなんですかぁ」みたいなことを連発したまま。
全員酒を飲んでいてちょっと酔っ払っていたので、そのままその話はなかったかのように次の話題に流れていった。





女子大生へのヨガの授業でのこと。


4月から新年度が始まって、授業も折り返しに近い。
初回では子鹿のように頼りない足腰だったけれど、だいぶ動きにも慣れてきて様になってきた。


せっかくの大学での授業、普通のフィットネスクラブでヨガをするよりもっと丁寧に、かつ教養として身につけるヨガにしようと思っているので、
ヨガの成り立ちや思想、解剖学や生理学も可能な限り授業の内容に取り入れるようにしている。


その日は自律神経のことに触れようと思っていた。

ただ体育すわりで話をしても絶対右から左に流れて行くだろうと思って、正座で目を瞑って自分の呼吸に集中しながら、という状況で話をしてみようと思った。

不随意に働く自律神経、交感神経と副交感神経、過剰なストレスによる自律神経失調症…

お昼ご飯直後の3限、ヘドバンしてんのかってくらい、さざ波のように揺れる頭の間を私の言葉がすり抜けていく。
「あ゛ー!!」て叫ぼうかと思ったけどやめた。
なんか久しぶりにちょっとイラっとした。きっと、“どうしたら伝わるだろうか”って事前にしっかり考えてちゃんと原稿まで作ってたからだと思う。


大学で授業するからには、なんてかっこいいこと言いながら、
つい自分がフィットネスでお客さんを相手にしているときみたいにしてしまう。
興味を持っていただけるように創意工夫をして、エンターテイメントにしてしまう。
それもそれで大事なんだけど。

なんというか、彼女たちの興味に寄り添うように言葉を選んであげないと届かない、という状況に危機感を感じる。
ダイエットとか、シェイプとか、美容とか、毎回そういう言葉に落とし込んで初めて顔が明るくなる。

分からない知らないことに対する興味の薄さ。
いちいち意味を説明してあげないと繋がっていかない何か。
凪いだ彼女らの水面を、私が手を突っ込んでかき混ぜなければならない。


とはいえもう少し私が大人の魅力で、ミステリアスに話ができたらいいんだけれども。
衝動を掻き立てるような駆け引きが、下手くそなのよ私は。





お手伝いしてる小学生のバレエクラスでのこと。


一番お姉さんのクラスには小2〜小6の子たちが参加している。

いつも真面目で一生懸命練習していた子たちが5人いたのだが中学に上がるタイミングで全員3月に卒業してしまって、そのかげに隠れていたいつもふざけてばかりいる子が小6で一番年長者となった。

彼女はとにかくダラダラしていることが多くて、やりなさいと指示されたことすらヘラヘラして真面目に取り組まない。
決してやる気がないわけではないようなのだが、できなくて不貞腐れている状態や照れ隠しも相まってとにかく素直に取り組んでくれない。


教える側だってちょっとだけ思っている、
「別にプロになるわけでもないし、上手くなる必要だってない。やる気がないなら早くやめたほうがいい。」

他の真面目に取り組もうとしている子たちの手前、先頭で頑張って欲しいところなのだが、そんな自覚や責任を理解してくれるくらい達観してたらこうはなってないだろう。

そうやって思い通りにならない自分と折り合いをつけることがそもそも勉強なのかもしれないけれど。


彼女はどうしたらやる気になるんだろうなぁとレッスンを見ながらいつも考える。
何だろう?好きな男の子にでも見にきてもらったりすればいいのかな。
…そんなバカな。

2018年5月13日日曜日

最近観たものなど。映画、音楽、舞台、服

●MO
『ラッカは静かに虐殺されている』

ISに占拠された街ラッカに住む若者たちが、facebookなどSNSを用いてISと戦う姿を収めたドキュメンタリー映画。

ISがハイクオリティなメディア戦略で自分たちの活動を美化することを非難しているが、そもそもこの映画の善悪の脚色も一つの作られた物語だよななんてそんなことを言い始めたら論点はいくらでも湧いてくる。

そこにあるお豆腐にどう包丁を入れるか、みたいな。
どう切り取るかによって断面も違ってくるし、切る目的も違えば豆腐の用途だって違う。
お豆腐だから丁寧に扱うけど、叩き潰すのも簡単だし。

ドキュメンタリーは、観終わったあとなんかスッキリしない感じが納得いかないこともあるけれど、ドキュメンタリーはそれでいいのかもしれないと初めて思った。
まるごと感じ取れるモヤモヤも、ラッカをめぐる状況を感受するという意味では相応しい感情のような気がした。

豆腐を目の前にして、豆腐を見て触れて、知ろうとすることがドキュメンタリーを観る体験そのものなんだろうと私なりに思った。



●MU
Yom&Quatuor ⅠⅩⅠ : illuminations(ラ・フォル・ジュルネ)

Yomさんは、クレズマー(東欧系ユダヤ)音楽から、ロック、ブルース、フォーク、カントリー、さらにクラシックに至るまで、多様なジャンルを縦横無尽に行き来するヴィルトゥオーゾ・クラリネット奏者。
Quatuor IXIはコンテンポラリー・ジャズを得意とする凄腕のストリング・カルテット。(LFJ HPより)

さいっこうに良かった。
久しぶりにぞわぞわして超気持ちよかった、ノンストップ45分。

終わった瞬間、音が消えていくけれど「あー、まだ拍手したくない」っていう間で全員の深呼吸が聞こえそうなくらい、みんな酔ってた。

できれば室内楽専用ホールで聴きたくはあったけれど(近い距離なのにスピーカーはいかがなものか?よく聞こえることより、いびつな場所で歪んで消えていくことのほうが良いことだと思うんだけど)、それを抜きにしても迫真の演奏で満足。



●TH
『白鳥の湖』(新国立劇場)

恥ずかしながら全幕生で初めて観た。4階席からだけど。

もはや伝統芸能、観ておくべきものだと思うし、心から観てよかったと思った。
しかしスポーツ観戦しにいったのと同じ気分だった。


何かこう、生で見るものに対して自分のなかでこれが好きだっていう、琴線に触れるっていう感じの種類の何かがあるんだろうなと考える。
それが何かはっきりしないし、あまり限定して視野を狭めてしまうのもどうかと思うのでそこまで真剣に考えてはいないけれど、何か好きなものルールはあるみたい?



●MO
『君の名前で僕を呼んで』

油断してた。
GW最終日、カリテで狙った時間がまさかの満席。
仕方なく武蔵野館へ移動したけど、それでも最前列。

武蔵野館の最前列は想像以上にしんどかった。
スピーカー激近、スクリーン激近の上に結構上目、首死亡。
すごく良くまとまってるぽい作品だったからこそ、引きで観たかった。


例えば、主役の二人がゲイじゃなかったらどう感じただろう?
マイノリティな存在に感情移入することで、より人間の本質的な部分がクリアに感じ取れたりするのだろうか。

なんにしてもお父さんのセリフ、個々人が自分の感覚に敏感になることや自分の意見をはっきり持つことを大切にしなさいって、
とても現代的な話だなぁと思った。

そう思うと、時代設定がわざわざ少し前のことになっているのがなんでだろう?という感じになるのだけれども。


いろんな見方はあるみたいだし謎解きをしたところで面白さが変わるものでもない気がするけれど、
とりあえずDVDで見直そう。



●FA
collection PRIVEE?のワンピース

イタリアのバッグや靴のブランド、collection PRIVEE?というブランドの、超シンプルな黒リネンのワンピース。
自分ではかつて買ったことない値段の服を買ってしまった。

肩出しで深いスリットの入ったものだけれどエロすぎず、出す部分隠す部分が絶妙に自分の身体に合っていて、
リネンの素材感もきちんと出る形でとても素敵。

試着室で値段見てのけぞったけど、頑張ったら買えないことない
コートにこの値段だったら面白くないけど、リネンのだたのワンピースでこれは強気で好い。

これ買ったとて地球が滅びるわけでもないし、とか、アート作品買ったと思うにする、とか、もっと高い服買ってた友人を頭に思い浮かべながらどうしようもない言い訳して数日たったのでもういよいよ買った。
こわいこわい。

当たり前に良いものは高いけど、ちゃんと高いもの買えるようになりたい。
自分もちゃんとお金払ってもらえるようにならなきゃだからね。

そういって、節約ご飯になるんだけども。

2018年4月19日木曜日

何を教えるのか

私が身体の仕組みについて興味を持ったのは、おそらく小学4年生の時。
担任の沢田先生の影響だと思う。

今思うと、沢田先生は体育専攻だったんだろう。
授業で速く走るためのコツを教えてくれた。

速く走るためには単純に一歩が大きい方が良い。
そのためにウエストを軽く捻る感じで出す方の脚の腰を少し送りだす。足の長さだけでなく、腰のねじりも手伝って足がより遠くだせるという仕組みだ。

子供心にとても納得し、実際速く走れたのかは覚えてないけれど、ことあるごとにこのことを思い出す。




私が大人のバレエのクラスを教えるときに何と無く決めている方向性がが二つある。


一つは、バレエの完成形を叩き込むのではなく、その完成形にどう近づいていくのかアプローチの方法を教える。

バレエという本来身体が柔らかくないとできない曲芸を誰でも踊れるようにするために、
どうして身体がそう動くのか解剖学に沿って説明し理解してもらうようにしている。
こうすることで身体の柔軟性が皆違うの初心者クラスにおいても各人が身体のレベルに合わせ動きに取り組むことができる。


先生によっては、形が完璧でなければバレエではない!ということでビシビシ言っていく先生もいらっしゃる。そして、それを望む生徒さんもいる。
それがバレエの魅力の一つでもある。

だけどそうやって目指す先はとてつもなく遠い。バレエはやっぱり難しい。
私はそうではなくどちらかというと、どんな身体でもバレエを踊れるようにするためには、というところから考える。
これはヨガの教え方から学んだ部分だ。


もう一つは、踊るのが楽しいということを感じてもらう。

バレエのように振付が細かく決まっているとつい力が入って呼吸も浅くなって動きも鈍い。
見ていてこちらも息苦しい。

なので振付がある程度入ってきたら、どういう風に踊ってほしいのかイメージを伝えるようにしている。
例えば「波のように」「目の前のお客さんに話すように」「遠い空を飛んでる鳥を見るように」「ハイジに出てくる崖、その崖下の草花を見るように」。

なんにせよその気になって踊ってもらう。形だけでは補えない運動が鮮やかになる。




それにしても、子供の自分がバレエに通っていた時には“上手に踊っているように見せる方法”ばっかり習得していたように思う。

「手先の動きが綺麗ね」って誰かのお母さんに褒められた覚えがある。
確かにそれは上手に踊っているように見えただろう。
だけどそこじゃない、と今は思う。

身体の動きやポジションについて「これはこう」としか教えられなかった気がする。
小学生くらいなら、身体をどう使うとどう動くのか仕組みは理解できたのだから、もっと解剖学的に仕組みを教えてくれても良かったのにとちょっとだけ思う。
もしかしたら教えてくれていたのかもしれないが、理解しきれていなかった。
腰を怪我をした理由もその時はわからなかった。

自分の身体をきちんと観察することができたら、それは一つ客観視を養うことにもなる。
なんて理屈を言っても、実際子供にそれをさせるのはかなり難しい。

動きは、習慣の成すものだ。
だからこそ、身体の仕組みから意識を変えて習慣的に身体の使い方を変えていっていたら今頃私はどうなっていたでしょうか。


自分がアシスタントをしている子供のバレエクラスでたまに主担当するときは、
「伝われ!誰か一人でも何かに気づけ!!」と思いながら身体の仕組みから教えるようにしている。




その子供のバレエクラスの子たちは小学校卒業とともにバレエも卒業していく。スタジオの関係上、トゥシューズも履かず。

もっと踊りたい、トゥまで行きたいという子は途中で他のバレエ教室に移っていく。
私たち講師はそのやる気を喜び、頑張ってねと送り出す。


そんな週1回のほんわかとしたお教室で、何をどこまで教えるのかというのはとても難しい。

80人以上いる生徒たち、みんながバレリーナになれるわけではないし、ましてやみんながバレエが上手なわけでもない。
運動神経の良い子も悪い子もいるし、お母さんの理想を背負ってレオタードを着てる子もいる。

そんなお教室で、プロのバレリーナだった主担当の先生たちは子供達のレベルに悩んでいる。
私は身体に興味を持って欲しいってことと、この先を楽しく生きるためにもはやもっと違うダンスとかオリジナリティを競うダンスとかを教えちゃう方がいいんじゃないかとこっそり思っている。


何を教えるのか、
その答えは教える側一人一人が違っているものだし、結局その人が何を経験してきたのかをなぞっていく気がする。

2018年4月11日水曜日

プライベートレッスンにて

そのお客様には2ヶ月前くらいに初めてお会いした。

私が担当した初日、
彼女の身体は首から腰まで鉄板が入ったようにガチガチに固まっていて、首の痛みで顔をあげて天井を見ることができなかった。

バレエなどのクラスにも参加していて身体を使うことには慣れていらっしゃるし、スリムな身体つきで一見ダンスやヨガなど得意そうに見えたのだが、
とにかく背中の過緊張からくるつっぱりがお尻や太もも外まで影響を及ぼしていて辛そうだった。呼吸も浅い。
「首固くててターン回りにくくないですか?」と訊くと「確かに」と。


ちなみに過緊張の状態とは、端的にいうと力が入りすぎている状態。
背中の過緊張はともするとすごく姿勢の良い感じに見えるが、間違った姿勢が常に力の入った状態にさせている。背中が一直線でかかと体重。
そして背中の動きに柔軟性がなく、肩首も異常に凝っている。



初回にはとにかく背中のこわばりをほぐすものを行なった。まずは背中が一枚の塊ではなく柔らかく動くものであるということをわかってもらうために部分的に動かすということをして、それまで慣れで使っていた背中をバラバラにすることを目指した。

2、3回目には背中全体と股関節(開きかたに左右差があったので)を重点的に動かし、動かしたらその部分が疲れるということ、また力を抜くということが物理的にどう感じられるのかをいちいち説明しながら行った。

先日の4回目、背中を分割して意識することは最初に比べだいぶできるようになったので、もう一つ胸を開く=肩甲骨を寄せる・脊柱を後屈させる感覚を伝え、さらに呼吸もできるだけ長くとるようにしてもらった。

結果、肋骨まわりの筋肉の緩みによって首の痛みなく簡単に天井を見られるようになったし、首の筋肉の緊張は完全に取りきれてはいないものの触ってみると以前の硬さとは比べ物にならないほど良い状態となり、過緊張が少し緩和されたように見受けられる。


今後はさらに、過緊張にならない身体の使い方、地面からふわっと立ち上がる緩んだ背骨と地面に体重を預ける立ち方まで持って行きたいと思っている。


こんなにスマートに結果が出る方も珍しく毎度テンションが上がってしまうのだが、以前から他の場所で同じような状態の方を担当していることもあり私のやり方もいくらかスマートになっていると思う。



彼女がおっしゃっていた言葉で印象的なものがある。
レッスンが終わって「力を抜く」ということについて話していた際、

「身体の委ね方が初めてわかった」

素敵な言葉だなぁと思った。


特にヨガのレッスンで「力を抜いて〜」という言葉は、本当によく耳にする。
とても抽象的であまり良い言葉ではないと考えているので、「どの部分の重さがどの方向に向かうのか」を具体的に指示することによって単に力を抜いてという表現はなるべく使わないようにしている。

そもそも力が入っている緊張状態に全く気づかない方もすごく多い。
その場合、まず力が入っているということを理解してもらわなければならない。しかし人によっては何十年もそれが当たり前になっているため、身体の常識を変えてもらうのは本当に難しい。
彼女も、自分の身体に力が入りすぎていること自体今まで考えたことすらなかったと。

そして何より、私も、自分の身体の緊張を理解したのはつい最近だ。


身体をなるべく分割していく感覚、分割とはバラバラに動くことができるということ、そのバラバラの身体がどう積み上がっているのか、重さの乗せ方・預け方、そういったことが一つにまとまって「委ねる」という言葉になった。

多分だけど、身体の状態が変われば彼女の性格すらもいくらか変わっていくのではないかと思う。



時間のかかりかたはそれぞれだと思うけれど、絶対に身体を変えられる。
そういうわけでプライベートレッスンはほぼ私の実験場みたいになっている。

2018年4月6日金曜日

グレイテスト・ショーマン

を観てきた。ちょっと出遅れてしまったのだが。


泣いた。
結構泣いた。

しかし、泣いた理由はよくわからない。



ダンスの躍動感/音楽の高揚感/クローズアップされた俳優の演技 がびっくりするくらい同じ厚みでやってくる。
すごく原始的だけと、それはすごく計算され尽くした見せ方でクレバーな印象。


オープニングの衝撃的な格好良さ。ゼロを一気に85くらいまで引き上げる演出の妙。
その85がエンディングまで続く。
緊張が途切れないよう挟み込まれる音楽に乗せられ、ただただキレのあるダンスが爽快感を生み、俳優の表情もまるでダンスのように明瞭でちゃんとこちらの感情も動く。
舞台上のミュージカルでは難しい表情だけの表現が映像だからこそできる!

見終わった感じはダンケルクに近く、
ラ・ラ・ランド見たときのどっちつかずなフラストレーションが一つ解決した。

すごく完成された時間に酔ったけれど、自分の生活とものすごく切り離された時間。物語に共感したわけではなく、脊髄反射的にブワっと涙がでた。…言い過ぎか?笑



うまく言えないんだけど、そして結構な暴論を書くけれど、
最近観るダンスや映画等々、観客自身の身体がどう感じるかが問われている作品が多い気がする。
そしてどう感じるかを表現したい作品も多い気がする。

実生活でもバーチャルとリアルの境界線が曖昧になって、鑑賞においても観客が何を経験するのか作品によって定義が違う。作品ごとに居方が問われる。

原始的で直感的なものも多い。
たとえ文化が違う人たちの間であっても、人間として共有できる感覚を提示してきたり、逆に言えば多様な人たちを相手にどうしたら多数を獲得するかもがいているようでもある。
ワールドワイド!だけどイッツァスモールワールド!

なんか発見したように書いたけれど、恐ろしく普通なことを書いているね私は。




身体がどう感じるかということ、感性が問われる。
さらに、その自分の身体で感じ取ったことをどう表すか。


これは私が学部時代にいた横浜国立大学教育人間科学部マルチメディア文化課程という場所で教わったこと。
その学部が学部再編でしばらく前になくなってしまっているということ。


最近は大学生に授業することもあって、自分が何を教えたいか改めて考える機会が多くなった。
そのときふと本屋で見かけた樋口聡先生の『身体教育の思想』という著書の中で語られる身体感性論が抜群に面白く、自分のやりたいことの道標の一つになると思った。

2018年4月4日水曜日

久しぶりに

文章を書いてみます。

今年の夏に一つまとまった文章を書くことに決めたので、言葉がすらすら出て来るように訓練。



思えばこのブログもだいぶ昔に作って、なんの恥ずかしげもなく醜態を晒したまま消すこともなくここまできた。
ここに書く前に別のところでも書いていたけれど、書き始めたのはおそらく10年くらい前だと思う。その日は雨の日だった気がする、国大近くのガストで。


ブログを書き始めた頃は、衝動的でそれでいて無責任に書いていた気がする。

ハタチの職場のアルバイトの女の子が、焼き鳥屋で男性社員の好きなトマトの肉巻きを見かけたらしく、「聞いてくださいよ!私、トマトの肉巻き発見したんですー!ここにもあるじゃん!て!」と自慢げに話していた。
私は心の中で「いや、トマトの肉巻きくらい今はどの焼き鳥屋にもあるでしょう」と思ってちょっと恥ずかしい気持ちになったのと同時に、可愛いらしい子だなと思った。

…あんまり変わらない。


まとまった文章を書くことはすごくエネルギーが要る。
ここ3、4年は全く文章を書こうと思わなかった。書こうとしたこともあるけれど、どうにも書ききらなかった。集中力が続かない。
おうちに帰ってくると全部どうでも良くなっちゃう。ラジオを聴きまくっていた。

体調が悪くて気持ちが外に向かなかったのもあるし、レッスンをただひたすらこなすことでHPをあげる日々。
レッスンの時間が始まって終わる、目の前の人をとにかく動かす。

ゆっくり作品を発表し続けているけれど、ここ2作くらいは自分で思うよりだいぶ言葉で考えることを放棄した。あんまり良いことではない。
けれど何かから一旦離れたいと思った。



そういうことが、ブログにそのまま残っている。

私は圧倒的にセンスがない。けれど、積み重ねることは得意な方だと思う。
恥ずかしい話、根拠はないけどいつも謎の自信がある。やばいやつ。




論文を書こうと思っている。

非常勤で教えている大学での教養科目の中の体育でのヨガをベースに、大学体育におけるヨガの有用性を表すもの。

でも、これはここ5年の自分の指導者・インストラクターとしてのスキルを整理するための作業になる。
身体を使って「教える」「伝える」ということについて改めて考えるため。

最近は、自分のものではない身体においてどうしたら気づきや喜び、感動や興味を引き出せるか、どう演出するかを考えるのにはまっている。
身体の変化(できれは好転)はもちろんだし、精神的な部分も同時にコントロールする方法。


最近衝撃だった、高名なヨガの指導者であるアイアンガーさんの言葉

「『信念』と『信仰』の間には途方もない違いがある。私はキリストの語ったことを信じても、それは必ずしも彼に従うということではない。私が結核にかかり、ヨーガで健康を回復したとき、ヨーガが私を治癒するとは信じていなかった。ヨーガが私を治癒したことで信仰を与えてくれた。信仰は信念ではなく、信念以上のものだ。あなたは何かを信じながら、それにしたがって行動しないことはあるが、信仰はあなたが体験するものである。あなたはそれを無視することはできないし、無視するなら、信仰ではない。信念は客観的で、それを取り入れることも手放すこともできる。しかし信仰は主観的で、それを放り出すことはできない。
 神を信じるということは二次的なことだと私が言う意味を理解して頂きたい。あなたが存在していると言う事実が、主要ではないか?あなたは存在するという生きた証しである。あなたは生きているので、改善したいと望み、今よりも良くなることを願う。これがあなたを進化させうる貴重な原動力だ。
 あなた自身が存在するということが信仰である。あなたは、生存するのを信じているのではなく、あなたの存在こそが、生きているという信仰だ。」(『ヨーガの樹』B.K.S.アイアンガー、86頁)

なんという言葉の魔力。

信仰を集めてカリスマになってみたいものよ。