2012年12月26日水曜日

告知など

なんだかんだXデーが近づいてきましたので、お知らせをなんとなく。
 
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修士制作作品 『slur』 公開発表
作・出演 伊藤麻希

1月21日(月)〜23日(水) 18:30〜
@立教大学新座キャンパス内ロフト1教室
入場無料、来て頂ける方は連絡ください、詳細折り返します。
 
一発目は審査発表で8日に公開します。

現代心理学研究科映像身体学専攻修了のための修士制作作品『slur』を公開します。
ソロ2作目、1年くらい掛けて作った作品です。
“slur”は音楽記号の音符をつなぐ弧線・スラーのことで、“つながり”というテーマと自分自身のダンスについて考えて作った作品です。

とても良い場所で発表できるので、お時間ありましたらぜひ足を運んで頂ければ幸いです。
作品時間はたぶん40分弱になると思います。

(もし上記日程でご都合が合わない方で、もし観て頂けるのであれば、別日でほぼ本番通りの稽古をお見せできます。)
 
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自分自身、あまり作品量産型ではないことはわかっていますが、前作から一年も開いてしまいました。
 
昨年修了できなくて延びたこの一年は、はっきり言ってありがたい以外のなにものでもありません。
ややこしいことは多々あれど、もはやレジデンスアーティスト並みに稽古場使えるこの環境を逃すのは、正直惜しいくらい。
芸術系や舞踊専門の大学に比べ、今いるところははっきり言ってダンスをしたい、作りたい私にとって穴場でした。
卒業したくねーーーって今日ふと思いました。本当に。
 
 
さて、日々稽古ばっかりしてますが、いっちょまえになんとなくスランプに突入し、悶絶しております。
大抵作品の形がある程度つめめた直後で一回落ちるのだよね、その「形がつかめた」ってときの偶然が必然に変わるまでの時間。
必然にするために再考する時間。
 
身体の調子が毎日違うように、今作っている作品は日々の変化をもろに受けるのです。
まぁダンスの作品なんてそんなものだけど、だけど、この作品はそこが勝負どころというもっともリスキーなことをしているわけで、
というか、身体の調子が作品そのものだから、毎日違う身体で同じ作品をやろうとするのがとても難しいのです。
本当に、気合だけではどうにもならない。
むしろ気合だけでやると最悪の事態が待っている。
 
恒常的な強さ、日々の変化すら「肯定する」強さがなくてはならん、とわかっていてもよくわからない。
 
 
身体の美しさをちゃんとダンスで表現したいのです。
動く身体の、動きの、美しさって言葉じゃ足りないのだけど、なんて言ったらいいんだろう、それは強さ、なのかな、
スポーツ選手の動きって無駄がなくて本当にきれいで見惚れるものがあるでしょ?、あれをダンスでやりたいのです。
 
先日Phill Niblockという人の映像作品をたまたま一部だけど見たのです。
“The Movement of People Working”
アンデスかどこかの地方で撮影されたもので、そこで働く人の動きを何人も何人もずーっと撮影してるだけなのです。主に手元とか、引きの画とか。しかもどれも顔は映ってない。そして、持続音のノイズがずっと流れている。
おそらく全編見ると何時間にも渡るものだと思われる。
 
これが最高によかったのです。衝撃的。
ものすごい中毒性があって、時間感覚が歪む。退屈するとかじゃなくて、ひたすらぼーっと見ていられる。
「こういう仕事してるんだー」とか「何作ってるんだろう?」とか、そういう物語(それをいちいち考えてるとすごく疲れるように出来てるし、試したところで数十分で力尽きる筈)の一切介入する余地のない、ただひたすら運動のみをとらえた映像。
すごくシンプル。まぁ彼がミニマリストってのも無視できないけれど、でも、いつかこういうダンスの作品作ってみたいなぁと思った。
 
そのとき一緒に見せてもらった彼の写真がまた良くて、映っている「物」が最高に輝いていたのです、手前に映っている人間やその表情よりも、道具とかの「物」がまっさきに目に飛び込んできてぞっとするくらい。
この人いったいどういう目の作りしてんだ、と思ったし、彼が見るということが作品にそのまま表れていることが感じられて、惹きつけられたのです。
 
というわけでこのDVDはもうアマゾンでぽちっとします。やっぱりもう一度見たい。全部見たい。
どうみても苦行なんだけどさ。
ジェットコースターで絶叫するために金払うのと一緒。怖いもの見たさ。
 
 
話がどんどん脱線していきますが、
だってさっきから大好きなマーラーの交響曲5番を聴いているからなのですが、
そう、一応告知を、と思って書いてた。
 
あー。
いよいよ制作副論面倒くさくなってきたぞう。。結局。書くより踊らせて。
 

2012年12月21日金曜日

楽器と身体

作品にどういう音楽や音をどのように使うか、まーったく考えがあやふやしているので、
ちょっと思いつくままに書いてみることにする。


この間訊かれたのだけど、
即興で踊る(動く)ときに、何を考えて(意識して)踊ってるの?という質問。

例えば、数字を数えている。
生活の中で繰り返しの動作を行うとき、なぜか自分の中で数を数えていることがある。
結構頻繁にやるのが、手で洗顔を泡立てているときとか。あと料理してて何かを混ぜる動作のときとか。
5とか8とか10とか、そんな数を繰り返し頭の中で唱えている。
別に意味はないけれど、繰り返す数字を数えきったところでそれを止めるために。

今の作品も長く歩く動きのときがあるけれど、割と数を数えている。


それから、聴いた音楽を思い出している。
もしくは、音楽そのものを踊っているような。

数字もそうだけど、自分の中で何らかのシークエンスがあって、それは固定されたものじゃなくて非常に流動的ではあるのだけど、
動き方のテンションの度合いや動きの間合いを肯定しているのは、かつてどこかで聴いた音楽、みたいなものっだったりするような。
別に、この曲、ってのはない。
でもやっぱり最近ちゃんと聴けることが多いからクラシックの影響が大きいのかな。

楽器が発する音やその音楽は、音が連なっていく理由が音そのもの以外にないように思われるから。ということをクラシックを聴いていて思うのだけど、まぁ音楽は全般的にそうなのかもしれない。
歌詞がある曲とかだと事情は違うけれど。


それだからか、身体が楽器、みたいな身体の扱い方が最近は割と好みなのです。
楽器本体が自分の身体そのもので、その楽器から発する音が身体で言うところの運動、みたいな感じ。
ダンスするために必ずしも見立てが必要なわけではないけれど、そういう風にして考えるのは割と楽しい。
だから、私のダンスが結局音楽そのものな気がして、だから作品に使う音楽を選ぶのに苦労する
、、わけですか?ん?

音楽に踊らされてるとか、音楽で踊るとか、そういうのがそもそもあやふやになってきた。
今の作品に関しては。
だけど自分のダンスが音楽、ってのが一番しっくりするのだよね…
音が作る空間の時間と、身体が作る空間の時間を擦り合わせる、という作業ははたして…

前から思うけれど、音はそれ自体で空間や時間を作ることができるすごいものなのですよ、
その音が作品としてあるならば尚更。私はまだ、都合よく切り刻んだりして使うなんてとてもできない。コラージュのむずかしさ。
もっと音の本質がわかるようになれば、そういうこともできるのかもしれないけれど。
音と身体を擦り合わせるってのが、そもそもおかしいのか…?

楽器である身体…が鳴らす音…とスピーカーから流れる音楽…と作品の関わり


客観性という言葉があるけれど、
自分を俯瞰してみるとか、自分の見え方を考えるとか、そういう風に考えてきたけれど、
最近はなんだか、自分を観察する、という感じに流れ着いた。
自分を観察するために、「天国のおじいちゃんが」みたいな目線は必要ない、
むしろ自分の内において、自分を観察するという視点。
それは、楽器という対象を扱うように、身体という対象という対象を扱う。
 
まぁこんなこと数多の先達がそういうこと仰ってるのかもしれんが、
なんか自分でその感覚がつかめると何かと面白い。
何の意味も理屈もなくたって、踊り続けられるんだよね、これ。

だいたい、自分の身体が自分のすべて意のままになると思っているほうが傲慢だ、と思うのよ。
ダンサーってそういうとこ過信しちゃうじゃない?笑
そう、コントロール。そりゃコントロールして突き抜けられればそれに越したことないし、そうしたい。
が、とりあえず、私の“意”なんてのがそもそも相当しょぼくて、そんなものより、身体の方がよっぽど可能性がある。


結局なんも解決しなかったな…
音どうすりゃいいんだーーーーー


さてー稽古するか。

2012年12月19日水曜日

今作っている作品のこと

今私が作っている作品は、『slur』といいます。
slurは"スラー"と読みます。slurは音楽の楽譜に使われている音符と音符の上に書かれている弧線のことで、複数の音符が滑らかに演奏されるようにと指示する記号のこと、だったと思います。

次に作品を作るときは、いつくかのシーンがある作品にしよう、と前の作品を上演した後に思って、それからぼんやりと作品について考えていました。
そしてそのいくつかのシーンは、こちらが指定する物語によって進行するのではなく、見る人があれこれ想像することによってつながれるようにしよう、と。
必ずしも進行する物語ではなく、想像力によって過去へも未来へも進む、飛躍する、時間の感覚が作品に流れるように。
slur、つなぐものは、作品を体験する人の中に生まれるものであるということ。


slurに込めたもう一つの考えがあって、
それは、私の中でつながりが意識されることで動く身体、ということについて。

最近自分のソロ作品を作るときは大抵振付は即興的なのだけど、それは私の中でダンスというものの考え方が大きく変わったということによるのです。

何度も何度も試したのだけど、ソロの場合、私はどうも、自分で自分の動きをきめる振付というものが上手く出来ない。
他の人の作品で作者が振り付けた振りとか、私が振付したユニゾンとかは全く問題なく踊れるのだけど、自分が振付者で自分一人が踊るときの違和感が上手く払拭できない。自由でないと感じてしまう。
これはどうもちょっとした欠陥だとは思うのだけど(自分の身体を客観的に見てシステム化して動かすのが苦手ってこと、大問題だ)、それよりもソロの作品で自分自身のダンスがどういうものか見つけるのが楽しくなってしまった。

いろんな動きの中に、ダンスであるものとダンスでないものの区別はある?
という質問を全ての踊る人に訊いてみたい。

私は、動きの形にダンスがあるんじゃなくて、動き方にダンスがあるんだと思う。

最も無駄がなくスマートで、それはすなわち自然に行われるからこそ強度を持つ人間の動きは美しいんだと思うんだよね、
ダンスが例え生活の動きからしたら無駄で過剰な動きだとしても、そのダンスが最も自然であるがままの存在として美しさを持つことが出来ると思う。

ダンスは運動の美しさを指す。今消えてしまうものの軌道や残像の強度。それはあるがままの自然であること。

みたいなことが、私の今のダンスに対する考え方。全く言葉が足りないのだけど。
そういうダンスを自分の身体で実現しようと思うとき、身体の中のつながりが最も意識されるべきだと思うのです。
身体の中のつながり、それは感じることと感じることのつながり、関係です。

水を入れた水槽を持ち上げて傾けると、当たり前だけど、移動する水。
それくらいシンプルなこと、そういう一番単純な移動、それでしかない運動、最も単純な自然。そういうことを逃さないように動くのが目標。一番近いのにともすると一番遠い身体という自然に耳を傾けること。


動きのほうが結局話が長くなってしまった、
作品についていろいろ考えるのけれど、私の考えるダンスがあっても、そのダンスがじゃあなにを表すかってのはもしかして別の問題なのかも知れないと思ったりして、
最初に書いたように作品を見る人の想像力だよねっていう私は少し無責任なのかも知れないというのが今ひとつ詰めが足りないと思われるところ。
つながりってものがどういうものなのか、それを作品が表す必要はある気がしている。そしてそれを表す方法も詰める必要があるね、媚びるようなやり方はしたくないけれど。
まぁ、今まで、テーマから媚びるような展開で散々作品作ったことのある身としては、ちょっと二の足踏んでいる。
どうも私は極端だから、適度な割合ってのが最も難関。


まだまだだ、
少なくとも、私だけは、私の作品を愛していると言えるように。それだけは。だから、もっと。

2012年12月15日土曜日

art

今ふと写真フォルダを見直していて、
ベルリンで出会った大好きな絵のことを思い出した。

前にも書いたんだっけ?
Anselm Kieferの絵。


こないだ観た、Phill Niblockの映像

意味は分からないけど、ドゥルーズの著書

仕事ってこと忘れた、マーラーの交響曲5番

また行かなきゃと思ってる、Ernesto Netoの彫刻


今年感動したもの、忘れたくないもの
を、ふと思い出す。

もっとあるけど。

舞台は日本でも海外でも見れた。
刺激的な作品がたくさんあって書き切れない。



今また、自分の作品を作っていて、表現することや芸術作品を作ることがどれだけ難しいことか、やたら考える。

Kieferの絵がどうしてそんなに感動したかって、「芸術ってこういう事だよな」っていうまさにそのままを見つけられたからで、初めて絵を見て泣きそうになった。

他人様の作品に自分のノスタルジーを重ねるのはナンセンスだし全く好きじゃない、

だけど、
小さい頃、お父さんにしばしば美術館に連れて行ってもらっては、わけも分からない作品を前にしてあれこれ考えたこと、

そこで何を見て何を考えていたかより、ただ普遍的な芸術の何かを感じていたのかもしれない。

何より小さい頃の私は、芸術家に憧れていたということ、

まぁ大人になればなるほど、
それがどんだけ阿呆なことかと思い知る。


いい意味で諦めている、
そんなに大そうなことを表現することなぞ出来やしない、
だけどちょっとくらい、私にもやらせてくれよ。

私が表現したいのは本当に、
些細なことなんだよね。



2012年12月1日土曜日

他人の身体を想像すること

友人が骨折した。理由はなんとも信じられない理由だったけれど、骨折は骨折だ、痛いんだろうなぁと想像してみる。

どういう痛みだったっけ。骨折は幸いにも剥離までしかやったことがないけれど、そのときのことを思い出してみた。けれど、どのように痛かったのかあまり覚えていない。ちゃんとくっつくのかどうかがやたら心配で、痛みに関しては「骨折とか冗談じゃねぇよ」と自分を叱責して、やり過ごしていたくらいの記憶しかない。結果的にちょっと曲がってくっついてしまったようだ、もとには戻っていない。

漠然とした考えだけれども、他人の身体を想像するためには、当たり前だけど自分の身体が必要なのだろう。ナイフで刺された人がいたら、その次に私は「それは痛いだろうな」と思う。身体の一部でしか経験したことはないけれど、ナイフで切ったら痛いということを経験しているから。

浅くも深くも、「共感」というもの。流行の言葉で言えば、「思いやり」。

バイトの都合上、身体が不自由な人をケアすることが多い。ご老人や身体に障害のある人に対して、私なんかができることはとても少ないけれど、その人にとっての「当たり前」をある場所においてもなるべく叶えられるように、と限られた想像の届く範囲で手伝いをする。
だけど、そこまでしなくていいよ、という無言のプレッシャーをかけてくれる人もいる。こちらの拙い想像力による行きすぎたお節介をたまに反省する。その人が身体で発している情報と、その人自身の感覚は私が考えるほど合致していない場合も多くて難しい。

『芸術の体系』を書いたアランが、ダンスについて書かれた章において、「ダンスを見ることができるのはダンスをしている人だけだ」と書いていた。踊らない人にダンスについて語る資格なし、と。
かなりぶっとんだ考え方だと思ったけれど(そういいながら結局アランはダンスについて文章を書いているわけだ)、簡単に言えば、ダンスをする人でなければ、踊る人の身体を感覚することはできない、と。
そんなことはない、と一蹴することもできるけれど、アランがどうしてそういうことを言ったのか考えてみるのも面白い。きっとアランが言いたかったのは、身体というメディアによって表現されるダンスを身体において共感出来るのはダンサーだけ、ということだったんだろう。
だけどダンスを見る人は踊る人が多いのも事実で、踊らない批評家の言葉をダンサーがどれだけ重用しているのか、考えてみればなんとなくアランの言うことをそう簡単に拒絶することはできないでしょう。
それよりも、ダンスを語るにふさわしい人の「ダンス」というものを考え直してみるほうが面白い。
アランが言おうとした「ダンス」とは何を指すのか。もしかしたら「ダンス」のほうに凝り固まった考えがあるんじゃないのか?とかね。

前述の骨折友人はびっこ引いたように歩いていた。足の骨折れているんだから当然か。それを見て、人間てそれでも歩くんだなぁと思った。身体の不調と身体の動き。不調?いやむしろ好ましい身体の動き。「ダンス」


一方お医者さんがしていることは、共感ではなく、感じ方の相対化、カテゴライズ。

昔から頻繁に胃が痛くなることが多くて、最近は気持ち悪くなるとすぐ吐いてどうにかしようとする癖が目立ってきたので、とうとう病院に行ってきた。ヒトが、食べたものを戻す・戻したいという気持ちになるのは、普通に考えて普通ではない。
お医者さんには「おそらく胃潰瘍」との不名誉な烙印を押されて、ネガティヴになっている。まぁ薬で治るのだから、ちゃんと治せばいいだけの話。

別に非難しているわけではないけれど、と前置きをしておく。
私の母は、割と、私たち兄弟の身体の不調に対して必要以上にネガティヴに捉える人ではなかった。ほんのりと体調が悪いことを伝えても、「そうなの~?気のせいだよ」みたいなことで割とやり過ごしてきたように思う。母自身もそういう人だし、私も実際それで乗り切ったこともたくさんあるし、今でも病気にはかかりにくい健康な身体であることは感謝している。いい意味で鈍くなっている。

だからこそ思うのだろうけれど、自分の身体の不調がどうにも許せないのだ。
自分の身体の不調は、ただの甘えなんじゃないかという考えが頭を過って、それがきちんとした病気であると判断された途端、漠然とした不安のほうが大きくなる。「よくならなかったらどうしよう」
なぜ不安なのか。そんなの当たり前か?
私にとって、私は「健康」でなくちゃならない気がやけにしている。それは例えば、母が「うちの子供は健康」と思っているそれを、崩したくないって頭の片隅で思っているから?まさかね。健康じゃない子供は母の子供じゃないってちょっと思っていたからなのか、とか、最近そんな素っ頓狂なことを考えた。こういうことをぐるぐる考えているから胃潰瘍になるんだ。

だけど、体調が悪いことを母に訴えるときに、どうしてこんなに申し訳ない気持ちになるのか。そんなんだから本気でつらいという風には絶対言いたくないし、それに対して母も「気のせいだよ」と言っていたのかもしれない。
私の場合、大抵つらいことがあっても、いつも両親には相談する気にならなくて、したとしても、相談するというよりも弱っている自分を見せること自体が許せなくて結局「大丈夫」を連呼してたり。少なくとも親の前で大泣きしながら自分のつらさを訴えたことは一度しかない。

なんにせよ、身体が常に絶好調な人なんていないのだけれど、
その人が感じる身体の不調とその人自身の関わり方は、人それぞれ。

ポジティヴな言葉、「人それぞれ」。

最近は他人の身体との断絶を思うことが多い。交わらないもの、共感できないもの、途切れてしまうもの、それを覆したいのではなく、そうやって考えでもしなきゃ自分自身の中で決着のつかないことのほうが多すぎる。
しかし断絶、という言葉を使うくらいだから、私にとっては接続しているほうが理想だったのかしら?断絶はネガティヴなことなのか、それとも誰にとっても当たり前のことなのかしら。どちらにせよその溝はあって、でもメレンゲのようにすっかすかの想像力というパテでその溝を埋めたところでどうなる?もっと強い何かがほしい。
そんなものはないのかもしれないけれど、それはもしかしたら、身体と身体をつなぐ部分にあるのではなく、身体の中にあるものなんじゃないか。
知覚じゃなくて、感覚。アランが言おうとしたことを私が解釈するならば、、

2012年11月22日木曜日

無意味を読書する

特に言いたいこともないけれど、文章を書いてみます。だって、言うべき"こと"が何もなくたって、文章を書くことは出来るのです。

いつも本を読みながら思うけれど、私は知識が欲しくて本を読むのが苦手です。もっと言えば、書かれていることを読む為に本を読もうとしていない気がします。だからと言って書かれていることがどうでも良いことだと切り捨てている訳じゃなく、私が読むという行為においてそれが決して重要なことではないみたいなのです。自分でも驚くほどに、言うべきことがまさに書かれている文章は、私にとってつまらないものだったりするのです。
しかしときにそれは致命的なことでもあります。端的に言えば、知識が増えません、書かれていたことを覚えられません、結局ただの記憶力の弱い奴なのかも知れません(大学入試のとき、ついぞ世界史で点数が取れませんでした)。けれど、その癖は年々強くなって、文章をを読む感覚だけが鋭くなっている気がします。結局、知識より直感をアテにしているのです。何故なら、直感は言い訳の仕様がないからです。

じゃあ何を読んでいるのかと言えば、例えば、読点と次の一文の始まるまでを感じている、としか言い様がありません。私にとっての読書は、大きな一つの文章の中にある、何千何万もの、文と文の、文章と文章の間を感じることだったりします。一つの文が終わって、次の文がやってくる、その、文字にはならないところに、まさに文章を書いた人の思考が浮き出てくるような気がするのです。
つまりよく言うような、行間を読むっていうような私の文章の読み方は、ともすると小説を読むような読み方と思われるのかも知れません。だけど、そうではなく、小説の文と文の間は感じられる間が無いものです。むしろ小説自体が"間"に他ならない気もします。
私が私の読書について語りたいある種の文章は、書くべきものについて書かれていると思われている類の文章についてです。

文章と文章の間、それは書かれていることと書かれていることの他愛もない隙間で、気にすることですらないという人もいるのかもしれませんが、文章と文章の隙間にロマンがない文章は、始まることも終わることもないただの文字の羅列で、抑揚とか波が無く、ただ文字の意味するものに書く本人が押し流されているように感じられるのです。存在するものは、必ずはじまりと終わりがあるべきなのです。そうでなければ、一つの世界を作ることは出来ません。宇宙の果てを夢想する狂人の言うことを誰が信じるでしょうか。その狂人ですら、いつかは死んでしまうのです。
語る本人が言いたいことを言い切ってドヤ顔で文章を締めて次に口を開く、その一瞬の顔の歪みにその人の本性がある気がして、読み手としてはそこに楽しみを見つけないで他に何をする?と思ってしまうのです。

文字を使ってしめされるイメージや、文字によって表されることがらにも、読むべきことは大いにある、それは当然なことです。文字が指し示す無限のイメージに溺れることもまた、読書のかけがえの無い幸福な体験であることは間違いありません。そのように文章を読める人は、とても優しい人だと思います。
私は往々にして優しい読み手では無いのかもしれません。ただ、自分の読むという感覚だけを頼りにしているのです。ただし、私の感じる文と文の隙間というものはそもそも、文がなくしては感じることすら出来ないのです。

本屋さんや図書館には、自分が一生をかけても読み切れないほどの本が積まれています。だけど、それらが「情報」だとは決して思いたく無いのです。読書は、私が本を選び、本を開く瞬間にあるのですから。
とはいうものの、自分の無知さ加減にはほとほと嫌気がさします。知らないということを知らないというのが最も恥ずかしいことだと思うから、悔しくて、また本を手に取るのです。知識より直感をアテにしているとはいうものの、本当に直感だけではただの阿呆になってしまう。直感もまた、それのみではどうにも仕様がないものです。


書かれていることが本当か嘘か、という問いが、そもそも意味がないように思われるのです。本当でも嘘でも、どちらでもいいし、どちらかなのです。むしろ、本当であると判断することも嘘であると判断することも結局同じことであって、むしろ本当か嘘かを考える読者である私自身の在り方に興味があるのです。

ここまで書いて、私が読んでいるものは意味と意味の間なのか、と思いついた。意味、そういう言葉で表せるのかも知れない、まぁ深く考えるのはやめておこうかな。その答えは今日新たに手にとった本の中で探してみるとする…

2012年11月18日日曜日

植物とか猫とかのこと

最近家で、アジアンタムっていう植物を育てていて、この方がなかなか、次々に新しい芽を出して大きくなっていくので、日々水やりも楽しいのです。

ここ数日は、知り合いの家の留守に、その家の猫たちの世話係として泊り込んでいます。彼らの鳴き声をよくよく聞いていると、どうもそれぞれ違うことを訴えているようです。
にゃーって言われるのでとりあえず、にゃーって答えてみます。

数日家を開けたことでタムさんに水をあげていないのが心配になって、枯れてたらどうしようってやけに心配で、水をあげに一度家に戻りました。

ですが、にゃーさんずのごはん担当としては、早く帰ってごはんをやらねば、と家路を急ぐのです。帰りが遅いと、「おせーよはやくごはん~」って感じの鳴き声で迎えられるので、なんかそんな気がするので、すまんよって思うのです。

タムさんは割と元気でした。新しい芽が大きくなっていて、頼もしくなってました。タムさんはシダ植物なので、湿気がないとダメらしいのです。水をたくさんあげて、とりあえず頑張れって伝えてきました。私がいない今、ストレスは少ないはずです。

今日、仕事先でたくさん切り花が飾られていて、その中から何本かもらってきたのですが、その中にグニユーカリっていう葉っぱの種類のものがあって、2本もらってきました。切り花の今の時点で50センチはゆうにあるものですが、なんとか挿し木で育てられないものか、と思っています。

にゃーさんずの食事風景を眺めながら、彼らは毎日同じごはんを食べていて飽きないのかしら、と思ったのです。しかし私も毎日同じ食事が出てきても、そんなに気にならない気がするので、たぶん猫もそんなもんか、と思ったりしました。

植物には水が必要ですが、カルキ抜きもしてない塩素たっぷり水道水でも文句を言わないってなんてオトナなんでしょ。昔カイワレ大根にジュースを吸わせるっていう極悪非道な夏休みの自由研究をやったな、そういえば。

実家には庭があって、いろんな種類の草木が生えていますが、特に水やり等気にすることもなく、勝手に大きくなっていました。むしろ草むしりというイベントに常に追われ、育てるという感覚は微塵もありませんでした。今は実家に帰ると、それらの草木もなんだか小さくなった気がします。特に、庭に立っている弟を見て、庭が狭く草木が小さく見えました。

昔、実家で犬を飼っていました。柴犬です。名前はロンって言います。散歩に行くときは、私がロンに引きずられていました。怪我もしたし(私が)、割と脱走を繰り返し、かなり凶暴なやつでした。

実家のまわりで生きていた植物も、動物も、意識しなくてもそこにあって、しかも私たちが何もしなくても勝手に強く生きていて、むしろそういうものと私たちが常に戦っていた気がします。近所の神社を取り囲む森はご神木の森で、切ってはならない木々が悠々と、うっそうと生えていました。その森の獣道がロンの散歩コースでした。

ポール・ギャリコが書いた『猫語の教科書』っていう本を古本屋で見つけて読んでみたのですが、あんまりおもしろくなかった。むしろポール・ギャリコってどこで見かけたんだっけ?ということが気になっています。

ここ最近、身の回りに植物を置きたいと思うことが昔に比べて大きく変わったことだと思うけれど、それが可能なことだと、それが必要だと思うってこと自体がそもそもなんなのか、と不思議な気分です。少なくとも、タムさんは庭の木じゃない。

部屋の中の草や猫と私は、みんなおんなじようなもんだ、という感覚になります。私も足音を消して歩いている。猫の鳴き声は、静かな空間がよく似合う。

猫の生活を羨ましく思うことはあり得るのか、どうか。

2012年11月14日水曜日

かんがえかた

「…すべての芸術形式は我々の感覚的生活の表れであり、かつこの感覚的生活は創造力の絶えることなき変化の遊戯であることを知るにある。したがって永久の芸術形式とか法則というものはなく、存在するものはただそれ自身の内において正しいところの合則性のみである。」
パウル・ベッカー『西洋音楽史』、河出書房新社、79頁


パウル・ベッカーの『西洋音楽史』という本を読みました。
西洋を中心としたクラシック音楽の歴史について書いてある本です。

ベッカーはクラシック音楽の進化論的視点を否定し、それぞれの時代にその時代の社会を反映する絶対的な完成度を持った音楽が存在したという視座でクラシック音楽の歴史を綴っています。
だから、細かく作曲者についての研究などが書かれているわけではなく、あくまでもそれぞれの音楽が生まれるきっかけや流れ(それはいつも社会の在り方とは切っても切り離せないものです)を大まかにたどっているもので、いわば入門書と言ったところです(もともとこの本の内容は、ベッカーがドイツ国内で放送されている30分のラジオ番組で紹介した内容がまとめられているので、本当に入門書的内容なのです)。
だからこそ、ベッカーがそのラジオを聴く人たちに音楽の何を伝えたかったのか、ということがとても鮮明に完結に書かれています。

音楽はもちろん、芸術は時代を経てある頂点を目指して高まっていくものではなく、私たちの生活感覚が常に変化しているからこそ、芸術も音楽も「変化」しているのだと、ベッカーは何度も何度も繰り返し述べています。
音楽について私は初心者に過ぎないのですから、この本を読んで改めて、初めて知ることはたくさんありました。
とても印象的だったのは、器楽演奏がなされるようになったのがごく最近のことであること、その前には肉声、つまり歌が音楽の中心をなしていたということです。
いまでこそ音楽と言えば楽器による演奏であって、しかしその昔には、楽器が声楽のおまけに過ぎない存在だったというのは、改めて知ると面白いのです。
きっと、肉声によって奏でられていた音楽は、当然ながら今聴いている「音楽」とは少し様子が異なっているのだろうな、と思うと同時に、きっと日本の民謡のような、節のようなものによって時間が構成される音楽に似ているのだろうか、と想像してみたりします。

肉声というものは生理的道具であり、生理的な組織によって作られる時間的構成による音の形象を持っています。それに代わって機械的道具としての楽器が重視されることによって、機械的な構成原理(相関的な諸音の合音)は空間的に秩序立てられた音の形象へと変化しました。

そして、空間的/時間的に構成される音楽の違い、というものは、音楽とともに踊るにあたって、ものすごく重要なことである気がします。それは、音楽をそのように分類するということよりも、音楽を聴く姿勢に関わる問題だからです。
ただし時間的/空間的な音の構成秩序とは、音の「聞こえ方」の問題ではなく、音の内部の、音そのものの性質に関わる問題であると感じています。

また、ダンスなどの運動を考えるときにも、運動の時間的な側面と空間的な側面があるように感じるのです。というよりも、その二つの側面によって運動を語ることが出来るだろう、と考えるわけです。



…まぁ、そういう風に考えることもできるよね、ってくらいの話です。


ダンスと音は同じ性質を持っています。
どちらも運動なのです、音は空気の振動であって、ダンスも身体の動きそれ以上でもそれ以下でもないのです。
そこにいくら感情を読み取ろうと、機能の面を語ろうと、どちらもやっぱりただの運動にすぎないのです。
だから、ベッカーの語る人間の音楽の歴史に触れることはダンスについて考えることにもつながるし、少なくとも私はこの本を読んで、ダンスに当てはめて全てを考えられるわけです。
ダンスに関する本で、この様に純粋に運動について語られている本が見当たらないのです。

2012年11月2日金曜日

閑話休題、

自分がどういう風に踊っているのかとか、作品について、文章を書いているのだけど、なかなか思うようには書けないものね。

かっこいい言葉とか素敵な言い回しとか、そういうの使えたらいいのだけど、やっぱりそういう言葉は普段からそれらを使って考えている人の思考が使うものなのだし、それができないということはつまり、私はそういう風に考える力が貧しいんだと痛感します。

とりあえず、できるだけ丁寧に、簡単な言葉で書くことを心がけます。
まず書こうとしていることが一般的によく理解されることでもない、ということを知っています。
そして、それよりも前に、事態は非常に混乱しているのです。
理路整然と書けるほうがむしろいかがわしくて、すべてがつながって混乱しているのがまさにありのままなのです。少なくとも書くことは、捨てることではないのです。

思うようには書けないものね、と言ったけれど、それは決してネガティヴなことではないのです。
むしろ何が“思うよう”なのか。明確なヴィジョンなんて始めから、これっぽっちもない。
目的がある文章なんて、書く必要ない。
その目的のために言葉を利用するつもりなのか?

言葉は、それ自体、表すものなのです、何かを。
でも、その言葉を、「利用している」という使い方は、残酷なことですが、すごく簡単にばれてしまうのです。一目でわかる、いやらしいんだもの。自分の文章読んでいても、表している言葉と利用している言葉は、何かが明らかに違う。

こわいこわい。自戒をこめて。

2012年10月29日月曜日

『音楽の海岸』

「…妹が泣きだす前に、ケンジはすぐ脇にあった木刀を掴み、叔母の頭へと振り下ろしていた。叫び声をあげて止めようとした叔父の目を木刀の先端で突き、妹と同学年だった叔母の子供にも木刀を振るった。死んだ親父が貼り付けてくれた銀色の紙が赤黒く汚れて、ケンジはその場から逃げるまでの何秒かの間に、それを聞いたのだった。それは、耳から聞こえてきたのではなく、公園での花火の時にからだに溜まっていたものが叔母の割れた頭へと流れて出ていった後に、重たいものが溜まっていた箇所に、まるで朝の光が差し込むように、入ってきた。その何か、ケンジが物質と呼ぶものは、粒子の一つ一つがくっきりとして質量を持ち、からだを震わせた。それは音楽だった、とケンジは思っている。」

村上龍『音楽の海岸』(講談社文庫)

2012年10月27日土曜日

医療が拓く私の明るい未来のお話

ここ数日、胃が痛すぎて吐き気が止まらなくてどうしようもないので、とうとう病院に行ってきました。


ストレスなのでしょうか?笑
だとしたら、こんなにストレスレスな生活をしてるはずなのに、、これ以上ストレスのない生活って何だ?まったく、冗談じゃありません。

大体身体の不調は、思い込めばなんとかなるって感じでやってきたので、今までも散々胃痛だの吐き気だのはやり過ごしてきました。
しかも自分を追い込んで然るべきことしてたら尚更、気合でどうにかしてしまうのです。

ただ怪我だけは、整形外科に関することは、自分で常々気をつけているのに怪我した場合は自分の判断を越えてしまうので、迷わず医者に行きますが。
集中力を削がれるレベルの不調はやはり、医者にゆくしかありません。

それにしても、歳を経るごとに、自分の身体の好調と不調は鮮明に分かるようになった気がします。
この身体、割と使い込んできたなって感じがします。



それで、病院での話。

とても良い先生で、物腰柔らかに、
「薬で一時的に誤魔化すのは根本的に治療できてるわけじゃないし、伊藤さんの今後を思えばいつかまたこういうことがあっても困るだろうから、大病を疑うわけじゃなくて一度ちゃんと検査をしてみたらどう?」と提案してくれました。

ごもっとも、超ごもっともなんだけど、
ひねくれ者な私は、それで元気になることがどれほど重要なことなのか?ということがふと頭を過ぎりました。
私のことを心底心配して、素敵な将来に寄り添った医療を提案してくれるそのお医者さんの姿勢に、若干恐ろしいものを感じました。

小学生のときは、将来お医者さんになりたかったのにな、と思い出した、

医療が、拓く、私の、明るい未来のお話は、続く…
ほんとに良い感じの先生で、「この先生は信頼できますね~」って頭の片隅で普通基準のちっこい私が納得してるけど、別の捻くれたちっこい私が「まじかよ、なんかきもちわるっ」って言っていた。

というか、医者行っといてそれはない。
たしかに、食べても吐き気、食べなくても吐き気で胃が痛いのは辛い。
集中力が続かない。
しかも今回は、身体が、怠いのに軽くなってる感じで、これはまずい、と思った。

しかしそれがよくなるように薬だの検査、治療だのして、それじゃ私は一体何に生かされてるのか、と、薬や医療に生かされてるなんて馬鹿馬鹿しくてやってられん、とかね、ちょっと思った。


そしてお医者さんて割と病名を決めつけてかかるよね。
あれは普通に苦手。

私の身体の不調なんてたぶんたいしたことないし、医療を本当に必要としている人も居るのだからこんな言い方は良くないとも思うけど。
おそらく今回は怪我じゃなくて、食べることとかに直結する症状だから、そんなことを思ったのかもしれない。
まぁひとまずお医者さんに言われたとおり薬は飲みます、とりあえずこれ以上吐くのやだもん。

でも適当に良くなったら薬なんてやめてしまうだろうな、自炊で気をつけてどうにかするしかない。
自分で治せるなら、自分で治すよ。


薬なんて普段一切飲まないから、1,2回飲むだけですごい効き目なのよ、経済的なの私の身体。



そしてジェネリックが安すぎて驚いたよ。
薬局で、ジェネリックにしますか?って訊かれたとき、黒柳徹子しか思い出せなかった。

2012年10月20日土曜日

最近

身体、運動、時間、空間、自然、音楽、ダンス、
つながってきたような感覚。


身体が動く、ということ。

動く、ということは、時間そのものです。
動くために時間がある、とか、時間というものがあるから動く、というわけでもなくて、動くということそれ自体が時間なのです。

全ての生き物に、自然に、動くという時間があります。
風にも、木にも、水にも、虫にも、太陽にも、動物にも、
もちろんヒトにも、
身体にとっての時間があります。


空間と、身体が動く、ということ。

呼吸が大切です。空間を動かすには、間違いなく呼吸が大事なのです。
なぜなら、呼吸を意識しながら動くことで、空間と身体がひっくりかえるのです。


音の運動と、身体が動く、ということ。

空間に在る音の運動を捉えることが、身体に影響を及ぼします。
音の作り出すイメージではなく、音そのものの運動のイメージを捉えること。音の動き、すなわち音の時間、つまりそれは音楽。

音の動きと身体の動きが共振するとき、初めてその音楽を踊っている。

一人稽古場で考えること。


まだ垢まみれの言葉がぽつぽつと浮かんでは消える。
だけどこれらは間違いなく、発明ではなくて、初めからそこにあったもの。

一年前にどうしても自分の中で決着がつかずにもやもやしていたことが、ふと解決していることに気がついた。

だけど、まだまだ、なんだなコレが。
出鱈目は言うなよ。



…しかし、文字にするとすごくいみふめーだものな!
しかも素敵ですらねーわなんだこれっ
さぁ、同じ阿呆なら踊らにゃ損損

2012年10月9日火曜日

7年越しの読書

『原初生命体としての人間』という本があります。"野口体操"を考案した、野口三千三氏の著書です。
野口氏の"からだ"についての考え、そしてそこから導き出される人間について、また生き方についての考え、それらを実現するために"からだ"を用いて"考える"ための野口体操について、氏が丁寧に選んだ言葉が綴られています。


大学に入学したての頃のことです。
とある教授に会いに行った際この本を紹介されたことを、今でもよく覚えています。
いわゆるこのような学術書の値段の高さに慄きながら(といっても文庫で千円くらい、今では全く高いと思えないけど!)、なんとなく読むべき本なのだろうと思いつつ渋々購入しました。
購入して頁をパラパラと捲ったものの、小説程度しか読んだ事のない当時の私には何が言われているのかもさっぱりで、そのまま本棚の肥やしになっていました。
そして事ある毎に、この本の存在は脳裏を過ぎり、今なら分かるのかな、と思いつつ改めて本を開いては頓挫する、ということをかれこれ3〜4回は繰り返しました。

そんなことをして、気付けばこの本を買って7年も経ってしまいました。

先日ふと改めて、この本はやっぱり理解しておかなければならないと思い立ち、意を決して、もう一度最初の頁を開いてみました。

まぁその結果、難なく読めるようになっていたのですよね。
別段難しいことも書いてないし、身体を扱う人間にとっては至極当たり前で、ただ私が大切にしなきゃいけないと思っていたことが、7年も掛かってやっとこさ自分の身体で考えてきたことが、使う言葉は違うけれどそっくりそのまま書いてありました。

野口"体操"といっているように、それは身体についての考え方の基礎です。私が7年も掛かって行ったり来たりしてたことも、結局まだ基礎の部分なのでした。
応用はここからです。


それにしてもこの本は、世に蔓延る如何なるハウツー本よりも、身体を以て生きるヒトとして考える基礎があると思います。
先だってノーベル賞を受賞した山中伸弥教授が開発したiPS細胞は、皮膚の細胞から作られると耳にしました。
この本に通じるものがあって驚くと同時に、下敷きにするとiPS細胞の生成の仕組みが不思議とすんなり頭に入って来ました。
初版は結構前で、かつどのような思想哲学も差し込まれないで書かれているので、少し古い考え方や偏った言葉遣いに首を捻る部分はあります、それでも一読の価値はあったと思えました。


そして私にとっては、7年前に出会って間もない教授が何故この本を勧めたのか、考えると面白いのです。
この本が必要になるであろう何かが私の発言(思考)に見え隠れしていて、それを読み取られていたことが恥ずかしく、それでもその頃からぶれることなく、いやそんな恰好良いものでもなくてむしろ同んなじようなことをずーっと考え続けているんだなと思い知らされました。

その教授は、今私がいる専攻(学部)の立ち上げに当初は関わったものの、いろいろと折り合いが付かず教授就任を蹴っていたそうです。笑
いつどこで、どのような人に出会うのかは全くもって不思議なものです。



読書は、本を開いた瞬間にまさに幕が開くような嬉しさがあります。何時だって何処でだって、本を読むことが出来るのはとても素敵なことです。
だけどそれ以上に、どの様な本にいつ出会うか、というのが読書の面白さだと思ったりします。
図書館や本屋に行って、未だ私の読んだことのない本が家よりも何倍も広いフロアに天井近くまで積み上げられているのを見るととても恐くなります。
だけどその本の山から抜き取った、なけなしのお金で手に入れた本は、とてもとても大切にしたいと思うのです。

2012年10月8日月曜日

舞台の力

ずっと昔から、
他人様の前で踊るってのは、他の何にも変えられない感覚がある。

どれだけ稽古してもやっぱり、
見る人がそこにいることで身体の表面がおかしくなりそうで最高にピリピリして抉られてゆく感覚とか、
ひっぺがされてずる剥けにされて、ただの肉の塊もしくは気体とか煙とか光とかになっちゃう感覚とか、
誰も助けてくれない、逃げたくたって泣きたくたってここに居ることに責任を持たなきゃいけない感覚とか、
大袈裟だろうか笑、
でもそういうのはお客さんの前に立つ度、感じる。
何年舞台に立っても、変わらない。

それが快感だとは言わない、だけど、こうしないと私はだめなんだ、っていつも思う。

小さい頃は「私を見ろ!!」って念じながら踊ってたな、今でもちょっとそれは思うかも。笑
ただ、良く見られようとすることは昔よりなくなった。そんな素敵で都合のいい事なんてのは、ない。

舞台に立つのは、他人様の前に立つのは、ある意味いつも、戦いなのだ。
言い訳は効かない。
誤魔化すなんてもってのほか。
舞台は、私が試される場所だけど、私以上のものが勝手に生まれるほど優しくない。
照明や、音響や、舞台美術や、衣装だって、私を素敵に飾り立ててはくれない。それらだって舞台の上で一番輝こうとして私を潰しにくる。何故なら、それを作る(操る)人もまた本気だから。

だけど、空間は身体の味方なのかもしれないと思ったりする。
飼いならすのが最高に難しいけど。
私の身体と空間がひっくりかえって、空間が私の身体になれば、何か超えられる。たぶん。



ただぼけーっと舞台に乗って、人前に立つ事は誰にだって出来る。所詮舞台って言ったって、ただの高い場所、ただの開けた場所なんだから。
だけどそれだけの事が本当に身体に襲いかかって、それに対抗したいと思う時、恐ろしく魅力的な舞台の力ってほんとに在るんだと実感する。

2012年9月17日月曜日

歴史を考えるとき、

舞踊の歴史を知りたいと思うのは、私の中にある踊ることの歴史を知ることと同じなのです。
かつて、「私は私の人生を踊っている」と言った人がいたまさにその通り、やはり私は私の中にある歴史を踊っています。
歴史を知りたいと思うこと、それは、私が生まれたときにどういう風であったか、その日の天気はどういう風であったか、初めて寝返りを打った日のこと、初めて立つことが出来た日のこと、幼稚園に初めて行った日のこと、小学校の入学式のこと、そのような私の中にあるはずの私の歴史を私が周囲の大人に伝聞するのと同じように、私が私の踊ることについて知りたいと思う時、私の中に深く潜る時、歴史はひとつの道標になるのです。
私自身の歴史は他人の身体において起こったことの歴史ではなく、紛れもなく私の身体において起こったことの歴史です。しかし、私は他人の影響を受けています。それは避けられないものでもあり、私が選択して取り入れた他人の歴史でもあります。私が今踊るということのすべては、私が経験してきたものに左右されているということで間違いはありません。私が今までダンスを習ってきた先生、先輩、友人、もはやそれは踊ることに限ったことではなく知識や思想、精神、肯定するものも否定するものも、そのすべての影響によって、今の私のダンスがあるのです。


私は私の身体で踊る。
私は、私の身体の歴史を繰り返し踊る。

けれどもダンスは、私のダンスは、私のものであると同時にそれを見た他人のものでもある。

2012年9月10日月曜日

身体とイメージ ー(続)或る2つのイメージについて

足が蚊に刺された。刺された部分は赤くぷっくりと腫れ上がると同時に、私に「蚊に刺されたんじゃない?痒いよー」という信号を送る。刺されたところを掻きたい、刺された場所はすでに分かっている、そこに手を伸ばそうとする。しかし痒くても動くことの出来ない状況にあったら、「痒い痒い」と思いながら痒いのを我慢することになる。やっとの思いでそこを掻きむしっていると、周りの人から、「蚊に刺されたの?」聞かれる。
足を掻く動きをすると、「この人は蚊に刺されて痒い」ということがそれを目撃した人たちとの間で共有される。
また、足を掻くために動くというより、痒いから手を伸ばす。だから刺された場所に伸ばす手の動きはスマートで迷いがありません。そのスマートさは、それを目撃した人に明確な情報を伝えるかもしれません。

このとき、「痒い」ということはイメージと言えるでしょうか。しかし、「痒さ・痒み」はある種のイメージであると言えるように思います。
他人の身体における「痒さ・痒み」というものは、それがどのようなものであるか、共通の感覚として私の身体においても想像することが出来ます。私は「痒さ・痒み」を私の身体において思い出すことが出来ます。しかし、「痒い」というものは、他人自身の身体において他人が感じるものであり、どれくらいのどのような痒さなのか、ということを正確に私は知ることや体験することが出来ません。
お医者さんの問診に、事態は似ているようです。


身体がどうして動くのか、ということは、その目的や意志のようなものをどれだけ剥いでいってもやはり、曖昧で漠然としたものでしかありません。むしろ私の意にそぐわずとも勝手に、身体は始めから動いています。そして絶えず何もかもが動いています。動いているというより、変化しています。生き物は、変わってゆく環境に適応するため、また環境を変えるために動きます。
水が枯渇したから他の水辺へ移動することや食べ物を探すこと、気温の上昇や下降に合わせて毛穴が開いたり閉じたり瞼が絶えず瞬きをしたりすることも、なにもかも、
私の意としない意志がそこにはちゃんとあって、そのことに私は感心するか楽しむほか為す術がありません。


意志、目的、動機、原因、機能、信号、
それらとイメージの関わりについて。

身体とイメージ ー或る2つのイメージについて

2つのイメージの捉え方の違いについて書き出してみます。これはあくまでも、身体を使って動く人間としての考えです。まだまだ言葉足らずですが…

2つのイメージについて。
ひとつは、結果としてのイメージです。外側にあるもので、例えまさに動いているものであっても、静的で、ポージングのようなものです。見せかけ、とまで言うと言い過ぎでしょうか、もしくは、私たちが見ることのできるイメージです。
もうひとつは、原因としてのイメージです。内側にあるもので、動的かつ流動的なものです。もしかしたらこれは、私たちは見ることのできないイメージかもしれません。言葉にも置き換わらない、とてもあやふやな何かです。いや、もしかしたら、見ることもできるかもしれませんが…

例えば、爆発というものを身体で表現するとします。そのとき、爆発というイメージを、飛散するものや爆発の形の模倣として動く身体の動きが考えられます。その動きを簡単に例えるなら、両手足を開いてジャンプ、のようなものだったりします。
一方、身体の内において、爆発というもののエネルギーを産み出すというイメージのとらえ方もあります。それも突き詰めれば何らかのイメージの模倣であると言えるのかもしれませんが、そのイメージの模倣を全て剥いでゆくと現れるもの、もっと別の言葉でいうのならば、その爆発を生きる・体験するために、体の内において産み出す爆発というエネルギーのイメージ、というものがあります。この結果は必ずしも、両手足を開いてジャンプ、という形になるとは限りません。
しかし、ダンスをはじめ、パフォーマンスの技術のひとつとして、今挙げた異なるイメージの在り方を同時にひとつの身体の動きにおいて実現する、というものがあるかもしれません。
また、両手足を開いてジャンプ、という動きは手足を身体の中心から外に向かって押し出します、その動きにまるで爆発のようなエネルギーの流れを見出すこともできるでしょう。実際に折り畳んだ手足を勢いよく広げる動きがそこにあります。

先に結果と原因という言葉を用いましたが、その使い方はふさわしくないかもしれません。それらは同時にそこに在り得るものであり、どちらかが必ず先行するものでもありません。結果のイメージから導き出される原因のイメージというものもあり、またどちらも「動機」にはなり得るのです。

ダンサーは芝居ができるのはなぜ?と頭を捻っていた人の言葉を思い出します。身体の内に動機のイメージを明確に打ち立てることができるダンサーであれば、ある程度の芝居ができるのは当然であると思います。そこに演劇独特の、物語を明確に示す技術や言葉を話すための技術はありません、しかし身体の内にエネルギーを産み出し、そのエネルギーを生きることができるのですから、ともすると人間を生きることも可能であるのです。

(つづく)






池田扶美代×ティム・エッチェルス『in pieces』を観ました。

言葉を話すシーンが多く、池田さんの表情がとても印象的でした。なんだかとりあえず踊るのが楽しそうで、観ていて嬉しくなりました。
ただ、どれだけ言葉を使おうと、表情にその感情を見出そうと、あれは紛れもなく身体による表現、ダンス作品でした。75分、ずっと舞台上に一人で立ち、危うい綱渡りなシーンもあったけれど、ついにロープを離さなかった彼女の信念の強さ。踊るように喋り、喋るように踊り、舞台上を自由奔放に移動し、彼女の中でどんどん湧き出てくるエネルギーが迷いなく身体の動きとして現れてくる様は、圧巻でした。
そしてなぜか、私の肩の荷がどっと下りた気がしたのです。

2012年9月9日日曜日

身体とイメージ ー具体派について

国立新美術館で、「具体」展を見てきました。

具体派というのは前衛画家・吉原治良を中心として1954〜1971年に主に関西で活動した、日本の前衛芸術を切り拓いたグループを指し、当時海外でもその活動が注目されていました。具体派は絵画のみならず舞台作品を発表したり、アクションペインティングや野外でのパフォーマンスアートなども数多く発表しました。海外のパフォーマンスアート関連の資料を漁っていると日本の「GUTAI」というグループの存在は自ずと目に付くようになります。
そんなこんなで最近になって具体派の存在を知った訳ですが、せっかく東京で回顧展があるのだから会期がおわってしまう前にどうしても、と駆け足ではありますが、さっと観てきました。

展示は、具体派の活動の中心となった具体美術協会が発足した1954年から、大阪万博を機に1971年に協会が解散するまでの短い期間を5,6つの年代やテーマに分けて紹介していました。年代ごとにそれぞれ特徴があって興味深かったのですが、具体派の特徴が最も強く現れているように感じたのは、フランス人評論家ミシェル・タピエが具体派に関わり始めた直後の作品群でした。
タピエはアンフォルメルを提唱した評論家であり、日本でアンフォルメルを実践している具体派に興味を持ちその作品を海外に紹介すると共に、その作品を海外に輸出しやすいようにと具体派に絵画作品を多く作るように持ちかけた人物です。

そのようなことが簡単に紹介された後、タピエの勧めによって制作されたと思われる絵画作品が多く展示されていました。それまで自由奔放に様々な方法で作品を制作してきた彼らが、迫られてキャンバスに向き合った作品はどれもとても歪で面白いのです。それらの作品の多くのタイトルが「絵画」というのがまた微笑ましく思います。
ここで改めて示された、具体派の絵画作品の大きな特徴は、"重さの痕跡"であると感じました。重さ、とは、身体の重さや身体の運動の重さ、また絵の具や画材として用いられた様々なモノそれ自体の重さ、あらゆるものの重さが画面にそのまま、その重さの痕跡を残しているのです。その重さを目の前にすると、すごくどきどきします。なぜなら、身体の動いた軌跡、痕跡としての絵画は、間違いなく、"身体がなければ描かれなかったもの"と、それと同時に"重さの生きた時間"を浮かび上がらせるからです。

絵画、というものは、ひとつの「イメージ」の結果としてそこに現れます。
具体派においては、絵画作品が中心でありながら、平面には決して留まらない、身体の在り方とイメージの関係について、斬新な提案がいくつもなされています。
具体派を始め、アンフォルメルが提唱された時代における身体性を深く洞察したヴィジュアルアート(特にアクションペインティングやパフォーマンスアート)はその後のダンス作品に大きな影響を与えました。
しかし、身体とイメージの関係については、ある時代を反映する特徴的な問題という訳では決してありません。その問題は、今日においても考えられるべき問題です。


イメージ、というものを語るために、もっと知らなければならないことがあるのはわかっています。
しかし私自身動きながら考え、あやふやなイメージというもののなかに、大きく二つの捉え方があるように感じています。それは、全てを二種に振り分けようとするのではなく、沢山のイメージというものの捉え方の中から、ある二つの捉え方の違いについて考えてみようということです。
それは、身体を動かすときに用いる二つのイメージの違いについてです。

(つづく)

2012年9月2日日曜日

(続)「原初的な運動」ー人が集う"場所"と"空間"

余談ですが、私が劇場という場所やそこで行われるパフォーマンスについて考えを大きく改めるようになったのは、何より音楽の影響です。
自明のことであり決して悪い意味で言いたいのでは無いのですが、やはりダンスはヴィジュアルイメージが常に先行し、その陰に隠れてしまうものがたくさんあるように感じています。そのまやかしに甘えてしまうことももちろんできますが、ダンスそれ自体が必ずしもそのような表層"のみ"で行われているのではないという確信があります。
ヴィジュアルイメージが必ずしも最優先ではない音・音楽とそれを演奏する・聴く人々の間で起こっていることは、ヴィジュアルイメージの陰に隠れたダンスの本質を探る糸口を改めて教えてくれるように思います。それは、私が思考のテーマとして掲げた「儀式性」というもののひとつの側面を明らかにします。

「儀式」は人々が集うひとつの場所という特殊性が生み出すものでもあるのですが、しかし必ず場所が必要なものではありません。

何らかのパフォーマンスがそこにあるとき、パフォーマーとその観客とが目には見えない一対の線でつながれるとしましょう(そこには知覚の為の距離があります)。
このつながりはパフォーマンスの契約とも言える、パフォーマンスの根幹をなすものです。これはどのようなパフォーマンスにもあるものです。
しかし、ある種の特別なパフォーマンスは、観客同士を、パフォーマー同士を、もちろん観客とパフォーマーも、無数のつながりが錯綜する様にその場にいる人々を強く結びつけます。簡単な言葉で言えば、一体感というものでしょうか。
そのとき、観客もパフォーマーも分け隔てなく、"時間"を体験します。

さて、いよいよ説明が難儀で苦手なところに入ってきました。

現代の劇場機構はその一体感を自ずと場所が設定しています。限られた空間に人々が集えば当然生まれる感覚です。しかしそれだけで場が儀式性を帯びるというわけではありません。言わずもがな、パフォーマンスそのものの力が絶対条件であることは変わりありません。
場の人々が錯綜したがつながりをもつ、というのはただ単に他の観客の顔が見えるであるとか、リアクションを感じられるというだけでは語り尽くせないものがあります。
観客である人々は、それぞれ違う人間だよね、違うことを考えているよね、という次元のさらに高次、人々が皆一様にヒトとして、身体の奥深くに身体の記憶を共有していることを実感できる、そのようなパフォーマンスが行われる時、初めて本当に場が特殊な儀式性を帯びる様に感じます。ゆえに、劇場という機構は儀式性にとって必要条件ではありません。それは、劇場が場所である限りにおいてです。
場所は人々を囲うものです。それに対して、空間は身体の周りに、身体と身体の間に漂うものであるように感じます。その空間が熱量を発するとき、それは磁場が狂い、時間が歪められ、今まさに崖下に飛び降りんとするようなギリギリで先っぽに居るような感覚を人々に体験させます。

感覚が捉えるのは空間であろうと考えています。

(つづく)



客演の稽古が続いて非常に頭が硬くなっています。脳みそが筋肉質になっています。だいぶちぐはぐしていますが、ほぐす時間が足りない。
鈍っていた反射神経は高くなるのですが、反応しかできないのではどうしようもないと切に思いました。

2012年8月30日木曜日

(続)「原初的な運動」ーひとつの"身体"

劇場という場所に限った事では無いのですが、何らかのパフォーマンス(表明)を行う人とそれを見る人がいるとき、そこに集った人々の間で何が起こっているのか、という疑問があります。

以前に私は、「身体はメディアだ」と漠然と思っていました。それを敢えて説明するのなら、心と心を媒介するものがパフォーマーの身体というとても単純な構図であり、また受信側の身体についてはほぼ無視して考えていました。全く浅はかです。
最近思うのは、二つの身体がそこにあるときに、共有されているひとつの"身体"において感覚されるものも重要なのかもしれない、ということです。これもまた、未だ漠然とした考えですが…。
それは「伝わる」というような物理的な時間や距離で語られるものではなく、同時に交感しあうもの。
知覚はもちろん重要なのだけれど、むしろ共有されている"身体"においては「感覚」が重要なのかな、と思います。

(タイムアップ。つづく)

*****

何かもやもやとした考えがあるとき、
それを分かることが、自らの中に明瞭に答え(決着)を導き出すことが全てではないと思うようになりました。しかしそれは何かを諦めたわけでは全くありません。
"理解"して(理解したつもりになって)しまうことはある意味自らの立場を限定し思考を偏らせることになりかねません。というのは、ある立場に居することで思考したり発言したりすることはとても容易になるからです。
かといって沢山の意見を平等に取り扱おうとすると、自分の意見すら発言する意味を見失います。
むしろ、沢山の意見を参考にして深く深くどこまでも思考して、それでももやもやとしたところに可能性を見出すことが出来るなら、それが最も良い状態だと思います。
複雑なものは複雑なまま受け入れればいいと教えられました。その中から僅かに何かを掴み取ろうとする力が言葉に特別なものを与えるのだと思ったりします。
ここに書くことは何かを表明するというより、ここに書いたその後を思考するための足場になればいいと思っています。なにか書くことは既に在る思考がそうさせるのですから。
ほんの数限られた記号である文字も、当たり前ですが使う人によって、言葉の力は貧しくもなり、無限大に広がりもします。
畏怖の念と謙虚さを常に持って、だから何も書けないんじゃなくて、だからこそ何か書く。

2012年8月28日火曜日

(続)「原初的な運動」ー"原初"という言葉について

昨日のつづき。
「原初的な運動」についてもう少し。

まず、原初という言葉を用いる理由について。

言葉を選ぶとき、"原始"と"原初"のどちらが相応しいか考えました。両者そんなに意味の違いはないように感じられます。
しかし英語だと原始=primitiveで、原初=originです。原始の方が時間的な広がりがあって、原初の方が時間というより深さを表しているように感じます。
そこで私は原初という言葉を用いることにしました。
原始というと、現在を折り目にして歴史の大きな矢を折り畳むようなものです。私は身体のことを語るときに歴史を遡る必要は必ずしも必要ではないと思います(但し既に知っている必要はあります)。何故なら歴史の中に描かれた身体は私の身体の外郭の一部を色付けするものに過ぎないからです。また別の言い方をするのなら、歴史とは"見出されたもの"で紡がれています。その見出されたものが嘘とは言いません、しかし推測や想像が見出されたもの同士を繋いでいます。
それよりも、私たちは身体の中に潜在的に歴史を、とまでは言わないけれど、ヒトの身体の源をきちんと受け継いでいるのです。私たちは動き方を知ってから動き始めるのではありません。初めから動くことができるのです。これは当たり前のことだけれど、驚くべきことだと思います。それを丁寧に探ることが歴史を知ること以上に価値があると感じます。まずはいま、ここにある身体の中に深く潜ることが必要です。
カレーを鍋で煮ていると、グツグツと気泡が浮いてきます。カレーの温度が何度になると気泡が浮いてくるということを知っているより、鍋底で気泡がどういう風にして生まれるのかを知る方が面白いと思います。気泡が浮いていくるのを待ちわびる人たちをよそに、鍋底で気泡が生まれるのを目撃した人たちにとっては気泡が水面に浮いていくのは当たり前の結果に過ぎません。
カレーの中に人が居るという何とも言えない例えになってしまいましたが、
そんな感じです。カレーは美味しいです。


(つづく)

2012年8月27日月曜日

「儀式」

さて。
今日は論文をぽちぽち打っているのですが、全く筆が進みませんわ。
ぐるぐる毛糸が絡まって、どこに先っぽがあるのかわからなくなってしまいましたわ。




最近、現実で起こることが劇場で行われていることを超えてしまった、というような嘆きにも似た言葉をしばしば耳にします。たくさんの人が、そういうことを言っています。
そんなことはないぜ!と粋がるつもりも、否定するつもりも毛頭ないですし、むしろまさにその通りだと思っています。思っていますが、その言葉とは裏腹に、やっぱりひと時の現実を忘れさせるドラマにすがっている様子を見ると、ちょっとがっかりします。

それでもやっぱり、現実を超える劇場での体験を与えてくれる作品があるのは確かです。
私は批評家ではないので、どの作品がどう、ということをここで言うつもりはそんなにありませんが、そういう作品はあります。どの作品がどう、ということを明言できないのは、どの舞台の作品もそうなる可能性があるということでもあります。無理やりそういう視点で引き出せるものもあります。しかし偶然にして意とせずその効果を利用するのではなく、それをきちんと踏まえているかどうか、またそのような意図をあいまいにせずきちんと追求できているかどうかで作品の質はがらりと変わってしまいます。現時点でそのような意図を見据えている作品は、特に日本ではものすごく数が少ないように感じます。
舞台の作品であるべき作品、ほかの何にも置き換わることのない作品です。観客として観ているというのでは足りない、客席から舞台へ引きずりだされる、という言葉でも足りない、観終わった後に自分がどことなく変わっている、作品が始まって終わるときには劇場全体で明らかになにかが変わっているという作品。
それらの作品について、論じてみたいことがあります(もしかしたら、やっぱり論じるためににはそれらの作品を引き合いに出したほうがいいのかもしれませんが)。


私に大きな刺激を与えてくれたいくつかの作品を貫く特徴がいくつかあります。

それらは、「意味」を与えてくれるのではなく、私が観客であることを忘れさせ、身体に直接作用する何かを与えてくれる作品。
その様子を言葉にするのなら、その特徴は「儀式的である」と言えます。

その特徴を支えるキーワードが二つあります。
一つは、「観客の不在」。もう一つが「原初的な運動」。

「観客の不在」とは、劇場にそれまでの「観客」というものがもはや居ない、ということです。

儀式にはもともと、観客がいません。
儀式とは、その場にいる全員が祈る、または何かの目的に身を投じることであって、それを観察する人、という立場はありません。

先にも書いたように、もはや現実で起こる悲劇や喜劇は劇場で上演されるドラマをゆうに超えてしまいました
私たちは常に世界の情報を手に入れることができ、世界中で起きているより華やかでより悲惨なドラマを遠く離れた場所でスクリーンを通して知ることができます。画面の前という絶対に安全な観客席を私たちは確保しました。

すると、一つの場所に同時に居合わせるという劇場の機能は特別な意味を持つようになりました。劇場の客席は、もはや安全な場所ではなくなりました。大袈裟な言い方かもしれませんが、劇場に集う人たちはそのとき、運命を共にしているともいえます(その効果を絶大に示しているわかりやすい例は、震災後に流れるようになった、「大きな揺れがあった際は係りの~」という上演前の放送のような気がします)。そのような、同じとき同じ場所に集うという切実さは、劇場という場所に新たな価値を付与したように感じます。
現実を忘れさせるドラマを望む観客もいることは知っています、ただ、ドラマ以上の、劇場における現実を観客はパフォーマーとともに過ごすのです。

そのようなことをきちんと意図した作品は、もはやそれまでの舞台の作品とは一線を画すものになっています。
そのような作品を実際に体験して思うことは、少なくとも、「劇場に行かなきゃならない」と思わせるものです。
儀式に参加するためには、実際に自らがそこにいなくてはなりません。


「原初的な運動」
最近舞台の作品でよく見かける身体表現の様々が、原初的(origin)な方へ回帰しているように感じます。
その特徴を原初や回帰という言葉で語ってしまうのは誤解を生むかもしれません。どちらかというと、そう捉えられる表現方法によって観客に与えようとしているものが重要です。原初的、つまり身体の根源的な動きは、身体の記憶に直接に訴えかけるものである、ということです。

その傾向は、特にダンスにおいて顕著である気がします。
長い時間をかけて研ぎ澄まされてきたダンスの形、というものを脱し、しかし脱するというのではなく、その前段階の身体による、もっと、身体の動きそのものを見せるもの。
もはやダンサーの身体は観客にとっての憧れではなく、観客と「身体」を共有している、そのことが、ダンスの動きをそれまでのダンスとは異なるものにしています。

この段階で、原初的な動きを「儀式的」という言葉の中に含んでしまうのはいささか暴力的であることは承知しています。
ただ、劇場に集った人々が共有している何か、そこに身体的な要素は必ず潜んでいます。

(つづく)



書いていると思うけれど、これを論じるためには全然力量も時間も足りない。
自分の範疇にあることを言葉にしたって、面白くもなんともない。頭全部組み替えたい。少なくとも自分くらい超えられないでどうするんだ、と思う。
ただ漠然と、私は舞台が好きだということ、なぜかそれだけは痛感する。
動力がほんとうにそれだけだからだ。

2012年8月19日日曜日

以 下 引 用

「内臓感覚の最も重要な表われは、リズムに結びついている。眠りや目覚め、消化や食欲の時間的な交替といった生理的な節奏がすべて、あらゆる活動を記す基糸をなしているのである。一般にこれらのリズムは、昼夜の交替や、気象や季節の交替といった、より大きい基糸に結びついている。そこから文字どおりの条件づけがなされ、日常的な作業における安定した基盤として働くが、その条件づけは、美に係わる行動において、その手段として人間の体が用いられる程度に応じてしか介入してこない。内臓が快適な状態というのは、活動の正常な条件を確立しなければ起こらない。苦痛や生理的に不十分な状態は、個人の美の領域をいちじるしく変えてしまうことがあるが、それもただ、広い意味での正常な活動に及ぼす苦痛などの結果によってである。
逆に、あらゆる文化において、習慣になっていない運動や、言語化の表出の重要な部分は、精神環境の急変するなかで、新たな状態を求めた結果として生じる。このことを考慮するなら、リズムの均衡が破られることが重要な役割をはたしているのは認めなければならない。例外的な儀式や、恍惚状態のなかでの啓示や入魂の行などにおいて、当事者はそのあいだじゅう、高揚された超自然の潜在力にみちたダンスや音による表出に身をゆだねるが、そこにうまく合わせるには、例外なしに、断食や不眠によって生理器官の慣れをうち破り、当事者を日常のリズム周期の外におくよう訓練するのである。最終的な結果は心霊的な昂奮であるにしても、出発点は内臓に係わる性格をもっている。記憶の変化は、有機体のいちばん深いところで始まるのでなければ実現しない。」

アンドレ・ルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』、筑摩書房、2012年、445頁

2012年8月10日金曜日

ダンスについて考えること(長)

考えがまとまらないいいー


すごく個人的で主観的な話ね。

私がブリュッセルで観たいくつかのダンス作品は、もはや私がそれまでイメージしていた“ダンス”ではなくなっていた。
そして、私が“ダンス”だと思っていたものは、もはや過去のものとして、パロディー的な扱いで、笑いを誘うものとして扱われていた。
これが海外で舞台を観て一番衝撃を受けたことだったのです。
私が“ダンス”と思っていたものが、もう「古い」んだ、と言いたいわけではない、ただ、そうではないものにダンスが向かおうとしていることを強く感じた。
何か新しいものがここでは議論されているというわくわく。

この感覚を、日本にいて感じることができなかったわけではない。ただ、「そういうものもあるな」という感じの印象に過ぎなかった。
そして私自身が日本でダンスをしていて、観ていて、その只中で感じていた“ダンス”というものに対するそもそもの疑問と似たような問題に真っ向からぶつかって、そうして新しいダンスが生まれていることに衝撃をうけた。
その疑問を、取り繕ってごまかす必要はない。疑問それ自体を、そのままそこにある身体に、そして観客に問いかける姿勢がすごいと思った。

私のイメージしていた“ダンス”、それは、一連のシークエンスとしての振付がなされている、"振り"を付けた動き、身体の形をつないでいくようなもの。
ダンスの作品を作るときにまず、じゃあ振付を考えましょうか、っていう、アレ。
なんて言ったらいいんだろうか、振付の方法すら、もはや私はなんと言えばいいのかわからない。
「ここに立って、そして右手を上げて、次にその右手を左斜め下に突き刺してその勢いで左に回転して、一周したらジャンプして、着地で腰を落として体育座りになって、そこから床に寝て」みたいなの。

私はもともと、モダンダンスの出身で、かれこれずっとモダンをやってきた。
モダンダンスの作品を作るときは、まずテーマがある。絶対この方法とは限らないけれど(ほかの人は違うのかな?)、大方表現したい何かが決められて、それを表現するためにダンスが作られる。
たとえば、「風」というテーマがあったとする。そうしたら、その風をどういうふうに身体で表現するか、というところで、振付が決められていく。
風の素早さ、荒々しさ、そよぐ風、さわやかな風、みたいなものを身体で表す。もしくは、そのような風に“なる”。
別に、「風」というテーマを表すために、小説でも絵画でもいいわけであって、それでも身体でそれを表現するというところに、ダンスをする意義があるものだと思っていた。
だから私にとって、身体はあまりにも純粋に“メディア”だった。

そういう風にダンスを考えて、作品を作ってきたわけだが、学部の時にすごく行き詰った。
表したいテーマがあるなら、それを一番正確に"伝える"ダンスをするべき、というところで止まってしまった。
極端な話、言葉と動作を同じものとして置き換えようとしていたし、それならば手話でいいんじゃないかと閃いてしまったところでついに自由に動けなくなってしまった。「喋るように踊りたい」と思っていたし、それは「言葉で或る内容を示すことが出来るように、ダンスでそれをしたい」という意味でだ。
振付が思いつかない、振りを作っても何を"意味している"のか明確でなければ変えなくてはならない、ただ無機質に運動を続けても何も"意味すること"は出来ない、というか面白い動きを作れば良いんじゃない?でもその時表したいことは何処へ行っちゃうの?そんな感じだった。すごく苦しかった。

それに、ダンスの動きに対する漠然とした疑問もあった。

例えば、振り付けが出来なかったら、失敗したら、それはダンスじゃないのか?というとこ。理想の形や動き方があって、それに見合わない動きは排除されるべきなのか?ということ。
当然振りがきちんと出来るように練習しているのだけど、振りを失敗したとしても、それが良いダンスになる可能性は何故か否定できない。
それから、技量の違うダンサーたちがいて、あまり踊れないダンサーに合わせて振りを作っても、表したい効果を生み出すことが出来るんだろう、という可能性についても。
さらには、一つの動きを指定したところで、皆体つきや筋力が違うわけだから、同じ動きに、理想とする動きに必ずしも合致するわけでもない。ならば、一体何を振りつけるべきなのか、という疑問もあった。

そんなこんなで、ダンスってじゃあそもそも一体何を指すのか?という疑問が生まれた。

考えすぎかな。
今思えば、考え過ぎてたな。

こうやって私のようにうじうじ考えずとも、(考えてるとしても、そんなこと大した問題じゃねーぜ!って感じで)実に生き生きと、とにかく踊っている人もいる。
それも、素敵なこと。
馬鹿にしてないよ笑、ほんとは羨ましいんだ。



でも、いまはそんなに、そういうことで行き詰まってはいない。

ダンスって何なのか、ということは未だにずっと考えているけれど。

前よりはずっと、自由に動けるようになった、と思う。
そりゃ即興ばっかやってるでしょって言われればそりゃそうなんだけど。
動画にずっと上げているのは、その途中経過。

まずは自分の動きって、自分のダンスって一体何なのか、ずっと考えて試している。自分の動きなんてそもそもあるのか?ってことも含めて。
この先ずっと、下手したら死ぬまで踊ってゆく時には、必ずどこかでぶち当たる壁だと思うし、それを有耶無耶にして考えずにただずっと、踊っていられるわけでもないだろう。
それを考えていなかったら、例えば怪我をしたらダンスを辞めてしまうことになる(ダンスを辞める理由ってたくさんあるもんね)。


ダンスって何なのか。

今はふと、動いてることの美しさみたいなものが、動いているものそれ自体がダンスなのかのかな、と思う。
動いているもの、それはもちろん"止まっている"という動きも含むし、"動いている"という動きもある。
自分の身体の動きをどこまでも細分化して、細かく分析して、つまり身体を限りなくたくさん、細かく意識して動く、するとそれは"散らばってゆく身体"になる。その動きの全体は、視覚から逃れる動きになる。

そんな感じのことを考えている。


まだ分からないこともたくさんあるけど…
作品って何なのか、とか、振付ってどうするの、とかね。
もしかして作品作るには、もう少し時間がかかるのかもしれない、と思っている。
別に今までの経験でなんとなく作ってしまうことも出来るんだけどね、それこそ時間が勿体無いと思うし。

まぁあれだ、誰にどう思われようと、とりあえず頑張るよわたしは。



そんなこんなで久しぶりにダンスを観た。まことクラヴ観た。
上のを打ちながら劇場に向かっていたから、ちょっと複雑で不思議な気持ちになった。

チラシの束がものすごいことになっていて、わたし浦島太郎状態、ダンスの公演があまりにもたくさんあって驚いた。

えりなさんのダンスはやっぱりかっこよかった。
私、好きなダンサーって何人かいて、
いて、なんだ?
憧れている人たちがいるの。
とりあえず観れて嬉しかった。

2012年8月3日金曜日

ことば

今日も稽古した後、パソコンで文章をぽちぽちぽち。

一丁前に頭の横側が痛くなるのよ、ここ最近。
普段使わない脳が何やらすごく嫌がっている。
書いては消し、書いては消し、
しかし消して書いたって堂々巡りしてるだけで、まったく進化してないんだけどね。
腹が立つわっ

ここに書くもの位が、一番身の丈に合っている言葉たちなのです。
ここが、一番穏やかな気持ちで言葉を選んで書ける。
しかしこれは非常にまずい。
感情に即効性のある言葉がすぐに世界に反映される。
ぶつ切りの文章もタイムラインがその時間を繋いでくれる。
ネットって便利だけど馬鹿になる。


踊る人間だからって、言葉が使えなくてもいいなんて思えないから。
その昔、「全ては踊ればいいんだ、ダンサーは喋んなくていいんだーい」と言った浅はかな私を、真面目な顔で叱った人がいました。
その人はきっと、もうそのことを憶えていないでしょう、でも私の中でそのことはとても重要なことだった。

しかしパフォーマンスの後の、作品について話すアフタートークはあまり好きじゃない。
パフォーマーが観客に遜る必要も、観客にとっての道化になる必要もないのに、観客の批評精神を変に煽ってしまう可能性があるから。かと言ってパフォーマーの方が偉いわけでもないが。
まぁ、一概に全てのアフタートークが悪いとも言えないけどね、ただ、作品に関わった人はみんな、作品という時間を対等に共有しただけなの。それだけ。



言葉を使うのは本当に難しくて、適切な言葉なんて全然分からないのだけど、
それでも、諦めてはいけないと思う。
それは、取り返しのつかない間違った言葉の使い方をしないようにするため。
間違った言葉とは、思ってもいない適当な考えを都合良く表す言葉のこと。
その言葉がどれだけ素敵な言葉であったとしても、選び方に使い方に人と成りが出るよ。
言葉と言葉の間、文字と文字の間にある目には見えないものは伝わっちゃうんだと思うし、少なくとも私は文章を読む時や人と喋る時はいつもそれを感じる。

言葉は今はどこにでも溢れていて、人と何かを共有するのにとても便利で、時に人を騙す。

踊る人も言葉を使える必要があると今は思う、本当に。
というより踊る人である以前に、ただの人として言葉をちゃんと使えないといけないと思う。



さあ、こんなこと書いてるなら論文書け。
とりあえず今日のお勤めの写経でもしようかな。

2012年7月29日日曜日

試論 (芸術性について)

先だってベルリンで出会ったある一つの絵は、私にとってとても重要なことを思い出させてくれた。
美術館に行くのが、芸術作品を見るのがどうして好きなのかを改めて思い出させてくれた、私にとって大切な絵。
美術史や芸術批評について興味を持ち始めて久しいが、どれだけ勉強して作品を語る言葉を手に入れても、その絵を見たときに感じた言葉に出来ない感動はまさに、私が昔から確かに感じていた表現に対する興味の源泉だ。

その絵がどんな絵であるのかは、他人にとってさして重要ではない。私がその絵を"見る"ことが、私にとって重要だからだ。
その絵は、美術館に居る私を、ここではないどこかに連れていってくれる。その作品のなかにその力を、私は感じることが出来た。
ここではないどこか、それは私の記憶のなかにあるところだ。記憶によって作られる場所だ。
寝ているときに見る夢は、必ずしも今まで行ったことがある場所とは限らない。むしろ私はいつも、知らない場所に居ることの方が多い。だけど、行ったことのない、知らない場所の風景を見ることが出来る。(因みに、登場人物は知っている人が多い。もしかしたら、知らない人は覚えていないだけなのかもしれないけれど。)
「見る」とは何なのか。場所の風景を、私は見ているだけではなく、何らかの情報を身体で感じている。それは身体の体験、身体の感覚の記憶だと思うのだ。



私の思う芸術性は、意味を「理解するもの」ではなく、「身体で感じ取るもの」だ。
理解しようとするのではなく怖がらずに身体で感じ取るものを重んじるべきだと思う。言葉にならない感覚を無理やり言葉に置き換えることはない。言葉は、ときに感覚を一つの型に押し込めてしまう恐れがあるからだ。
同じ文字を使うのに言葉にはたくさんの用途があるし、本当に気をつけて使わなくてはならない…



感動というもののなかには確かに、「気づく」ことや「解る」ということがある。
自分にとって混沌とした意味不明であるものをそのまま愛せる人は少ない。それは、解ることが出来るものを知っているから、自分にとって「解ることの出来ないもの」をひとつの解釈として持っている。
「解ることの出来ないもの」を知らない人にとって、理解出来るものは好ましい。だけどこれは、誰にでも当てはまることであり、誰もが最初に経験することだ。気づき、閃き、その裂け目のような箇所から勢いよく溢れ出す想像力の広がりは、まず何にも変え難い芸術体験の一歩だと思う。
昔からその感覚が好きだった。



芸術は、突き詰めれば個人の嗜好にその良し悪しが判断される場合がある。
このときの、嗜好とは何か。それは「理解」云々を超えもっと深層にあるもの、それは記憶だ。嗜好が異なるのは、身体の記憶が人それぞれ違うからだ。文化が嗜好を決定するのなら、良し悪しの判断はもっと一律的になる。
記憶はその身体の体験を積み重ねて形成される。

芸術性は文化に起因せず、身体に起因する。
なぜならば、文化が興るより前に人は身体という個体で動き、他の個体である他人に働きかけるからだ。一つの身体が世界に働きかけることが、芸術の始まりだと思うからだ。そして、芸術や表現はいつでも、他人のなかにあるのではなく、世界にある。

芸術がときに前衛であることは、文化が芸術を作るのではなく、一つの身体が文化から逃れるから、はみ出すからだ。


**

うーん

複雑なものを、複雑なままに書けるようになりたいわ。
簡単にはしたくないし、簡単にしてしまえる私というフィルターはものすごく貧しい。
上に書いた一文ごと、一節くらいはゆうに説明しなきゃいけないはずなのに。
要約ですらないな、ただの乱暴な文章だ。まだまだだなぁ
でも書かなきゃ始まらないから、許して。

出来るだけ他人の言葉を借用したくもないし、むしろ私というフィルターすら消し去りたい。
そして複雑なものを複雑なままに。

改行って恐ろしいくらい本当にたくさんのものが抜け落ちるのです。
行間に甘えるな。

言葉が足りないわ。

2012年7月25日水曜日

さいきん

なつだ!

あのさ、どーでもいいことなんだけどさ、
ズボンのベルトってどっちから通すのが正しいの?

私ずっと、右から通してたんだよね。
端の余るとこが右に出るの。
昨日まで疑いなくそうしてたんだ。

そしたら婦人服は反対じゃない?って言われた。うおー、しまった私人生間違ってた!!と思ったんだけど、
今日、紳士服も、というか普通はみんな左からじゃない?って言われた。
どっちが正しいの?
てか、つまりみんな結構左から通すらしいんだけど、正解ってあるのか?
ぐぐれってか。はーい

てか右利きだから、左から回すとすごく楽だって気づいちゃったんだけど




最近はひたすら文献読んだり、論文書き書きしたり、自主稽古したり。
今日は文献読んで論文ちょっと書いた。

いつでも、いつまでも論文を書くのは難しいね、当たり前だけど。
昔みたいに書きたいことを書くってより、最近は考えてることをどう文章にするかにぶつかる。

というか、いろんな文献読むほどに着実に自信もなくなるし、以前は私の感覚って鋭くなーい(どや)?みたいな驕りがあった(たぶん。そして後遺症もある)けど、そういう勢いも無くなる。

同じようなことはみんな考えてる。
というか別に私が突拍子もないことを考えてるわけでもない。
みんなそんな違うことは考えてないし、なにが違うかってどういう言葉でそれを話すか、書くかにかかってるんだよね。
それでも文献読んでてちょっとでも思うことがあったりして、これ位は私言っても良いですかね?みたいな、そんな針の穴に糸を通すみたいな感覚を正確に文章にするってもう、難しすぎる。
そして私の文章はつい、無知なくせに強気だから、読み返すと萎える。つまり馬鹿丸出し。

ここに書いてるのはほんと、思いつきで超適当に書いてるから、
なんていうかそれこそ考えてることそのまんま書いて積み重ねてるだけだから、浅くてオールおっけーなんだけどね、
ああ。


一言でも、短い文章でも、世界の景色をがらりと変える、つまり知覚を揺らがせることの出来るものってやっぱりあって、
どれだけいっぱい考えても追いつけない位、いろんなイメージが溢れ出してくるような言葉ってあるんだよね。

人間ってすごいね。
最近そんなことばっかり思う。

でも文献読むの楽しい。勉強楽しい。
知らないことも分からないこともたくさんあって困るよ。

2012年7月18日水曜日

動きながら考えること

消していくより、蓄積させていくこと。
昨日考えたことを今日否定してみる、疑ってみる。

人格が崩壊しそうなんだが笑、
そうして、もっともふさわしいものを選んでみる、探してみる

****************

散らばってゆく身体、散らばっている身体。
より強く、より細かく、身体を意識/分析する中で、身体はバラバラになっていくように思える、例えていうならば。
だけどそれらはすべて、一つの身体の中で起こっていることであり、一つの集合体の身体。

より強く、より細かく身体を意識/分析していても、“意としない”何かが起こっている、もしくは起こる可能性を持っている。
散らばっているのは、運動のベクトルで、身体は一つにつながっている。身体はちぎれることがないんだよね!

統一されているから、はみ出るもの
散らばっているのは、一つだから



予想のできない動き、が欲しいなぁ、と一つ理想として、自分の映像見ながら思うのです。
一年前位から自分の映像撮っていて、たまーに、はっとするような動きとか切り返しが一瞬、あるのです。
目に見えないほど速い動きが生まれたり、謎な軌道や動きがあったり。
新しいものほど、それが少しずつ増えている。
まぁ定点の、しかも映像だから、なんとも言えないけど。

自分の身体を支配するというより、深く分析して感じてそのまま動いてみるとどうなるか。
きっと予想もつかない動きになるんじゃないのかなぁ。という予想。

そしてそれを、形として再現するんじゃなくて、そういう動きを生みだす身体の使い方を考えている。
全部がそれになる必要はない、というかはっとするのはその前後にそうではないものがあって、その一瞬の繋がりの予想不可能さが面白いのです。

所謂、自分が今までやっていたような振付の面白さに飽きたってのはある、なんというか「この振り面白いなー」ってやつ。
それより、なんというか、動きの中で偶然的に産まれる身体の不思議、目に焼き付けられる一瞬の何か、
そういうのを見たいのじゃ、私は!って私に言い聞かせている。

2012年7月14日土曜日

身体が持っているリズムとメロディー/スマートさ

身体の中にリズムとメロディーを見い出す
身体の中のリズムとメロディーを見つける
身体のリズムとメロディーを探す
身体が持っているリズムとメロディーを感じる

「身体が持っているリズムとメロディーを感じる」が今は一番しっくりくる。

リズム、戻ってくる感覚、何かがゼロになる感覚
出発点と着地点がぴったり同じとは限らない、時間は進んでしまっているから。
でも、ずれていても、ゼロになって、再び1になる。

メロディー、推移。運動している、それ。
音楽を聴いていて感じる、音の推移が“美しい”と思えること
それが誰にでもまことに美しいかどうかは考慮するまでもなく、
ただそれに感じ入り、身体がほどけて、澄んで、温かくなるもの。
身体にも、それはある。

ただし、身体において、どれがリズムでどれがメロディーであるかを決める必要はないし、あまり意味はない。
むしろ多層的に、幾層位にもそれらはあてはまる。


**************

どんな理由で身体が在ったって、動いていたって、
私にとって身体の面白さは消えることはない。
面白さとは、興味。美/醜以前、理想よりも前に。
(私は割と、人の動きを部位ごとに分割して見る傾向があると思う。)

作為的でない、純粋な動きはいつだって美しい。
職人の手さばき、荷物を運ぶ運送屋さん、料理人の姿、楽器の奏者、
道具とともに、それに見合うスマートな動きを手に入れた身体とその動きは美しい。
機械的ともいえる。

人の歩く姿。
身体の外部に道具がなくても、骨格や筋肉の成り立ちからおのずとその人にとって最もスマートで純粋な動きがそこにあるから、見ていて面白い。

人の身体の形も、時が経ち、老いてゆく。
重力に逆らわず、ありのままに変化していくのは自然であり、それも面白い。


自意識的、ないしは作為的な意味での(これ以外に今言葉が見つからない)無駄がないように、ありのままに。

その無駄って何か。
目に入れたコンタクトに違和感があって、手でそれに触れようとするとき、手は一番最短距離で目まで届く。

歩くことに無駄はない。
いつだって最短距離で、何も考えなくたって最も効率がいいように歩くことができる。
右足を出したあと、左足がそれを追いかけて右足を打ち出す、なんてのは、歩くことにとっては無駄なこと。
歩くことにとってダンスは無駄な動きなのです、
だけどそれがツーステップであるならば、ツーステップとしての無駄のない美しさを求めることになる。

“無駄である動き”にとっても、一番無駄なくスマートに動く方法がある。

2012年7月11日水曜日

今日思ったこと

美術論は昔から好きだ。
好きなんだけど、果てしない。

西欧の舞踊論について調べていると、同時代の芸術の動向も勿論関わってくるので、芋蔓式に調べるべき事が増えていって手に負えない。


イヴォンヌ・ライナーというダンサーが私の論文としてはとても重要なのだけど、これが全くと言っていいほど日本語の、日本語訳の文章が無い。
多分扱っているのは木村覚さん位だろうという結論。
院に入学する直前に読んで結構衝撃を受けた本に結局立ち返ることになった。

イヴォンヌ・ライナーはジャドソンダンスシアターを作った人で、映像作家でもある。
ベルリンで手に入れた1960年代以降のビジュアルアートとダンスの関連性を説いた本は、ライナーの理論をもとに編集されている。
くそ重いこの本を必死で持ち帰ったのは、向こうで観た作品の秘密がこの本に有ると思ったから。
この本を下敷きに、身体を扱う思想哲学をペンにしてダンスを書くのです。


ダンスがもはやダンスだけの問題として語っても意味が無いこと、ダンスはもはや大衆芸能ではなく芸術の一つの形態であること、むしろダンスの、身体の問題が今までもこれから先の芸術にとってもとても意味のあるものにあること、
つまり身体からどんどん離れていくことができるであろう未来の人間の文化や生活に対して、最初に身体の問題に気づくのはいつも芸術家だろう。
「ダンスには可能性がある」と予言したあの人は、今その先端に居る。

意味が、情報が、世界を作る中で、人間がいつまでも身体を抜け出せないのならばね。



ならばね、ってなー

最近無謀な持論を展開し過ぎて「訳がわからん」とよく言われるよ。
うーん。。


今日、セブンイレブンで見つけた苺のソース掛け練乳かき氷が美味し過ぎてやばい。
ほんとに美味しい。びっくりした。
森永練乳かき氷をすでに今シーズン15個食べた(今年はカウントしてるの)私も、これには危機感を覚えた。

森永練乳かき氷は、食べるうちに練乳が好きすぎるということに気づき、ならば練乳をダイレクトに食べれば良いという所まで来てしまっていたのだけど、
セブンのは久しぶりに練乳かき氷の美味しさを思い出した!

しかし、森永練乳かき氷は西友で87円で買える。
セブンのは137円だった。
こりゃ迷うねー。

2012年7月7日土曜日

小さいときのこと

最近、昔習っていたバレエ教室のことをよく思い出す。
私は上京するまで、佐藤典子舞踊研究所付属バレエ教室、というところに通っていた。


3歳のある日、母親につれられて見学に行ったとき、稽古着も着ずにそのまま輪に加わって、それから今まで踊りを続けることになった。
踊るのがなんで楽しかったのかはもう覚えていない。
お稽古は週に一回で教室は歩いて数分の所にあったから、嫌にならずに続けていたんだと思う。

私の一番最初の記憶はおそらくバレエ教室だ。
お稽古が始まる前に教室の掃除をみんなでするのだけど、床拭きのぞうきんで鏡を思いっきり拭いていたら祖母に止められた、というものだ。
時系列で辿れる一番古い記憶。


私の先生は佐藤典子先生という方だ。
日本における現代舞踊の黎明期を作った石井漠先生の義妹である石井小浪先生のお弟子さんである。
漠さんと欧州ツアーなどしたのち独立された小浪先生は児童舞踊に力を注いでいらっしゃた方で、佐藤先生もその意志を受け継いで出生地である静岡県磐田市で児童舞踊の教室を開かれた。


佐藤先生の教え方は、友達が通っていたような他のバレエ教室とは少し違っていた。
バレエを習っている、といえば、学校が終わって毎日お稽古があるのが普通だが、私は基本週に一回のお稽古。
静岡県西部に20位お教室があって(多分今でも)、だいたいが週に一回の稽古だった。
かつ、コンクールに出場する機会は一切無かった。というか舞踊においてコンクールがあること自体、あまり知らなかった。
だけど、踊ることに優劣はないとなぜかその時の私も分かっていたので、特に何も思わなかった。
だけどそのかわり、地元のお祭りや、国体の開会式で踊ったこともあったし、中国の芸術学校と提携公演をするために中国に連れて行ってもらったりした。


基礎としてはクラシックバレエをやるのだけど、作品はひとつのテーマによって創作されたものだった。テーマは「金魚」「不思議の国のアリス」「祭」「ふきのとう」とかそんな感じ。もっと色々あったけど…
いわゆるモダンダンス。トゥシューズをはかないバレエ、裸足でやるバレエ、というとだいたいの人が納得してくれる。
私にとって踊ることは、始めから、何かテーマを表現するためにあった。もしくはテーマそのものになりきる、というところから踊り始めた。
児童舞踊は、情操教育の一環としてある。感性豊かな子供を育成するのが目的だ。
技術を高めるということより、みんなで「このときこれはどういう気持ちで踊ればいいのか」、みたいなことを先生や他の生徒さんともよく話し合っていた気がする。
だから、ふきのとうやったときは、「私はふきのとうだ」と思いながら踊るのです。ふきのとうの気持ちを考えるわけです。ふきのとうの衣装着てね。
ふきのとうは当時の自分でも衝撃的過ぎて、衣装も音楽も振付も割と覚えている。

身体が柔らかくなくても、下手くそでも、そんなに怒られることはなかった。基礎はそりゃもちろん必要だけど、表現の技術(や見せ方)の方に重きが置かれていた。


インターネットで調べていたら、いろいろ記録が出てくるものだ。
いまや教室もHPを持ち(最初見たとき驚いた)、過去の資料や公演の情報をネットに載せている。
佐藤先生の講演会の記録とか新聞の記録とかもいろいろ載っていて、読んでみた。
遡れば当然、小浪先生のこととか、漠先生のこととかもなんとなく知りたくなってくる。
家系図を紐解いてるような気分。



帰りたい、とか、戻りたい、ということより、今ならわかるかも、と思ったのだ。
私はあそこで何を習っていたのか、なんとなく知りたい気分になったのだ。今頃になって。
だって少なくとも15年間はそのお教室で踊らせてもらって、というか私すでに22年踊っていることになるんだけど、そのうちの15年を過ごした場所について何にも知らないということに驚いた。
影響を受けていないはずが無い。

つまるところ、どれだけ新しいものや刺激的なものにたくさん触れたところで、それを知るだけで自分のものにはならない。
自分にとって新しいもの、自分の中に生まれる新しさじゃなきゃ意味がないのだと思う。

なんでもそうだけどさ。
まぁ至極当たり前のことだ。

2012年7月4日水曜日

身体(所有について、知覚/感覚)

友達にここ読んでみて、と言われて読んでみた。

『差異と隔たり 他なるものへの倫理』(熊野純彦著、岩波書店)の
第一部 所有と非所有との〈あわい〉で→第二章 身体と所有—はたらく身体と痛む身体のあいだで—

「身体を所有すること」について書かれている。ちなみに前後は読んでない。むしろ読まなくていいと言われたし、読む必要はないだろう。
身体を所有することってできるの?所有するってどういうこと?私の身体ってどこからどこまでが私のもの?みたいな。

読んだ感想を端的に言うならば、この人ぶれ過ぎ。に感じる、私は。
脆い。まさに机上。の空論、とまでは言わないが。
(多分とても部屋がきれいな人だと思うけど、結婚はしてないと思う。と思って画像調べたら結構いかついぞ…ピュアボーイだと思ったのに…)
まぁ倫理学専門の人らしいから、そう感じるのかな。


熊野氏曰く、「人間は道具を所有している。日常的にもごく自然にそう語られることができる。おなじように、道具であるかぎりでの身体もまた、他者との互換的な〈所有〉の対象とかんじられることもありうることだろう。」(31頁)

ただ、彼自身もそう簡単に言い切れるとは思っていないらしく、

「〈身体〉が〈道具〉となるかたちには、部位により、また問題となるケースにおうじて、濃淡がさまざまになっているということである。…(中略)…いまひとつには、「道具」である身体もまた、道具であることによって私から端的に隔たり—私による所有を可能にするような距離—を獲得するのではないということである。」(35-36頁)
「〈私の身体〉と〈私〉の関係はここでも奇妙に近く、不思議な形かたちで遠くなっている。身体にはたぶん、道具として記述される次元でも『不透明さopacite』(マルセル)がともない、道具としての身体もまた、とらえがたく抽象的であることに発する『異質さetrangete』(ヴァレリー)を逃れていない。」(36−37頁)

どうして不透明や異質といったどちらかというとネガティブな言葉になってしまうのか。どんづまって残尿感ありまくり。理論が袋小路に入ってしまっている。
身体が道具であるならば、そう言い切ればいいのに。むしろ言い切った方が清々しいのに、所有しているはずの身体を手に余る難敵として扱っている印象だった。


今日、本を薦めてくれた友人に、
「踊っているときに、身体を“所有している”って感覚ってある?」
と訊かれたのがそもそもの始まりだ、とても興味深い質問だと思った。

答えは、「所有しているつもりはない」だ。
そもそも、所有は人間のすることであって、身体は何も所有していない。
身体は自然なのだ、空気や水や飛んでる虫や動物や木と同じ、自然の一部である、と最近思っている。
そして人間は身体の中にある。
だけど人間は身体について考える。身体は人間については何も言わない。

熊野氏も、所有は距離を取ることのできる対象に対して使う言葉であって、その言葉が身体に当てはまるだろうか?という疑問は持っていた。
その通りだよ、と思った、身体を所有しているという考え方自体が身体を超えて人間になった思考の考えることであって、身体に起こりうる現象をすべて理解し、所有することは人間には出来ない。
まぁ倫理というフィルターがかかっているから、と思っても、この人は倫理から抜け出したいのか、抜け出したくないのか。
私の立場から言えば、身体それ自体でやっていることにおいて、例えば踊りながら、なにかを所有するという考えは浮かばない。
ついでに、人間が踊るってのは行き詰まる。身体が踊るのだ、人間になる前に自然は踊っている。



ダンスは視覚芸術だ、と以前書いた。
それは、見る対象と自分との間に距離があるということだ。つまり私がダンスを外から見る、客としてダンスを見る場合は、ダンスは視覚芸術だ。
だって目を瞑ったら、ダンスは見られない。
しかし、踊ることにおいて、ダンスは視覚芸術とは言い切れない。
なぜなら、目を瞑っても踊ることは出来る。
これ今日発見したこと。

自分の身体において、自分の目で見ることの出来ない場所はとても多い。
特に背中や首、顔の動きなんかは自分の目では見ることが出来ない。
でも、自分の背中や首や顔まで、どういう風に動いているか、踊る人は把握している。つまり視覚によって自分の動きを把握しているわけではないのだ。
じゃあ動いているのをどう把握してるか、それは感覚としてとらえている。

例えば、グーとパーの手の動き。目の前でやってもグーとパーは作れる。
その手を背中にまわしても、手をグーとパーにしていることは分かる。
動くことは、距離を持った知覚がそれを生むのではなく、感覚と対応しているのだ。
感覚を言葉に置き換えるのは難しいけれど、むしろその感覚というものを言葉にする必要はないのだけれど、感覚って例えば…筋肉が動いていることを感じるとかね。たいした言葉にならない。
むしろかっこいい感じの言葉にするしかない。「魂が身体を動かすのよっ!」とか。


私がずっと習っていたバレエ教室や大学のダンス場には、必ず鏡があった。自分の動きを自分の目で見ながら動いていた。
しかししばらく鏡の無い場所でダンス作品の稽古する期間があった。そのときは演出家が私の動きがどういう風に見えているかを伝えてくれて、そしてどういう風に直すかの指示を与える。最初は非常に困った。何をどうしてそう言われて直すべきなのかわからない。
例えば、手をまっすぐのばしたからと言って手がまっすぐ伸びている画にならないものだ、少し力を抜いたり肩をおろしたりすることでより手がまっすぐ伸びている画を作ることが出来る。
そんな感じでその稽古の間は、感覚と印象(イメージ)の擦り合わせをしていたように思う。
これは非常に有益な経験だったと思う。さらには、演出家が動きや身体の構造ではなくとにかくそのときのイメージ(結果)についてのみ指摘するので、鍛えられた。
それをしていたら、鏡が必要なくなった。よく考えれば、鏡という一瞬しか自分を捉えられないものに縋る必要はもともと無かったことに気がついた。
背中で動いている手の動きも、背中の動きもなんとなくわかるようになる。べつに、感覚とイメージが完全に一致しているとは言い切れないけれど、自分の身体が見えないことが怖くなくなる。
(ただしこれを単に、客観的視点を持った、と言ってしまうのは性急だと思う。
また、踊るにあたって踊る本人が必ず明確な(クリアな)イメージを持たなければならないとは言い切れないのだけど。)


つまり、知覚で踊っているわけではないということだ。
知覚は対象との距離を持っている。
感覚は距離がない。むしろ身体において起こることだ。
踊ることは、運動は、感覚とともにある。



話はさかのぼるけれど、
そう考えると、身体を所有するとか道具とするということが、踊ることとどれだけかけ離れているか、と思い至った。

多分一年前の私なら、「身体は踊るための道具」と言っていたと思う。
それは多分、ちがう。
身体が踊るんだ。

2012年7月3日火曜日

今後の予定っぽいこと

論文をね、
二種類書こうと思っている。

修士制作をするに当たっては、副論を付けて出せば良いのだけど、
副論よりも、短くてもきちんと調べて研究することを書いた論文と、制作の為の副論と二つに分けて書こうと思っている。

というのは、ダンスを研究対象とするか、ダンスを踊る対象とするのか、その間には余りにも大きな隔たりがあるから。外側から書くか、内側から書くか。
ふたつ一緒に上手に書くのは無理と判断した。


短い研究論分には、舞踊史を踏まえつつ、新たなダンス芸術における儀式性の再認、みたいなことを書こうと思う。
輸出可能な形式(振付)としてのダンスもより、一回性を重んじて儀式要素の高くなったダンス作品の発露と展望みたいなー。
アクションペインティングとダンスの繋がりを説いた、最近イギリスで出版された文献がすごく興味深かったのだ。というか「そこが繋がるのかよ?」という半信半疑で読んでるのだけれど、研究内容としては面白い。
たくさん欧米の文献とか、それこそ哲学っぽいものもたくさん読まなきゃいけない気もする、できるだけ読んでまとめたい。


副論は、突っ込まれどころ満載な散文になる予定。
自分自身に振付をすることとか、ダンスや運動や身体についての私の解釈とか、作る作品のテーマや表現方法についても書こう。


その上、秋口に小さな?本番というか久々に外部で踊る話を二つ受けてしまった。
パンクしないか今からどきどきしてる。

二年弱外には出ず一人で閉じこもってたからまぁたまにはいいか、って感じ、というか声をかけて貰えるだけ本当は有難い。

オーディションとか受けろってねー、私の教育係様は顔を合わせる度よく仰るのだけど…頑固でごめんなさいだ。
いや、嘘だ、ごめんなさいとは思ってない。笑
最近稽古場で一人で考え事しながら動いてるのも、ようやく面白くなってきた。


…こんな、ダンスしかしてなくて大丈夫なのかあたしゃ?と今思ったけど、

まぁ思ってみるものの、当然の結果なので反省は全くしてない。いえい。

2012年6月29日金曜日

言葉や文字、会話

言葉は好きなのです。
喋るのも、書くのも割と。
下手くそだけど。

思い返すと、私の家族の間では、変な言葉がたくさんあった。
「ありるれろ」「どどぽん」「講釈様」「ぎゃおす」 「ほげ」「がちゃぽんぷ」
父親はよく自作の変な歌を唄っていた…昔は純粋に面白がっていたけど、今思うと疑問は多い。父は割と変な人だ。
そして人を言いくるめるのが上手い。
弟は良い感じに受け継いで(?)、割と人を言いくるめるのが上手い。
私は暴力的に言葉を扱う節があると反省している。つい感情で押し切ってしまうのは悪い癖。

まったく本は読まない子供だったけど漢字は好きだったし、たくさんのイメージや情報を含んでる文字に触れるのはわくわくした。
ほんの少し、コピーライターに憧れてたときもあったの正直。

漢字の書き取りとか大好きだったし、レタリング大好物(色紙はとりあえず私に寄越せ、と思っていた。なんというわがまま)。
裏紙に筆ペンで無駄に漢字をたくさん書くのとか好きだった。
これは父の真似。

言葉っていうか、文字が好き、なのか…




今日久しぶりに友人と色々話して、言葉って便利だと思ったり、分かったつもりになってしまうのは怖いなぁと思ったり。
言葉で言葉を考えるのはとても楽しくて難しい。
何故なら言葉は直ぐに私の手を離れて独り歩きしている。

そういう言葉の魔力に惑わされない様にしないと、と最近ちょっと踏みとどまってみる。
言葉に踊らされないように、言葉を使える人にならなきゃ、とやけに思う。

お洒落な言葉を捻り出したいんじゃなくて、その言葉が相応しいのか、実感を持って使えているのかをちゃんと考えなきゃ、と遅ればせながら最近やっと思い至った。


今日の反省。

2012年6月28日木曜日

ダンスをさがす

稽古場で、鏡の前にずっと立っている。

身体のどこから動き始めるか、を考えたとき、しばらくしてその疑問が無意味であることに気づく。
身体はずっと動いているし、動き始める前に止まっているということもない、むしろ、止まっている、という状態を維持しているのだし、突っ立っていたって、微妙に揺れている重心や息をしていること、何にも“止まっている”ものはない。

さて何をどう動かせばいいのか考えて、鏡に映る自分に話してみる。
どこからか声が聞こえる、そのとき喉が震えている。

ただ立っていて、腕を持ち上げようとする。
今腕は肩の関節から外れることなく、肩からぶら下がっている状態。
腕を持ち上げてみようか。
どうして腕を持ち上げるのか。
別に理由なんてないけれど。

顔が痒い、手はその痒い部分に触れようとして動く。
ずっと腕を下ろしていて血が下がってしまったから、手を上げる。
何かを掴もうとして腕を上げる…例えば蚊が飛んでいる。


身体はヒトが生きるために、ほんとうにいろいろな機能を背負っていて、
生活するために、コミュニケーションを取るために、身体は実によく働く。それらの動きを排除してダンスを考えることは出来ない。

ダンスは身体の動きであって、身体の動きは絶え間なくいつも続いていて、その中にダンスもある。
何がダンスで何がダンスじゃないのか、を分けるのは大変難しい。
だけど踊ることは、それら生活の"ため"の身体の動きから最も離れた所に在るんだろう、あってほしい。
簡単な言葉で言えば、最も意味や意義から離れていて、つまりそれを無意味と言ってもいいが、
それよりも間違いなく、そこに在るもの、それ以上でもそれ以下でもない。
身体はまさに身体として、その運動もまさに運動として純粋なもの、
つまり不可分なく自然として、身体とその身体の動きが、在るがままに。
その様子を言葉に置き換えたら「美しさ」?、というのは余りにも安易だけど、何か人を感動させるものになるんだろうかと思ったりする。

そういう風に身体を扱えたらいいなぁ、と思う。

例えどんな振付や決まりごとがあったとしても、それ以前に身体がどう在ってどう動くかを見て感じている。
私はそういう風にダンスを見ている気がするし、それだけで十分だと思う。
意味や機能の解釈に身体が囚われて抜け出せないのは身体の、人間としての甘えだと思う。


面倒なことを色々考えすぎる、
だけど考えれば考える程答えは単純。

人間としての価値に興味が薄れてゆく程、自分の身体としての価値をどれだけ見出せるか考えてみたりする。



なんか未熟で刺々しい言葉しか繋げないのだけど、稽古しながらぼんやりと考えていたことを書いてみた。

理想はどんどん高くなって、だけど何が正解なのかも分からないけど、
とりあえずまだまだだなぁ、と思うことは確か。



2012年6月23日土曜日

身体の音楽(リズム)

例えば、
歩くとき、右脚と左脚が交互に前へ出る。
右脚と左脚しかないんだから、二本の脚を交互に前進させる。
反復。それはリズムになるかしら。

歩くリズム、
躓けば、リズムが変わる。


運動は振り子と同じ様なもので、もしくはやじろべえみたいに、一つの中心(それが何処にあるかは人次第だけど)を軸に調整してるし、運動は放出のみをしているわけではない。
回収(調整)をしている、
踏み出した一歩の為に、後脚が地面を押して重心を移動させる。
じゃなきゃ前方に放り出した脚は、自分のところに戻ってくる。
放り投げたブーメランが戻ってくる様に、身体に繋がれた身体(中心を持つ身体/有限な身体)は投げ出した後必ず戻ってくる。

その中心が背中の真ん中に在ると云う人も、お臍の下辺りに在ると云う人も。
異なる2つの身体の何処に重心があるか探って、重心の重なる位置が見つかればリフトは楽(いや、当然下の持つ人大変だと思うけど!上は楽だ)


投げ出した腕が"放出"のイメージを見せるとしたら、投げ出しと戻しのリズムを変えている。
さらには、投げ出した腕とは反対側の脚がブレ無く踏みとどまる、
見せ方の技術。
ただ腕を放り出しても、放出のイメージにはならない。


運動は円環。
必ず戻る。
クラシックバレエが顕著。形でそれを実行する。
それがずれて行くコンテンポラリーダンスは、重心(中心)と運動の±で成立する。
そして重心は必ず点ではなく、線や面の場合もある気がする。
だけど運動は必ず戻る、だって身体は有限だから。
例え1と0を綺麗に繰り返さなくても、大きく捉えれば0に戻る。

戻る、そして繰り返す。
呼吸とか、も。


昔レベルの違うダンサーたちのユニゾンの振りを作る時に気がついたこと。
形を振りつけるんじゃ無くて、運動(リズム)を振りつければ良いんじゃないか?って。
昨日ユニゾン見てたら思い出した。


だけど一つの身体の中でもそういうことはあって、
運動はリズムを作る。

逆はまだ謎だ

2012年6月20日水曜日

そろそろ

固い床に寝ても、身体がまったく痛くならない方法を発見した!!



どうでもいいか。
だけど気の持ち様で変わるんだなぁと、ちょっとヨガ的な感じだ。
床と重力のことを考えるのだ。


最近踊ってないなぁ、ということも意味が分からなくなるくらい、
ダンスのことは考えてる。


自分のダンスに、素敵な言葉を飾り立てるのは意味が無いんだと思うけど、
(つまり意味を引っ張ってくんなってこと、自分で言葉を作り出せってこと。)
だけどやっぱり自分で考える自分のダンスは、今まで私が経験してきたもの抜きには作られない。
この身体で踊る、その身体の経験以外に言葉も何も出てこないってそろそろ諦めてみる。
自ずと、自分が今までどういう風に踊ってきたか、そこから何を捨てて何を得ようとするのか、考えなきゃならん。
新しいダンスは要らないけど、自分の中で新しいものがないとね。

かといって、
身体動かしてるときに考えることとか、考えすらしなくても作動する運動とか、いちいち説明してると間に合わないんだよな、だからみんな言葉に頼らなくたって踊ってるんだし、誰も説明なんてしようとしない。(評論家は効果ばかりを言葉に置き換える。)
だけど、身体から出てくる言葉に興味はある。

そしてどう考えが転んでも、やっぱりダンスは言葉を超えるってところに行き着く。

言葉より先に身体が在ったんだから。そういうことなんだろう。。


2012年6月1日金曜日

六月

長旅から帰ってきました。
意外と死にませんでした。普通に行って、普通に帰ってきました。

帰ってきて、いろんな人と話をして、少しずつこれから何が出来るのかが分かってきます。
行っていたときよりも大分思考がクリアになってきました。

一人で行っていたので当然、現地で自分の考えを人に猛烈に話すことはあまりしていなかった分、帰ってきて会う人に話をしていると、何を考えて何を話そうとするのか、その中で自分が何を考えて過ごしていたのかが分かってきた気がします。
思うよりたくさんのものを見て、たくさんのことを経験したんだと帰ってきて実感します。

でも3週間でこれだけのことがあれば忘れることも多くて、もはや自分の日記を読み返しながら「ああ、そんなこともあったな」なんて思い出す感じ。
日記書いといてよかった。


一言で感想を言えば、楽しかったー、とか、面白かったー、という話だけど、
そんな言葉では集約できないくらい、むしろ淡々と舞台を観て日々を過ごしました。
人とわいわい過ごして楽しい、とは訳が違うのだけど。喋ってないし。喋れないし。

最後に飛行機で話しかけてきたカナダ人の兄ちゃんにはもはや、「私リスニングできないから紙に書いて!」ってコミュニケーション取ってたし。
愛想と笑顔のコミュニケーションにも限界がある。



日本で考えているよりも遥かに、ベルリンもブリュッセルも芸術がとても成熟していて、
旅行に行った人のお決まりの展開だけど、自分がぐちぐち考えていたことがすごくどうでもよくなったことと、ぐちぐち言っている周りの状況すらどうでもよくなったことと、もっと単純にやりたいことをやればいいのだなーとすっきりしました。たぶん。
すくなくとも今まで私に足踏みさせた何かが、踏みとどまるに値しない程度のものだと、分かっちゃったー


卒業できなかった傷心旅行だ!とか言っていたけど、
むしろ私のこないだの作品は我ながらやっぱいい作品だったと、ただもう少し詰めるべきところが分からなかっただけ、知らなかっただけなのねと向こうでふと思っちゃったのよね。笑

だからまた作る。踊る。
やっぱり私にとって舞台は、いつ何時も大切なものだし大好きだし、まぁ生まれてこの方そんなことしか考えてこなかったんだし、もうそれしかやることないよね。しょうがない。
稼げないんだよねーとか、そういう、捻くれてる場合でもない。

腹据えて、もっと死ぬ気で勉強しようと思った。それでどうなるか知らないけど。

とりあえず英語とか。。


さて、どうしても読みたくて買ってきた英文の学術書を読むにする。

2012年5月27日日曜日

BRUSSEL 3

さて、
明日ブリュッセルを発ち、明後日東京に戻ります。

明日午前中の飛行機なので、なるべく寝ずに今晩は過ごすつもりですが、正直全く自信がありません。この際余裕に余裕重ねて無睡の朝一で空港行くつもりですが…
記憶が鮮明なうちに、日記でも書こうと思います。この一週間のこと書くので、多分長いです。


着いたときは天気最悪だったブリュッセルも、ここ2日くらいすっごく天気も良く、まだ5月なのにすぐ脱いじゃう外国人よろしく薄着でのりのりでした。

本当に、居られるならもっと居てダンスとか演劇とか観たいものはたくさんあるのです…
私の知らない所で面白いこといっぱいあると思うと、無性に悔しい。
この先の告知とか、パンフレットとか観ていると帰りたくなくなる。
かといって無限のインプットはそれはそれで怖くなるのですが… 有限だからこそ意地でも毎日チケット取りに行った感じだけどね。

観光で行くならば、観光地はいつだって私たちを待っていてくれるわけです。
観光地巡るだけなら全部で一週間で十分。
しかし舞台を観るとなると、一日に頑張っても2本しか観られないし、先に面白そうなのがやっていても私がそこで観られないんじゃしょうがないのです。
だから3週間くらい、長い時間が必要だったわけで、かつなるべく同じ都市に留まっていなければやりくりが分からないのです。

街にいる人がどういう生活をしているのか、雰囲気も少しは分かるし、だからこそどういう文化があるのかも多少は分かる気がします。
まぁでもやっぱり、言葉が分からないのは辛いな。

ブリュッセルはやっぱりちょっと怖い街です。別に怖い目にあったわけでもないけれど、バリバリ観光地と、少しでもそこを離れると地下鉄の駅には誰も居なかったり、不気味な路地が多かったり、ギャップが激しい。
人種も様々で、劇場が遠くて中心地から飛ばされるとちょっとしたスラムっぽい所も沢山ありました。多分場所によって住む人が分かれてる。
ついぞ最寄りの駅越えた飾り窓地帯には足を踏み入れず仕舞いでした。


ブリュッセルはそんな感じでしたが、
KUNSTENFESTIVALはかなりやばいです。いい意味で。

が、まぁ今日観たのは正直金返せってくらい酷かったな。笑
学芸会かオイってくらい。
しかも宣告してた時間より長いし、みんなぐったりだったわ。

しかも、このしょぼいダンサーなんなの?!引っ込めー、と思ってたら突如日本語しゃべりだしてさらにがっかり!

バレエカンパニーらしいんだが、誰一人としていいダンサーが居なかったという凄まじさ…
"振付をこなす"ダンサーは大嫌いなの、最近。観てても何も感じない!


酷いのはまぁ置いといて、
他観た4本はかなり興味深いものばかりでした。

Marcelo EvelinとBrice Lerouxのダンス作品は、もはやかつて私が観てきた振付のある"ダンス"というのを越えて、なんというか、"システムに振り付ける"という感じの。
例えば日本人で言えば勅使川原さんの作品を観たときにも感じる、なんて言えばいいんだろー、
振付の一つ一つを身体言語という扱いにするのではなく、動く理由というか、身体の運動そのものに命令に近い形で課せられる振付というもの、拘束する、そう、ルールに近い様なもの。そのルールが振付。
なんのこっちゃ、て感じだけど、動きとしては、Marcelo Evelinのは走ってるだけ、Brice Lerouxのは歩いてるだけなのです。
まぁ言葉にすれば簡単なんですが、どちらもそれを作品にするための方法(演出)がとんでもない。

Marcelo Evelinの作品は、男性7人と女性1人の出演者が全員全裸。
身体の一部(背中や太腿、腕など)にノコギリをガムテで巻いて、頭にはカーニバルちっくな派手な被り物、脚はスニーカーという格好。
それで一時間近く舞台の外周を延々と反時計回りにランニングし続ける。最終的には個々人の揺れてるモノとかどうでもよくなるんだよね。笑
BGMはシューベルトの弦楽五重奏。

苦しそう。でもなんか走ってる。たまにダッシュしたり、動物みたいな動きしたり、手を動かしたりする。
それらを飽きるというより、ぼーっと観てしまう。観ている方に何かを刷り込ませる。猛烈なメタファーであるのはわかるんだけど、何のメタファーなのかは分からないけど、なんか全裸で走ってる人がいるという光景。

最初にこれ観たものだから、空いた口が塞がらなかったわ。
途中で帰る客も居たね。


次に観たBrice Lerouxはさらにシステマチック。
Seth Horvitzという人が製作した全自動グランドピアノが舞台上手前にあって、演奏(当然無人ね)が始まるのですよ。ピアノの上には直径1m位の青白く光る玉が。
そうすると下手奥に、腕と胸から上出した、白い板で出来た正六角錐のドレスみたいなの着た人がゆっくり歩いてるんです。
これがねー憎いもので、床にちゃんと透明のプラスチック板敷き詰めてあって、綺麗に反射するのですよ。まさに水面をアメンボが音もなく移動する感じ。
六角錐の人は音に合わせて、んだか合わせてないんだか分からない感じでゆっくり歩いてて、しばらくすると六角錐の人もう一人出てくるの。
二人でゆらゆらと水面を漂ってると、また一人六角錐の人が出てくる。しばらくしてもう一人、また一人と六角錐の人は増えて、最終的に五人の六角錐の人が付かず離れずお互いに距離感を保ちながら舞台上を滑っている。どうやら小さいタイミングの決まりと歩くルールがあるらしい。

その間にピアノはゆーっくりと、気づかないうちに上手前から下手奥に移動している。終始光る玉のみの照明なので暗い。
最後にはなんか、実際の六角錐と反射した六角錐が合わさって細長い独楽みたいなのが六つ、不思議な空間の中でくるくる回ってる様に観えて大変不思議な感じでしたわ。


長くなってきたけど、あと二つ書くぜ。二時半だ。


三つ目に観たのはKonel Mundruczoの演劇。もとはこの人映像作家らしい。
これは!すごかった。
ノーベル賞作家のJ.M.Coetzeeの"Disgrace"という小説の舞台化。
セットは完璧に家を模した感じ、小道具充実し過ぎ。舞台前方には土の庭が。

あったこと全部説明したい位だけど長いから、特にすごかった所、

冒頭が20分くらい、まじでレイプシーンなんだよね。集団レイプ。突然家に押し居る男たちから始まり、女優の演技というか行われていることがあまりにもリアルで、絶叫から、殴る蹴る暴行も、死んだ犬を入れてた檻に女入れて後ろからヤって、犬の血を浴びせるとか、目を開けてるのが辛い感じ。でいきなり帰る客とか。
いつまでつづくのもうやめてあげて…というとこで急に男たちはサイレンで居なくなるんだけど、部屋に取り残された女のぐったり感、虚脱感凄まじく…
と、いきなり明るい音楽が流れて、レイプしてた男たちもその女も他の出演者もみんな歌い出すのー泣
しかもおもちゃの鉄琴とかトライアングルとかシンセ使って明るく演奏してるし。
やられた…と思った、何をやられたんだかわからんが、とにかくなんかすごいモノを観てしまった感じ。ぽかーんとする。

まぁその後は言葉が分からんかったり(多分ハンガリー語の上演に、フランス語とオランダ語の字幕)したけれど、
超名演技するやる気ない犬が出てきたり、セックスシーンがあったり、舞台のセット全部運び出したと思ったら下が全面土で、そこにバラを植えてったり、土からスモーク出てきたり、犬切り刻んだり、老夫婦のベットシーンがあったり、人間がみんな犬になって吠えまくってたり、いろいろカオスでした。
俳優はみんな演出家の映像に出てる?らしく、たいてい割とマイク使ってたけど、その分セットの緻密さと演技の緻密さが不可分なく適応してました。
舞台の嘘に映画の本当をぶち込んだ感じ。

しかもこの演出家、まだ30代だった気がする、次の作品も観てみたい!、が日本にくる可能性は限りなく低そう…
映像作品探してみようかな。



さて、あと、四つ目に観たのは、
Young Jean Leeという人のパフォーマンス作品。

これは、パンフレットにすでに太った女の人たちの全裸写真(モザイク有)が載ってたので、心して全裸であることに立ち向かえた。

まーやばいね、肉。
超巨乳、というか多分100kgオーバーなんじゃね?て人のバスケットボールのような乳とか。太ってるのに貧乳のボーイッシュなおばさんとか。
みんなぶるっぶるしてる。

タイトルが"UNTITLED FEMINIST SHOW"という、まぁそういう内容ですねって感じ。だけどかなり笑える。しゃべりこそしないんだけど、表情豊かだし、下ネタばりばりで下らないし、黒人が下手くそな歌唄ってるし(ずるい)、なんか開け放っちゃってる感じが非常に清々しい。
楽しそうだし。

ここで始めて、おお、これダンスじゃない、という振付らしきモノを見たけど、全裸だし、完全にギャグになってたのはすごいね。

カーテンコールにはみんなちゃんと服着て出て来たんだけど、それが案外街で見かける普通の女性のスタイルなのですよ、
んじゃここの人たちどんだけ太ってるんだ?と言いたくなるわ。

帰って自分の身体鏡で見たら貧相なこと!笑
さらにこっちで痩せた気がするし…(食べるもの見つけられなくて)


まぁ、そういうかんじ。
なんか全然書き切れてないけど。

そしてあれだよね、面白いのは、結構エログロ系のはお客さんが、舞台の全面横切ってでも途中で帰るんだよね。笑
ブリュッセルのこの企画がいろんな国や地域から色んな作品呼び集めてるのに、当のブリュッセルの人たちが嫌悪感を示すというなんとも攻めの姿勢のフェスティバルでしたわ。笑える。
当然、楽しんでる人の方が多いだろうけどね。


久しぶりに、自分がどっぷり舞台観てはまっている感覚が楽しかった。

言葉で書いたのはほんの一部だけだけど、むしろそれらの感覚を的確に表す言葉が私にはないんだけど、
一つずつの作品が予想不可能で真新しい経験で、
そうだよ、この感覚が面白いんだ、とあらためて思った。


また観に来たいと思うフェスだったなー。




さて三時過ぎたか。

2012年5月24日木曜日

BRUSSEL 2

今日は観劇お休みです。
チケット取れなかったので。



朝、ホテルから歩いてたら大きな教会がお昼の鐘を鳴らしていたので、つられて入ってみた。

キリストの磔刑の木彫が気になった。
手二箇所と重ねた脚一箇所で人って磔になるのか?とか改めて考えた。

それにしても、キリスト教ってやっぱりすごい。こっちの教会は本当に身がすくむほど綺麗で大きい。

しばらく木彫を見ていたら、1€のろうそく点けて熱心に祈っているおじいさんもいれば、フラッシュ焚いて写真撮る観光客も。
世界でどれだけの人がキリストを信じているのか、想像してみる。
宗教って不思議だ。



さっき、観劇しない代わりにムール貝を食べてみた。
多分、この旅行中最も高価な食事でした。舞台より高い。

貝は美味しかった。
…ムール貝っていつも殻の大きさの割に身が小さいから、本場で食べたらあの殻の中一杯に身が詰まっているものなのかしら?という予想を裏切って、やっぱり身は小さかった。
有無を言わさずついてきたフライドポテトは完食出来ず。
ビールと食後の珈琲入れて22€。

クンステンの演目は学生でだいたい12€です。
マグリットの美術館は2€。


そう、昼にマグリットの美術館に行ったんです。しかしなんか、あんまり良いと思えませんでした。

日本でTASCHENのマグリット本買うほど好きだったのに、結局、絵に描かれている内容が好きだったんだと分かりました。
実物見てもあんまり何も感じなかった。

というか、
展示の仕方が非常に気に食わなかった。
照明が明る過ぎと角度悪過ぎて、絵の入った額のガラスや油絵の具に反射するのでいちいちイライラした。正面から見られない。
背の高い人が設置したのかしら。

以前は、マグリットの、人の身体や部分を描いた絵が好きだった。
だけど実物を観て、他の作品も観て、一番印象的だったのは建物が山の様に積み上がっている絵。
ぼーっと観ていたら、建物の外壁の色と空の色に吸い込まれそうな感じがした。

軽いんだよね。
いい意味でも悪い意味でもどちらにしろ、重力感がないというか。
現実味がない、とも思った、でもマグリットの絵を見ていて始めてそんなこと思った。始めから現実味なんて無いのに。
神経質な嘘は完璧であるほどファンタジー、迷いのなさ=パワーなのかな。
画面から発する力ってより、画面の向こう側へ引きずりこむ力が強い。



ベルリンで観た、Anselm Kieferの絵がこの旅の中で見つけた最も好きな絵。

黒を基調とした、とても大きな絵。多分6×5mくらいの絵。
平面に色々貼り付けてあるし一応ミクストメディアだと思う。

はじめに近くで見たときには、ただ荒々しい油絵の具と砂の混じった筆跡に木炭のような木や箱みたいなものが貼ってあって、悪い言葉で言えば意味不明で汚なくも見えたその絵が、
数メートル離れて見ると海辺の絵だと気づいた。

恐らく日没の頃で、夕陽が波打ち際に反射して、遠くの方には船が見える。
実際デコボコしている黒い部分より、微かなオレンジの部分が光って見えてくる。
波の音や、夕凪の音も聞こえて来そうなくらいだったし、夕陽が沈むその一瞬が作者にとってどれだけ強烈な印象を与えたのかが伝わってくる気がした。

一応写真を撮ったけど(こっちはOK)、
時間が経つに連れ、きっとこの写真見過ぎて印象が歪曲することは間違いない。残念ながら。
あの日実際観たことや感じたことをどれくらい零さずに居られるのか。
写真撮らなきゃいいのか、とも思ったけど…



あと3本舞台観たら帰る。

2012年5月22日火曜日

BERLIN 5- BRUSSEL 1

プレッツェルうまい。
昨日の遠足のお菓子用に買ったの。
プレッツェルの美味さにベルリン終盤で気がついた。


ブリュッセルに着いた。昨日。

ベルリンからICEに乗った。
ざっつ世界の車窓からの雰囲気の中、見送り来てくれたまいこさんが持たせてくれたひじきご飯のおにぎりを食べる。最高に美味しかった!
(私いつも人からおにぎり恵んでもらう気がする…笑)

そしてケルンで乗換のはずが、到着は40分遅れ。
良い感じに乗継電車は出た後で(乗継30分あったのに!)、振替希望したらタリスに乗れた。
座席も車内照明も紅いという高級感、に少しだけ浸って、ほぼ席なくて立ちっぱなしだった。。
ワインレッドのトイレのドアずっと見てた。

乗換のときちょっとだけ時間あったので、ケルンの駅の外に出たら、目の前にケルン大聖堂が!
びっくり。でっかいの。でかいと言うか、高いの。
そんなに縦に伸ばしちゃう?ってくらい。



なんだかんだでブリュッセルの北駅で降りて、雨の降る中ホテルを探して歩き回る。
陰湿な感じで、印象最悪。人いないし、怖いし。
北駅の方は飾窓とかあって治安も悪いらしい。


というわけで、今日。

まずは夜のKUNSTENのチケットを取りに行き、とりあえず最も観光名所っぽい中心地、グラン・プラスへ行ってみた。
というか、中央駅のその辺りは激しく観光名所らしく、月曜日なのに観光客多過ぎ。
とりあえず弟がワッフル食えと言っていたのを思い出し、3€という不本意な観光価格でワッフル食べた。
美味しかった。

小便小僧もついでに見てきたので(くそちっさい)だいたい観光は終わりか…?

ベルリンの2週間は短く感じたのに、こっからブリュッセル1週間は保つかしら。
あと、マグリットの美術館には行くんだ。



そして夜はKUNSTEN FESTIVALの作品を、今観てきた。

Marcelo Evelinという人の振付で、"MATADOURO"という作品。

が、ね!!!

いやぁ、まじでなんなんだろー、だ。笑
出演者は男7人、女1人。
全員全裸。身体の一箇所にノコギリをガムテで巻いて、頭は賑やかなマスクして、スニーカー履いて、舞台の円周を反時計回りに延々ランニングし続けるという、だけの、ダンス。
とりあえず相当きつそう。
30分経った辺りから帰る人続出。
結局一時間だったけど、こっちも疲れた。

最後にマスクを取るんだけど、最初に取った人がまさかの髭が白くて、笑ってしまった。

それにしても、アヴァンギャルドすぎる…
ぶっとんでる。


話は戻るけど、
ベルリンで最後の方に観た、Rodrigo Sobarzoの"UNITED STATE"という作品もかなりアヴァンギャルドだった、アヴァンギャルドっていうか、人が期待するような"ダンス"じゃなかったんだよね。
終演してから客が席を立たずに、その場でみんな議論してた。
何話してるかは分からんが、まぁ「これはダンスなの?なんなの?」的なことだ、と思う。
内容の説明は長くなって面倒だからいいや。でも音響が最高にナイスだったわ、完璧なオペと神がかったタイミング。
簡単に言えば、パフォーマンスに近い印象。

どっちも、振付っていうかもはや、動作。
でも両者共に結構肩書きや経歴はかなりちゃんとしてる。

結局これまでで最もダンスダンスしてたのは、フォーサイス(と他2人、名前忘れた)の振り付け作品だったなぁ、
あとはDORKY PARKのブレイキンとコンタクト部門の人たち。
まいこさんに話したら、そりゃベルリンのダンス観てないよ!って言われた笑

しょうがない舞台は、何を観れるかもタイミングと運次第。


ベルリンで2週間舞台ばっか観て、ドイツ人の観るものの傾向とかどういう作品がうけるのかは少し分かった気がする。
つまり、派手、そしてリアリズム。
(関係ないけど、ウインドウディスプレイの人がリアル過ぎて、何度振り返ったことか。)

だけどブリュッセルはほんと未知数だ。
まずここに居る人たちの人種が様々過ぎる。街角にはフランス語とオランダ語の標識が必ず並んでいて、でもドイツより英語が通じる。

それでもまぁ、結局舞台を観に来てるのは基本白い人たちばかり、なのだけどね。黄色も割と少ない。
黄色は街にももともと少ないか、とりあえず今日中国人の観光客いっぱい見たけど。


さて明日は…チケット取れるかな。。

2012年5月17日木曜日

BERLIN 4

今、6畳くらいの個室でマニキュア塗った、シンナー中毒なりそ。

ドイツの100円マニキュア、どうか?

総じてこの手のマニキュアはマットと云う名の、二度塗りの間に瓶の中でもたついてくるくせに渇きが遅い最悪なパターン…

超ブルーのマニキュア塗ってみたのだ。



昨日は、やっとフィルハーモニーでちゃんとオケを聞くことが出来ました。

ベルリンフィルじゃないけど。STAATSKAPELLE BERLINって和訳したら何になる?多分公立、的な意味だと思うけど。

ベートーヴェンの交響曲3番"英雄"と、LudwigBirtwistleさんの"Antiphonies fur Klavier und Orchester"って曲、これがごりごりの現代音楽でして、しかもまさかのソリスト(Klavier)はエマールでした。なんか見覚えあるおっさんだなーと思ったら。

最近エマールに当たりすぎ、なんか追っかけみたいになってる。日本でも映画でもベルリンでもエマールを見た。

オケの裏の席(ポディウムって云う、と教わった気がする。)だったけど、15€!学割使えなかったけど、それでもアンビリーバブルに安い。


そりゃまー、良かった!

しかも指揮者のおっさんがめちゃくちゃ面白かった、あまりに入り込み過ぎちゃって、指揮棒置いちゃってるし。

現代音楽の時はかなり混乱している打楽器系の方々の焦り様を観て、客笑ってたし。実際和太鼓とかも使っててとんでもなかった。



オケの出す音の一体感というか、 音を出す人が何人居ても1つの音楽に聴こえるんだよね、やっぱり"音楽"が生き物みたいに聴こえるんだよなー

少なくとも、現代音楽のときに音に迷いが生じる日本のオケみたいなことは全くなかったね笑、ちゃんとこういうのを演奏してるんです、って自信がある音。それだけで、音は何倍もクリアで豊かになる。
英雄は、それはもう綺麗でした。裏であれだけよく響いてるんだから、正面から聴いたらどうなるんだろうか…。



今日はさっき、今更初treffenの作品で"Ein Volksfeid"という作品を観てきました。

演劇なので案の定、客がなんでそこで笑ってんのかはちょっと分かりかねるんだけど、

なんか美術がおかしなことになってたわ。

水が噴水のように溢れてきて舞台が水溜りになって、壁にペンキ塗ってるし、煙草吸ってるし(もう火使うの3つ観たわ)、銃発砲するわ、ドラムセット運んでくるわ、でっかい足のオブジェが吊られてくるわ、、

やることがいちいち大げさでマジなんだよね。

びっくりする。演劇とか芝居どころではない笑 (まぁ正直日本人に比べて通常外国人の話し方がすでに芝居がかっているのだよね、私からすると。 )
これがここの普通なんだろうな。


これをなんて言ったらいいか…

この数日でベルリンで触れるもの全てに思うのは、すべて、

大きい、多い、広い!

とにかく、建物が大きい、食べ物の量が多い、歩道が広い、本が重い、まず人間がでかい。その他もろもろ。


ここ数日指輪を探してるのです、なんかかわいいのないかな、って思ってアクセサリーの店とか見るんだけど、

ここにあるアクセサリー、特に指輪、いちいち飾りが大きくて輪のところも太い。まぁまずサイズが全く合わないんだけどね。

もっと素麺みたいな細さので結構なのですが、とにかくうどんみたいなのばっかなんだよね。



明日はバレエ観ます。
フォーサイスの振付作品なんだって(多分、私の読解が合ってれば) 。

それにしても寒い。
日本は暖かいの?だとしたらなんか悔しいわ。

2012年5月14日月曜日

BERLIN 3

寒いです。
ヒートテック持ってきて良かった、
こんなん絶対使わねーよ、と思ってたのに。
しかも寒すぎて、今日行った蚤の市で思わずストール買ってしまった。
寒いと悲しくなるよ、それにしてもこの寒さで半袖の人とか居るんだけど。意地だね。

ドイツ人暖かくなると嬉しくなっちゃっうんだって、まいこさん曰く。



昨日は昼に子供向けの演劇と、夜にダンスを観ました。

昼はTHEATER UM DER PARKAUEという劇場で、"perter and the wolf"という作品。
なにも知らずに行ったらびっくりした、子供連ればっかりなのだもの。多分小学校上がるか上がらないかくらいの子供ばっかり。
しまった、と思ったけど、観たらかなりシュール過ぎてむしろ子供向けとは思えず。おそらく内容は童話なんだと思うけど。
おっさんとじいさんがかなりシュールな映像と生演奏ワールドミュージックで前説(前座)30分。
その後ブルーライト使った美術とか映像の使い方とか、かっこよすぎ。黒舞台に白い映像で動く美術。
泣き笑う子供。そして子供よりウケてる大人、スタッフ超ウケてるし。何回も観てんだろうに。

こんなん子供の時から観てるのかー、と。劇団ひま○りとは何かが違う笑。子供だからって全く容赦ないシュール。


夜はSOPHIENSAELEでSUDERMANN+SODERBERGの"A TALK"という作品。
ダンスというか、二人の女性が喋ってるような、クラップと細かい仕草とつらつらと声を発している、リズミカルな作品。
すごくシンプル。
だけど物凄く練られていて(というか、すげー練習したんだろうな、という感じ笑、だけどベルリンでいくつか観たもの、なんでもそう思う)、コンセプトが単純で明確。
何がダンス、って訳じゃなくて、彼女たちの持っている方法の名前がたまたま"ダンス"だったんだろうな、なーんて考えたけど、ぼーっと、観ていて楽しかった。



今日の昼の蚤の市では、マイムというかコントのような、パフォーマンスをしている女性がいた。
言葉は無しで、全部表情と仕草で、つまりまぁマイムだよな、通りかかりの人とか無理矢理座れっつって総勢200人くらい居たんじゃない?、たまたま観たんだけど、言葉ないからすごく楽しめた。笑
最後の説明で「英語で言うわ、"give me money!!!"」って思いっきり投げ銭要求してた。面白かった。


そしてSarah Kaneの"Gier"を今、観てきた。
なんかかっこいいんだけど、あれだね、
言葉が分からんと辛い。完全なるシンプルな会話劇だった。
地点を観たジャンフィが、「言葉が分からないから面白さがわからなかった」と言ってたのを思い出す。

なんとなく、
悔しいよな、言葉が分からないのは。
それは毎日すごく感じている。



20日までベルリンに居ることにした。
今日ホテルチェンジ。ヤドカリ探検隊。
街の人は基本的に、バックパッカーには優しいのね、と気付いたよ。
バックパック持ってると話しかけられる。荷物少ないと何も言われない。

ドルトムントの黄色いユニフォーム来た人が昨日から街に沢山いて(昨日試合だったんだって)、「香川はどう?」って聞いたら日本のニュースで聞いてた「かーがーわーしんじ♪」唱ってくれた、電車の中で。
サッカーファンまじ怖い。笑 街中、電車の中、駅、すでに応援モードで叫んでるし、朝のニュースでは何度も通った駅でフーリガンvs警察の戦いが。。暴動だよ、遭遇したくないわ。

2012年5月12日土曜日

雨宿り中 -BERLIN2

今、schaubuhne前のカフェ。

コーヒー1杯でwi-fi貰って粘ってたら、突然の豪雨。
傘もってないから出るに出られない…
まぁ止むまで居ていいよね

午前中、小さめのスタジオ?でパフォーマンスあるっぽかったから行ったら、「今日のプログラムはないよ」だって。
だってパンフレットに今日の公演あるって書いてたじゃん!!しかも2つ書いてあったのに。
まじかよ。

でもなんかここの人たち基本てきとーだから、なんでもいいや。気張ってると逆に疲れるわ。


昨日の夜、今こっちに居るまいこさんとえいじさんに会ったけど、まいこさんとか、なんか超適当になってた。笑
いっぱい話して楽しかった。

でも、そりゃ適当になるよねー
気がついたら、腕時計見てない。もう外してしまった。
電車の中の時計と街頭の時計、時間違うし。


お、止んできた。
さて20時まで少し時間あるから、散策してこよう。

2012年5月10日木曜日

BERLIN 1

さて、私はベルリンに来ました。
27日まで三週間、ベルリンとブリュッセルに居ることにしました。
いつ移動するかも、来週の宿も決めてない感じの旅です。
両地とも演劇祭をやっていてそれを観に行くのが主な目的ですが、まぁ他にも色々観てみようと思っています。


飛行機では、隣に座った福岡のおばさんと仲良くなりました。
スウェーデンのオケにいる娘さんのところへ、孫に会いに行くとのことでした。
福岡の話で盛り上がりました、明太子について話をしました。

あと、しばらく前にネットで見て超楽しみにしてたアルモドバル監督の新作『THE SKIN I LIVE IN』(日本5/26公開)が機内で観れてかなり喜びました。英語字幕だったからきつかったけど、かなり面白い!
機内のプライベートスクリーンとは言え、相当えろぐろな映画真剣に観てしまった、よく機内で流すのに選んだよな。アルモドバルだからかな。
帰りもあったらまた観よう。



さて、時差は7時間。7時間なんて昼型生活と夜型生活行き来してる私には楽勝、と思ってたけど、やっぱり少し疲れ気味で眠い。


昨日は朝食食べた後に早速その辺をふらふらし、とりあえずハンブルグ現代美術館に行ってきました。
かなり面白い展示あったのですが、なにせ広過ぎて、冗談抜きに一日では回れないので、もう一度行こうと思っています。


ベルリンの電車はエリアが決まっていて一日乗り放題券があります。
しかし改札も駅員が確認もしなくて、果たして本当にみんなチケット買っているのか謎。
とりあえず階段降りたら電車乗れてすぐ電車きて、便利です。電車で移動するの好きな私にとっては非常に好都合です。

しかしホテルから最寄りの駅が工事中で使えないらしく(という車内放送がわかってなくて)、手前の駅と始発をなすがまま往復してたら韓国人のおばさんに助けてもらいました。

なんとなく、ドイツの人は「○○したい」と思ったら、じゃあそうすればいいじゃない、という感じなのかしら?と思いました、
電車にチャリも犬も乗せるし、アコーディオン演奏したりいきなり新聞見て喋ったりしてお金貰ってる人いるし(こういう日銭の稼ぎ方なのか?)、電車楽しい。
街も自然が多くてのんびりしてて、とても穏やかです。


夜になるにつれ、意気込んで朝から歩きまくってかつ無駄に色々食べ過ぎ飲み過ぎで、消化不良の吐き気と眠気が止まらなくなりました。
その状態で無理矢理フィルハーモニー行ったのだけど、途中でリタイアしました。

大抵日々一日二食くらいなのに、こっちに来たからって胃が大きくなるわけでもないのです、二日とも朝なぜかきちんと7時に目が覚めて、朝ご飯食べに行こう!っていう変な気合が入ってるので一日が長いのです。貧乏性ってやーね笑
かつ不慣れな言葉で人とたくさん喋って気を張ってたのかもしれないと思いつつ、今日はのんびりめに行動する予定です。

昨日、ベンチに座ってたらおじさんに道を聞かれました。いや、知ってるはずないでしょう!笑 でも結構私馴染んでるようです。
福島や地震のこと聞かれたり(うまく答えられない)、日本に友達が居るんだけど知ってる?って(まさか本当に聞く人居るんだ)質問されたり、うまく喋れない英語をなんとか使っています。


夜には、今こっちに居るまいこさんに会うつもりです。

さて今日はどこへ行こうかしら。

2012年5月5日土曜日

きのう、あさって

これは本物だなぁ となんとなく思う、
音や動き、とか、音楽やダンス

じゃあそれ以外は何でも、嘘なのか?というと決してそういうつもりで観たり聴いたりしてた訳では無いのだけれど、
純粋で、嘘がなく、これが何かしら"本当"や"現実"と観客に思わせてくれる強さを持つものに出会うと、その音楽やダンスは紛れもなく本物だ、と思える気がするのです。
一つの音、一つの身体、装飾を限りなく削いだとしても何千人、何万人もの観客に対峙することのできる強さ。
それは決して狂っているのでは無くて、素直すぎるのです、
音楽とダンスはそういう点で似ているところがあると思う。というか何にでも言えることなのかな
私も、そうなりたいなぁ。
そこに居たいな。

鳴っている音と鳴っていない音があるのが音楽だし、
動いている部分と動いていない部分があるのが見せる動き、ダンス。
一つの言葉で括るにはあまりにもたくさんのものを溢してしまうけれど、
それは例えばざっくりと、一つの考え方としてね、
それはきちんと基礎があり、訓練や鍛錬がなされていてこそ、観る・聴く観客に対峙することができる。

そうではない尺度で感じるべきものも世の中にはきっと沢山あるけれど。



ここに居ても、やっぱり"こうなりたい"と目標とするに十分なものは触れられるのだけど、もっと何か必要なものも、捨ててくるべき不必要なものもたくさんあるような気がして、私は出掛けようと思ったのです。
きっと、今なのです

2012年4月27日金曜日

conceptual arts→"concept"

コンセプチュアルアートについて
(コンセプトという概念を諦めずに居られるのか)



うろ覚えだが、大学入試の二次試験に、デュシャンの階段を降りる裸婦や大ガラスの解釈を記述しろ、というような問題があった気がする。記憶は定かではないが、デュシャンの作品は何かあったはず。
何が正解なのかも全く分からず、ただこれで不合格になる奴が居るのか?と思いながら、とりあえず何か書いた気がする。採点結果は知らない。

入学して、こいつがあのややこしい問題作ったのか!とすぐに分かったのだけど、結局その教授のゼミに入った。

大学の授業(特に一年の時とか)はとても刺激的だった、ただ作品を見るだけじゃなくて、作者が何を考えてどうしてこのような作品を作るのかに思いを巡らせること。批評家は常に、どうしてその作品が作られるに至ったのか、その経緯を検証する。作品に関する文献や、その時代の思想や政治について思いを巡らせるのはとても楽しい。
それから、作品を見て私は何を考えるか、解釈を持つことの自由さと同時に確固たる意思表示を持つことは教わった気がする。それは学部の雰囲気による話だけど。



コンセプチュアルアート、というある一つの芸術の時代があった。
特に語られるのはデュシャンだ。レディメイドの作品群はそれまでの芸術に対し、「芸術とは何か?」を観客に考えさせるものだ。
それは、それまでの芸術に対する批評性をより忠実な形、作品というより観客に対する問いかけとしての形で表したものであり、ある一つの美術の潮流に"コンセプチュアルですねー"という名前が乗っているに過ぎないと思ったりする。コンセプトとは逸何時の芸術にも必ずあるものであり、しかしコンセプチュアルアートの時代には「それまでの芸術に対する批評性」という一つの、それまでの芸術とは異なるコンセプトがあったに過ぎない。でしょ?



先日ひっさしぶりに聴講した座学の授業、まさに『コンセプチュアル・アート』という本を参考に、"コンセプトとは何か?"という内容で講義が行われている。
学部時代とても親しんでいた内容だったし、教授が演劇や舞台作品を引き合いに出して話してくれたのでとても興味深かった。一回しか出てないくせに残念ながらしばらく出られないのだけど…


アントナン・アルトーが大好きな先生は、アルトーの演劇を引き合いにしながら、コンセプトというものに対抗する(コンセプトに代わるものとしての)身体/物質/力というものの存在を説いていた。

だけど、舞台芸術という一つのジャンルにおいて、そのコンセプト⇔身体/物質/力という構図、両者は対抗するだけじゃなくて、どちらかがどちらかを内包するという状態や、イコールの状態もあるだろう。(私はしばしばこの対立に引き裂かれそうになる。)
ある一つの時代において、アルトーがこの対立の中で一つの主義を持とうとしたこと。
それは決して特異なことではなく、誰しもがこの対立のなかで何を求めるか、その状態(方法)を選びとるものなんじゃないか、と聴きながら思う。


演劇やダンスの独特の形式が、私をそういう考えに導く。

ある時代の人たちと舞台について話していると感じる、決定的に違う感覚だと思うこと、
私たちの時代には、すでにはじめからコンセプチュアルと身体/物質/力というのはごちゃまぜになっていて、かつその矢印は多様になっており、矢印を提起する、というより選択する、というほうが感覚として相応しい。
先に全てが用意されている、というのは言い訳ちっくだけど、さらに何を産み出すのか?という問い、むしろ何も産み出して居ないのではないか、という感覚はある。

この時代の感覚のズレは、結局演劇やダンスがその時その場所で起こることであり、体験した人しか語ることができないという性質により年代の違いという残酷な決別を越えられない。
つまりアルトーの煌きや斬新さを感じ取るとこがどうしてもできない。
かといって、こりゃ新しいぜ!ってものも、ない。決して新しさが全てではないが。

アルトーが選び取った方法、同じようにして大きな(小さな)何かを選択する必要があるのかな?と思いながら、選ぶというより流れて行った結果がどこかにあるのだろうか、と考えたりする。
もし何かを選択していくとしても、それは求められるものに沿うものなのか、そうではないのか。

少し視野を大きくしてみれば、今の生産は、消費に基づいている。消費があるから生産があるし、むしろ消費の方が大きな力を持つ。需要があって、供給があるような。言い過ぎだろうか。
といいつつ、芸術は結局誰かから求められてするものではないよな、と思ったりもする。ほんとか知らないけど。

もう一つ疑問なのは、モチーフとコンセプトの違い。ただの言葉の違いだろうか、それでも、少し言葉の意味が違う気もする。
先端としてのアヴァンギャルドは、少なくとも自省(自己批評性)において生まれるものではなかったか。


"コンセプチュアル"は現代においても成立するのだろうか、
掲げることは出来るだろう、だけどそれが有効に作用するとは思えないし、今時"コンセプチュアル"なことをしている人は居ないだろうと思いつつ、"コンセプチュアル"な作品をよく見かけるような気もしたり。
昨今、アヴァンギャルドってあるのかな。結局アヴァンギャルドって分からないものなのかな。


"コンセプト"とは何か、
"コンセプチュアル"とは何か、
"アヴァンギャルド"って何か。

…とか難しいこという前に、結局、作品を作れば必ず、コンセプトを問われるのですよ、何時だって。"戦争反対"というコンセプトも、"それまでの芸術に対する疑問"もコンセプトになる。当たり前だ。


などなど。
無理やりまとめてみたけど。



書けば書くほど語彙の少なさに勉強不足が滲んできて情けない。。さらに少しずつ数日かけて書いてたので支離滅裂。

日々

お報せです。

森永練乳かき氷(夏期限定)が今年も発売され始めたようです。わーい

ここ数年、夏はこればっかり食べてます。
今年は思い切って数を数えてみようかと思います。
冷蔵庫に紙を貼り付けて正の字で数えようと思います。

しかし、こんなに早く発売されたっけ?
夏来るの早くないか?というわけで、
地球は温暖化してるのだね。


買ってきた三つ葉を飼育中です、まだ元気です。
お吸い物に三つ葉の香りが~とかじゃなくて、風味薄れてまじで葉っぱ食べてる感じになって来ました。
大味に育ってしまったわ。

ああ、深夜だね。


返さなきゃいけないメールが、、
深夜


さて、
寝れない&マニキュアを乾かす間にお絵描きしました。
タイトルはそうね、"ヒビ"ね。

目のちらつきと小指の第一関節の限界が来たのでいよいよおやすみなさい

2012年4月14日土曜日

realistic reality (?)

院の同期の友人が、モーションキャプチャーの実践研究をしている。
今日その中間発表で簡単なショーイングとモーションキャプチャーの説明等々を拝見した。

モーションキャプチャーってのは、ボディスーツみたいなのに白玉みたいなマーカーたくさん付けて、人間の動きを3Dで再現するものです。
彼はそれをリアルタイムで投影映像にすること、あと照明効果とかも使って、勿論そこで実際に動きのパフォーマンスをするダンサーもいて、という感じでした。

まだ制作途中でもあるだろうし、今日の感想は本人に直接言えばいいとして、


私自身、最近、"リアル"とか"リアリティ"というものになんとなく興味があるのです。

なんと言うか、何をそれというのか、何をそれとするのか、とか考えるとどつぼに嵌まりそうで、暗い考え事わくわくするw。
何かが嘘であってそれが悪である、などと言いたいのではなく、リアリティのある嘘にもリアリティのない嘘にもリアルが在るのです。
って、もともと次元が違うよねー、だけどそのリアリティってじゃあもともとリアルとどう擦り合わせしてんの?とかね。

リアルの反対語はない。現実や今を相対する言葉や状況って多分ないだろう。
unrealはもはや「実在しない」という意味になる(らしい)。
リアリティの反対語はある気がするけどね、例えば「リアリティがある」「リアリティがない」というダメだしはなんとなく耳にすることがある。

なんだそのダメだし?って思うけどね。
演劇が虚構と言ったのはダレだ?!
…誰もそんな事言ってないっけ?
演劇は物語、虚構を真面目にそこで実演しているのです。笑える。
(まぁ個人的には演劇は虚構という檻じゃなくて、どちらかというと関係性という足枷や手錠だったりする方が面白い。)
或る他人になりきった役者を例えば、リアリティのある演技してる、という、
いや、例え「おいどんは坂本龍馬です」って言ってもそれ本人じゃないからね、しかもたちが悪いことにやってる本人だって、「演じてる」とはさらさら思ってないでしょう?

というのはね、ダンスにフィクションってあったっけ?と思ったから、
ダンスってどこまで行っても人間が踊ってる事実・現実しかなくて、
小手先の見かけを例えば嘘と言うことが出来るかもしれないし、それこそ技術なのかもしれない。

でもね、ダンスの時間が例えば、非現実的な時間、とか言われるのですよ、
現実って何よ?笑

といっても(生活においては、つまり性格的には)フィクションだろうとノンフィクションだろうと、嘘か本当かもどっちでもよくて、どっちかに属せば良いじゃないどっちかなのでしょ?ってくらいのこと。
あの人の言葉すら、本心とか、もしくはお世辞とか上手な嘘とかそんなもんもどっちでもいい。
どちらかと言えば、ある事象が嘘か本当に属さなければならない残酷さ。

表裏一体のコインはどっちが上でもよくて、コインが在ることの方が(残酷さ込みで)愛おしいのじゃない?


だけど、
リアルとリアリティの大きな違い、でもリアリティが少なくともリアルに追随してること、しかしながらたまにリアリティがリアルを超えること、そういういろいろ。

ダンスは絶対的に現実のはずだ、リアルなリアリティなんだろうな、というしばらく前の自分の考えを、
反芻しつつ、なんだそれ、って。


ああ、超!支離滅裂。
なんだか言ってるそばから自分でも意味がわからないー

あれでしょ?ベルクソン読めってか?
難しい話はこれだから嫌なのよ。楽しいけど。


なんかこのカオス感、きたなー
まだきちんと言葉にならない、ここから。



モーションキャプチャーの話飛んだー
そっから考えてたのだが…
最近妙に引っかかる3Dの話は、省略だ。
だけど3Dがまさしく、リアルとかリアリティとか、そういうことを猛烈に考えさせられるのだよね!!