2012年9月17日月曜日

歴史を考えるとき、

舞踊の歴史を知りたいと思うのは、私の中にある踊ることの歴史を知ることと同じなのです。
かつて、「私は私の人生を踊っている」と言った人がいたまさにその通り、やはり私は私の中にある歴史を踊っています。
歴史を知りたいと思うこと、それは、私が生まれたときにどういう風であったか、その日の天気はどういう風であったか、初めて寝返りを打った日のこと、初めて立つことが出来た日のこと、幼稚園に初めて行った日のこと、小学校の入学式のこと、そのような私の中にあるはずの私の歴史を私が周囲の大人に伝聞するのと同じように、私が私の踊ることについて知りたいと思う時、私の中に深く潜る時、歴史はひとつの道標になるのです。
私自身の歴史は他人の身体において起こったことの歴史ではなく、紛れもなく私の身体において起こったことの歴史です。しかし、私は他人の影響を受けています。それは避けられないものでもあり、私が選択して取り入れた他人の歴史でもあります。私が今踊るということのすべては、私が経験してきたものに左右されているということで間違いはありません。私が今までダンスを習ってきた先生、先輩、友人、もはやそれは踊ることに限ったことではなく知識や思想、精神、肯定するものも否定するものも、そのすべての影響によって、今の私のダンスがあるのです。


私は私の身体で踊る。
私は、私の身体の歴史を繰り返し踊る。

けれどもダンスは、私のダンスは、私のものであると同時にそれを見た他人のものでもある。

2012年9月10日月曜日

身体とイメージ ー(続)或る2つのイメージについて

足が蚊に刺された。刺された部分は赤くぷっくりと腫れ上がると同時に、私に「蚊に刺されたんじゃない?痒いよー」という信号を送る。刺されたところを掻きたい、刺された場所はすでに分かっている、そこに手を伸ばそうとする。しかし痒くても動くことの出来ない状況にあったら、「痒い痒い」と思いながら痒いのを我慢することになる。やっとの思いでそこを掻きむしっていると、周りの人から、「蚊に刺されたの?」聞かれる。
足を掻く動きをすると、「この人は蚊に刺されて痒い」ということがそれを目撃した人たちとの間で共有される。
また、足を掻くために動くというより、痒いから手を伸ばす。だから刺された場所に伸ばす手の動きはスマートで迷いがありません。そのスマートさは、それを目撃した人に明確な情報を伝えるかもしれません。

このとき、「痒い」ということはイメージと言えるでしょうか。しかし、「痒さ・痒み」はある種のイメージであると言えるように思います。
他人の身体における「痒さ・痒み」というものは、それがどのようなものであるか、共通の感覚として私の身体においても想像することが出来ます。私は「痒さ・痒み」を私の身体において思い出すことが出来ます。しかし、「痒い」というものは、他人自身の身体において他人が感じるものであり、どれくらいのどのような痒さなのか、ということを正確に私は知ることや体験することが出来ません。
お医者さんの問診に、事態は似ているようです。


身体がどうして動くのか、ということは、その目的や意志のようなものをどれだけ剥いでいってもやはり、曖昧で漠然としたものでしかありません。むしろ私の意にそぐわずとも勝手に、身体は始めから動いています。そして絶えず何もかもが動いています。動いているというより、変化しています。生き物は、変わってゆく環境に適応するため、また環境を変えるために動きます。
水が枯渇したから他の水辺へ移動することや食べ物を探すこと、気温の上昇や下降に合わせて毛穴が開いたり閉じたり瞼が絶えず瞬きをしたりすることも、なにもかも、
私の意としない意志がそこにはちゃんとあって、そのことに私は感心するか楽しむほか為す術がありません。


意志、目的、動機、原因、機能、信号、
それらとイメージの関わりについて。

身体とイメージ ー或る2つのイメージについて

2つのイメージの捉え方の違いについて書き出してみます。これはあくまでも、身体を使って動く人間としての考えです。まだまだ言葉足らずですが…

2つのイメージについて。
ひとつは、結果としてのイメージです。外側にあるもので、例えまさに動いているものであっても、静的で、ポージングのようなものです。見せかけ、とまで言うと言い過ぎでしょうか、もしくは、私たちが見ることのできるイメージです。
もうひとつは、原因としてのイメージです。内側にあるもので、動的かつ流動的なものです。もしかしたらこれは、私たちは見ることのできないイメージかもしれません。言葉にも置き換わらない、とてもあやふやな何かです。いや、もしかしたら、見ることもできるかもしれませんが…

例えば、爆発というものを身体で表現するとします。そのとき、爆発というイメージを、飛散するものや爆発の形の模倣として動く身体の動きが考えられます。その動きを簡単に例えるなら、両手足を開いてジャンプ、のようなものだったりします。
一方、身体の内において、爆発というもののエネルギーを産み出すというイメージのとらえ方もあります。それも突き詰めれば何らかのイメージの模倣であると言えるのかもしれませんが、そのイメージの模倣を全て剥いでゆくと現れるもの、もっと別の言葉でいうのならば、その爆発を生きる・体験するために、体の内において産み出す爆発というエネルギーのイメージ、というものがあります。この結果は必ずしも、両手足を開いてジャンプ、という形になるとは限りません。
しかし、ダンスをはじめ、パフォーマンスの技術のひとつとして、今挙げた異なるイメージの在り方を同時にひとつの身体の動きにおいて実現する、というものがあるかもしれません。
また、両手足を開いてジャンプ、という動きは手足を身体の中心から外に向かって押し出します、その動きにまるで爆発のようなエネルギーの流れを見出すこともできるでしょう。実際に折り畳んだ手足を勢いよく広げる動きがそこにあります。

先に結果と原因という言葉を用いましたが、その使い方はふさわしくないかもしれません。それらは同時にそこに在り得るものであり、どちらかが必ず先行するものでもありません。結果のイメージから導き出される原因のイメージというものもあり、またどちらも「動機」にはなり得るのです。

ダンサーは芝居ができるのはなぜ?と頭を捻っていた人の言葉を思い出します。身体の内に動機のイメージを明確に打ち立てることができるダンサーであれば、ある程度の芝居ができるのは当然であると思います。そこに演劇独特の、物語を明確に示す技術や言葉を話すための技術はありません、しかし身体の内にエネルギーを産み出し、そのエネルギーを生きることができるのですから、ともすると人間を生きることも可能であるのです。

(つづく)






池田扶美代×ティム・エッチェルス『in pieces』を観ました。

言葉を話すシーンが多く、池田さんの表情がとても印象的でした。なんだかとりあえず踊るのが楽しそうで、観ていて嬉しくなりました。
ただ、どれだけ言葉を使おうと、表情にその感情を見出そうと、あれは紛れもなく身体による表現、ダンス作品でした。75分、ずっと舞台上に一人で立ち、危うい綱渡りなシーンもあったけれど、ついにロープを離さなかった彼女の信念の強さ。踊るように喋り、喋るように踊り、舞台上を自由奔放に移動し、彼女の中でどんどん湧き出てくるエネルギーが迷いなく身体の動きとして現れてくる様は、圧巻でした。
そしてなぜか、私の肩の荷がどっと下りた気がしたのです。

2012年9月9日日曜日

身体とイメージ ー具体派について

国立新美術館で、「具体」展を見てきました。

具体派というのは前衛画家・吉原治良を中心として1954〜1971年に主に関西で活動した、日本の前衛芸術を切り拓いたグループを指し、当時海外でもその活動が注目されていました。具体派は絵画のみならず舞台作品を発表したり、アクションペインティングや野外でのパフォーマンスアートなども数多く発表しました。海外のパフォーマンスアート関連の資料を漁っていると日本の「GUTAI」というグループの存在は自ずと目に付くようになります。
そんなこんなで最近になって具体派の存在を知った訳ですが、せっかく東京で回顧展があるのだから会期がおわってしまう前にどうしても、と駆け足ではありますが、さっと観てきました。

展示は、具体派の活動の中心となった具体美術協会が発足した1954年から、大阪万博を機に1971年に協会が解散するまでの短い期間を5,6つの年代やテーマに分けて紹介していました。年代ごとにそれぞれ特徴があって興味深かったのですが、具体派の特徴が最も強く現れているように感じたのは、フランス人評論家ミシェル・タピエが具体派に関わり始めた直後の作品群でした。
タピエはアンフォルメルを提唱した評論家であり、日本でアンフォルメルを実践している具体派に興味を持ちその作品を海外に紹介すると共に、その作品を海外に輸出しやすいようにと具体派に絵画作品を多く作るように持ちかけた人物です。

そのようなことが簡単に紹介された後、タピエの勧めによって制作されたと思われる絵画作品が多く展示されていました。それまで自由奔放に様々な方法で作品を制作してきた彼らが、迫られてキャンバスに向き合った作品はどれもとても歪で面白いのです。それらの作品の多くのタイトルが「絵画」というのがまた微笑ましく思います。
ここで改めて示された、具体派の絵画作品の大きな特徴は、"重さの痕跡"であると感じました。重さ、とは、身体の重さや身体の運動の重さ、また絵の具や画材として用いられた様々なモノそれ自体の重さ、あらゆるものの重さが画面にそのまま、その重さの痕跡を残しているのです。その重さを目の前にすると、すごくどきどきします。なぜなら、身体の動いた軌跡、痕跡としての絵画は、間違いなく、"身体がなければ描かれなかったもの"と、それと同時に"重さの生きた時間"を浮かび上がらせるからです。

絵画、というものは、ひとつの「イメージ」の結果としてそこに現れます。
具体派においては、絵画作品が中心でありながら、平面には決して留まらない、身体の在り方とイメージの関係について、斬新な提案がいくつもなされています。
具体派を始め、アンフォルメルが提唱された時代における身体性を深く洞察したヴィジュアルアート(特にアクションペインティングやパフォーマンスアート)はその後のダンス作品に大きな影響を与えました。
しかし、身体とイメージの関係については、ある時代を反映する特徴的な問題という訳では決してありません。その問題は、今日においても考えられるべき問題です。


イメージ、というものを語るために、もっと知らなければならないことがあるのはわかっています。
しかし私自身動きながら考え、あやふやなイメージというもののなかに、大きく二つの捉え方があるように感じています。それは、全てを二種に振り分けようとするのではなく、沢山のイメージというものの捉え方の中から、ある二つの捉え方の違いについて考えてみようということです。
それは、身体を動かすときに用いる二つのイメージの違いについてです。

(つづく)

2012年9月2日日曜日

(続)「原初的な運動」ー人が集う"場所"と"空間"

余談ですが、私が劇場という場所やそこで行われるパフォーマンスについて考えを大きく改めるようになったのは、何より音楽の影響です。
自明のことであり決して悪い意味で言いたいのでは無いのですが、やはりダンスはヴィジュアルイメージが常に先行し、その陰に隠れてしまうものがたくさんあるように感じています。そのまやかしに甘えてしまうことももちろんできますが、ダンスそれ自体が必ずしもそのような表層"のみ"で行われているのではないという確信があります。
ヴィジュアルイメージが必ずしも最優先ではない音・音楽とそれを演奏する・聴く人々の間で起こっていることは、ヴィジュアルイメージの陰に隠れたダンスの本質を探る糸口を改めて教えてくれるように思います。それは、私が思考のテーマとして掲げた「儀式性」というもののひとつの側面を明らかにします。

「儀式」は人々が集うひとつの場所という特殊性が生み出すものでもあるのですが、しかし必ず場所が必要なものではありません。

何らかのパフォーマンスがそこにあるとき、パフォーマーとその観客とが目には見えない一対の線でつながれるとしましょう(そこには知覚の為の距離があります)。
このつながりはパフォーマンスの契約とも言える、パフォーマンスの根幹をなすものです。これはどのようなパフォーマンスにもあるものです。
しかし、ある種の特別なパフォーマンスは、観客同士を、パフォーマー同士を、もちろん観客とパフォーマーも、無数のつながりが錯綜する様にその場にいる人々を強く結びつけます。簡単な言葉で言えば、一体感というものでしょうか。
そのとき、観客もパフォーマーも分け隔てなく、"時間"を体験します。

さて、いよいよ説明が難儀で苦手なところに入ってきました。

現代の劇場機構はその一体感を自ずと場所が設定しています。限られた空間に人々が集えば当然生まれる感覚です。しかしそれだけで場が儀式性を帯びるというわけではありません。言わずもがな、パフォーマンスそのものの力が絶対条件であることは変わりありません。
場の人々が錯綜したがつながりをもつ、というのはただ単に他の観客の顔が見えるであるとか、リアクションを感じられるというだけでは語り尽くせないものがあります。
観客である人々は、それぞれ違う人間だよね、違うことを考えているよね、という次元のさらに高次、人々が皆一様にヒトとして、身体の奥深くに身体の記憶を共有していることを実感できる、そのようなパフォーマンスが行われる時、初めて本当に場が特殊な儀式性を帯びる様に感じます。ゆえに、劇場という機構は儀式性にとって必要条件ではありません。それは、劇場が場所である限りにおいてです。
場所は人々を囲うものです。それに対して、空間は身体の周りに、身体と身体の間に漂うものであるように感じます。その空間が熱量を発するとき、それは磁場が狂い、時間が歪められ、今まさに崖下に飛び降りんとするようなギリギリで先っぽに居るような感覚を人々に体験させます。

感覚が捉えるのは空間であろうと考えています。

(つづく)



客演の稽古が続いて非常に頭が硬くなっています。脳みそが筋肉質になっています。だいぶちぐはぐしていますが、ほぐす時間が足りない。
鈍っていた反射神経は高くなるのですが、反応しかできないのではどうしようもないと切に思いました。