2013年5月14日火曜日

雑記「変化」

最近、植物を育てたり切り花を貰ってきたりしていて、現在部屋が軽く植物園みたいになっている。

土に植えている葉っぱ系植物の方が地味だけど成長がポジティヴで良い、切り花は綺麗だけど枯れてゆくばかり。
でもまだ蕾の多かった大量の百合の花は酔いそうなくらいの匂いをワンルームに撒き散らしていて、部屋に帰る度懐かしき発表会気分が味わえる。

植物のみなさんには特に話しかけたりはしない。物言わぬ相手に話すほど飢えてはいない。というかそもそも話さぬ相手に話す気が起きない。
しかし観察していると毎日ちょっとずつ変化していて面白い。ここ数日はニオイシュロランさんと茗荷さんの寄せ植えがデットヒートを繰り広げている。狭い鉢ですまんよ。



美術モデルとしてお世話になっている(私、ただ話しに行ってご飯貰うだけ)彫刻家さん、最近作風を変えようと試みているらしく粘土相手に試行錯誤している様子を見ていると面白い。
先週、割と完成形まで持っていった私の形を4〜5体見て、針金の骨組みまで粘土が剥がされるのを2度見た。

長らく作品を作っている中で何時の間にやら出来映えを気にして小綺麗な感じになっていたものを、血気盛んで荒々しかった昔の作風に戻したいらしい。
たくさん作品を作ってきて今、何も考えずにつくっていた頃の作風に近づけるとはどの様な作業なのか。
毎度のことだけど、出来上がるのが楽しみだ。



最近、母が変わった。
無論、戸籍などの話ではなく、母の言うことや考えることが以前とは少し違うように感じるということだ。既に7年離れて暮らしていて勿論私自身が変わったことにも依るだろうけれど、それまでは私にとって保護者としての"母親"だった人が、一人のおばさんとしてそこに居るように感じられるのだ。しかしよく云うところの、"母親と友達感覚"とは全く違うことは前置きしておく(そもそも家族は友達ではない)。
このことを悲観したいのではなく、むしろかなり面白いと思っている。母、観察してて大変興味深い。

思い返せば事の発端は、無趣味を豪語する彼女がヨガを始めたことだった気がするのだ。
自分の身体で感じることや身体の変化を私に話す様になり、次第に嫌なことは嫌だと言って避ける様になり、代わりに本を読むようになり、私が東京で連れ回しては見聞きさせる音楽や美術に興味を示すようになった。
アピール上手の弟が課題で作る作品をせっせと母にメールで送りつけていることも手伝ってか、それまでは「よく分からない」と一蹴していた芸術作品等々に対しても今は聞けば感想を言う。
先日は言葉の使い方すら変わっていて、びっくりした。

今後母は一体どうなってゆくのか。



永井荷風をしばらく読んでいて、もう一冊行こうかと思う前に口直しで文庫版のつげ義春『義男の青春・別離』を見つけたので昨日一気に読んでみた。
そもそもつげ義春で口直しってのが間違いだったのだが、案の定非常にぐったりだ。挙句、今朝は非情に胸くそ悪い夢まで見る始末。

いいかげん捨ててしまいたい感情をわざわざ掘り起こされるようなシチュエーション、しかもつげ義春風。最悪。
感情という最も主観的なものを、引きで見られるほど私は出来た人間ではない。変わりたいのに、なかなか思うようには変わらない。


さあ、夏が来ることになった