2016年6月19日日曜日

新しい作品、[私信] のこと



来週の土曜日、25日に立教大学の新座キャンパスで新しい作品を発表することになりました。

タイトルは「私信」。
15分くらいの小品です。

今回の作品は私としては珍しく、テーマが決められている上での創作です。

まー新座遠いし、上演後に2時間近いトークにも出なきゃいけないくて(泣きそう)、
あんまり全力で宣伝してなかったのですが、
本番が近付くにつれ作品が大変面白くなってまいりまして、出遅れましたが全力でお誘いしたい所存です。

制作のためにまとめていたテキスト、ぶつ切りですが載せてみます。
[サイト]終了から一か月間の、制作記録です。



  * アルトーさん生誕120周年

さて、立教大学現代心理学部が主催するアントナン・アルトーさんの生誕記念のシンポジウムで踊らせていただけるということで、
アルトーさんに関する小品を一つ作って上演することになりました。

アントナン・アルトーは、フランスの演劇人であり詩人。
独自の演劇論ならびに身体論はまったく色あせることなく今日に至るまで多くの人を魅了しつづけ、身体をめぐる哲学や様々な芸術表現に大いなる影響を及ぼしています。

アルトーさんの数多くの著書、その中でも『神経の秤』という最重要テキストから、
「私信」をテーマにソロダンス作品を作ることにしました。



  * 『神経の秤』から、「私信」

アルトーさんの言葉は、ものすごくカッコイイです。
カッコイイが故、少し難解でもあります。学生の頃はちょっと苦手でした。

『神経の秤』に関しても、読み始めは同じような印象でした。

ただ、『神経の秤』の終盤に書かれている「私信」とタイトルのついた部分を読んでガラッと印象が変わりました。


「おれがいかに率直にお前に語りかけているかわかってくれるだろう。おれがおまえに言ったことはすべて、おれが今おまえに対して抱いていて、さらにいつまでもかわらずにもちつづける強い愛情、根だやしにできぬ感情とはまったくなんの関係もない、とおまえは見事に洞察して頭のいいところを示すだろう。だが、そんな感情は人生の平凡な流れとはなんの関係もないのだ。そして、人生を生きねばならぬ。あまりにも多くのものがおれをおまえに結びつけていて、おれはおまえに離別を求めることはできぬ。おれはただおまえに、おれたちの関係を変化させてみよう、おれたちがそれぞれ別の人生を作ってみようと求めるだけだ。別々の人生を歩んでみたところで、おれたちが離反することはあるまい。」(138頁)


この部分だけ抜粋してもギャップがうまく伝わらないのですが、
限界を見極めて境界線上をなぞっていくような最高に尖った言葉でつづられる文章のなか、「人生を生きねばならぬ」という一言に救われました。
非常に生々しくて人間くさい。

この一言から、文章ががらりと鮮やかに感じられるようになりました。



  * 動き方のヒント

以下の部分を今回のダンスの動きそのもののテーマとします。


「自分の言語が、思考とのさまざまな関係において啞然とするばかり混乱していることをだれよりも感じた男、ぼくはそんな男だ。自分のもっとも内奥な、もっとも疑うべからざる地すべりの瞬間をだれよりもよく見定めた男、ぼくはそんな男だ。まったく世のひとが夢みるように、自己の思考に迅速にもどってゆくように、ぼくはぼくの思考の中に迷いこみ、自らを失ってゆく。自己喪失の奥まった隅々を知っている男、ぼくはそんな男だ。」(130頁)


「私信」として書かれた部分はまさしく地すべりの印象で、何かが決壊して、流れ出していく様子が言葉によって描かれている。
その運動をダンスにしてみます。

無理やり動かない。いらないものを手放す。
そしてダンスなのかダンスじゃないのか微妙なラインを、綱渡りする。
ひらく、澄ます、何に集中するのか。


文章を読むときに、私が焦点をあわせる基準がある。
それは書き手の状態であり、精神であり、運動であり、流れであり、
それは地すべりを捉えるのに似ている。

おそらくそれに対応するであろうアルトーさんの言葉の中でひかれた一節は、
「魂を魅了するもの、それは明澄性、容易さ、自然味、同じ息で冷ましたり温めたりすることあまりに新鮮な物質の氷のように冷たい無邪気さ」(152頁)

「私信」の部分には、アルトーさんの、ただただ「わかってほしい!」の熱量があふれています。



  *  “私信”というものについて

アルトーさん当時の私信と、現代の私信は少し意味が違うように感じている。

私信は、今や私たちの身の回りにあふれ過ぎている。
このブログだって、私信でもある。
fbtwitterを見れば、いろんな人のいろんな言葉があふれかえっている。

完成度より、鮮度(リアルタイム)という実感。
知らなくていいことが溢れすぎている。
それから、嘘に対する異常なアレルギー。

一流の詐欺師はどこにいるのか。
夢を見させてくれる技術(art)が必要。


言葉の真実ははたしてどこにあるのか、
「私信」。




※引用はすべて
アントナン・アルトー著、栗津則雄・清水徹翻訳、『神経の秤・冥府の臍』、2007年、現代思潮新社

詳細
現代心理学部主催 アントナン・アルトー生誕120周年記念企画
「抵抗と再生―A・アルトーの映像と身体―」
http://www.rikkyo.ac.jp/sp/events/2016/06/17746/


2016年6月10日金曜日

R.I.P.



大学院に入ったころから5年ほど美術モデルとして伺っていて、
母のようにしたっていた彫刻家さん。

昨年末亡くなられていたことを、数日前に知りました。



世話焼きで、いつも私の身体を気遣ってくれて、ご飯を作っては持たせてくれました。

毎回欠かさず焼いて持たせてくれたケーキは、中身当て材料当てクイズをするのが恒例になっていました。


3時間くらいのモデルの時間、本当にいろんな話をしました。

好きなアート作品、音楽、映画、舞台、本、ダンス、歌舞伎、ファッション、海外旅行、植物や動物、料理、友人、家族、仕事。
歌舞伎座に初めて連れて行ってもらったり、フレンチ御馳走してくれたり。
私のダンスは欠かさず観に来てくれて、そのあとのバイトの時間ではガッツリと感想やアドバイスをもらいました。

他人の心配ばっかりしている人で、自分のことは二の次だった人。
とにかく何でも自分でやってしまう人で、料理やDIYなんてお手の物。

最後に会ったのは1年前、連絡をとったのが去年の夏のおわり。
体調があんまり良くない、というのは聞いていたけれど、まさか。
多分50代だったはず。
彼女のお母様が90歳近くで健在で、「こりゃ私も長生きするわー!」って言っていたのに。


彫塑で人体を作っていました。

あーでもないこーでもないと粘土をくっつけては削ってはしながら、
「まぁ今後の課題ということで!」というのが口癖でした。


もっと話したかった。
なにより、もっとダンス見てほしかったなぁ

それから、課題は?、課題はどうなるの。


やりたいこと、行きたいところ、観たいもの聴きたいものがいっぱいいっぱいある好奇心の塊のような人で、これからどういう作品を作っていきたいかもよく話してくれた。

そんな彼女が、実際どうだったのか分からないけれど、自分の命の時間とどう折り合いをつけたのか想像するだけで胸が苦しくなる。



亡くなっていたことを知ってから数日。

きっと彼女のことだから、気を遣って周囲を心配させないよう連絡がなかったのだろうなぁと、ぼんやり思っていたけれど、
やっぱり、日を追うごとふつふつと悲しみが湧いてきて飲み込まれる。

お笑い芸人のトーク映像をずーっと見ている。
今日冷静になって考えたけど、ちょっと自分おかしい。

それで、なんの弔いにもならないけれど、書いてみようと思って、


あなたの気遣いや優しさに感謝しています。
もっとあなたといろんな話をしたかった。

ご冥福をお祈りします。

いままで本当にありがとうございました。


*****


最後のメールは、私の食事の誘いに対して、今は少し時間がないからまた今度ね、って。
きっとそのうち、元気になってまた会えるようになるだろうと思っていたから、のんびり待っていたのに。

いなくなっちゃった。


生きているということは、こんなにも儚く、こんなにもあっさり通り過ぎていくものなのでしょうか。

…そんなことはないよ、と思いながら。