2012年11月22日木曜日

無意味を読書する

特に言いたいこともないけれど、文章を書いてみます。だって、言うべき"こと"が何もなくたって、文章を書くことは出来るのです。

いつも本を読みながら思うけれど、私は知識が欲しくて本を読むのが苦手です。もっと言えば、書かれていることを読む為に本を読もうとしていない気がします。だからと言って書かれていることがどうでも良いことだと切り捨てている訳じゃなく、私が読むという行為においてそれが決して重要なことではないみたいなのです。自分でも驚くほどに、言うべきことがまさに書かれている文章は、私にとってつまらないものだったりするのです。
しかしときにそれは致命的なことでもあります。端的に言えば、知識が増えません、書かれていたことを覚えられません、結局ただの記憶力の弱い奴なのかも知れません(大学入試のとき、ついぞ世界史で点数が取れませんでした)。けれど、その癖は年々強くなって、文章をを読む感覚だけが鋭くなっている気がします。結局、知識より直感をアテにしているのです。何故なら、直感は言い訳の仕様がないからです。

じゃあ何を読んでいるのかと言えば、例えば、読点と次の一文の始まるまでを感じている、としか言い様がありません。私にとっての読書は、大きな一つの文章の中にある、何千何万もの、文と文の、文章と文章の間を感じることだったりします。一つの文が終わって、次の文がやってくる、その、文字にはならないところに、まさに文章を書いた人の思考が浮き出てくるような気がするのです。
つまりよく言うような、行間を読むっていうような私の文章の読み方は、ともすると小説を読むような読み方と思われるのかも知れません。だけど、そうではなく、小説の文と文の間は感じられる間が無いものです。むしろ小説自体が"間"に他ならない気もします。
私が私の読書について語りたいある種の文章は、書くべきものについて書かれていると思われている類の文章についてです。

文章と文章の間、それは書かれていることと書かれていることの他愛もない隙間で、気にすることですらないという人もいるのかもしれませんが、文章と文章の隙間にロマンがない文章は、始まることも終わることもないただの文字の羅列で、抑揚とか波が無く、ただ文字の意味するものに書く本人が押し流されているように感じられるのです。存在するものは、必ずはじまりと終わりがあるべきなのです。そうでなければ、一つの世界を作ることは出来ません。宇宙の果てを夢想する狂人の言うことを誰が信じるでしょうか。その狂人ですら、いつかは死んでしまうのです。
語る本人が言いたいことを言い切ってドヤ顔で文章を締めて次に口を開く、その一瞬の顔の歪みにその人の本性がある気がして、読み手としてはそこに楽しみを見つけないで他に何をする?と思ってしまうのです。

文字を使ってしめされるイメージや、文字によって表されることがらにも、読むべきことは大いにある、それは当然なことです。文字が指し示す無限のイメージに溺れることもまた、読書のかけがえの無い幸福な体験であることは間違いありません。そのように文章を読める人は、とても優しい人だと思います。
私は往々にして優しい読み手では無いのかもしれません。ただ、自分の読むという感覚だけを頼りにしているのです。ただし、私の感じる文と文の隙間というものはそもそも、文がなくしては感じることすら出来ないのです。

本屋さんや図書館には、自分が一生をかけても読み切れないほどの本が積まれています。だけど、それらが「情報」だとは決して思いたく無いのです。読書は、私が本を選び、本を開く瞬間にあるのですから。
とはいうものの、自分の無知さ加減にはほとほと嫌気がさします。知らないということを知らないというのが最も恥ずかしいことだと思うから、悔しくて、また本を手に取るのです。知識より直感をアテにしているとはいうものの、本当に直感だけではただの阿呆になってしまう。直感もまた、それのみではどうにも仕様がないものです。


書かれていることが本当か嘘か、という問いが、そもそも意味がないように思われるのです。本当でも嘘でも、どちらでもいいし、どちらかなのです。むしろ、本当であると判断することも嘘であると判断することも結局同じことであって、むしろ本当か嘘かを考える読者である私自身の在り方に興味があるのです。

ここまで書いて、私が読んでいるものは意味と意味の間なのか、と思いついた。意味、そういう言葉で表せるのかも知れない、まぁ深く考えるのはやめておこうかな。その答えは今日新たに手にとった本の中で探してみるとする…

2012年11月18日日曜日

植物とか猫とかのこと

最近家で、アジアンタムっていう植物を育てていて、この方がなかなか、次々に新しい芽を出して大きくなっていくので、日々水やりも楽しいのです。

ここ数日は、知り合いの家の留守に、その家の猫たちの世話係として泊り込んでいます。彼らの鳴き声をよくよく聞いていると、どうもそれぞれ違うことを訴えているようです。
にゃーって言われるのでとりあえず、にゃーって答えてみます。

数日家を開けたことでタムさんに水をあげていないのが心配になって、枯れてたらどうしようってやけに心配で、水をあげに一度家に戻りました。

ですが、にゃーさんずのごはん担当としては、早く帰ってごはんをやらねば、と家路を急ぐのです。帰りが遅いと、「おせーよはやくごはん~」って感じの鳴き声で迎えられるので、なんかそんな気がするので、すまんよって思うのです。

タムさんは割と元気でした。新しい芽が大きくなっていて、頼もしくなってました。タムさんはシダ植物なので、湿気がないとダメらしいのです。水をたくさんあげて、とりあえず頑張れって伝えてきました。私がいない今、ストレスは少ないはずです。

今日、仕事先でたくさん切り花が飾られていて、その中から何本かもらってきたのですが、その中にグニユーカリっていう葉っぱの種類のものがあって、2本もらってきました。切り花の今の時点で50センチはゆうにあるものですが、なんとか挿し木で育てられないものか、と思っています。

にゃーさんずの食事風景を眺めながら、彼らは毎日同じごはんを食べていて飽きないのかしら、と思ったのです。しかし私も毎日同じ食事が出てきても、そんなに気にならない気がするので、たぶん猫もそんなもんか、と思ったりしました。

植物には水が必要ですが、カルキ抜きもしてない塩素たっぷり水道水でも文句を言わないってなんてオトナなんでしょ。昔カイワレ大根にジュースを吸わせるっていう極悪非道な夏休みの自由研究をやったな、そういえば。

実家には庭があって、いろんな種類の草木が生えていますが、特に水やり等気にすることもなく、勝手に大きくなっていました。むしろ草むしりというイベントに常に追われ、育てるという感覚は微塵もありませんでした。今は実家に帰ると、それらの草木もなんだか小さくなった気がします。特に、庭に立っている弟を見て、庭が狭く草木が小さく見えました。

昔、実家で犬を飼っていました。柴犬です。名前はロンって言います。散歩に行くときは、私がロンに引きずられていました。怪我もしたし(私が)、割と脱走を繰り返し、かなり凶暴なやつでした。

実家のまわりで生きていた植物も、動物も、意識しなくてもそこにあって、しかも私たちが何もしなくても勝手に強く生きていて、むしろそういうものと私たちが常に戦っていた気がします。近所の神社を取り囲む森はご神木の森で、切ってはならない木々が悠々と、うっそうと生えていました。その森の獣道がロンの散歩コースでした。

ポール・ギャリコが書いた『猫語の教科書』っていう本を古本屋で見つけて読んでみたのですが、あんまりおもしろくなかった。むしろポール・ギャリコってどこで見かけたんだっけ?ということが気になっています。

ここ最近、身の回りに植物を置きたいと思うことが昔に比べて大きく変わったことだと思うけれど、それが可能なことだと、それが必要だと思うってこと自体がそもそもなんなのか、と不思議な気分です。少なくとも、タムさんは庭の木じゃない。

部屋の中の草や猫と私は、みんなおんなじようなもんだ、という感覚になります。私も足音を消して歩いている。猫の鳴き声は、静かな空間がよく似合う。

猫の生活を羨ましく思うことはあり得るのか、どうか。

2012年11月14日水曜日

かんがえかた

「…すべての芸術形式は我々の感覚的生活の表れであり、かつこの感覚的生活は創造力の絶えることなき変化の遊戯であることを知るにある。したがって永久の芸術形式とか法則というものはなく、存在するものはただそれ自身の内において正しいところの合則性のみである。」
パウル・ベッカー『西洋音楽史』、河出書房新社、79頁


パウル・ベッカーの『西洋音楽史』という本を読みました。
西洋を中心としたクラシック音楽の歴史について書いてある本です。

ベッカーはクラシック音楽の進化論的視点を否定し、それぞれの時代にその時代の社会を反映する絶対的な完成度を持った音楽が存在したという視座でクラシック音楽の歴史を綴っています。
だから、細かく作曲者についての研究などが書かれているわけではなく、あくまでもそれぞれの音楽が生まれるきっかけや流れ(それはいつも社会の在り方とは切っても切り離せないものです)を大まかにたどっているもので、いわば入門書と言ったところです(もともとこの本の内容は、ベッカーがドイツ国内で放送されている30分のラジオ番組で紹介した内容がまとめられているので、本当に入門書的内容なのです)。
だからこそ、ベッカーがそのラジオを聴く人たちに音楽の何を伝えたかったのか、ということがとても鮮明に完結に書かれています。

音楽はもちろん、芸術は時代を経てある頂点を目指して高まっていくものではなく、私たちの生活感覚が常に変化しているからこそ、芸術も音楽も「変化」しているのだと、ベッカーは何度も何度も繰り返し述べています。
音楽について私は初心者に過ぎないのですから、この本を読んで改めて、初めて知ることはたくさんありました。
とても印象的だったのは、器楽演奏がなされるようになったのがごく最近のことであること、その前には肉声、つまり歌が音楽の中心をなしていたということです。
いまでこそ音楽と言えば楽器による演奏であって、しかしその昔には、楽器が声楽のおまけに過ぎない存在だったというのは、改めて知ると面白いのです。
きっと、肉声によって奏でられていた音楽は、当然ながら今聴いている「音楽」とは少し様子が異なっているのだろうな、と思うと同時に、きっと日本の民謡のような、節のようなものによって時間が構成される音楽に似ているのだろうか、と想像してみたりします。

肉声というものは生理的道具であり、生理的な組織によって作られる時間的構成による音の形象を持っています。それに代わって機械的道具としての楽器が重視されることによって、機械的な構成原理(相関的な諸音の合音)は空間的に秩序立てられた音の形象へと変化しました。

そして、空間的/時間的に構成される音楽の違い、というものは、音楽とともに踊るにあたって、ものすごく重要なことである気がします。それは、音楽をそのように分類するということよりも、音楽を聴く姿勢に関わる問題だからです。
ただし時間的/空間的な音の構成秩序とは、音の「聞こえ方」の問題ではなく、音の内部の、音そのものの性質に関わる問題であると感じています。

また、ダンスなどの運動を考えるときにも、運動の時間的な側面と空間的な側面があるように感じるのです。というよりも、その二つの側面によって運動を語ることが出来るだろう、と考えるわけです。



…まぁ、そういう風に考えることもできるよね、ってくらいの話です。


ダンスと音は同じ性質を持っています。
どちらも運動なのです、音は空気の振動であって、ダンスも身体の動きそれ以上でもそれ以下でもないのです。
そこにいくら感情を読み取ろうと、機能の面を語ろうと、どちらもやっぱりただの運動にすぎないのです。
だから、ベッカーの語る人間の音楽の歴史に触れることはダンスについて考えることにもつながるし、少なくとも私はこの本を読んで、ダンスに当てはめて全てを考えられるわけです。
ダンスに関する本で、この様に純粋に運動について語られている本が見当たらないのです。

2012年11月2日金曜日

閑話休題、

自分がどういう風に踊っているのかとか、作品について、文章を書いているのだけど、なかなか思うようには書けないものね。

かっこいい言葉とか素敵な言い回しとか、そういうの使えたらいいのだけど、やっぱりそういう言葉は普段からそれらを使って考えている人の思考が使うものなのだし、それができないということはつまり、私はそういう風に考える力が貧しいんだと痛感します。

とりあえず、できるだけ丁寧に、簡単な言葉で書くことを心がけます。
まず書こうとしていることが一般的によく理解されることでもない、ということを知っています。
そして、それよりも前に、事態は非常に混乱しているのです。
理路整然と書けるほうがむしろいかがわしくて、すべてがつながって混乱しているのがまさにありのままなのです。少なくとも書くことは、捨てることではないのです。

思うようには書けないものね、と言ったけれど、それは決してネガティヴなことではないのです。
むしろ何が“思うよう”なのか。明確なヴィジョンなんて始めから、これっぽっちもない。
目的がある文章なんて、書く必要ない。
その目的のために言葉を利用するつもりなのか?

言葉は、それ自体、表すものなのです、何かを。
でも、その言葉を、「利用している」という使い方は、残酷なことですが、すごく簡単にばれてしまうのです。一目でわかる、いやらしいんだもの。自分の文章読んでいても、表している言葉と利用している言葉は、何かが明らかに違う。

こわいこわい。自戒をこめて。