2013年10月9日水曜日

ともだちのこと

風が強い。

今日は、外回りで近所に来ていた大学の友達と昼ご飯を食べました。
彼女とは、いつもお互い自分のことをペラペラしゃべってるだけなのに、不思議と話がかみ合う気がします。

その後用事があって行った大学院で友達に珈琲をご馳走してもらいました。
「古い珈琲豆消費したいから」って言ってたけど、淹れてもらった珈琲ってとても美味しい気がする。

ついでに後輩のチャリンコ組み立ての手伝いをしました。
後輩くん、口の立つ頭の良い奴なのに、カッターの刃の戻し方も知らないぶきっちょさには驚きました。



私の身の回りにはいろんな友達がいて、皆好き好きに生きております。

割と個を持っている人が多いので、
川の流れに乗って行くと云うよりは、常に水流に晒されすり減らされながら川底でじっとしている小石の様な方々が多くいます。
小石だけれども、いつか川の流れを変える一石になるかもしれない。
ならないかもしれない。笑

計画性の無い生き方を非難されれば反論の余地はありませんが、
それでも皆自分自身に対して正直に生きている気がするから、誰も誤魔化したり繕ったりしないから、"間違える"ことはないと思っているし、だから私は私の友達が好きなのです。


先日大学院の同期が結婚式を挙げました。
彼は大学院在籍中に結婚を決意し、結果的に就職したあと退学しました。

結婚式には院生の同期を揃えて呼んでもらいました、
研究は放棄する形になってしまったけれど、これが彼の選んだことの成果発表なのかなと思いました。

「俺は本当は痩せてるんだ」って言いながらも樽の様な腹してるからいつもバカにしてたのにちゃんと体絞ってきて、精悍な顔つきはなんとも言えずかっこよかった。


外側からの、他人からの良し悪しの判断はあまり意味がないと思っています。
どっちかだし、どっちでもいいし、本人が良し悪しを決められればそれで良いのです。



話題は少し変わるけれど、

ダンスしていることもあってか、あけっぴろげな性格のせいか、恥ずかしいことや隠し事、他人には見せられない自分っていうものは今まであんまり無い気がしていた。

けれど、思っているより深いところに、「自分探し」とかのレベルではなく、自分でも気づいてないような何かが居るものなのかしら?とふと思うようになってきた。

知らない方が良い類のものかもしれないし、まぁ、居ないかもしれない。

どっちでも良いのだけれど、今は。

2013年10月3日木曜日

久しぶりに、日記

「人間観察が趣味です」という女子をよく見かける。

女子に限らないのかもしれないけれど、趣味が人間観察と言う男子はあまり見ない気はする。
…私だけだろうかしら?

各人が人間の何を観察しているのか聞き正したことはないけれど、かく云う私も何の気なしに人を見ていることは多い。
しかし私の場合、背後から観察しつつ後をつけている。

人間の身体の動きは実に面白い。ただ見ているだけで十分に面白いものであることは間違いない。
さらに骨とか筋肉とかについて少しかじってみると、身の回りの動いている人をみるだけで人間ってすげーなぁ、良くできてるなって感動しそうになる。


最近は逆に、ダンスを踊る人を見ていられないという場合に多々遭遇する。
「見ておくれ!」と言わんばかりに設えられた身体と空間で、こちとら逃げることも出来ずに苦しい時間を過ごすこともたまにある。

だからといって、ダンスのことが嫌いになった訳ではない。
大学からこちらへ出てきて、沢山のダンスや舞台の作品を見てきて、分母がどんどん大きくなって、そのうち何年経っても忘れられない舞台が占める割合はどんどん下がっていく。

どんな賞を取ったとか世界中で評価されているとかそんなことは関係なく、むしろそういう評価を受けているもののうちにおいてすら、十分に感じ入ることの出来るものはほんの一握りでしかなかったりする、
ダンスに限る話ではなく、どんな芸術においても。

不幸なことではなく、当たり前のことなんだと思う。
感覚がショートして衝撃の波に引き摺り込まれるような、
"本物"にはそうそう出会えない。

しかし、それは確かに、ある。





田中泯さんの場踊りを見た。

立教でお世話になった宇野邦一教授が田中泯さんの古くからのご友人らしく、教鞭を執る大学で場踊りを、という退職の近づいた宇野さんの要望により実現したそうだ。

大体1時間位、キャンパスを舞台に泯さんが舞った。それを目撃出来たののが何よりも嬉しくて幸せなことだった。

時間とか空間とか身体とか、難しい言葉で語るのはよそう、
泯さんのダンスはただただ、美しかった。
無駄が一切なく、いい意味で軽く、まさに舞い踊っている。

無駄のない人間の動きを形容する言葉は「美しい」なのではないかと、最近感じる。別の言葉ならば、「惹きつける」「ただ見ることを要請する」とか。
人間観察をする対象となる人々は、見られることを意識していない、スマートで単純な動きをしている身体だ。
しかし何の気なしに動くその身体の美しさは偶然の産物であり、私が目端に盗み見た美しさでもある。

ダンスを踊る身体は、まさに観客に見入(射)られる状況の中で、美しさを実現する。偶然でなく、必然に。

踊り始めにそこで立っている姿だけで、その人のダンスの結果は見える。
そう言うものだと思うし、私自身そう言っていられるダンサーで居たいと思う。
"何を"踊るのかが常に問題であって、少なくともダンスは発明ではなく、見出すものだから。


場踊りの後質疑応答の時間があって、質問させて貰うことができたので
「日常生活とダンスとの間に境界はあるか」という質問を訊いてみた。

人間であればどんな時でも身体を使って動き、生活しているけれど、
その動きとダンスの違いをどこに設けるかということがその人にとってのダンスそのものだと考えている。

泯さんはとても丁寧にたくさんの言葉を返してくれた。
印象に残ったのは、「いつか境界がなくなるとしたら」という言葉だった。





泯さんのダンスを見て、友達と話をして、久しぶりに日記を書こうと思った。

最近は頭の中の考え事も、浮かんでは消えて行く。
書き残しておこうとしなければ生まれることすらかなわない言葉がとにかく頭の中を洗い流してゆくようです。

短い言葉を気分で発信して、それは私のことを知っている人たちに私ありきで理解されて、
そう云う場でしか言葉を使っていないとちゃんと言葉を使って文章が書けなくなってしまう。

言葉は私の所有物ではない、と思うのです。
それにしても、お前はダンサーなんだからブツブツ言ってないで踊れよ、って声が聞こえてきそうです。
それでもやっぱり、いろいろ考えてないと踊ることもなくなってしまいそうなのです、
踊ることは私にとって、常に何某か意思の表明でもあるのです。


とりあえず力尽きたのですが、後半の失速具合が半端ないな。
だけどまたここでやめると書けなくなるから。

今日はここまでー。