2015年1月12日月曜日

ドラマ と ダンス

仕事の合間を縫い縫い、目下制作中のダンス映画!

大体撮影する場所が定まってきたので、私も慣れない絵コンテを描きながら、ミーティングをこつこつ。

絵コンテ、まさか自分が描くとは思ってなかった!
これが非常に新鮮な作業でして、
「それはクレーンがないと撮影不可能だからね」とか突っ込まれながら(笑)描いては見せ、描いては見せ…



ダンス映画って、言ってはいるものの漠然としてると思います。
ダンスを映像に収めていたらダンス映画になるのか?という疑問は常に考えています。

映画をずっと作ってきた友人たちとダンスをずっと作ってきた私が一緒にやるから、出来上がるものはダンス映画になるだろうと思って始めたのは間違いないのですが、
具体的なシーンを描いていくにつれ、私たちにとってダンスと映画のベストなミックスの方法が徐々に見えてきました。

少なくとも、私がダンサーであり、ダンス作品を作ってきたからダンス映画を撮るのではなく。

自分たちの経験と考えを総動員して、まさにダンス映画と呼ぶに相応しい形の方向性が明らかになってきている気がします。


この作品には、3人の女性が出てきます。
彼女らは皆実際にダンサーです。

顔合わせでの話。
それぞれが映像作品に関わった経験があるとのことでしたが、よくある話で、撮影現場で「とりあえず何か踊って」と言われることはしばしば。
それでいてとりあえず踊るとどうもイメージとは違うらしく、「もっとくるくる凄いスピードで回って」とか無茶な注文が飛んでくることもしばしば。
そういうとき大抵衣装は女の子らしいスカートね!

この作品で扱われるダンサーは、
ダンサーという人物の役でなく、劇中の抽象的なイメージシーンのためにダンスを用いるわけでもなく、
映画のエクリチュールとしてダンスがあるように。
映像作品としてのダンス作品とはどういうものなのか、ダンスを見るということをスクリーンの前で発生させるために必要なものは何か。
ダンスに欠かせない音楽と快感の関係は映像においてどうなるのか。

そのために、作品に出てくる女性たちがどうして踊るのか、考えています。それがこの作品の主眼であり撮りたいものだと思うからです。


きっと、
彼女たちは悲しいから踊るのです。
しかし、ダンスは無くしたものの代わりではない。
のだと思います。

まだ漠然としていますが、
最近思ったのは、楽しいから踊るのがダンスの全てではないということ。
かといえ悲しみを忘れるための気分転換でもない。
時間を押し流すために時間を踊っているのではないかと、ぼんやり。

そんなことを先日関氏と話していて、彼がドラマについて言っていた、
「ドラマは悲劇にしか生まれない」
という言葉が印象的でした。


いろんな要素がくんずほぐれつ。
まとまらない話なのですが!