2015年10月11日日曜日

普通の身体

大学の授業で、
「ヨガをすることでどういう効果を期待しますか?」
という質問にそれぞれ答えてもらった。

姿勢良くなりたいとか、痩せたいとか、なんとなく想像に難くない答えとともに、
"身体の柔軟性をあげたい"
という答えがあり、ふと興味本位で日常生活どういう場面で「身体が硬い」と思うのか訊いたことがある。

「お風呂上がりにストレッチすると硬いなーって思うんです」
「床に落ちたものを拾うために屈まないといけなくて」

みたいな。

自分は昔から身体が柔らかい方でキープしてきた人間なので、いろんな人の返答でなるほど、と思うことが多く色々考える。


自分のレッスンのときには、自分の身体を内側から、何でもいいから感じてもらう時間を必ず取る。

答えなんて無くていいし、正解や不正解もない。
最高に退屈な時間だと思われているかもしれない!、だけどヨガとかバレエとか言う以前に、ここに全てが掛かってると思う、
私は本気だ。


「多くの人にとって、身体ってどういうものなんだろう?」

という漠然にもほどがあることを最近ぼんやり考える、駅のホームで、電車の中で、仕事しながら、行き交う人たちの様子を眺めながら。

そんなこと、大真面目にずっと考えながら生活してる人は多くないって知ってる。
もしくは、身体=見た目の問題または健康、が多くを占めていたり。


いろんな人の身体に対する考え方を考えることは、自分のダンスをどう届けたらよいか、ということに繋がる。
分かる人だけが分かれば良いという排斥的な考え方はもはやダサいと思うし、全ての人に届いてしまうほどの力を持つ表現があることも知ってしまった。

私は今、次の自分の作品は少なくとも自分のレッスンを受けてくれている人全員に見せたいと思っているし、友だち全員に見せたいし、自分が関わった全ての人に、そしてまだ出会ったことのない人にも見せたいと思う。

Instagramで15秒の稽古動画をあげるのにはまっている。
意外なところから反応が様々あるので、面白い。
ほんとは、15秒じゃ何も伝わんない!と思ってるし、生の方がもっと面白いんだけど!って思っている。
だけど、面白いね~って言ってもらえるとニヤニヤしてる。


話は変わるけど、
先日思い立って友人とストリップを観に行った。
殿堂、浅草ロック座。

いきなり大股開いた女性が盆舞台で回り始めたときはまぁ、カルチャーショックだった。
だがそんなのははじめの10分(いや慣れるの早すぎか?)、閉じられた空間の中で潔く生きる人たちに感動すら覚えた。

全てがギリギリで儚くて、見世物としてのプライドを目に見えぬ服としてまとい勝負する女性たちは、本当に輝いていた。
最後に勝つ者は境遇や運でなく、全てを自分のものとし楽しめる人だと確信した。

母に興奮して話したら、
「そっちへは行かないでね」とやんわり言われた。
(ちなみに母も意外と乗り気で聞いてくれたのがうれしかったから今度一緒に観にいこう!誘ってみたけど、見るのは遠慮すると言われた。そのあと一歩がさぁ!!笑)

そりゃそうですけど、別にそういうことしなくたって、服着てたって、みっともないことや恥ずかしいことはいくらでもある。



生き様は、身体かたちに、その動きに、表れる。

と思ってる。

だって身体は、その人の生きてきた形そのものだし、ときに性格や考え方だって浮き彫りにする。
何が正しくて正しくないか、ではない。どう考え、どう行動するか、だ。結果ではなく過程。
なぜならその身体は生きてるから。

とはいえ、人の身体みていちいちそんなこと判断してるわけではないということは言っておくよ、友だちいなくなっちゃいそうだから!笑



先日、歯医者さんやりながら口腔外科で勉強してる友人から、癌治療が面白いという話を聞いた。

癌は、発症や症状がその人の生活習慣や体質によって千差万別で、当然手術や治療法も紋切り型では通用せず人それぞれだから興味深い、と。

なんだか、分からない話ではないな、と思った。

2015年9月18日金曜日

将来の夢

中学入試のとき、面接で医者になりたいと答えた。
今でも、頭の片隅でそう思っている。

なんで医者になりたいと答えたのかは覚えていないし、高1のときの進路希望はあっさり文系で出してたし、そもそもこんなダンスばっかりやっててそういうのもなんだけど、
結局今の仕事の多くは人の身体を見る(診るとまではいかないけれど)もので、身体の知識が欲しくて素人ながら医学の調べものをすることもある。


インストラクターの仕事が面白いのは、自分の身体の中で起こっていることを他人の身体でどう引き起こすか。

芸術家のWSなら感覚的な話でもことが運んでいくのかもしれないけれど、例えばごく普通の主婦に身体で起こることを理解してもらうためには結局ある程度身体の知識が要る。
何より種々様々な身体を実際相手にする現場では自分の感覚はまだ頼りないし、というか目指すところが違うので当たり前。
表現者を作ってるわけでなく、肩こりとか腰痛を治したいんだからね。痩せたいとか。笑
でも、ひっくるめて相手の身体を作っていくということに関われるのはすごく面白い。
そしてそのためには、相手に伝えるための作法がある。


最近診察で出会ったお医者さんは毎日ものすごい患者さんの数を診る所謂名医と呼ばれる人のようで、ものすごくフランクに忙しい自慢をしてくる気さくなおじさん。
忙しいと言いながら、問診に時間を掛けて色々話をしてくれるし、知りたいことは訊けばなんでも答えてくれる。
「僕たち医者は基本的に科学者だからさ、病気そのものに興味があるんだよね」ってセリフが妙に自分のツボにはまった覚えがある。

自身の研究や技術には当然自信を持っている。でも医者という仕事において患者さんと向き合うとき、あくまでも病を治してゆくのは患者自身だということを尊重しているように感じた。
だからこそ、私がいなきゃダメでしょ?でなく、そのお医者さんに能動的に何か自分の一部を預ける感覚のようなものを引き出させる。


その姿勢は自分の仕事、インストラクターでもダンス作品作る上でも同じことだなぁと今日稽古場でぐるぐる歩きながら考えた。

内田光子っていう私の大好きなピアニストがいるんだけど、彼女の何が凄いって、自身の演奏で2000人の聴衆の「聴きたい」を引き起こす力。あの衝撃、今でも忘れられない。

話がどんどんずれて行ってしまうけど、
自分もそういう仕事ができる人間になりたいと思う。
医療器具でもピアノでもなく自分の身体という道具を使い、ダンスでもインストラクターでも。


少し先だけど、公演を打たせてもらえることになりそう。

いつものように狭い稽古場の中をぐるぐるぐるぐる歩きながら、歩くという運動をひたすら感じ続ける。
まっすぐ歩くために意識する筋肉の伸び縮み、姿勢を維持するためのポイント、呼吸、床の感触、重力の移動と揺れを捉え続け、さてここからダンスになるって一体どういう感じ・形になるのかしら?と考えながら。

…目の前にいる人が、風を感じ、音を聴き、光を見、想像を抱く。
それらを起こせる身体でありたいなぁと、ふと思った。

2015年4月3日金曜日

ヨガやバレエのインストラクターをしていると、ダンサーをしている以上に幅の広い、いろんな身体やいろんな考え方に出会う。

ヨガ一つにおいても様々な考え方があって、
健康や美容を維持・改善するためのストレッチとして優れた点を1番に押し出そうとする考えの人もいれば、
ヨガによってもたらされる精神的な安定の部分を重要視する人もいる。
どれもこれもひっくるめてヨガなので(それが多様な人にヨガが受け入れられている証でもあるわけだが)、どれが正解でどれが不正解というわけでもない。

私は身体オタクでとかく身体の使い方の点において興味が過ぎるから、マーケティング的には優れないとよく指摘される。
「普通の人はそんなことに興味があるのではなく、○○に効果がある、○○を改善する、そういう風に謳わなければ興味を引けない」、と。
間違いではないが、、

ここに来て、"普通"ということに多いに頭を揺さぶられる。
普通、なんて、ないと思っているのだが、とかく普通を強要される。笑
(いつだって自分の正解を強要する上司は面倒…)


私は、自分の身体にもっと興味を持ってもらいたいと思ってレッスンをしている。
身体について、どんな些細なことでもいい、どんなくだらないことでもいい。

身体という場において起こることは、ともすれば当人が"感じる"という意識までたどり着く前に当たり前のことすぎて押し流されていることがあまりにも多くて、望む望まないに関わらずその鈍さが精神的にも身体的にも不健康へつながる。
身体観がぼやけている、と感じることが多い。

脚が2本あって、それを交互に前へ動かせば歩くことができて、移動することができる。
脚というものがもし1本だったら、進むスピードは2本の時より遅くなるだろう。
進める距離も違えば、見える風景も違う。自分の身体を始点とする世界が別の形になる。

どんなことでも、身体がスタートなのだから、思考もイメージも動作も知覚も自分の身体が全ての始まりなのだから、それに鈍感であることは勿体無い。
すごく大雑把な言い方なんだけど…
世界は身体の外にあるのではなく、内にあるのだと思っている。


私のダンスを見て感想をものすごく沢山持つ人とそうでない人がいる。
そうして並べられた言葉が、どちらが重要/重要でなく、また優れている/劣っているということでもなく、単純過ぎて見逃してしまうようなことを丁寧に言葉にするかしないかの違いだと思っている。

そして大抵、私のダンスを見て饒舌な人は、私のダンスについて多くを語るわけではない。
その人自身が見て感じたことをやたら嬉しそうに話す。素朴で豊かな感じがして、私も嬉しい。
別に必ず話してもらわなくとも、そう感じてもらえるのであれば嬉しいと思っている。

ヨガやバレエを教えていても、
受け取った情報がきちんと身体の中にさざ波を立たせそれを味わうことが出来る身体を作りたいと思う。

立ったときに、足のつま先が正面を向いているか外に開いているか、それだけで愉快に熱心に語りあえる人を増やしたい。笑
意味ないことだろうか。
いや、ダンスはそこから始まってるんだと思うんだ。

2015年1月12日月曜日

ドラマ と ダンス

仕事の合間を縫い縫い、目下制作中のダンス映画!

大体撮影する場所が定まってきたので、私も慣れない絵コンテを描きながら、ミーティングをこつこつ。

絵コンテ、まさか自分が描くとは思ってなかった!
これが非常に新鮮な作業でして、
「それはクレーンがないと撮影不可能だからね」とか突っ込まれながら(笑)描いては見せ、描いては見せ…



ダンス映画って、言ってはいるものの漠然としてると思います。
ダンスを映像に収めていたらダンス映画になるのか?という疑問は常に考えています。

映画をずっと作ってきた友人たちとダンスをずっと作ってきた私が一緒にやるから、出来上がるものはダンス映画になるだろうと思って始めたのは間違いないのですが、
具体的なシーンを描いていくにつれ、私たちにとってダンスと映画のベストなミックスの方法が徐々に見えてきました。

少なくとも、私がダンサーであり、ダンス作品を作ってきたからダンス映画を撮るのではなく。

自分たちの経験と考えを総動員して、まさにダンス映画と呼ぶに相応しい形の方向性が明らかになってきている気がします。


この作品には、3人の女性が出てきます。
彼女らは皆実際にダンサーです。

顔合わせでの話。
それぞれが映像作品に関わった経験があるとのことでしたが、よくある話で、撮影現場で「とりあえず何か踊って」と言われることはしばしば。
それでいてとりあえず踊るとどうもイメージとは違うらしく、「もっとくるくる凄いスピードで回って」とか無茶な注文が飛んでくることもしばしば。
そういうとき大抵衣装は女の子らしいスカートね!

この作品で扱われるダンサーは、
ダンサーという人物の役でなく、劇中の抽象的なイメージシーンのためにダンスを用いるわけでもなく、
映画のエクリチュールとしてダンスがあるように。
映像作品としてのダンス作品とはどういうものなのか、ダンスを見るということをスクリーンの前で発生させるために必要なものは何か。
ダンスに欠かせない音楽と快感の関係は映像においてどうなるのか。

そのために、作品に出てくる女性たちがどうして踊るのか、考えています。それがこの作品の主眼であり撮りたいものだと思うからです。


きっと、
彼女たちは悲しいから踊るのです。
しかし、ダンスは無くしたものの代わりではない。
のだと思います。

まだ漠然としていますが、
最近思ったのは、楽しいから踊るのがダンスの全てではないということ。
かといえ悲しみを忘れるための気分転換でもない。
時間を押し流すために時間を踊っているのではないかと、ぼんやり。

そんなことを先日関氏と話していて、彼がドラマについて言っていた、
「ドラマは悲劇にしか生まれない」
という言葉が印象的でした。


いろんな要素がくんずほぐれつ。
まとまらない話なのですが!