2013年12月15日日曜日

最近のもろもろ

今週ははじめてのことづくしの一週間でした。

こども向けのバレエクラス、大人向けのバレエクラス、バレエヨガクラスが始まって、別の新しい仕事が初勤務、ホールの仕事もこれまでと違って人をまとめなきゃいけない配置に初めてつかせてもらい、
なんだか大変刺激の多い一週間でした。

そして合間に細々と1月からの本番の稽古もしております。



数年前にはあんなにやりたくないと思っていたインストラクターの仕事も、色んなレッスンを持たせてもらえて学ぶことも多く、徐々にはまりつつあります。

先生業ってのは人様に自分の何かを押し付ける気がしてなんとなく嫌でした、
だけど"押し付け"なんて奢りを言う以前に、人に何かを教えたり伝えたり為にどういうパフォーマンスをするかという地点で、改めて自分自身に何ができるのかを考えさせられます。


(できますよ!って軽いノリで言ってしまった)子供向けのバレエクラスは、正直暗中模索でかなりどきどきでした。
お母さんの背後から恥ずかしそうにこっちを見る子供を見て、私も同じ気持ちさね!と思いました。

「みんな初めてのバレエでどきどきしてるかもしれないけど、私も初めてのレッスンでどきどきしてるんだからね!」って言う私を、8つの目がじーっと見てた。


初めてバレエ教室に行った3歳のときのことは一切覚えていませんが、見学に行ったその日からバレエのお稽古に参加しのめり込んで以降23年踊って来てしまった私としては、とにかく楽しくてもっとたくさん踊りたいと思ってもらえるクラスにしたいと思っています。

小さい頃にバレエのお稽古を通して色々考えて、未だに自分の考え方として残っているものもたくさんあります。
例えば、踊りに順番は付かないこと。
人それぞれの踊りに世界で1番素敵なところがあること。
これは自分のクラスでは絶対に大切にしたいと改めて思います。
伝えるの難しいと思うけど、他人に自分の評価を全て委ねるまえに、自分と自分の身体と他人にちゃんと向き合えるようになってほしいな、と思う。
そしてこれが正に、私の通ってたバレエ教室の方針だと気づくのだけれど。

大人の、バレエにしてもヨガにしても、向き合うのは自分と自分の身体。

全体を通して私の伝えたいことの根っこは一つ。
身体は日々変わっていく。それを恐れて"変わらないもの"に縋るより、変化をコントロールし自身のうちで産み出し、"変えていく"こと。
例え世の中から明るい可能性が潰えたとしても、自分の身体には最後まで可能性がある。

なんて、思っている。
そんなんだから、どんどんどんどん社会から切り離されてっちゃうの。



切り離されちゃてるついでに、作品の稽古もしてますの。

自分の出た作品の映像とか稽古の映像とか、2〜3年前までとてもじゃないけど見られなかった。でも最近は毎回最後に、自分の動きを映像で撮って見ます。

昔は10分撮っても面白いとこ一箇所か二箇所くらいだったけど、最近は割と自分で見てて面白い。でもなんかこう、もっとすごい感じになる気がする。
もう一つ間が伸びたり、縮んだりしないものか、もう一つ大きく、小さくならんものか、そんなこと考えながら映像を見ております。
身体の精度を上げたい。

8月にやった「譚々」と言う作品は、ドラムを叩いてくれたハタヤマンと共に私も20分以上椅子に座って踊りました。
最後に立ち上がって踊りながらはけていくのだけど、これがどうにも上手くいかない。普段は立位で30分は軽くいくのに、この作品では立ち上がったあとダンスが5分と保たなかった。
そのときはどうしてか分からなかったのだけど、どうやら演出に身体が甘んじていて身体そのものを俯瞰的にコントロールできていなかった、椅子に座ることを踊る間常に選択していなかったのだとのだと思い至りました。

身体の精度を上げるってことはコントロールするということと常に密接に関係しているようです。

1月の本番は、そんな感じでやろうと思っています。


あと、最近改めて自分の立ち方を考えています。立っている姿。
どうやら足裏の体重の掛け方がよろしくないということに気づきまして、歩き方や立ち方全体的に見直しています。
目指しているのは宮本武蔵の立ち方です。すっと、たち上がるような立ち方。


以上最近のことでした。

寒い日々が続きますので、暖かくしてお過ごしくださいませ。

あと、
"allele"、1月の本番は29日(水)夜20:00〜明大前KID AILACK ART HALLでございます。

2013年11月17日日曜日

新作をやるよー "allele"

1月末から、新作やります。

1/29,2/24,3/26の月一で。
3回共通で、タイトルは"allele"。


ブラッシュアップしていくというか、コンスタントに本番をやってみるとどうなるか、ということをしてみます。
おおよそソロです。

各日ともにおそらく20時開演、
場所は明大前駅近くのキッドアイラックアートホール。
床は広くないけれど天井が高くて、見てすぐに気に入りました。


効率の良い本番のやり方ではないことは重々承知の上です。
そりゃまとめて週末とかに本番やった方が良いよね、そう思います。
だけど、昔から舞台の本番を何度もやってきて色々考えたことがあります。

皆そうだと思うけれど、
本番が終わると燃え尽き症候群になっちゃうのです私。
本番前は生活を全部投げうってでも本番を頑張って、終わると達成感でぼーっとしちゃうのです。
それが悪いことだとは思ってないし、当たり前の事だとも思うし、舞台人としてのキャリアだけを考えれば生活を掛けて舞台に出る方が良いのかもしれん。

しかし舞台や本番のことだけを夢現に考えていても、人間の生活の出来ない人になっちゃう。端的に言えば、生活が成り立たない。
どれだけ貧相に生活しててもある程度ご飯食べなきゃいけないし、家賃も払わなくちゃならないし。
それは誰の所為にも出来ないことで、踊るために身を立たせる最低限のことは出来なくちゃならないのです。
生活のお金の計算が壊滅的に下手な私でも、それ位は薄々気づいてる。

舞台の本番は、せいぜい60分くらい。その本番をするために何ヶ月も何日も、相当の時間を掛けて稽古をする。
その60分は何ものにも変え難い、特別な時間。踊るのは本当に好きだし面白い。
だけど、その60分が特別であればあるほど、その他の時間がとても長いことを知る。
劇場に住めたらいいのにね。


ここ何年か、人間の動きをダンスである動きとダンスでない動きに分けられるだろうか?ということを考えてた。
生活と踊ることの境目も、その考え方の延長だと思う。

ダンスそのものは私自身を踊るものだと思う。私が生きていることそのものを踊る、だからこそ、消費されるのではなく、生産する為に。
ダンスが特別なものじゃなくて、ダンスは身の回りに溢れていて、もしくは私自身がダンスで、生活の全てを踊れたら良いと思う。
ハレとケの区別なく、生活の全てをダンスに出来たら、そう考えて今回の作品をやってみようと思いました。

単純にコンスタントに本番が迫ってくる状況を作るってのは、色んな意味で自分への挑戦です。


本番それ自体の、パッケージングの方に話の比重が大きくなってしまった。
テーマや内容はぽつりぽつりと思いつくことはあるけれど、それは稽古しながら詰めていきつつ、今回は上に考え方も作品そのものに多少なりとも関わっている気がします。

お上品な作品を作る義務もないので、割と思い切ったことをやってみようとも思っている。コンスタントに狂ったことをしてみよう。
実験的な要素が大きいかな。


私の考え方ややり方も好い加減に極端なのはわかっているし、これが正解で他はダメだ!とか断言したいわけでもないけれど、
自分のダンスや作品に対して、多角的な試行錯誤が出来ればと思っている。
今考えていること、今やりたいことをとりあえずやってみる。

真面目過ぎやしないか、と言われることもままあるけれど、ダンス以外真面目にやることもないし、
他のことはどれだけ手抜きしたり腐ったりしても、自分のダンスのこと位は、絶対に信念を曲げたくないね。

2013年11月8日金曜日

PIANIST

内田光子のピアノリサイタルを聞きに行ったのです。

クラシック音楽は明るくない私が、幸運にも何人かピアニストの演奏を聴き比べることが出来て感じたのは、内田光子の演奏が明らかに他の人の演奏とは一線を画す、ということ。
あくまでも主観的意見。でも私の中で何かが違う。

相変わらず楽曲や演奏法、解釈の云々は私とんちんかんだけれど、
この人は、ピアノという楽器を演奏してるんじゃなくて、ホールをまるごと楽器にしてしまう演奏をピアノを使ってやっている、と感じるに至った。

1回目に聞いたときは分からなかった、2年ぶりに聞いてはっきり感じた、
ホール全体を飲み込む演奏、ないしは、ピアノがブラックホールのように人の意識を飲み込んでゆく様。

なぜならおそらく、この人は、自分の音の響きを"聞いている"。

空気中に消えていく音の美しさは何度触れても鳥肌が立つ。


今年コンサートがあるのを知って、邪な気持ちは捨てて、ちゃんとチケットを買った。

実際に聞いて、引きで演奏を聴き比べるより、受け取るものは少なかった気がする。
「この人こんなに手が大きいんだ」って、鍵盤と手から目が離せなくて頭に血が昇った。
どんな曲だったか、とかあんまり分からない。

ピアノの蓋が被っている方に座ってたから、音は遠かった、というか跳ね返って届くまでに若干ぼやけてた。
それでも迫力は十分、演奏はクリア。

ぼんやりした頭で、作曲者のことを考えた。

100もない鍵盤の上で、
例えばドの音の次にレの音を弾くと作曲(指示)するのにどれだけの思考と苦労と閃きがあるのかしら。

音楽を全体のまとまりとして聞くよりも、極端に言えば一音づつの連なりはどうやって紡がれていくのか、ということに意識を向ける方がスリリングだ。
直前、今、直後。

"差異"と"反復"?
薄れていく少し前の響きが蘇って、少し先の準備をしている。

そのスリルは私が自分の身体で踊るときに差し向けて持っていく意識のレベルとどこか似ていて、
例えば手を動かしたあと、その余波はどこへ伝達する?身体の中心へ伝播した運動が身体の内で反響する、連なりは止まらない。

最近そんなことを考えてたら、なんとなく、今まで退屈だったバッハの曲が聞いてみたくなっている。

作曲家が音を紡ぐ果てしない苦労を、演奏者は追体験するものなのかしら。
少なくとも内田光子の演奏は、一音も捨てがなく、彼女なりの解釈と愛に満ちている。


内田光子はなんとなく怖い、って言う人もいる、雪女みたいって、
プリーツ・プリーツが最高に似合う雪女はお辞儀が異様に深い(コンテのダンサーみたい)。とても身体が柔らかいのか、髪の毛バッサバッサしてお辞儀をする。
私、おばあさんになったらガリガリになってイッセイミヤケのプリーツ・プリーツを着るのが目標。

今年たまたま彼女のトークを聞く機会があったのだけど、まぁこの人がよく喋る人で驚いた。2時間くらいノンストップで一人漫談みたいに喋ってた。
あれはあれで怖い。


以上、勢いで書留

聞きながら自然と身体がうずうずして、頭が揺れてしまってた気がする。隣の近所の人に迷惑掛かってないと良いけれど…

2013年10月9日水曜日

ともだちのこと

風が強い。

今日は、外回りで近所に来ていた大学の友達と昼ご飯を食べました。
彼女とは、いつもお互い自分のことをペラペラしゃべってるだけなのに、不思議と話がかみ合う気がします。

その後用事があって行った大学院で友達に珈琲をご馳走してもらいました。
「古い珈琲豆消費したいから」って言ってたけど、淹れてもらった珈琲ってとても美味しい気がする。

ついでに後輩のチャリンコ組み立ての手伝いをしました。
後輩くん、口の立つ頭の良い奴なのに、カッターの刃の戻し方も知らないぶきっちょさには驚きました。



私の身の回りにはいろんな友達がいて、皆好き好きに生きております。

割と個を持っている人が多いので、
川の流れに乗って行くと云うよりは、常に水流に晒されすり減らされながら川底でじっとしている小石の様な方々が多くいます。
小石だけれども、いつか川の流れを変える一石になるかもしれない。
ならないかもしれない。笑

計画性の無い生き方を非難されれば反論の余地はありませんが、
それでも皆自分自身に対して正直に生きている気がするから、誰も誤魔化したり繕ったりしないから、"間違える"ことはないと思っているし、だから私は私の友達が好きなのです。


先日大学院の同期が結婚式を挙げました。
彼は大学院在籍中に結婚を決意し、結果的に就職したあと退学しました。

結婚式には院生の同期を揃えて呼んでもらいました、
研究は放棄する形になってしまったけれど、これが彼の選んだことの成果発表なのかなと思いました。

「俺は本当は痩せてるんだ」って言いながらも樽の様な腹してるからいつもバカにしてたのにちゃんと体絞ってきて、精悍な顔つきはなんとも言えずかっこよかった。


外側からの、他人からの良し悪しの判断はあまり意味がないと思っています。
どっちかだし、どっちでもいいし、本人が良し悪しを決められればそれで良いのです。



話題は少し変わるけれど、

ダンスしていることもあってか、あけっぴろげな性格のせいか、恥ずかしいことや隠し事、他人には見せられない自分っていうものは今まであんまり無い気がしていた。

けれど、思っているより深いところに、「自分探し」とかのレベルではなく、自分でも気づいてないような何かが居るものなのかしら?とふと思うようになってきた。

知らない方が良い類のものかもしれないし、まぁ、居ないかもしれない。

どっちでも良いのだけれど、今は。

2013年10月3日木曜日

久しぶりに、日記

「人間観察が趣味です」という女子をよく見かける。

女子に限らないのかもしれないけれど、趣味が人間観察と言う男子はあまり見ない気はする。
…私だけだろうかしら?

各人が人間の何を観察しているのか聞き正したことはないけれど、かく云う私も何の気なしに人を見ていることは多い。
しかし私の場合、背後から観察しつつ後をつけている。

人間の身体の動きは実に面白い。ただ見ているだけで十分に面白いものであることは間違いない。
さらに骨とか筋肉とかについて少しかじってみると、身の回りの動いている人をみるだけで人間ってすげーなぁ、良くできてるなって感動しそうになる。


最近は逆に、ダンスを踊る人を見ていられないという場合に多々遭遇する。
「見ておくれ!」と言わんばかりに設えられた身体と空間で、こちとら逃げることも出来ずに苦しい時間を過ごすこともたまにある。

だからといって、ダンスのことが嫌いになった訳ではない。
大学からこちらへ出てきて、沢山のダンスや舞台の作品を見てきて、分母がどんどん大きくなって、そのうち何年経っても忘れられない舞台が占める割合はどんどん下がっていく。

どんな賞を取ったとか世界中で評価されているとかそんなことは関係なく、むしろそういう評価を受けているもののうちにおいてすら、十分に感じ入ることの出来るものはほんの一握りでしかなかったりする、
ダンスに限る話ではなく、どんな芸術においても。

不幸なことではなく、当たり前のことなんだと思う。
感覚がショートして衝撃の波に引き摺り込まれるような、
"本物"にはそうそう出会えない。

しかし、それは確かに、ある。





田中泯さんの場踊りを見た。

立教でお世話になった宇野邦一教授が田中泯さんの古くからのご友人らしく、教鞭を執る大学で場踊りを、という退職の近づいた宇野さんの要望により実現したそうだ。

大体1時間位、キャンパスを舞台に泯さんが舞った。それを目撃出来たののが何よりも嬉しくて幸せなことだった。

時間とか空間とか身体とか、難しい言葉で語るのはよそう、
泯さんのダンスはただただ、美しかった。
無駄が一切なく、いい意味で軽く、まさに舞い踊っている。

無駄のない人間の動きを形容する言葉は「美しい」なのではないかと、最近感じる。別の言葉ならば、「惹きつける」「ただ見ることを要請する」とか。
人間観察をする対象となる人々は、見られることを意識していない、スマートで単純な動きをしている身体だ。
しかし何の気なしに動くその身体の美しさは偶然の産物であり、私が目端に盗み見た美しさでもある。

ダンスを踊る身体は、まさに観客に見入(射)られる状況の中で、美しさを実現する。偶然でなく、必然に。

踊り始めにそこで立っている姿だけで、その人のダンスの結果は見える。
そう言うものだと思うし、私自身そう言っていられるダンサーで居たいと思う。
"何を"踊るのかが常に問題であって、少なくともダンスは発明ではなく、見出すものだから。


場踊りの後質疑応答の時間があって、質問させて貰うことができたので
「日常生活とダンスとの間に境界はあるか」という質問を訊いてみた。

人間であればどんな時でも身体を使って動き、生活しているけれど、
その動きとダンスの違いをどこに設けるかということがその人にとってのダンスそのものだと考えている。

泯さんはとても丁寧にたくさんの言葉を返してくれた。
印象に残ったのは、「いつか境界がなくなるとしたら」という言葉だった。





泯さんのダンスを見て、友達と話をして、久しぶりに日記を書こうと思った。

最近は頭の中の考え事も、浮かんでは消えて行く。
書き残しておこうとしなければ生まれることすらかなわない言葉がとにかく頭の中を洗い流してゆくようです。

短い言葉を気分で発信して、それは私のことを知っている人たちに私ありきで理解されて、
そう云う場でしか言葉を使っていないとちゃんと言葉を使って文章が書けなくなってしまう。

言葉は私の所有物ではない、と思うのです。
それにしても、お前はダンサーなんだからブツブツ言ってないで踊れよ、って声が聞こえてきそうです。
それでもやっぱり、いろいろ考えてないと踊ることもなくなってしまいそうなのです、
踊ることは私にとって、常に何某か意思の表明でもあるのです。


とりあえず力尽きたのですが、後半の失速具合が半端ないな。
だけどまたここでやめると書けなくなるから。

今日はここまでー。

2013年8月31日土曜日

ダンスに出会う場所

勅使川原三郎氏が荻窪駅からほど近い処に"カラス アパラタス"というスタジオをオープンした。

其処はギャラリーと兼ねる稽古場と、決して大きくはないが狭くはない劇場を併設する施設であり、日々ワークショップや公演、展示が行われるのだそう。

このご時世に劇場と稽古場を併設したスタジオを持つことの出来る舞台芸術家が果たしてどれだけ居るだろうか、ともするとなかなか叶わない夢でもある。
正直、何処からお金がでているのだろうか?と思わないこともない。


だけどそんなこと私としてはどうでもいい、

私は勅使川原さんの舞台が好きで、佐東さんのダンスが好き。
好きというか、素直に憧れる。
それが此処でたくさん見られる。
小さな劇場だからこそ、息遣いすら聞こえるほど近くでこんなに凄いダンスが見られる。
そう思うと、ただただわくわくするのです。

私も舞台に関わる人ではあるが同じことをしようとはゆめゆめ思いもしないし、作品がどう良いのかとかは全く分からない。そういうこと考えるのは放棄した。
ただ唯一無二、なのだよ。圧倒的で、本物。私にとっては。

どうしたらそういう風に踊れるのだろう?
どうしたらこういう舞台が作れるのだろう?
って、初めて見たときから今まで印象は変わらない。
いや、変わらないというか、毎回更新してくるから、毎回新しいから、いつまでもそう思える。
いつまでも先を走っていて欲しい。


そういう意味ではいちファンだけど、ファンという以上に大学院で直接指導を受けたっていう関わりを持ってしまったので、
期待も、憧れも、畏れも、愛おしさも、恐怖も、いろんな感情がある。

しかし、同じ時代に生きていられてよかったと、大げさではあるけれど、思っている。
それは舞台っていうものに関わる問題だから、
つまり演る人と見る人が同じときに生きてないと叶わないことだから。

だから、ただ舞台の作品を客席で見るよりも、今回のような場所ができたことが何よりも嬉しい気持ちです。
足を運ぶ場所が用意されている嬉しさ。


まぁ、こんなに嬉しい気持ちだなんて言ってられるのは、
客出しで出ていらした勅使川原さんに通りすがりに頭下げたら私のこと覚えてくれていて(忘れられてると思ってた笑)、「おお!元気?」ってニコニコしながら声かけてくれたからだと思うんだよね、全く、憎めない人です。

また、行こうと思う。

2013年8月22日木曜日

身体をゆるめる

運動科学について研究している高岡英夫が書いた『からだには希望がある』という本、ブックオフでふと手に取った。
内容が割と興味深かったので、自分の興味と併せて自分の言葉でざっとまとめてみる。

高岡英夫は自身が武道や気功に長けた人物であり、現在は運動科学研究所というところで研究をしているそうだ。その方法論はスポーツを志す人はもとより教育や音楽にも応用されているとのこと。
youtubeにも高岡がTVで簡単な体操を指導している様子がいくつかあがっていた。背の高くてすらっとした、髪が天パの柔和なおじさんだった。

この本は前半に高岡の身体に関する考察、身体をゆるめるということ、呼吸法、さらに気の扱いについてなど。
後半にその実践の解説。


この本で取り上げられていてとても興味深かったのは、身体をゆるめるということ。

例えば一流のスポーツ選手の立ち姿は、力むのではなくすーっと伸び上がるように、ともするとゆらゆらとしているかのように見える。
イチローやタイガー・ウッズなど。決して筋肉質な身体ではないものの、その立ち姿は美しい。

それを建築物に例えるならば「柔構造」であるということ。これは五重塔の構造から導き出された建築工法で、現在高層建築の建設には欠かせないものだ。
五重塔は中心に一本、決して太くはない柱がまっすぐ伸びているだけで、ほかの部分は互いにずれあうような、ゆるゆるに連結している状態だったという。この構造は地震や風によって建物に掛かる揺れの力を逃がすことを可能にし、耐久性がとても高い。
その反対は「剛構造」、これは建物のあらゆるパーツが微動だにしないようにつなぎ合わされているものを指す。
低層建築にはこの工法が向いているそうだ。

人間の身体が立っているのもこれと同じようなもので、剛構造の状態で立っている人は微動だにしないよう、力んだ状態で経ってる。
対して柔構造の状態で立つということは、身体が常にゆれていることを受け入れ、その中心/重心のバランスを探り続けている状態。
簡単にいえば、柔構造の柱に当たるのは体幹の筋肉と呼ばれるいくつかの筋肉なのだろう。諸々の動作を行う筋肉より、身体そのものの姿勢を作る筋肉。


人間に働く最も大きな力は重力である。地球の中心にむかって引き寄せられる重力を受けながら人間が立つということは、重力に抗するようにしてちょうど釣り合いの取れているということを指す。
柔構造で立つ人はある意味力を抜き筋肉に入れる力を最大限削いだ上で、常に身体の中心を意識して立っている状態。
仰向けに寝た姿勢で肘をついて腕を直角に曲げていると、積み木がうまく積みがっているように力を入れなくても静止できるポイントがある。
腕を上げたまま寝られるという人の話を聞いたことがあるけれど、そういう状態なのだろう。

かといえ立っている場合において、五重塔における中心の一本柱は人間の背骨に当たる、とは決して言い切れない。
常時身体の中心を探り修正していく(この機能は人間誰しもが持つ機能である)ときの基準、それが重心線であり、身体がすーっと立ち上がるように見える人はその重心線が見せる印象である。
始めて立つ赤ん坊は、筋力が無いにも関わらずバランス力のみでフラフラと立つ。人間は元々誰しも柔構造としての立ち方をするはずなのだが、時を経て形成される筋肉や身体の歪みや強張りから柔構造としての立ち方が難しくなっていく。

また柔構造の身体を持つ人は、常に自身の身体の中心を意識していることで、自分の身体の外にあるモノの中心を見極める力が高いという。それはスポーツに限らず、日常生活動作においても見受けられ、例えばジャガイモの皮むきをする時に均一の厚さで皮を剥けるということはジャガイモの中心や包丁の中心をきちんと意識することで可能になる。中心は身体の内部だけの話ではない。

また柔構造であることは、洞察力にも関わってくるという。物事の本質を見極める力にも関わるという。中心を見抜く力、そこに身体の中心を意識する事が関わっているのだと。


身体をゆるめるということは、この本のみならず色んなところで目にする機会が多い。私だけだろうか。興味があるから目に付くだけか。

それだけ力を抜いて身体をゆるめるということはとても難しいことなのだと感じるが、当たり前だがただ身体の力を抜けばいいということでもない。
力を抜くにも、それ相当の身体や意識の使い方が必要になってくるし、どうしても解剖学に触れざるを得ない。
骨の仕組みとか、少しだけ知識があるだけでも全然理解が違う気がする。


ヨガのレッスンをするに当たっても、まずは自分が自信を持ってインストラクションできることも大事だけど、自分なりの知識をきちんと自分の言葉で伝えられるようになりたいものね。

頭だけで考えた言葉は絶対的に弱い。身体から言葉を紡いでいかないといけませんと教えられた。

2013年8月20日火曜日

暑中お見舞い申し上げます


しょーちゅーうーーおみまいっ もーしあげーーますうーー

正しくは残暑ですけどーーんっんー


先だって本番で切ってしまった前髪にもやっと見慣れ始めました。
皆々様におかれましては、酷暑の折如何お過ごしですか?



最近はたまにヨガの先生とかしてます。って書いたっけ?

いつからヨガに転向したのかと言われそうですが。
私的には自分のダンスと遠からず近からずです。

個人的には、ダンスしたこと無い人とか、普段身体動かさない人にヨガ教えたい。
もちろん、ダンスしてる人にもヨガが何か助けになったらいいな、とも思う。
結構ダンスとか昔からやってた私でも、取れないポーズたくさんあるからね。
まだまだ修行が足らんとです。

スピリチュアルな部分は結構どうでもいいのだけど、
ヨガのすごいところは、身体の本質的な部分、根底の部分からポーズを組み立てていくから、その人の身体に合ったポーズがその人の身体で実現出来るところ。大変面白い。

ヨガマットとかの道具やウエアも本当はそんなに必要ない気がするし(そりゃあったほうが助けになるけれど)、いつでもどこでも身体一つで出来るのがいいよね。
きっと重要なことは、普段の生活の中でヨガをしている時間が少しだけ特別な時間になることなんだろうなぁ、と漠然と思っている。

そう考えると、ヨガってのはただの名前というかイメージというか看板のようなもの。
って言うと、怒られるのかしら。
奥が深すぎて、きっと死ぬまでやっても到達出来ないんだろうなぁと思うけれど、あんまりヨガに縋りたくないとも思うじゃない。
両足が左右から首の後ろに掛かるとか、無理だもの。
無理だし出来なくても全く悲しくないし。


あんまり普段ダイエットとか健康とか興味ない人だけど、
良い悪いは置いといてただ単純に、身体は変わる、変えられるということだけは実感している。
それはヨガでも自分のダンスでも重要なことです。

最近は体幹の筋肉が鍛えられたことにより、捻って曲がった姿勢が取れなくなってきた。笑
すぐまっすぐに戻っちゃうのです。まっすぐの方が楽だから。



ヨガ用のブログとか開設しようかとか、チラシ作ってみようかとか、いろいろ策を考えつつ。
自分、はやくやれーってとても思ってる。
がんばれ自分


だらだらと書いてしまった。


あと、pc版からじゃないと見れないのかな、右のバナーに今後の出演情報とか載せたのでよろしくお願いしますー。即興のライブでございます。

まぁしばらくはヨガの先生頑張るよ。

2013年8月8日木曜日

日記

永井荷風の日記に憧れて、5,6月くらいは手帳に毎日の記録をつけていた。

しかしながら、作品の稽古が佳境に入った辺りから途絶えている。
思い出すのも面倒くさいので、放置。

久しぶりに今日は何にもしない日だった。
月曜日も火曜日も何だかんだ仕事があって気を張っていたせいか、今日は12時間以上寝た気がする。





日曜日に、N.N.N.4というダンスの公演が終わりました。
一区切りつけるために、色々忘れないように日記でも書こうかしら、と。

この公演のために、『譚々』という作品を作って上演しました。
ドラマーである大学院の後輩の畑山氏に参加してもらいました。


1月に『slur』という作品をやっているときのこと、
このときも動きは即興だったけれど、いちいち身体の部分に意識を向けるより、身体全体が一つの大きな流れを生み出していくような、不思議な感覚になる日があった。
例えばオーケストラで演奏される様な、絶対音楽のような時間の流れ方?
こうなった日は、ダンスそれ自体が一つ上の次元に行けてる気がした。
下手くそなヴァイオリンほど聞き苦しいものはないと思うのだけど、同じ楽器でも鍛錬を積んだ人が演奏することで、あの弦をこする音がどうしようもなく美しく響く瞬間。
身体の動きにも、ダンスにも同じような瞬間がある気がする。

今回は、毎回作品を通す度その状態を身体で生み出すためのもって行き方を探っていたのだけれど(そこが作品の全体だったとも言える)、
本番の1,2日前に稽古してる時だったか、となりで畑山氏ががつがつにドラムを叩いているのだけど、どういうリズムを叩いてるのか全く聞こえなくなった日があった。
単純に言えば、聞き流すことができるようになった、とでも言うのかしら。
集中力の問題だと思う。

そこから割と常に、身体をハイに入れる感覚が掴めるようになった。
栄養剤を自家製産してる感じ、代償も大きかったけれど。

気分次第で出来る稽古と違って、本番は日時が決められている。
3日間で5回の本番に照準を合わせてそこに自分のハイの状態を強制的に持っていくので、本番が終わってからバランスが取れなくて精神的に大分揺らいだ。


劇場で稽古をしているとき、STの館長である大平さんとたまたま少し話をする機会があった。
大平さんは私が大学4年のときに部活の同期と一緒にやった公演を見て下さっていて、「あのときとは大分作風が違うんだね、"美しい動き"みたいなのやりたいの?」と仰っていた。

真顔でずばり言われてちょっと恥ずかしくなってしまったけれど、まさに"美しい動き"がやりたいのです。
畑山氏のドラムを叩く動きも、私にとってはダンス=動きが効率化されて、ただその動きが人目を惹きつける。
そういうこと、色んな人に十分に理解されている気はしなかったんだけど。
自らのダンスの見方に寸分の疑いも持っていない人たちの意見も当然あったし、
そう言うだけの力が私に、作品に足りないところだと思ったり。

ダンスが、特権的な身体の動きだけを指すものになってしまわないようにしたい。
どんな動きでもダンスになる、重要なのは、私がどのような動きをダンスとするか、どのような動き方をダンスとするかということだろうと。
人間の動きはそれだけで充分に美しく、人の目を惹きつけることができると思う。
そういう種類の動きを自分自身の身体で実現するにはどうしたらいいかって考えている。
スポーツ選手の動きは美しく、お祭りの人々の踊りは人目を惹きつける。それくらい単純なことで良いんじゃないかって。

ダンスは、現実であるべきだと思う。
うまく説明出来ないけど、作り物ではないってこと。現実?現象?
「こういうことになってるんです」って説明が効かないんだよね。


振付を踊るのも楽しい。
ただ、どうしても私の場合、振付を踊り切るときは快感の方が強い。難しい振りをこなせるほどに思う。身体の中でよりスマートな回路が組み上がっていく感じは楽しい。
簡単に、酔える。私が気持ちいいだけ。
それが悪いとは思わないけど、そうじゃないものもある気がする。
どうせダンスで作品作るなら、みんながやってることわざわざやる必要はないし。


作品の構成力が弱い、みたいな指摘ももらった。
その辺、敢えてあやふやにして決め切るのを避けているから当然出てくる感想だった。
私は自分の癖で、誤解を恐れずいうと、無意識に作品を演劇的に組み立ててしまう。演劇的というか、意味のような、理屈のようなものを追っていたり。
それは、私が考えるダンスとは少し違うと思っている、私は「踊る人」を演じてるんじゃない。

かといってどう構成すれば良いのかよく分からない。だからあやふやにしといた。
今までの自分のなかで心地よい構成のうち、矛盾が生まれない範囲ぎりぎり自分に許したものだけで構成した。
これは今後の課題。


そういう風に作った作品、演奏も去ることながら私がどういう風に作品を作りたいかということを的確に読み取ってくれた畑山氏の尽力も大きくて、本当に感謝しています。
普段フルのドラムセットで演奏してる人に、スネア一つでどうにかしろって結構難題なのかな、と当初たまに思ったりした。思っただけだけど。終わってみれば別に何にも不足はなかった。
彼が居なかったらこういう作品は作れなかった。
そしてハタヤマンはみんなに大人気でした。笑



あと今回強く感じたのは、私は非常に真面目な人間だったということか。笑

なんかもう、それでいいかと思った。
かっこよくセンス良くラフな感じでやるのは無理だ。
恥を晒してやるしかないわって。
ダンスのことだけはクソ真面目にやるしかないわって諦めがついた。


それから、作品をどういう場所で、どういう企画で上演するかってことも考えた。
これはややこしい問題なので多くは書けないけれど、色々と自分の中での考えをはっきりと意識する良い機会になった。

作品を作って上演するということは、どういう人にどういう場所で見せるかということもとても重要。
大きな問題にすれば、作品が社会にどう在るのかとか。
そういうことは、作品そのものの内容にも大きく関わると思っている。
自己満足なのは頂けない。そういう作品を私もいっぱい作ってきたと思うから。
ダンスとかって、本当にそういう罠に陥りやすい。あなたがやりたいからやってるんでしょ?って言われたら終わりだと、異常なまでに危機感を持っている。
それは、"価値をつくる"っていうことを焦点にしたいと思うから。



反省点も色々あるけれど、色んな人に見てもらって、「面白かった」とか「綺麗だった」とか言って貰えたのが嬉しかった。
たまに私が踊るの見るの好きだと言ってくれる人や、感動しました!みたいなこと言ってくれる人がいて、単純にそういうのが原動力になっている気がする。
ダンスにわざわざ難しい言葉を当てはめる必要はないと思うし、私自身散々そういうことをしてみてあんまり意味がないと思った。
ダンスを語るのは非常に難しく、時に危険なこと。ダンスを貧しくする可能性もある。
やるまいやるまい…と思いながら検索してとある批評家の言葉を見てしまったけど、クソ過ぎて顎が外れるかと思ったわ。笑


まぁそんなことにいちいち囚われててもしょうがないので、これからもゆっくりとマイウェイを真面目に突っ走っていこうと思います。

とりあえず書き出すだけ書き出したので乱筆なのですが、備忘録がてら。

2013年7月21日日曜日

稽古場日誌

8月の公演でやる作品、先日スタッフの方々に作品を見せる日がありました。

最近のわたくし強気にマイウェイを邁進しておりますが、久しぶりに他催のダンス企画へ作品を出品するという事態に「一体何言われるのかしら」とじつは結構ドキドキしていました。

ドキドキして待ち合わせの時間に一時間も早く着いてしまったのだから、恐らく結構なドキドキだったんだと思います。


スタッフ見せ終わってほっとしたのもありつつ、落ち着いてみると疑問や納得のゆかない点もふつふつと湧きつつ、まぁとりあえずは自分の出来る範囲で頑張るしかねぇなぁと思った矢先ハタヤマンが病に倒れましたが、
今日は彼も元気になったので改めて稽古を始めました。

相変わらず、「10秒関係ない話して良いですか?」という前置きから始まるハタさんの話に私が乗っかりすぎて数分の無駄話を繰り広げる感じの稽古ですが、色んな話をしながら楽しく稽古をしています。
改めて構成も考えつつ…


最近自分が出る作品では振りは毎度即興なので、うまくいかない日や妙に良い感じの日など多少のばらつきはあります。
今日はあんまり良くない日でした。
仕事で早起きしたので目の下にクマが出来てたし。

こういう日こそ、どうしたら良い感じに浮上させられるか、何を重点的に意識すべきか色々試してみるのですが、つまるところそれが私にとって現時点で一番心地良い自分に対する振付なんだろうなぁ、と思っています。

当たり前ですが、パターンに当てはめようとすると、特に即興はクソになります。「これで良い」といつも思えるだけの自信をつけるための稽古を毎度しているという感じです。違うことを恐れないように。
動きは毎度全く違う、そのことを良く思ったり不安になったりするのも私次第。お客さんとは一期一会、ダンスを見る人に伝わるのは私の自信や不安。
どんな日であれ、その日の最高のパフォーマンスができれば良いなぁと思います。
こういう風な動きが良かったとか、そういうのすら毎日捨てて行かなきゃいかんのです。

作品見て、「ストイック」という言葉を掛けられましたが、シンプルなだけだと思っています。
まぁまだ、シンプルというにも程遠く余分なものはいっぱいくっついているけれど。
ダンスはあんまりごちゃごちゃしない方が良いよね、本当は。


いっぱい作品作ってきて、それをお客さんに見せる機会もたくさんあったけれど、最早偶然や奇跡に頼っていても仕様が無いとも思うのです。確実にK点越え出来ないとな、と思う。
今回とか5回も公演あるから、ほんとそう思います。
どうなるのか楽しみ。



身体は楽器。

ダンスは音。

作品は音楽。

2013年7月12日金曜日

発狂してみる

ハタヤマンと板橋区を転々としながら、細々と稽古しています。
8/2〜4にSTスポットで演る"譚々"の稽古です。(見にきてね!笑)


今日、稽古をしてて、
何か今ひとつ突き抜けない感じ(主に自分)はどうするかなぁと思ったとき、発狂してみるってのはどうだろう?と思いました。

まじで精神的なものでは無いのであくまでもイメージのお話ですが、なんというか、もっと自分の身体に集中して前後不覚に我を忘れて思いっきりやったらどうだろうって感じで、発狂するって感じです。

あれだよ、今日稽古の前にブコウスキーの『ありきたりの狂気の物語』って本を買ったんだ。面白い。

そんでハタヤマンが今日、なんかまとまってきた気がすると仰ってました。
私もそんな気がします。
発狂させてみようと思ってまとまってきたってのは、何なんでしょう。


稽古するの楽しい。とにかく通す。
昔よりだいぶ変わったね、稽古のやり方も。

通しながら、自分が作品全体やりながら感じる感覚を大事にする。当たり前だけど、自分が集中してやるの楽しいと思えないと、作品もあんまり良い感じにはならない。らしい。たぶんそんな気がする。自分で自分が踊ってるのは見れないからなぁ。

ダンスみたいなものは、思い詰めて考えてみると、別に何か細かいテーマとか物語がはっきり伝わるわけじゃないから、結局、こっちが楽しいって感じることとか集中した感じとか噛み合ってる一体感があったりとかすると、見てる人にもキュッとしまってわくわくするようなものが見せられるような気がするよ。
少なくともわたしがダンス見てるときは、そんな感じで見てるみたい。
もしかしたらその先に、もっと何か伝わるものもあるのかも知れん、と思うけど、今はまぁ、そんなところだ。
そこらへんは巨匠がやれば良いよ。笑

なんでもそうだけど、表現みたいなもの、ダンスも当然、言動一つでも、まず為人が出るからなぁ。
踊ってるときの感情さえ、面白いほど見てる人に伝わっている。
別に感想でそのことをいう人が居なくても、多分思いっきりそれは出てるはず。
…いや、感情とかいう表面的な薄っぺらいものでも無いんだよなぁ、もっと奥底の、自分でも思っても無いことが出ちゃってたりする。隠し事は出来ないよ。
まったく、裸になったりするより随分恥ずかしいもの晒してんだ。



さて、稽古の映像を見なくちゃだ。

譚々は、植物をイメージして作ってる作品です。
うちにいる植物の皆さんを参考にしました。
暑くて大変そうですね、彼らも。だってねぇ、私も大変だもの。


というわけでした。

譚々、みんなになんて言われるんだろうかなぁ。
楽しみだー

2013年6月29日土曜日

作品と稽古

先日、ダンスについて話していたときのこと。

私のダンスの理論がある程度根源的なものに近づいているとしても、新しさがないよね、と言われた。私のやろうとしてることは既にやっている人がいるよね、という文脈だったかしら。

それから、新しさって何だろうと考えていた。だけどそのときふと浮かんだのは、「だからと言って目先の奇抜なアイデアを引っ張ってくる必要はないだろうな」という確信だけ。

その話を彫刻家のおばさんと話していたときに言われたことは、新しさって全体からしたら1%くらい、ほんの少しの部分に宿るんじゃないかということだった。だから、どれだけ作品を作っても尚満足せずに次を作り続ける羽目になると。

それでなんとなく今思うのは、新しさって、奥底のほんの僅かな個性が昇華して凝結したときに、例えば新しさという名のある種の奇抜さや強度が全体を覆うんじゃないかということ。
そのとき始めて順位ではなく好みの土俵に上がることが出来るんだろうと。
(だいたい、ヒトの造りは昔からそんなに変わらないんだから、技術革新だ!てな具合に関節が増えたりするわけでも無いんだし、新しいダンスなんて早々生まれないとも思うのですよ。)

自らとかけ離れたところにある個性はすぐに手に入るが、自らの内から作り上げていく個性ってのは果てしなく遠くにあるような気がする。その遠さは、自分の内へ向かう深さなんだろうけれど。
…なんて、考えが浅いのは百も承知で言っているが。


"ダンス"それ自体と"作品"がちょっと違うものだと思い始めたのはいつだったかしら。

最近作品の稽古していて、出演者の自分と演出の自分がいると意識が完全に引き裂かれそうになる感覚はどうしたものか。
至極当たり前のことなのだけど、今回は本当に別の人間が二人いる感覚が凄まじい。
意識が内に向かうか外に向かうか、それくらいのギャップがあって、稽古すらままならないくらいだ。
出演者として稽古すると、動くことや身体に集中してしまって作品の流れがまったく分からない。
それよりも作品の流れを考えていると身体が全く動かない、保たない、動いてもダンスにすらならないのが致命的。
そういう風なダンスの質に徐々に自分を向けていったが故なのだけど、果たしてこんな状況で良いものなのかしら?と思うこともあり、しかしながら出演者の自分の役割が全体を支配するところにないから今回だけかと思ったり。


まぁ結局、作り続けてみないと分からないってことだ。
パターンみたいなものもあるだろうし、そもそも私が私の作品に個性を見出す必要もないのかもしれない。自分で自分の個性を考えるのも割と馬鹿馬鹿しい。

ただ、なんとなく、今まで作った作品を思い出すと、何かが欠けている感覚ってのは自分の中にあるのかもしれないと思う。いつもそうだけど、作品全体のイメージが、"満ち足りたもの"ではない。なぜか、ある筈のものが無いとか無くなってくとかそんな感じのが多い。…気持ち悪いな、歴代ほとんどそうじゃん。なぜか。
そいや大学2年のときに作った作品で賞をもらった(割と初めて人様に認めて頂いた)ことがあったけど、あれは大根を摩り下ろしてくのがテーマだった。笑
(今となってはなぜ大根なのか、理由は全く分からない。)
なぜなんだ。

いや、そんなの知ったことか。
夜中だからだなー、こんなこと考えちゃうのは!!
忘れよ忘れよ。

2013年6月25日火曜日

昨日の稽古動画見てにやにやしていて、(今後の本番告知とか)

いきなり告知で恐縮なのですが

7/8(mon)夜
@江古田flying teapot
Sax,Trp,Percussionの即興Liveで踊らせてもらえるそうです、私も即興
細かいことは後ほど

8/2〜4(fri~sun)
@STスポット横浜
"N.N.N.4 ~踊り明かしてまた踊る~"
新作[譚々](20〜30分)
http://stspot.jp/schedule/nnn4-show.html


見にきてくれる方いたら、私の連絡先
maakiitoo(アットマーク)gmail.com

いや、是非見にきてくださいまし。
ダンス見たことないわぁ、って人も。ていうかむしろそういう君こそ見て欲しいのです。見て欲しいので久々にちゃんと告知書いてみたのです。





昨日はハタヤマン復活祭稽古で、
相変わらず稽古するより喋ってる時間の方が長いような稽古。

しかしハタヤマンが居ない間に構成が降ってきましたので、もうこれで多分構成は決まりです。私は"衝動買い"を信じる種類の人間です。

昨日の最後で、これで行けるなとふと思う。構成が決まりってことは大体振付も決まり。
最近は逐一振付はつけないでやっている。一人ならば、一人だからそうしてたけど、二人だとどうなのかしら。と思いつつ、やっぱり今までやってきたことは崩したくない。ので、やっぱり"振付"はしない方向で。

ほんの幾つかの流れとポイントだけ定めたらあとは毎度通す度にその場の最善を探り打率をあげる訓練のようなものなので、これから毎度勝負です。
それが作品の時間を、全体を最も引きで見るための私の方法で、私の中で作曲と呼ぶことにした。作曲ぽいので。

稽古動画面白くて、今日見直しながら一人でにやにや。程よくシュールで生々しい。こりゃ照明プラン考えるのが楽しみ。そして私のダンスにちゃんとなってる、なりそう。
(誰になんと言われようと)とりあえずイケてる作品になるんではなかろうか。
…わたしてきには!



「どんな人間の動きもダンスになる」というと語弊がある気がしている。
余分なものまでくっついてくる、それよりも、「ダンスは精度の高い無駄な動き」。ダンスにおいて動くことは目的だけど、動き自体に目的はない、という意味での"無駄"。

例えば、即興とかで私がダンスを人に見せる時のルール/重要視していること、

見る人が自分の身体のどこを注視しているか/全身の印象を意識して、全身の内部の空間意識/座標のようなものを感じつつ(それぞれの関節で身体をバラバラにし)、そこから最も予想外のポイントへ動きを流す/スイッチング、かといえ一々それを考えてないので、脊髄反射的に。
そうすると私もかつてやったことの無いような複雑で不思議な動きが"連鎖"していく。残念ながら今のところ抜きとりは出来ない。
私の身体の周りにボックスや球体のような空間があってね、という三次元の話では間に合わない。踊る私の身体の中で捻れて絡んでいる、恐ろしい速さの流れ。

ダンスっぽい素敵な技は排除している、やろうとすると妙な自意識がふっと浮かんでくるので集中力が途切れる。
実際の動きの種類としては普段の生活でやるような単純な動き。肘や膝を曲げたり歩いたりする程度の。重要なのは動き方、緩急(リズム)をつけつつ、かつ絶対に明確に、クリアに見せること。

というところまではやっていて、最近は動きと呼吸が果たしてどう連動しているのか、考えてる。
吐く方が全身の力は抜けて集中力は高まるので、連動する動きの鋭さやスピードが出る気がする。吐き切れば勝手に次は吸ってる筈なのだが、そこから先が微妙。

そこで、ヨガの登場ですよ。笑
ヨガは超細かい呼吸原則に則って、必ず呼吸意識しながらポーズだからね。



今日は一人稽古しながらいつもより色々考えた気がするのですが。

追伸、

今日は稽古前にヨガ講師の模擬レッスン面接があって、無意識にも緊張していたのか、昨夜は盛大に夜更かしをしてしまった。

もはや夜が明けそうな頃、煙草と朝ごはん買いにコンビニへお散歩した。
雨が上がってまだ間もなく濡れた道路は街灯に照らされて光り、しんと澄んだ空気に早くも鳥の鳴き声が響いていた。
とてもとても気持ち良くて、更に寝るのが惜しくなったのです、

ここ最近、自分史上最高にやりたいことしかしてない時間を送っていること、反省している。かといえやりたくないことはしたく無いので仕方ない。大丈夫なのか、、大丈夫じゃないんだけど。笑

2013年6月16日日曜日

音楽の時間

ぼんやり思うのは、
私がダンス作品を作るに当たって参考にすべき時間の扱い方は、演劇ではなく、音楽のそれだということ。

生のクラシック音楽に触れるときの感覚が好きなのだ。
気を衒う照明変化も一切ない、すがるような説明もない。あるのは静寂のみ、その状況で演奏家が楽器一つ手にして人前に身を晒し、たくさんの観客に演奏を聞かせるという状況。
演奏家にとってはごく当たり前のことなのかもしれないけれど、本当にすごいことだといつも思う。鍛錬を積むことで得た自らの演奏に対する揺らぎのない自信と楽曲に対する絶対の信頼がなくては立ち向かえないだろうと想像する。


昨年の、ベートーヴェンの第九を散々聞いた年の瀬に、カツァリスというピアニストがリスト編曲の第九を演奏しているCDを手に入れた。

これが、何度聞いても信じられないんだけど、何十人、下手すると合唱も入れて何百人で演奏される第九がピアノ一台で完全に再現されている。
リストの編曲も恐ろしいが、カツァリスの演奏も狂気じみている。すごいとしか言いようがない。
それよりもただただ、楽器一台に、本当に無限の可能性があるんだと心の底から思った。
ずっと1人で修了制作やってたときに、このCDに相当救われた気がする。


私が作品を作るに当たって重要なのは"見るということ"だと書いた。この前の修了制作作品も、それを一番意識していた。
そのときはPhill Niblockの映像が、そこにあるイメージをただ単純に"見る"ということを教えてくれた。何を見るかではなく、何が私の目を惹きつけ、見させるのか。

先日聞いた講演会で、あるコンテンポラリーダンスのプロデューサーが言っていたこと。
「ダンス作品を見るために、"分かる"ということは必要ない」
その通りだと思う。
…思っているよ、私は。


私にとってクラシック音楽はとても単純なのだ。
クラシック音楽というものが私にとってそれまで何も思い入れのないものだからこそ、個人的な経験を重ねることも音楽の歴史や事情に思いを馳せることも出来ないので、非常に好ましい、まっさらの状態で聞けるのだ。
聞いていて眠くなることもあれば、感動して泣くこともある。そうなる理由はそのとき聞いていた音以外に何もない。単純という言葉を抽象的と置き換えてもいいのかもしれない。
何ものかが進行する中で、鳴っている音を聞いていた、それだけ。


今作っている作品は、ラヴェルのボレロからモチーフを得ている。

ダンスやる身としては、ボレロなんて恐ろしくて使えたものじゃないと思っていた。が、GWにボレロの生演奏を初めて聞いて、そのとき演奏と共にある海外のアニメーション作家がライブドローイングをやっているのを見、あまりに自由な表現に衝撃を受けた。
だから私もやってみようと思った。


さあ、夜は更けてゆく。

2013年6月15日土曜日

職業病らしきもの

たまに銭湯に行くのが好きで、行くと大体2時間位いる。

そもそもリラックスなんて生易しい目的でもなく、娯楽も通り越してもはや儀式みたいになりつつある。
しょっちゅう行こうとは思わない。
やることがたくさんある。

皮膚がふやけていくのを観察したり、普段適当にやってるマッサージを入念にしたり、湯船の中で深呼吸したり動いたりして水の抵抗で遊んだり、サウナで汗をかいたり脈拍が上がったりするのを観察する。
あと何よりも人の身体を観察するのが面白い。こう言ってはなんだが、空を見る振りしておばあさんの身体とか凝視している。
身体の特徴が経年によりデフォルメされているおばあさんの骨格は未知のゾーンなので、非常に勉強になる。


今まで行くのは近所の銭湯だったので、本当におばあさんしかいなかった。

それにしても、銭湯友達と交わされるおばあさんたちの会話はぎょっとするくらいブラックジョークが満載だ。
「お久しぶりね~生きてた~?」
「まだ死んでないわよ~」
しかも耳が遠くて聞き取れなかったりするので、えげつない会話が湯気とともに宙に舞ったまま回収されていない。

最近スーパー銭湯が家から割と近いことを発見したので、そっちへ行く。老若いろんな人が居て私としては何よりです。
まぁ女性しか見れないけど。


前方を歩いてる人の身体を観察して、今後その人の身体がどうなって行くか考えるのが癖だ。その時役に立つのが、銭湯で観察してストックしてある老体の数々。前方の方の後ろ姿におばあさんの裸がこう、トレーシングペーパーのようにうっすらと浮かんでくるのよ。

よく日本人は歩き方が汚いというけれど、まさに汚いので観察のし甲斐がある。
まじかよ?!って振り返って二度見するような変わった歩き方の人とか多い(特に板橋区)。
女の人は筋力がなさすぎて靴が可哀想なことになっている。折角高いヒールを履いているのにヒールの上で歩いてるものだから、脚が短いんですよって逆にアピールしている感じ。
男の人は非常に不思議な筋肉の使い方をしていて非常に不思議な歩き方をしているのを見かける。踵が浮いたまま歩いてるとかアンビリーバボーすぎる。ふくらはぎの筋肉に同情する。
女性のO脚も然りだけど、男性のO脚もなかなかに許し難い。あれはスーツマジックでも隠しきれない。

自分のことはさて置き、O脚や背骨の歪みなどなど、歪な身体はどうにもエネルギーが節々から漏れているような感じを受けるのだ。立っている時にすっと昇っていく筈のエネルギーがいろんな関節で屈曲して上まで行かない感じ。


この間美術モデルやってるお家へ行った時、参考にするために切り抜いたのであろう、サプリメントのチラシが置いてあった。
裸の男女の後ろ姿の写真だったのだけど、写真を逆さに見ると左右の歪みが物凄くはっきり見えることが分かった。
こりゃなかなかの発見じゃないか!と思ったけど、普段逆さから見られるわけじゃないので別に活用する機会もないだろう。


クラシックの演奏家だと、女性は肩や胸を露わにしていても足元の隠れるロングドレスを着ていることが多い。優雅で素敵に見えるんだけど私としては大体ドレスの中の脚が透けて見えるので、時に演奏そっちのけで脚の様子がどうしても気になる。
この間見かけた歌手、「私は女優よ~」とか歌っているのに、言葉は悪いが体つきがとても下品で萎えた。
大方の人はそんなこと気にしてないのだろうけど、そういうことが影響して音にも多少の違いがあるんじゃないかと思っている。…ないかもしれない。

手相や顔相占いではないけれど、体つきや動きが人格を表してるということは少なからずあるんではなかろうか。


…ま、どうでも良いことなんですよね、大体が。
たまに人に話しても「は?」って顔されるので、残念ながら職業病だったのかと最近自覚した。
しかも、人の顔をはっきりと思い出せなくても、その人の立ち姿とかはよく覚えている末期症状。

2013年6月14日金曜日

最近のこと

なんだか書きたいことはいろいろあったのだけど、一つの文章にするのが億劫だった。
最近ここに日記書くときは、一本まとめるのに軽く数時間はかかる。何かを書き連ねるというより、文章として表す、そのエネルギーがふと湧いてきた時でないと書ききれない。

そしてそのエネルギーは最近別のところへ出掛けているので、支離滅裂のまま書いておく。



ヨガを勉強し始めたとき、ヨガの思想について知りたくて本屋へ行った。

まずは健康・美容の棚ではなく、それまでの癖でつい東洋思想系の棚へ行ってみた。
本屋と云うのは面白いもので、棚を横へ横へ移動しているとだんだん興味が薄れていったり濃くなったりする。
ヨガについての棚の一つ手前の棚はそれはそれは怪しげな宗教色の強い本や日本でも有名な宗教家の著書がたくさん置いてあったのだが、その中にあった『音の神秘ー生命は音楽を奏でる』という本が気になって、何故か買ってしまった。

この本は、もとはヴィーナーという楽器の奏者だったハズラト・イナーヤト・ハーンという人が、神秘主義を中心とした芸術や音楽、生命についての考えをまとめたものだ。
この本はヨガの思想についても触れていたのだが、何故買う程惹かれたかと言えば、音のことや芸術についても書かれていたと同時に、普段自分の考えていることが随所にそのまま書かれていたこと、また自分が考えていて辿り着けなかった答え(言葉)が書いてあったからだ。
だが、読んでいて非常に気持ち悪い。自分がそれまで探していたある種の結論が、全て「霊感」という言葉に集約されている気がしたからだ。
しかしふと思う、それに嫌悪感を抱く自分が確かにいるのだが、嫌だと思う自分もまた何らかの信念に基づいて思考しているのだろう。少なくとも私はこれまでスーフィーとして生きてきたわけではない。そんなことは当たり前のことだけど、だったら今まで分からないと思っていたことも、ここに書かれた言葉で決着をつけることもなく分からないままで良いか、と思った。この本に書かれていることをそっくり受け取るつもりはないし、分からないままに、その感覚を的確に表現しよう、と思った。
自分が無神論者だとも思わない。ただ信仰に対して意識せず、曖昧なまま生きていられるというだけだ。



大学院に居ると、自分の信念(専門)に従ってある種の結論(言葉)を的確に表現しなければならない。
そのためにたくさんの本を読み、たくさんの知識を手に入れ、先行研究が何を結論付け、自分はそこから未来に対して何を語るのかが重要となる。
それが悪いこととは思わない。その労力を間近で見ているからこそ、むしろ個人的にはかなり尊敬している。その方法は私には無理だと思ったけれど、別のやり方で私も同じ位自分の言葉に責任を持ちたいと思った。が、それは博士に進んでやることではないと思った。

人は誰しも言葉を使って考え、語る。
だが多くの人は曖昧な言葉をさも自分の持ち物のように好き勝手に振りかざす。意識していないだけ、といえば、そうだ。
研究者が完璧なまでに客観的な事実に基づいて言葉を扱うとしたら、芸術家は究極に透明な、主観的な言葉を扱う。…ちょっと適当に書いている。



それで、大学とはおさらばしてヨガの先生の資格をとってみた次第。
私にとっては、人に身体のことを伝えるのは、自分のダンスで、ダンス作品を制作することとイコールで繋がっている。少なくともヨガは私にとって接客の方法論。



前から考えていることで、話したこともあるかもしれないけど、
あくまでも私の考え方だと、ダンスは動きの種類や振付のことだけを指すわけじゃない。というと誤解を招きそうなのだけど、ある特定の動きの、その格好や姿を"ダンスの動き/ダンスでない動き"と区別するのは非常にナンセンスで、むしろ重要なのはどんな人間のどんな動きもダンスになるという可能性。(火曜日に聴いた講演会の言葉で言うなら、振付=買い取られた死んだ身ぶり)
ならば私がダンスである/ダンスでないと区別してみようとする基準は何なのかといえば、動きはどの様なものであったとしても、動き方や質、ないしは動きの見せ方の部分にダンスが見出せるかということ。
身体において、それらの条件を満たし超える可能性を引き出すのが振付だと思う。脚を頭上まで振り上げたり、ものすごいスピードで自転することに意味や価値はあるかといえば、全くない。あるのは人間の身体のスペクタクルだけ。だけどその動きが、例えば美しさも備えていたらそれだけで説明は不要だし、動き一つで観客の知覚を惹きつけることが出来る。
そこで重要なのは、動きの強度だ。例えばより純粋に、スマートに、無駄なく動きを行うこと。一瞬一瞬に生まれては消える動きを、"それでしかない動き"に高めて繋いでいくこと。



それでもって、じゃあダンスを作品にするってなんなんだといえば、少々事情が違う気もします。しない気もします。しますが、あんまりよく分かりません。
今度30分作品を発表させてもらえることになって今稽古してるけど、はてどうしたものか。

なんとなく最近思うのは、私が作品において表したいものは、私の"見ているということ"なのかもしれないということ。



"何を"見ているかでない。むしろ目に見える物を見ているわけでもない気もするし、
敢えて"目"や"見る"ということを掲げるのは、私がダンスという表現方法を使うからだと思う。
観客に"見ている"という行為を問う、と言ったら言いすぎか。

長らく、目が悪いくせにメガネもコンタクトもせず、あまり見えていない状態のまま過ごしている。今日のような時化ている日は特に見えない。
世の中は少し見えない位がちょうどいい。大切なことは目には見えない。仕事の時はメガネかけるよ。
たぶん、感覚だけで生きている。



8月2〜4日に横浜のSTスポットという劇場で、新作の小作品を発表します。

タイトルは「譚々」、テーマはおそらく植物、なのだと思う。
大学学部時代の作品たちは大体タイトルが平仮名だった。院のときは英語。卒業したらとりあえず漢字になった。特に意識はしていないが。

先日は相方を借り出して稽古をしてみたけれど、稽古というよりもはや茶話会だった。
表現やパフォーマンスのこと、よもやま話をして幾つか作品の構成を試してみただけだけど、少しずつ作品の形が見えてきた気がする。相方くん、こちらの「理由は無いけどなんとなくこうしてみようと思った」に対する器の広い対応力が半端なく、これまでどういう鍛錬を積んできたのかと聞きたくなるくらいだ。
私が見失わなければ、繊細で強固な作品になるだろう。



数日に渡って書いていたものを、推敲せずに上げている。酷い。酷いけれど、記録しておかないと消えてしまうものがありそうで書いた。

ちょっと書類を書こうと思って昔のブログを見たけれど、書いてることがあんまり変わってなくて萎えた。
ただ言葉の選び方だけが、なんだか気持ち悪く感じた。

2013年5月14日火曜日

雑記「変化」

最近、植物を育てたり切り花を貰ってきたりしていて、現在部屋が軽く植物園みたいになっている。

土に植えている葉っぱ系植物の方が地味だけど成長がポジティヴで良い、切り花は綺麗だけど枯れてゆくばかり。
でもまだ蕾の多かった大量の百合の花は酔いそうなくらいの匂いをワンルームに撒き散らしていて、部屋に帰る度懐かしき発表会気分が味わえる。

植物のみなさんには特に話しかけたりはしない。物言わぬ相手に話すほど飢えてはいない。というかそもそも話さぬ相手に話す気が起きない。
しかし観察していると毎日ちょっとずつ変化していて面白い。ここ数日はニオイシュロランさんと茗荷さんの寄せ植えがデットヒートを繰り広げている。狭い鉢ですまんよ。



美術モデルとしてお世話になっている(私、ただ話しに行ってご飯貰うだけ)彫刻家さん、最近作風を変えようと試みているらしく粘土相手に試行錯誤している様子を見ていると面白い。
先週、割と完成形まで持っていった私の形を4〜5体見て、針金の骨組みまで粘土が剥がされるのを2度見た。

長らく作品を作っている中で何時の間にやら出来映えを気にして小綺麗な感じになっていたものを、血気盛んで荒々しかった昔の作風に戻したいらしい。
たくさん作品を作ってきて今、何も考えずにつくっていた頃の作風に近づけるとはどの様な作業なのか。
毎度のことだけど、出来上がるのが楽しみだ。



最近、母が変わった。
無論、戸籍などの話ではなく、母の言うことや考えることが以前とは少し違うように感じるということだ。既に7年離れて暮らしていて勿論私自身が変わったことにも依るだろうけれど、それまでは私にとって保護者としての"母親"だった人が、一人のおばさんとしてそこに居るように感じられるのだ。しかしよく云うところの、"母親と友達感覚"とは全く違うことは前置きしておく(そもそも家族は友達ではない)。
このことを悲観したいのではなく、むしろかなり面白いと思っている。母、観察してて大変興味深い。

思い返せば事の発端は、無趣味を豪語する彼女がヨガを始めたことだった気がするのだ。
自分の身体で感じることや身体の変化を私に話す様になり、次第に嫌なことは嫌だと言って避ける様になり、代わりに本を読むようになり、私が東京で連れ回しては見聞きさせる音楽や美術に興味を示すようになった。
アピール上手の弟が課題で作る作品をせっせと母にメールで送りつけていることも手伝ってか、それまでは「よく分からない」と一蹴していた芸術作品等々に対しても今は聞けば感想を言う。
先日は言葉の使い方すら変わっていて、びっくりした。

今後母は一体どうなってゆくのか。



永井荷風をしばらく読んでいて、もう一冊行こうかと思う前に口直しで文庫版のつげ義春『義男の青春・別離』を見つけたので昨日一気に読んでみた。
そもそもつげ義春で口直しってのが間違いだったのだが、案の定非常にぐったりだ。挙句、今朝は非情に胸くそ悪い夢まで見る始末。

いいかげん捨ててしまいたい感情をわざわざ掘り起こされるようなシチュエーション、しかもつげ義春風。最悪。
感情という最も主観的なものを、引きで見られるほど私は出来た人間ではない。変わりたいのに、なかなか思うようには変わらない。


さあ、夏が来ることになった

2013年4月30日火曜日

無題

「…ついでにいっておくが、ハイネは、正確な自叙伝なんてまずありっこない、人間は自分自身のことでは必ず嘘をつくものだ、と言っている。彼の意見によると、たとえばルソーはその懺悔録のなかで、徹頭徹尾、自己中傷をやっているし、見栄から計画的な嘘までついている、ということだ。ぼくは、ハイネが正しいと思う。ぼくにはよくわかるつもりだが、ときには、ただただ虚栄のためだけに、やりもしないいくつもの犯罪をやったように言いふらすこともあるものだ。それから、これがどういう種類の虚栄であるかも、ちゃんと心得ているつもりだ。しかし、ハイネが問題にしたのは、公衆の面前で懺悔した人間のことである。ところがぼくは、ただ自分ひとりのためだけに書いている。そして、きっぱりと断言しておくが、ぼくがまるで読者に語りかけるような調子で書いているのも、それはただ外見だけの話で、そのほうが書きやすいからにすぎない。これは形式、空っぽの形式だけであって、ぼくに読者などあろうはずがないのだ。このことはもう明言しておいた。
ぼくはこの手記の体裁については何物にも拘束されたくない。順序や系統も問題にしない。思いつくままに書くだけだ。
もっとも、こんなことを言うと、その言葉尻をとられて、諸君から質問を受けるかもしれない。もしきみがほんとうに読者を予想していないのなら、順序や系統も問題にしないとか、思いつくままに書くとか、そんな申し合わせをわざわざ自分自身とやっているのはどういうわけだ、しかも紙の上で? いったい何のための言いわけだ? 何のためのわび口上だ?
〈いや、実はそこのところだが〉とぼくは答える。
とはいえ、ここには複雑な心理があるのだ。もしかしたら、ぼくがたんに臆病者だということになるかもしれないし、また、もしかしたら、この手記を書くにあたって、できるだけ羽目をはずすまいために、わざわざ自分から読者を想定しているのかもしれない。そんな理由なら、何千となくある。
だが、もうひとつ、こういうこともある。いったいぼくは何のために、なんのつもりで書く気になどなったのか? もし読者のためでないとしたら、頭のなかで思い起こすだけで、何も紙に移すまでのことはないではないか?
なるほど、そのとおりだ。だが、紙に書くと、何かこうぐっと荘重になってくるということもある。そうすると、説得力が増すようだし、自分に対してもより批判的になれるし、うまい言葉も浮かんでくるというものだ。そのほかに、手記を書くことで、実際に気持が軽くなるということがある。たとえば、きょうなど、ぼくはある遠い思い出のためにとりわけ気持が滅入っている。これはもう数日前からまざまざと思い起こされて、それ以来、まるでいまわしい音楽のメロディーかなんぞのように、頭にこびりついて離れようとしないのだ。ところが、これはどうしてもふり切ってしまわなければならないものである。こうした思い出がぼくには数百もあるが、その数百のなかから、時に応じてどれか一つがひょいと浮かびだし、ぼくの気持を滅入らせるのだ。どういうわけかぼくは、それを手記に書いてしまえば、それから逃れられるような気がしている。どうして試してみてはいけないのだろう?」
ドストエフスキー『地下室の手記』



「読者の望み、それは自分を読むことだ。自分がよしとするものを読み、これなら自分にも書けたのになどと考える。また彼は、その本が自分の場を奪ったことや、自分では語るすべも知らなかったことを語ったとして恨む。自分ならもっと巧みに語れるのにと思いさえもする。
本というものはぼくらにとって重要になればなるほど、その読み方は難しくなる。ぼくらの本質はその中に滑り込み、ぼくらの用途に合わせてその本を考えてしまうからだ。」

「ぼくらは誰もが病人で、しかもぼくらの病気を扱った本しか読むすべを知らない。それが恋愛を扱った本の成功となる。だれでも自分だけが恋愛を経験する唯一の人間だと思っているからだ。彼はこう考える。『この本はぼくに宛てて書かれている。他の誰にこれが理解できるだろう。』複数の男性が一人の女を愛しており、自分たちもそれぞれ彼女から愛されていると信じこんでいる。そして皆がその本を彼女に読ませようとあせる。はたして彼女は『この本はなんて素敵なの。』と言う。だが、彼女は別の男を愛していてそう言っているのだ。」
ジャン・コクトー『ぼく自身あるいは困難な存在』ー読書について



「主観的であるとは、執筆者が、文章の意味を自分だけで理解して満足していることである。読者は読者なりの理解のしかたで読んでも結構という態度である。つまり執筆者は、あたかも独語調で読者を無視してものを書く。だがペンを執る以上は対話調に書くべきであろう。もっとも対話といってもだれも問い返してくる者はいないのであるから、それだけいっそう明瞭に表現する義務があるのはもちろんである。だからこそ文体が主観的になるのを避け、つとめて客観的にすべきである。それには読者をあらぬ方向に走らせぬ文章、著者が考えたことをそのまま読者にも考えさせる迫力ある文章を作らなければならない。だがこうした文章をものするのは、思想が重量の法則に従うという事実を常に銘記している著者だけであろう。つまり思想というものは、頭から紙に向かうのは容易であるが、逆に紙から頭に向かうのは大変なことで、その場合には手持ちのあらゆる手段に助けを求めなければならないのである。さてこのような法則に従った文章ができあがると、そこに記された言葉は、完成した一枚の油絵のように、客観的に作用する。これに反して、主観的な文体の働きは、あやふやで、壁に付着した染みにも劣る。染みならば偶然想像力を刺激されて、そこにある図柄を見る人が一人くらいはいるにしても、普通の人には要するにただ染みを見るにすぎないのである。」
ショウペンハウエル『読書について』



「『私は真実のみを、血まなこで、追いかけました。私は、いま真実に追いつきました。私は追い越しました。そうして、私はまだ走っています。真実は、いま、私の背後を走っているようです。笑い話にもなりません。』」
太宰治『もの思う葦』ー或るひとりの男の精進について

2013年4月26日金曜日

シャワー浴びながら考えたこと

シャワー浴びながら考えたこと
を文字にしてみる。


東京都現代美術館に、フランシス・アリスという現代美術家の展覧会を見に行った。
彼はアクションの記録映像からインスタレーション、絵画の作品など、色々な作品を作っている作家で、最近広く認知されるようになってきている人だ。
「何にもならないこともしてみる」というコンセプトで、一日中氷の塊を押しながら街中歩いてみるとか、ビデオカメラを持って竜巻の中に突入するとか、とにかく無意味な(私にとって無意味であることは重要だ)アクションを作品化しているものが印象的だった。

展示の最後に、彼の活動と周辺の人々へのインタビューを収めたドキュメンタリー映像が流れていて、あるアートディレクターの言っていた事がとても興味深かった。
かいつまんで言うと、芸術にとって重要なのは作品だけであって、作者のパーソナリティや個人的な物語ではなく、只そこにある作品が面白いかどうか、それだけだと、そして面白い作品とは社会に変化をもたらせるかどうかその一点のみにかかっているということだった。

展示スペースを出て、最初に目に飛び込んできたものを見て、なんとも不思議な感覚になった。
そこには、美術館の隣の公園で近所の中学か高校かサッカー部の男の子たちが二人一組横一列になって部活前のアップをしている風景があった。規則的にならぶ木々の間から規則的にならぶ人々が見えたその風景はまるで、"作品"のように見えた、気がした。


社会に変化をもたらす、とは、つまり人々の感覚を変えるということだ(ここに善悪の問題は関係ない)。人の感覚を変えること、それが芸術の面白さのうちの一つだと思っている。
そして、新しく生まれる芸術作品は常に、境界からはみ出したものだ。それは未来を映し出す(と記憶しているのだが)。



今、私が勉強して習得しようとしている事は、より直接的に人の身体の感覚を変えるための言語だ。

人の身体の感覚を変えたい。変えられる。自分自身、芸術作品を通して感覚が変わるのを知っている。
そして、自分のダンスの方法でほんの少しだけ自分の感覚が変わる/鋭くなるのを知っている。
変わることは明らかに別様になることだけではなく、より精密になるということでもあるかもしれない。しかし、二つの状態を見比べられる、という至極単純な理由で、客観視できることと似ているのかもしれない(違うかもしれない)。

他人から見れば些細なことかもしれないが、私は自分自身を如何様にも変えられると思っているし、変化せざるを得ないと思っている。
私は小さい頃からずっと、他人が私に対する特定のイメージを押し付けてくるのを最高に気持ち悪いと感じて、常にそこから抜け出ることを考えている。矛盾するように聞こえるかもしれないが、だからこそ他人から押し付けられるイメージを見せかけで演じる事ができるんじゃないかと思っている(下らない自信と全くの自己満足だが)。
それでも、演じているとたかをくくっていても、それが何時の間にか自分自身の感覚や意識、思考として染み付いていくのは否定出来ない。だけど、だからこそ、また変わるとこができる。
逆に変わらないことといえば、自分の身体が老いてゆくこと、とかかしら。


むしろよく知らないのは社会の方だったりもする。それは今まで蔑ろにしてきたもの。
最近よく近所の小さい本屋を巡回してみる。どういう事に多くの人の興味が集まっているのか知りたくなったから。小さい本屋だからこそ、よく売れる本しか置かない。下らないと思っていた本や雑誌を目に付くものから立ち読みしてみる。


自分の身体で起こり得る感覚の変化を他人の身体においてもたらそうとする事は、ひょっとするととても恐ろしい欲だとも思う。身体の感覚が変われば、思想や意識すら変わるかもしれない。ともすると、そのやり方は宗教的ですらある(宗教が悪いものとは思わないし、宗教は文化の根幹になる)と思う。柔らかく言えば、教育的だ。


直接的に他人の身体の感覚を変えることは、私にとっての小さな芸術としての試みであり、後にやろうとしていることの下地だと思っている。
少なくとも、私はすでにある"芸術"の評価軸には絶対に乗りたくない。



水が溢れる蛇口からも、捻れば水滴が垂れるだけ。
…まとめにもなってない。

2013年4月10日水曜日

ダンスの感想、理想

少し前に私が即興で踊ったのを見て下さった方から、お手紙を頂いた。


その方は今まで、ダンス自体目にすることがあまりなく、どう述べれば良いか分からないけれどと前置きしながらも、見た時の感想やその後思ったことをとても丁寧に文章にまとめてくださった。

私がその手紙を受け取って何より嬉しかったのは、内容も去ることながら、大分日が経っているにも関わらずその時の感覚を思い出しながら手紙を書いて下さったその方の熱意だった。

ダンスのような、そのときその場で行われるものは物質としての形に残るものではないから、当然終われば形なく消えてしまう。
クサイ言い方かもしれないけれど、ダンスがどこに残るかといえば、見てくれた人の記憶の中のみ。
だから、その方が記憶の中に私のダンスを残しておいてくれたことが単純に嬉しかった。
私にも、忘れられない感覚を味わった、今でもはっきりと思い出せるダンスの作品が幾つかある。



ダンスのことはあまり詳しくないから、と尻込みしてしまう観客に対して、それでもいいから何か感想を言ってくれ、というのはダンサーの傲慢この上ないと常々思っている。もし、ダンスがそんなところにしかないのなら、いつまでも"理解されない"ダンスなんだと思う。

精通しているわけではない人が、ダンス作品を目にして非常に興奮して感想を言っている姿を見たことがあるだろうか。
自分がダンスにどれだけ詳しいとしても、その人の感覚には絶対に敵わないと思わされる。一流の観客とでも言うべき人が、居る。
そして一流の観客の体験したものが、一流の観客を生み出すものが、本当のダンスなんだと思っている。

私自身は、その感覚を、音楽を通して知っている。


ダンスは間違いなく、"難しいもの"ではない。"理解されたい"と思って踊ることすら、ある意味的外れだと最近気づいた。
でも、"難しいものじゃないんだよ"というダンスを踊ることが、そんなことどうでも良いと思わせることが出来るだけのダンスを踊ることが最も難しい。
自分のやっていることに共感してくれる人を増やしたいんじゃない。人を惹きつけるに十分なくらい、自分のやっていることを高めたい。


そんなこんなで、自分のダンスが、世の中にどうやって在るのが良いのかということを最近よく考える。
そういうことはつまるところ自分のダンスそのもの。

強がりだとは分かっていても、誰かに与えられる価値に縋る必要はないと思っていたい。
何に価値を見出すか、何処に価値を見出すか。自身の内に見出された価値が結局、ダンスそのものだと思う。


世間知らずの理想論ってことで結構よ。たぶん、そんなもんだよ。
私にとって、ダンスのことだけは、それくらいで良いです。

2013年4月2日火曜日

情熱ということについて(岡潔・小林秀雄『人間の建設』、フランシス・ベーコ ン展)

岡潔・小林秀雄『人間の建設』(新潮文庫)

最近読んだもののうち、数学者の岡潔と批評家の小林秀雄が対談しているものが活字になった『人間の建設』という本がとても面白かった。
対談自体は1965年と少し昔のものだけれど。

岡潔の言葉が興味深い。特に数学における知性と感情の関係についての話は数学の枠をはみ出した感性で語られていて、数学をよく知らない私にとっても数学の面白さを感じさせる。

"抽象的になった数学"、もともと抽象的とも言える数学が、内容を失ったとき、いよいよ単なる観念になってしまう。内容のある抽象的な観念は往々にして抽象的とは感じないものだが、実在を失って空疎な内容しか持つことの出来ない観念は抽象的になってしまうということ。

"知性と感情の関係"、知性や意志には情を説得する力はなく、しかし心が本当に納得するためにはどうしても感情的な同意が必要。感情といった類のものとは最もかけ離れた場所にあるように見える数学の世界において、実は感情が納得しなければ数学は成立しないということが研究で実証された。数学の歴史が四千年あって、最近初めてそれが分かったのだそう。

特に興味を引かれた二つの項目。
(それにしても、数学者っていったい何をしている人なのだろうか…?今まで数学者には会ったことない。)

全く意味がわからない数学の言葉を使っていても、岡潔の言葉は何故かすっと(なんとなく)理解できるように感じてしまう不思議。

「人は記述された全部をきくのではなく、そこにあらわれている心の動きを見るのだから、わからん字が混ざっていてもわかると思います。」(岡・124頁)

そう自覚している人だからこそ、言葉の使い方や発し方には気を配っているんだろうなと思う。そのような点で小林秀雄の批評の在り方と通じるところが見受けられて、分野が全く違う2人ではあるけれどその会話は円滑で淀みなく、むしろ普遍性に富んでいる。
つまるところ2人が話しているのは"人間の建設"について。


*****


フランシス・ベーコン展 @国立近代美術館

展示の中には、今まで参考資料の図版などで何度も目にしている作品も幾つかあった。一見しただけでは一体何を描いているのか分からずに混乱した、ベーコンの絵を最初に図版で見たときのあの衝撃は忘れられない。その衝撃は美術館で実物を前にしてこみ上げることは無かったのだが、改めてベーコンの絵は一体何を描いているのか考えてしまう。

先に感想をまとめると、展覧会としてはあまり完成度が高いとは思えなかった。
これまで日本ではベーコンの展覧会自体が珍しいのだから、仕方ないとは思う。集められた作品の数が単純に少ないし、もっと各セクションが深く捉えられるように展示してほしかった。
そして展覧会全体を通して、あくまでも主観的な感想ではあるが、身体という言葉の扱い方に疑問が残る。


一つ、実際に作品を目にして明らかに私が感じたことは、ベーコンの絵は常に身体がテーマになっているが、身体を描こうとしているわけではないということ、さらにキャンバスに描かれているのは身体ではないということだ。
私がベーコンの作品を前にして目を奪われるのは、筆跡だった。身体であると分かるものを構成する絵の具の塊、筆の動きの痕跡。それは絵画として描かれたものだ。

だからこそ、ベーコンの作品から、ある種のポーズを読み取ること自体が無意味な行為(解釈)だと感じるのだ。
確かにベーコンの絵を見て一番興味が惹きつけられるのは、歪められ引き伸ばされ再構成されている身体の姿だ。しかし、例えばベーコンにとって身体がそのように見えるからそう描かれている、などという物語的想像がどれほど作品にとって必要なのかと考える。

私はそもそも、作品を"理解する"ということに興味がない。それよりも、ベーコンがキャンバスに描こうとしたもの、そして結果的にキャンバスに描かれたものがそこにあるだけで十分であり、只、ベーコンがキャンバスに向かう圧倒的な情熱を感じるためにもっと作品を見たいと感じるのだ。


*****


結局、情熱というものがあぶり出すものにこそ心預けられるのかなと思う。
よく母がいう、"入り込んじゃってる人"は見ていて大変惹きつけられるものがある。例えば、音楽の演奏家とか。

情熱ということについては、岡潔と小林秀雄も語っていた。

小林秀雄の文章の読み方はとても好きだ。文章から為人を読みとるような感じのもの。それはまず、情熱を感じ取ることを頼りにしている気がする。
いつだって、情熱は、伝えようとする内容より少し手前にあるものだ。


「言い表しにくいことを言って、聞いてもらいたいというときには、人は熱心になる、それは情熱なのです。そして、ある情緒が起るについて、それはこういうものだという。それを直観といっておるのです。そして直観と情熱があればやるし、同感すれば読むし、そういうものがなければ見向きもしない。そういう人を私は詩人といい、それ以外の人を俗世界の人ともいっておるのです。」(岡・72頁)

2013年3月20日水曜日

屁理屈の一分

纏まりのない文章をひとつ。


ここ一、二ヶ月、非常に穏やかな気持ちで過ごしてる。

それは感情が凪いでいるからなのだが、まぁこれが、全くもって生きている感覚が無いという問題でもありまして、困ったもので。
感情のうねりで気持ち悪いくらい考え事して、ギチギチの嫉妬や自己嫌悪みたいなものが渦巻いているほうが、残念ながら生きている感覚はあるのです。そりゃもう残念以外の何ものでもありません。


僧侶のように穏やかな気持ちで、ぼんやりとこれからのことを色々と考えました。
同時に、「何もしない時間」についても考えました。いよいよ悟りの道が開けそうです。

それなのに。先日久方ぶりにダンスのことを本気で考え始めるや否や、頭が異様に冴えてくるのが分かって、さて、どうしたものか。
ダンスのこと、身体のこと、表現のこと、そういうことを考えるのがやっぱり好きなのです。何より楽しいのです。アドレナリンみたいなものが分泌されます、どうしてこうなっちゃったのですか。

しかしまぁなんと言いますか、そういうことをいくら考えたって、所詮お金にはならないわけですよ、

…ひとつ、お金になるかならないかという基準は、多くの人の人生において正解/不正解の線引きをするものなのやも知れません。
が、正解や不正解なんて往々にしてどうでもいいものでして、大事なのは勝つか負けるかの話です。
誰と戦っているかといえば、他ならぬ自分です。

昔宝塚を受験しました。
中学生の私が考え得る、ダンスや舞台に関わりながら金を稼ぐ方法のひとつでした。
まぁ見事に落ちたわけですが、先日ヨガのインストラクターをしている宝塚出身の人を見かけて、着地点は同じだったのかと一人納得してしまいました。
その時から今まで、考えていることは結局同じです。むしろ学歴が付いたお陰で、ややこしい感じに箔が付きました。肩書きすらあります。


器用貧乏な自分を追い詰める為、「無駄なことはしたく無い」と日々心の中で唱え続けております。
次に「無駄ってなんだよ…」と考えております。
そして着々と悟りの道は整地されています。

そういうことしてるから、「そんなことはどうでもいいから踊れ」と思われてしまうのでしょう、
今までにもいろんな人に散々そのようなことは言われましたが、残念ながら考え事するのも私の身体の機能の一部なので仕方ないのです。
ただ単純に踊れるってだけの人間ならどれだけ良かったか。


ダンスや舞台、芸術すべては結局多くの人にとって無駄なものです。
無駄じゃない、必要なものだ!と言ったって仕様がないのです、だって間違いなく無駄だもん。

しかしその逆に必要なものはどれだけ本当に必要なものなのか考えてると、芸術はむしろはじめから無駄なものってだけ自由でマシだと思うのだけど、どう?
屁理屈だろうか。屁理屈だな。



今日の気候は、私が卒業出来なかった記念の傷心旅行に行った去年の5月の欧州の気候によく似ています。
あのときも、一日一回舞台を観る以外の時間は何もしない時間だったなと思い出します。毎日同じ街をぼーっと歩いたりしてた。


ダンスや舞台のことがなければ、私は本当に亀みたいな生活をしてたと思う。ダンスがあるせいで、私の生活はむしろどうでもいいことだらけになってしまったのだよ。

踊りたい。負けたくない。

2013年3月10日日曜日

subjective

先日、仲良くしてくれているおじさんを囲んで飲み会が開催された。

この方は、それはもう輝かしい職歴とセンスで舞台や音楽などの文化芸術事業を切り盛りしている方だけど、相当気さくなおじさんで、話していてとても楽しい。
あれをするといい、これをしたらいいと好き勝手に若造の私たちに人生の指針を示して楽しんでいる。
私も、映画俳優になれだの億万長者と結婚しろだの色々言われた。

無責任で、だけど誰よりも本人が楽しそうに話すから、こちらも話を聞くのが楽しい。


「人に何かを教えるということは、宗教とそんなに変わらないものよ」と言ったのはフリーランスのメイクの先生をしている職場の先輩だった。
初対面の人に自分の伝えたいことを伝え理解してもらう為には、まずは出来るだけ短い時間で人の心を掴めるかどうかにかかっているという。教える技術とは、方法を知っていることはもとより、その方法が優れていることを伝えられるかどうか、というところにある気がする。
相手の知らないことをこちらが教えるとき、極論で言えば相手にそれが嘘か本当かを考えさせる必要はない。必要はなのは、こちらの言うことを信じさせる力であり、相手がこちらに開き身を委ねたとき、相手の内において"真実"が芽吹くのだろう。それは確かに、宗教と似たようなものがある。

「この人の言うことはなんだか素敵なことかも知れない」と思わせるものは、何もその人の言うこと、その内容のところに全てがあるわけではない。
説得力。それは立場や役割が理由となっていることもあるけれど、大方はその人から醸し出される雰囲気みたいなものやその人が経験してきたものが重要な要素だったりする。そして結果的にその様なものは言葉にも反映されているだろう。


当たり前のことだけれど、物事が嘘か本当かということと、信じるか信じないかということはイコールではない。

言うことに芯が通っている人は元より、どれだけ移り気が激しい相手と分かっていても、本心からそう感じて(それは言葉の文字以外の部分に表れる)言っていることは、とりあえず信じてみる。とりあえず荒唐無稽で無責任で愉快な大人の発言は、疑わず信じることにしている。
嘘か本当かはお家に帰って1人で考えればよいし、私の場合はお家に帰ったら忘れている。
リセットする力はおそらく多分相当なものだ。幼い頃正義感の強かった私は割と人の言うことに振り回されてきて無駄に鍛錬を積んでいる自負がある。


それにしても、何が嘘で何が本当かをきちんと客観的に見極められる人がどれだけいるだろうか。中途半端な客観視に振り回される位なら、あくまでも主観のみで考える方が大いに結構。ただしその主観は限りなく純粋な主観。



(だんだん話題がずれている)

考えるということは身体の機能だ。女性は恒常的な意識を持ち続けるのが苦手だと(つまり気分屋だと)言われる。間違いなく、"気分"も身体の働きの一部なのだと……

2013年3月6日水曜日

靴論

ヒールの高いパンプスを探そうと思っていて、どんなものがいいか考えています。

使い古された言い回しではありますが、自分にピッタリと合う靴を探すのは難しいものです。
ヒールのあるパンプスを履いている女性を観察していて思うのは、中々その人の脚や体型に合ったものを履いている人は多くないということです。

私がヒールのあるパンプスを選ぶときの基準をいくつか。
まず、最近新しく追加された項目として、ヒールの高さは、特に膝下の脚の長さとベストな比がある気がするということです。
それと、正面から見て最も足首が細く見える足の甲の傾斜具合ってのも参考にするべきな気がします。

それに加え、ヒールの形はふくらはぎの形と連続してキレイに見えるものであることは絶対です。
言わずもがな、試着して脚全体の形を見るべきで、もしキレイに見えなかったら一つサイズを落とすこともあります。踵がベルトのものとかであれば、下手するとちょっと小さい方がとキレイに見えることがあります、入ればね。

靴そのものの機能として、ヒールそのものが踵の中心より後ろに外れているものは絶対歩きにくい。それから、靴底から土踏まずが浮くものはそもそも体重が支えらないから、重心がふらついて脚が疲れる原因になります。
ヒールが地面と垂直じゃない状態で履いている女性がたまにいますが、心底信じられません。そういうときは背後から、心の中で合掌しています。汚い、以前に骨格の歪みがこちらまで伝わって来て非常に気持ち悪いです。

もともとヒールは、フランスの軍隊で生まれたものと言われています。歩き易さを重視して取り入れられたそうですが、それは、土踏まずを持ち上げることから始まったんじゃないかなと想像します。そしてプライドの高いフランス人が、背を高く見せるためにヒールの高さを上げていったんじゃないかと勝手に思っています。

どちらにせよ、良い靴はまず、土踏まずがきちんとあるものです。しかし、市販のパンプスは土踏まずがほとんどありません。まさに大は小を兼ねるで、ゆとりのある方がひとまずいろんなお姉様の足が入るのでしょう。だけど土踏まずが靴底から浮いていると疲れ易いよって、なぜ靴屋の人は言ってくれないのでしょうか。


紳士用のものだとこんなに考える必要もないと思いますし、婦人用でも、他の種類の靴だったらそんなに考えません。しかしヒールだけは、ちゃんと形を見ておかないと歩けなくなるから本当に気をつけるべきだと思います。
高いヒールを履いておいておっかなびっくり歩いている女性の姿程間抜けなものはない。ヒール履いていつもと同じように歩こうとするから怖いのです、ある程度歩き方を変えないと。

自分に合う靴はなかなか見つからないのー、なんてロマンチックなことを言っている場合ではなく、合わない靴を履くことがどれだけ体に負担を掛けるか、考えるだけで恐ろしい。
まぁ…その為にオーダーメイドってものがあります。


これだけ散々拘ることはあるのですが、結局最後は値段との交渉をせざるを得ないところがなんとも残念です。
仕方ないので、自分で細工するしかありません。

結論:良い靴は高い。


以上、スニーカーは汚して履き潰したい派の人の説得力のない話でした。

2013年3月2日土曜日

catchy

ここ最近、自分がエッセイと呼ばれる類の読み物が好きなことに気がついた。

エッセイとは、只書き手の思うことが書かれている随想というもの。文章はいずれにせよその様にして書かれるのは自明のことだが、言葉の選び方、文章の進め方など書き手が言葉そのものと対峙しながら折重ねる言葉は、ただ言葉の音を噛み締めながら読み進めるに相応しい。
むしろ私は、いつだってその様にして文章を読むものだから、書かれている事柄というものが記憶に残らない。
日本人だなぁと思う。

先日ある人の文章を読んだとき、「構文が崩壊していて読み物としてどうなんだ」と偉そうにケチをつけた。今となっては、そのことを反省、とまでは言わないまでも、それはそのままで良かったのだろうと思っている。
読み易い文章を連ねる為の技術があることは知りながら、そんなものに果たしてどれ程の価値があるものかしら、と思うこともある。

「もっとも世俗を気にしている者は、芸術家である。」
という太宰治の言葉は、たくさんの人の名前や顔を思い起こさせるから、愉快。
当たり前だが、"だから気にしないことがよい"とは一言も、太宰は言っていない。
ヒトもそう、"何となく"存在しているものは多々あれど、元来価値の無い芸術は、どうにかして存在することの出来るお膳立てが必要なのだから、芸術家は躍起になる。

美しさは、何処に在るのか。

だからなんだ、という話。


しかし、
キャッチー、とは。

仕事しながら、音楽ってなんだったっけ(笑)?と思わされる。今日は特に。


この間、自分で作品を作ったときの大きな目標は、観客の思い描く世界観や想像を支えられる強さを自分一人で生み出し続けられるかということだった。

偉そうにそんなことを吹聴したように記憶している。それは私が今まで取り組んだことのない課題であった(とくに"一人で"という点において)から取り組む価値はあったのだが、考えてみればその様な考え方が普段の生活での指針と似通っていることにはたと気づいた。
出来ているのかは知らないが、私は、接する相手の世界観において、常に従順な登場人物で居ようとする節がある。
それが至極まともな生活を送る人間にとっての円滑だが、私にとって良いことなのかはいよいよ分からない。




暫く、日記を書こうと思って言葉を書き溜めたものの、どうにも一つの文章に仕上がらない。
そうこうしている内、気合が入らぬまま一ヶ月が経ってしまった。

その間に、人前で踊ったり胃カメラを飲んだり大事な書類にサインをしたり実家で引きこもったり。
読み進めた本が数冊、そして、これから読もうと思って手元に置いている本が数冊。

2013年2月2日土曜日

"Danses de travers"

昨日修論の口頭試問も無事終わり、今から実家へ帰るためにバスに乗っている。

東京駅八重洲口から出発して東名入るまで、丸の内や霞が関辺りの風景を車窓から眺めるのはいつも楽しい。こんなところ普段では来ることもないし、ちょっとだけ東京観光気分を味わえる。大きな建物がたくさん並んでいるのだけど、繁華街のような猥雑さがなくて荘厳な感じなのです。
前にこの辺りを車に乗せてもらって走っていたとき、ダンスしてる友人が「小さい頃は、自分も大人になったらこういう所でOLになって働くと思ってたのに」とぼそり言っていたのを思い出す。

幼稚園の時分の私は、将来の夢は?と訊かれたときには「お医者さん、弁護士、総理大臣、先生…」と知り得る限りの職業を羅列して答えていた。
昔から嘘や隠し事は下手だけど、周りが良い気分になってくれて自分の中に矛盾さえなければ、ホラや嘘も芝居じみたこともいくらでも言える。「お花屋さんになりたいのっ!」みたいな可愛い自己主張がなかった代わりに「何にでもなれる」という私の将来の夢は、子供の可能性を全面的に押し出した模範回答のような気がして我ながら気持ち悪い子供だったとふと思い出す。

少し前に高校の友人と話していて、「まっきーは誰よりも普通に就職して普通に働くと思ってた」と言われた。一体私をどういう人だと思ってたわけ?と訊き返したかったけど、だからって今どういう人なのかも分からないので思い留まった。
さて、お仕事探さなきゃな。


足柄SA。
しかしめちゃくちゃ暖かいな今日は。
修士制作でばたばたしてた間に冬が終わってる。
雲が物凄いスピードで流れていく。


修士制作[slur]はいろんな人に見てもらう事ができて、たくさんの感想や意見をもらう事ができた。

昨日の口頭試問では、審査の先生方がたくさん言葉を掛けてくれたのが嬉しかった。松田さんが作品にすごく興味を持ってくれたのが嬉しかったし、香山さんの精神分析的なつっこみは自分でも思ってもいないことで驚いた。宇野さんはまさしく総括という感じで、見てくれた人の感想をまさに一言にまとめてくれた。
それから、去年勅使川原さんに言われた一言が結局この作品と一年のモチベーションだったことを話して、口頭試問は終わった。

褒めてもらうことや興味を持ってもらったこともいろいろあって感謝している。けれど、それより見てくれた人の作品に対する印象みたいなものは、それぞれ伝えてくれる言葉は違うけれど言わんとする根本が割と似通っていたことが次への課題になった。それは私自身自覚していた問題点でもあった。
昔は思いもしない、突拍子もない作品の感想をもらえるのが嬉しくて楽しかったけれど、それにいちいち振り回されていたこともあった。それに比べると、今は次に目指すべきものが割と鮮明になっている気がしている。

すごくざっくりまとめると、お行儀の良い作品だったから、次はもっとやりたいことというか、えぐさというか、特異性というか、そういうものを追求してみたら?みたいなこと。
正直言えば、やっとここまで来たか、みたいな感じ。先にそういうものに飛びつきたくなくて足踏みしてた3年は無駄じゃなかったのかな。

かと言って、今すでに次なる策が浮かんでるわけでもないけれど。ただ、年末くらいに、「次は最高に阿呆な作品を作ろう」ということが頭をよぎった。多分ストレスに浮かされてたんだろうけど。
まぁやるしかないというわけだ。



さて、あとまだ1時間くらいあるのか。


"Danses de travers"ってのは、Satieのピアノ曲の名前。
今月、今働いてるホールでこれとgymnopedie生演奏して貰って踊ることになったんだ。楽しみ。

2013年1月25日金曜日

発表終了しました、ありがとうございました

slurの発表、無事に終えることができました。

ご来場くださった方々、また気にかけてくださった方々も、本当にありがとうございました。

とくに来てくださった方々は、場所がちょっと遠くて申し訳なかったです、風邪ひかれていないか心配です。

あと、稽古場占領しまくってごめんなさい。と思っている。ここを見ることはない人たちへ、、



今週はいろんな人と、ものすごくたくさんしゃべりました。
作品についても、作品とは関係のないことも、今まで思っているのに言ってなかったことも、言葉をひねり出して粗方しゃべってしまったので今、言葉が浮かんできません。

が、一つの区切りとして、お礼を言いたくて書いております。


間違いなく、この作品が今の私の全力です。

今回、クリエーションは大方一人だったけど、だからこそ作品を見てくれた人の言葉はすごく新鮮で、円盤だと思っていた地球は丸かったのね!くらいの衝撃があります。

たくさんいただいた感想や、指摘された意見を忘れないように手帳に書きとめて、
また次に向かって、先に向かって精進していきたいと思います。


本当にありがとうございました、また近いうちに!


まき

2013年1月18日金曜日

言葉

すべての言葉は、一つの世界を記述している。

言葉は、どのように使われ、またどのような意味を持つとしても、変わらずある一つの世界を記述している。
文学も、数学も、言語学も、科学も、哲学も、たとえ言語が違ったとしても、どのような言葉遣いであっても、むしろ言葉という姿を持つすべてのものにおいてそれは当てはまる。
この一つの世界とは、世界中の誰の存在にも由来しない“世界”。誰かによってその姿を捉えられ既に記述された世界ではなく、誰にでも記述される可能性を持つ世界。私は無宗教派である。
すべての言葉が、一つの世界を記述している。

個々人がそれぞれに“一つの世界”を所有しているのではない。誰もが一つの世界に触れている。
その世界に対して客観的物差しを使用することはかなわない。
誰しもがその存在(身体)を以て感じることでのみ関わることのできる主観的世界。

だから私たちは書物を、言葉を読むことによって、書き手にとっての世界の切り取り方を知る。切り取り方とは、書き手の感覚や知覚である。
だから私たちは書物を、言葉を読むことによって、一つの世界に対するフィルタとしての書き手を知る。フィルタとは、その人の存在そのものである。
~学とは、教え伝えられていく一つの世界を記述する方法のことである。
価値は、価値を見出す個人に由来する。二元論もまた、それを唱える本人に由来する。見出した価値や良し悪しは、その人が世界と関わる方法として他者に伝わるかもしれない。
しかし、伝わる、それだけだ。(私にとっての価値とは、そこで終了している。)

新しい世界や、誰かと異なる世界というものはない。私たちは常に、一つの世界に触れている。
一つの世界は、何とも比較されない、唯一のものである。
若し“新しい世界”というものを感じることができるのなら、それはすでに誰かによって記述された世界を、自分の新たな感覚や知覚、また世界の切り取り方として受け取っているのだ。

そして、新しさは、自分の身体の中にしか見出されない。
だから身体を使って表現しようと思うのだろう。

いつから私がこんな考えにたどりついたのかは知らないけれど、この言葉に触れるときの感覚は常にある。
誰かに“共感”してほしいわけじゃない。ここに書く言葉もまた、私が“記述する”世界の一つの姿、言葉。むしろ誰にでも、ただ届いてほしいと思うから書く。

言の葉とは、まったく素敵な言葉だ。言の葉が生る樹木はどんな姿をしているか。



…なんとなく。勢いで書いてみた。

2013年1月10日木曜日

あける、新年

あけましておめでとうございます。
遅ればせながら、本年もどうぞよろしくおねがいします。


2013年ですか。マヤの終末論を少し前に知って、その日は相も変わらず稽古してたので、正直踊ってるときに世界が終わってくれるならそれで、と思ってたのですが、終わりませんでしたね。どういうことですか。


所属する院の修了がかかった修士論文の提出締め切りを目前に控えておりまして、現在研究室はさながら年末の、あの年末特有の「何かがやってくる(そして時間が早く過ぎる!)」感でひしめいています。去年程ではないけれど。笑
ですので、まだ正式には新年は明けておりません。良いお年を!

私は制作と併せて提出する副論文をとりあえずキンコーズへ叩きつけ、あとは製本した副論が燃えたりしなければ、東京と埼玉の県境が地割れ起こして埼玉にたどり着けなくなったりしなければ、無事に出すことはできそうです。
そう、出すことだけはね…


修了するための成果として、私は言わずもがな、ダンス作品を作ったわけですが、その発表も昨日終わりました。

緊張してたつもりはさらさらないんですけど、むしろ恥も外聞も捨てた私には緊張する資格も無いわけですが、やっぱり"本番"と冠が付くと不思議と緊張しちゃうものなのですね、何かが狂う。そして狂ったテンションで研究論文の人たちに話しかけて怒られる。

まったく、アスリート並みの精神力が要るわ、と最近はよく思う。
対戦相手は観客、そして何より自分なのです。
つまらないことをしてるつもりは一切ないし、作品はちゃんと出来てるけど(一年苦しんだ)、金メダル取れるか取れないか、勝てるかどうかのレベルで完成度の到達点が違う。
関係ないけど、個人種目の人って、金メダル取ることを「勝つ」って言うよね。あれの意味が分かった気がする。

昨日は正直ムラがあった。勝ててるとこもあった。全体的にはマシだった、釈にズレがなかった。作品の全体が掴めたここ数日で、音無即興の作品で全体時間釈のズレがなくなっていた。演出の体内時計はずれてなかった。だけど若干演出の自分に出演の自分が負けていた。最近自分の動きに音楽があるのね、その身体の中の音楽が鳴らないときがあった。

しかしまぁ繊細すぎる。その繊細なところで勝負してる作品だから仕方ないが。
再来週?か、また公開発表するので、それまでに鍛え直す。


ここ一年で振り切ったものはあまりにも多い。一番大きいのは、他人の評価がどうでも良くなった。これはちょっと自分でもやばいと思うけど、でも、自分しかいないと思う。私が頼れるのは、最終的には踊る自分しかいない。
かなり荒治療したし、恐いし、今だって絶賛強がっているだけですけど、そうでも思わなきゃ立っていられなかった。
これで良いのかどうかは知らん。だって時々物凄く悲しくなったりした。

これから、他人の評価に嫌でもさらされていくだろうと思えば、そして自分にとって本当に頼らなければならない人と仕事するために、それは当然、これからも作る作品や自分のダンスを色んな人に観て欲しいと思うからだけど、
この一年は本当に大きかった。
きっと、自分の中で得たものの方が多いはず。

と、思うことにするよ。
いつだって今が一番良いと割と本気で思っている。というか思い込んでる。阿呆だから。笑


真面目くさったことたくさん書いてたから適当なこと書こうと思ってたのに、結局こんなことばっか考えてて馬鹿みたい。
でももう馬鹿は治らない。だってすごく手遅れ感があるもの。ひしひしだよ。
しかしもう胃潰瘍にはなりたくないわ。


それにしても、キンコーズが火事になってないといいな、この微妙な待機の時間、気持ち悪い。