2012年12月19日水曜日

今作っている作品のこと

今私が作っている作品は、『slur』といいます。
slurは"スラー"と読みます。slurは音楽の楽譜に使われている音符と音符の上に書かれている弧線のことで、複数の音符が滑らかに演奏されるようにと指示する記号のこと、だったと思います。

次に作品を作るときは、いつくかのシーンがある作品にしよう、と前の作品を上演した後に思って、それからぼんやりと作品について考えていました。
そしてそのいくつかのシーンは、こちらが指定する物語によって進行するのではなく、見る人があれこれ想像することによってつながれるようにしよう、と。
必ずしも進行する物語ではなく、想像力によって過去へも未来へも進む、飛躍する、時間の感覚が作品に流れるように。
slur、つなぐものは、作品を体験する人の中に生まれるものであるということ。


slurに込めたもう一つの考えがあって、
それは、私の中でつながりが意識されることで動く身体、ということについて。

最近自分のソロ作品を作るときは大抵振付は即興的なのだけど、それは私の中でダンスというものの考え方が大きく変わったということによるのです。

何度も何度も試したのだけど、ソロの場合、私はどうも、自分で自分の動きをきめる振付というものが上手く出来ない。
他の人の作品で作者が振り付けた振りとか、私が振付したユニゾンとかは全く問題なく踊れるのだけど、自分が振付者で自分一人が踊るときの違和感が上手く払拭できない。自由でないと感じてしまう。
これはどうもちょっとした欠陥だとは思うのだけど(自分の身体を客観的に見てシステム化して動かすのが苦手ってこと、大問題だ)、それよりもソロの作品で自分自身のダンスがどういうものか見つけるのが楽しくなってしまった。

いろんな動きの中に、ダンスであるものとダンスでないものの区別はある?
という質問を全ての踊る人に訊いてみたい。

私は、動きの形にダンスがあるんじゃなくて、動き方にダンスがあるんだと思う。

最も無駄がなくスマートで、それはすなわち自然に行われるからこそ強度を持つ人間の動きは美しいんだと思うんだよね、
ダンスが例え生活の動きからしたら無駄で過剰な動きだとしても、そのダンスが最も自然であるがままの存在として美しさを持つことが出来ると思う。

ダンスは運動の美しさを指す。今消えてしまうものの軌道や残像の強度。それはあるがままの自然であること。

みたいなことが、私の今のダンスに対する考え方。全く言葉が足りないのだけど。
そういうダンスを自分の身体で実現しようと思うとき、身体の中のつながりが最も意識されるべきだと思うのです。
身体の中のつながり、それは感じることと感じることのつながり、関係です。

水を入れた水槽を持ち上げて傾けると、当たり前だけど、移動する水。
それくらいシンプルなこと、そういう一番単純な移動、それでしかない運動、最も単純な自然。そういうことを逃さないように動くのが目標。一番近いのにともすると一番遠い身体という自然に耳を傾けること。


動きのほうが結局話が長くなってしまった、
作品についていろいろ考えるのけれど、私の考えるダンスがあっても、そのダンスがじゃあなにを表すかってのはもしかして別の問題なのかも知れないと思ったりして、
最初に書いたように作品を見る人の想像力だよねっていう私は少し無責任なのかも知れないというのが今ひとつ詰めが足りないと思われるところ。
つながりってものがどういうものなのか、それを作品が表す必要はある気がしている。そしてそれを表す方法も詰める必要があるね、媚びるようなやり方はしたくないけれど。
まぁ、今まで、テーマから媚びるような展開で散々作品作ったことのある身としては、ちょっと二の足踏んでいる。
どうも私は極端だから、適度な割合ってのが最も難関。


まだまだだ、
少なくとも、私だけは、私の作品を愛していると言えるように。それだけは。だから、もっと。

0 件のコメント:

コメントを投稿