2013年4月26日金曜日

シャワー浴びながら考えたこと

シャワー浴びながら考えたこと
を文字にしてみる。


東京都現代美術館に、フランシス・アリスという現代美術家の展覧会を見に行った。
彼はアクションの記録映像からインスタレーション、絵画の作品など、色々な作品を作っている作家で、最近広く認知されるようになってきている人だ。
「何にもならないこともしてみる」というコンセプトで、一日中氷の塊を押しながら街中歩いてみるとか、ビデオカメラを持って竜巻の中に突入するとか、とにかく無意味な(私にとって無意味であることは重要だ)アクションを作品化しているものが印象的だった。

展示の最後に、彼の活動と周辺の人々へのインタビューを収めたドキュメンタリー映像が流れていて、あるアートディレクターの言っていた事がとても興味深かった。
かいつまんで言うと、芸術にとって重要なのは作品だけであって、作者のパーソナリティや個人的な物語ではなく、只そこにある作品が面白いかどうか、それだけだと、そして面白い作品とは社会に変化をもたらせるかどうかその一点のみにかかっているということだった。

展示スペースを出て、最初に目に飛び込んできたものを見て、なんとも不思議な感覚になった。
そこには、美術館の隣の公園で近所の中学か高校かサッカー部の男の子たちが二人一組横一列になって部活前のアップをしている風景があった。規則的にならぶ木々の間から規則的にならぶ人々が見えたその風景はまるで、"作品"のように見えた、気がした。


社会に変化をもたらす、とは、つまり人々の感覚を変えるということだ(ここに善悪の問題は関係ない)。人の感覚を変えること、それが芸術の面白さのうちの一つだと思っている。
そして、新しく生まれる芸術作品は常に、境界からはみ出したものだ。それは未来を映し出す(と記憶しているのだが)。



今、私が勉強して習得しようとしている事は、より直接的に人の身体の感覚を変えるための言語だ。

人の身体の感覚を変えたい。変えられる。自分自身、芸術作品を通して感覚が変わるのを知っている。
そして、自分のダンスの方法でほんの少しだけ自分の感覚が変わる/鋭くなるのを知っている。
変わることは明らかに別様になることだけではなく、より精密になるということでもあるかもしれない。しかし、二つの状態を見比べられる、という至極単純な理由で、客観視できることと似ているのかもしれない(違うかもしれない)。

他人から見れば些細なことかもしれないが、私は自分自身を如何様にも変えられると思っているし、変化せざるを得ないと思っている。
私は小さい頃からずっと、他人が私に対する特定のイメージを押し付けてくるのを最高に気持ち悪いと感じて、常にそこから抜け出ることを考えている。矛盾するように聞こえるかもしれないが、だからこそ他人から押し付けられるイメージを見せかけで演じる事ができるんじゃないかと思っている(下らない自信と全くの自己満足だが)。
それでも、演じているとたかをくくっていても、それが何時の間にか自分自身の感覚や意識、思考として染み付いていくのは否定出来ない。だけど、だからこそ、また変わるとこができる。
逆に変わらないことといえば、自分の身体が老いてゆくこと、とかかしら。


むしろよく知らないのは社会の方だったりもする。それは今まで蔑ろにしてきたもの。
最近よく近所の小さい本屋を巡回してみる。どういう事に多くの人の興味が集まっているのか知りたくなったから。小さい本屋だからこそ、よく売れる本しか置かない。下らないと思っていた本や雑誌を目に付くものから立ち読みしてみる。


自分の身体で起こり得る感覚の変化を他人の身体においてもたらそうとする事は、ひょっとするととても恐ろしい欲だとも思う。身体の感覚が変われば、思想や意識すら変わるかもしれない。ともすると、そのやり方は宗教的ですらある(宗教が悪いものとは思わないし、宗教は文化の根幹になる)と思う。柔らかく言えば、教育的だ。


直接的に他人の身体の感覚を変えることは、私にとっての小さな芸術としての試みであり、後にやろうとしていることの下地だと思っている。
少なくとも、私はすでにある"芸術"の評価軸には絶対に乗りたくない。



水が溢れる蛇口からも、捻れば水滴が垂れるだけ。
…まとめにもなってない。

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