2013年8月8日木曜日

日記

永井荷風の日記に憧れて、5,6月くらいは手帳に毎日の記録をつけていた。

しかしながら、作品の稽古が佳境に入った辺りから途絶えている。
思い出すのも面倒くさいので、放置。

久しぶりに今日は何にもしない日だった。
月曜日も火曜日も何だかんだ仕事があって気を張っていたせいか、今日は12時間以上寝た気がする。





日曜日に、N.N.N.4というダンスの公演が終わりました。
一区切りつけるために、色々忘れないように日記でも書こうかしら、と。

この公演のために、『譚々』という作品を作って上演しました。
ドラマーである大学院の後輩の畑山氏に参加してもらいました。


1月に『slur』という作品をやっているときのこと、
このときも動きは即興だったけれど、いちいち身体の部分に意識を向けるより、身体全体が一つの大きな流れを生み出していくような、不思議な感覚になる日があった。
例えばオーケストラで演奏される様な、絶対音楽のような時間の流れ方?
こうなった日は、ダンスそれ自体が一つ上の次元に行けてる気がした。
下手くそなヴァイオリンほど聞き苦しいものはないと思うのだけど、同じ楽器でも鍛錬を積んだ人が演奏することで、あの弦をこする音がどうしようもなく美しく響く瞬間。
身体の動きにも、ダンスにも同じような瞬間がある気がする。

今回は、毎回作品を通す度その状態を身体で生み出すためのもって行き方を探っていたのだけれど(そこが作品の全体だったとも言える)、
本番の1,2日前に稽古してる時だったか、となりで畑山氏ががつがつにドラムを叩いているのだけど、どういうリズムを叩いてるのか全く聞こえなくなった日があった。
単純に言えば、聞き流すことができるようになった、とでも言うのかしら。
集中力の問題だと思う。

そこから割と常に、身体をハイに入れる感覚が掴めるようになった。
栄養剤を自家製産してる感じ、代償も大きかったけれど。

気分次第で出来る稽古と違って、本番は日時が決められている。
3日間で5回の本番に照準を合わせてそこに自分のハイの状態を強制的に持っていくので、本番が終わってからバランスが取れなくて精神的に大分揺らいだ。


劇場で稽古をしているとき、STの館長である大平さんとたまたま少し話をする機会があった。
大平さんは私が大学4年のときに部活の同期と一緒にやった公演を見て下さっていて、「あのときとは大分作風が違うんだね、"美しい動き"みたいなのやりたいの?」と仰っていた。

真顔でずばり言われてちょっと恥ずかしくなってしまったけれど、まさに"美しい動き"がやりたいのです。
畑山氏のドラムを叩く動きも、私にとってはダンス=動きが効率化されて、ただその動きが人目を惹きつける。
そういうこと、色んな人に十分に理解されている気はしなかったんだけど。
自らのダンスの見方に寸分の疑いも持っていない人たちの意見も当然あったし、
そう言うだけの力が私に、作品に足りないところだと思ったり。

ダンスが、特権的な身体の動きだけを指すものになってしまわないようにしたい。
どんな動きでもダンスになる、重要なのは、私がどのような動きをダンスとするか、どのような動き方をダンスとするかということだろうと。
人間の動きはそれだけで充分に美しく、人の目を惹きつけることができると思う。
そういう種類の動きを自分自身の身体で実現するにはどうしたらいいかって考えている。
スポーツ選手の動きは美しく、お祭りの人々の踊りは人目を惹きつける。それくらい単純なことで良いんじゃないかって。

ダンスは、現実であるべきだと思う。
うまく説明出来ないけど、作り物ではないってこと。現実?現象?
「こういうことになってるんです」って説明が効かないんだよね。


振付を踊るのも楽しい。
ただ、どうしても私の場合、振付を踊り切るときは快感の方が強い。難しい振りをこなせるほどに思う。身体の中でよりスマートな回路が組み上がっていく感じは楽しい。
簡単に、酔える。私が気持ちいいだけ。
それが悪いとは思わないけど、そうじゃないものもある気がする。
どうせダンスで作品作るなら、みんながやってることわざわざやる必要はないし。


作品の構成力が弱い、みたいな指摘ももらった。
その辺、敢えてあやふやにして決め切るのを避けているから当然出てくる感想だった。
私は自分の癖で、誤解を恐れずいうと、無意識に作品を演劇的に組み立ててしまう。演劇的というか、意味のような、理屈のようなものを追っていたり。
それは、私が考えるダンスとは少し違うと思っている、私は「踊る人」を演じてるんじゃない。

かといってどう構成すれば良いのかよく分からない。だからあやふやにしといた。
今までの自分のなかで心地よい構成のうち、矛盾が生まれない範囲ぎりぎり自分に許したものだけで構成した。
これは今後の課題。


そういう風に作った作品、演奏も去ることながら私がどういう風に作品を作りたいかということを的確に読み取ってくれた畑山氏の尽力も大きくて、本当に感謝しています。
普段フルのドラムセットで演奏してる人に、スネア一つでどうにかしろって結構難題なのかな、と当初たまに思ったりした。思っただけだけど。終わってみれば別に何にも不足はなかった。
彼が居なかったらこういう作品は作れなかった。
そしてハタヤマンはみんなに大人気でした。笑



あと今回強く感じたのは、私は非常に真面目な人間だったということか。笑

なんかもう、それでいいかと思った。
かっこよくセンス良くラフな感じでやるのは無理だ。
恥を晒してやるしかないわって。
ダンスのことだけはクソ真面目にやるしかないわって諦めがついた。


それから、作品をどういう場所で、どういう企画で上演するかってことも考えた。
これはややこしい問題なので多くは書けないけれど、色々と自分の中での考えをはっきりと意識する良い機会になった。

作品を作って上演するということは、どういう人にどういう場所で見せるかということもとても重要。
大きな問題にすれば、作品が社会にどう在るのかとか。
そういうことは、作品そのものの内容にも大きく関わると思っている。
自己満足なのは頂けない。そういう作品を私もいっぱい作ってきたと思うから。
ダンスとかって、本当にそういう罠に陥りやすい。あなたがやりたいからやってるんでしょ?って言われたら終わりだと、異常なまでに危機感を持っている。
それは、"価値をつくる"っていうことを焦点にしたいと思うから。



反省点も色々あるけれど、色んな人に見てもらって、「面白かった」とか「綺麗だった」とか言って貰えたのが嬉しかった。
たまに私が踊るの見るの好きだと言ってくれる人や、感動しました!みたいなこと言ってくれる人がいて、単純にそういうのが原動力になっている気がする。
ダンスにわざわざ難しい言葉を当てはめる必要はないと思うし、私自身散々そういうことをしてみてあんまり意味がないと思った。
ダンスを語るのは非常に難しく、時に危険なこと。ダンスを貧しくする可能性もある。
やるまいやるまい…と思いながら検索してとある批評家の言葉を見てしまったけど、クソ過ぎて顎が外れるかと思ったわ。笑


まぁそんなことにいちいち囚われててもしょうがないので、これからもゆっくりとマイウェイを真面目に突っ走っていこうと思います。

とりあえず書き出すだけ書き出したので乱筆なのですが、備忘録がてら。

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