2013年11月8日金曜日

PIANIST

内田光子のピアノリサイタルを聞きに行ったのです。

クラシック音楽は明るくない私が、幸運にも何人かピアニストの演奏を聴き比べることが出来て感じたのは、内田光子の演奏が明らかに他の人の演奏とは一線を画す、ということ。
あくまでも主観的意見。でも私の中で何かが違う。

相変わらず楽曲や演奏法、解釈の云々は私とんちんかんだけれど、
この人は、ピアノという楽器を演奏してるんじゃなくて、ホールをまるごと楽器にしてしまう演奏をピアノを使ってやっている、と感じるに至った。

1回目に聞いたときは分からなかった、2年ぶりに聞いてはっきり感じた、
ホール全体を飲み込む演奏、ないしは、ピアノがブラックホールのように人の意識を飲み込んでゆく様。

なぜならおそらく、この人は、自分の音の響きを"聞いている"。

空気中に消えていく音の美しさは何度触れても鳥肌が立つ。


今年コンサートがあるのを知って、邪な気持ちは捨てて、ちゃんとチケットを買った。

実際に聞いて、引きで演奏を聴き比べるより、受け取るものは少なかった気がする。
「この人こんなに手が大きいんだ」って、鍵盤と手から目が離せなくて頭に血が昇った。
どんな曲だったか、とかあんまり分からない。

ピアノの蓋が被っている方に座ってたから、音は遠かった、というか跳ね返って届くまでに若干ぼやけてた。
それでも迫力は十分、演奏はクリア。

ぼんやりした頭で、作曲者のことを考えた。

100もない鍵盤の上で、
例えばドの音の次にレの音を弾くと作曲(指示)するのにどれだけの思考と苦労と閃きがあるのかしら。

音楽を全体のまとまりとして聞くよりも、極端に言えば一音づつの連なりはどうやって紡がれていくのか、ということに意識を向ける方がスリリングだ。
直前、今、直後。

"差異"と"反復"?
薄れていく少し前の響きが蘇って、少し先の準備をしている。

そのスリルは私が自分の身体で踊るときに差し向けて持っていく意識のレベルとどこか似ていて、
例えば手を動かしたあと、その余波はどこへ伝達する?身体の中心へ伝播した運動が身体の内で反響する、連なりは止まらない。

最近そんなことを考えてたら、なんとなく、今まで退屈だったバッハの曲が聞いてみたくなっている。

作曲家が音を紡ぐ果てしない苦労を、演奏者は追体験するものなのかしら。
少なくとも内田光子の演奏は、一音も捨てがなく、彼女なりの解釈と愛に満ちている。


内田光子はなんとなく怖い、って言う人もいる、雪女みたいって、
プリーツ・プリーツが最高に似合う雪女はお辞儀が異様に深い(コンテのダンサーみたい)。とても身体が柔らかいのか、髪の毛バッサバッサしてお辞儀をする。
私、おばあさんになったらガリガリになってイッセイミヤケのプリーツ・プリーツを着るのが目標。

今年たまたま彼女のトークを聞く機会があったのだけど、まぁこの人がよく喋る人で驚いた。2時間くらいノンストップで一人漫談みたいに喋ってた。
あれはあれで怖い。


以上、勢いで書留

聞きながら自然と身体がうずうずして、頭が揺れてしまってた気がする。隣の近所の人に迷惑掛かってないと良いけれど…

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