2015年4月3日金曜日

ヨガやバレエのインストラクターをしていると、ダンサーをしている以上に幅の広い、いろんな身体やいろんな考え方に出会う。

ヨガ一つにおいても様々な考え方があって、
健康や美容を維持・改善するためのストレッチとして優れた点を1番に押し出そうとする考えの人もいれば、
ヨガによってもたらされる精神的な安定の部分を重要視する人もいる。
どれもこれもひっくるめてヨガなので(それが多様な人にヨガが受け入れられている証でもあるわけだが)、どれが正解でどれが不正解というわけでもない。

私は身体オタクでとかく身体の使い方の点において興味が過ぎるから、マーケティング的には優れないとよく指摘される。
「普通の人はそんなことに興味があるのではなく、○○に効果がある、○○を改善する、そういう風に謳わなければ興味を引けない」、と。
間違いではないが、、

ここに来て、"普通"ということに多いに頭を揺さぶられる。
普通、なんて、ないと思っているのだが、とかく普通を強要される。笑
(いつだって自分の正解を強要する上司は面倒…)


私は、自分の身体にもっと興味を持ってもらいたいと思ってレッスンをしている。
身体について、どんな些細なことでもいい、どんなくだらないことでもいい。

身体という場において起こることは、ともすれば当人が"感じる"という意識までたどり着く前に当たり前のことすぎて押し流されていることがあまりにも多くて、望む望まないに関わらずその鈍さが精神的にも身体的にも不健康へつながる。
身体観がぼやけている、と感じることが多い。

脚が2本あって、それを交互に前へ動かせば歩くことができて、移動することができる。
脚というものがもし1本だったら、進むスピードは2本の時より遅くなるだろう。
進める距離も違えば、見える風景も違う。自分の身体を始点とする世界が別の形になる。

どんなことでも、身体がスタートなのだから、思考もイメージも動作も知覚も自分の身体が全ての始まりなのだから、それに鈍感であることは勿体無い。
すごく大雑把な言い方なんだけど…
世界は身体の外にあるのではなく、内にあるのだと思っている。


私のダンスを見て感想をものすごく沢山持つ人とそうでない人がいる。
そうして並べられた言葉が、どちらが重要/重要でなく、また優れている/劣っているということでもなく、単純過ぎて見逃してしまうようなことを丁寧に言葉にするかしないかの違いだと思っている。

そして大抵、私のダンスを見て饒舌な人は、私のダンスについて多くを語るわけではない。
その人自身が見て感じたことをやたら嬉しそうに話す。素朴で豊かな感じがして、私も嬉しい。
別に必ず話してもらわなくとも、そう感じてもらえるのであれば嬉しいと思っている。

ヨガやバレエを教えていても、
受け取った情報がきちんと身体の中にさざ波を立たせそれを味わうことが出来る身体を作りたいと思う。

立ったときに、足のつま先が正面を向いているか外に開いているか、それだけで愉快に熱心に語りあえる人を増やしたい。笑
意味ないことだろうか。
いや、ダンスはそこから始まってるんだと思うんだ。

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