2016年5月2日月曜日

新作[サイト]によせて。踊るときに考えること

今、[サイト]という作品を作っています。


作品について考えること、稽古をしているときに考えていることや気になっていることを書いてみたいと思います。



・作品のテーマ

この作品は、「風景」や「見ること」をテーマとした作品です。

フライヤーに使っている写真は、光が丘公園です。
フライヤー用に、自分で撮りました。
日が昇る前の早朝に公園へ自転車を走らせ、撮りに行きました。

すごく冷える朝でした。

ベンチに座って、空の色の移り変わりを見ていました。
その身体はそれ以上でもそれ以下でもなく、ただただ「見ている」身体がまるごとここに在る、という感じ。

空気はとても澄んでいて、刻一刻と色づいてゆく空は非常に美しく感動しました。
この美しさは何なのだろう、と眠い頭で考えました。



・感動するということ

自分にとって感動するということはどういうものなのか、ということを最近よく考えています。

私は幸運なことに、世界で活躍する超一流のクラシック音楽の演奏家が演奏するのをいろいろ聴き比べることが出来る環境にいます。
そこではたまに「感動するというのはこういうことか!!」、と思わされる表現に出会うことが出来ます。
音楽は言葉を越える、ということの現実、それは言葉以前、身体がそのまま持っていかれる感じ、圧倒的なものに飲み込まれる、引きずり込まれる。
何かを満たしてくれる。何を?

そして、その感動する自分をよく観察するようにしています。
その自分を、自分の稽古動画を見るときに発動します。
つい、作っていると自分の都合でモノを考えがちで、それで自分で袋小路にはまり答えを見失ってきました。
作る自分と感じる自分が都合よく分かれてしまわないように。
自分を叩きのめします。



・感動する自分の観察

私はインストラクターの仕事をしているのですが、たまに他のインストラクターのレッスンに出るようにしています。
そのレッスンの最中に考えたことを自分のレッスンで思いだし、自分のこうしたいよりも、レッスンを受けている人の感覚を忘れないようにしようと思っています。

それがきっかけで、いろんな芸術作品に触れたときにも、感動する自分の観察をするようになりました。
いや、今までしていなかったというよりも、見逃しがちな、ともするとどうでもいいような、自分では当たり前だと自分で思っていることも、どうしてそう感じるのか細かく丁寧に意識しています。
感動だけでなく、自分がそれと接したとき、何を感じ、何に気づき、何を考えるか。
自分に問いかけます。



・アートの本質

アラン・ビュブレックスという仏人アーティストの展示を先日観に行ったのですが、そこで彼が語っている「アートの本質」が明解でした。

→「違う物の見方を提示すること」

別に斬新な提案でもなく、おそらく世の芸術家はみんなみんなそう言っていると思います。
が、私はこのタイミングで、彼の言葉が響きました。


私の作っているものは、はたしてダンス作品なのか?と思うこともあります。
それ以前に「ダンス」というモノ!
私が思っているダンスとあなたが思っているダンスが絶対に同じだという保障はありませんよね。

私は私の方法で、「ダンス」を作るのです。
見る人自身の身体の感覚が少しでも変わるように。


ダンスはあふれている、問題は何をダンスとするか。
たとえどんな身体であれ、美しく動く方法がある。

どんな動きでもいい、問題はそれが純粋でスマートであるかどうか。
その動きは掴めないもの、流れてしまうもの、ほんの一瞬、次の瞬間にはもう、ない。

消えていくもの、とどまることのない流れ、それは自然。
それでいて、そのたった一瞬に普遍性をもつ。深さ。



・ダンス

小学生のころ、バレエで他の子が踊っているのをみて「この子の何か一つの動きは、世界中の誰よりも最も上手に踊れているものかもしれない」と想像していました。

私のダンスが、世界中の誰よりも上手だと思える、その動きは?形は?
冗談だと笑ってないで、本気で考えられなければ踊ってはいられないと思います。

私が踊る理由とは。



・美しさについて

鈴木大拙の著書で触れた、東洋思想における「自然」考え方はとても鮮烈でした。

→「自然であるということは、ものをそのものたらしめるということ」

さあ、これを自分の身体でやってみようじゃないか。

移り変わる空の色、風に吹かれる木々の揺れ。
又その形。ひと目では分かりにくい成長/老いの表れ。
眺めていられるもの。眺めていたいもの。見逃したくないもの。

そしてその身体を眺めるという体験をするあなたの身体へ、
美しさを共有できますように。

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