朝7~8時でホットヨガに行ってみる。
一昨日とは違うところ、"Be One Yoga"というスタジオ。
ここもまた広い。
朝から冗談飛ばすテンションの高い先生。
(前回のところは、レッスンの前に自己紹介があって驚いた。またあるんじゃないかと身構えたけどなかった)
インヘルとエクスヘルが呼吸のことだとようやく認識できて、ようやく呼吸がちゃんと取れるようになった。
さすが汗をかかせるホットヨガ、
やったことのないシークエンスが出てきてだいぶ面白かった。
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毎朝同じだった朝食のパンとシリアルに別れを告げ、パッキングをしてチェックアウト。
お土産の買い出しと、Dinosaur Designs というアクセサリーのお店を見る。
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そのあとはコンテンポラリーアートを中心に扱ってるというART SPACEに行った。
一応シドニーフェスティバルの関連企画で
"Just not Australian"という展示をしていた。若手の作家展。
“Just Not Australian”というタイトルなだけあって、
政治的なメッセージの強い作品が多かった。
多くはない展示だけど、どれも印象の強いものが多かった。
中でも気になったものをいくつか。
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“Exotic other” と壁に書かれており、その文字をなぞるようにアボリジニを思わせる土産物や絵などのレディメイドのものが貼り付けられている作品。
他にもアボリジニに対する考えを表した作品は多かった。
ここまでアボリジニに執着するのはなんでなんだろう?と疑問に思ったけれど、
先住民族に対するして申し訳なさみたいなものが通底しているんだろうか。
もしくはオーストラリアという国を作った人たちに対する否定的な感情がいまだに残っているということなんだろうか
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“TERROR NULLIUS” は映像作品で55分のもはやショートフィルム。
いろんな映画からたくさんのシーンを抜き出して、おそらくオーストラリアの開拓から多民族国家となっていく過程、今の現状などを表すようにコラージュした作品だった。
私ですら、いくつか、これあの映画だ!とわかるものがあるくらいだから、映画詳しい人だったらかなり面白いと思う。
私がわかったのはピアノレッスンとかマッドマックス、ベイブ。
どれもなんとなく、侵略とか土地の奪い合いとか新しい世界とか、そんなニュアンスのある作品がチョイスされていた。
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最も印象的だったのは
“I must learn to like myself”と書かれたオーストラリアの旗。
皮肉だねぇ。
オーストラリアではよりこの傾向が強いんだろうけれど、他人事ではない気がした。
なんと言ったらいいだろうか、たとえ国は違えども、私たちはこの多様性のいう言葉のの檻の中で命を削っている気がする。
違いを認め他人を愛し、同じくらい自分を愛す。そうしなければならない。
何が解決になるのかはまだわからない。しかし感じている息苦しさは少しわかる気もする。
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オーストラリアには、Tall Poppy Syndrom という考えがあるらしい。
初めてこんな言葉があることを知った。
みんなが同じ並列にいることが望ましいということだろうか、
出る杭は打たれる、ということと同じ様な状況みたい。
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オーストラリア人がなんなのかということを語りたいというより、
自分の国籍や由来についてなんてほとんど考えることのない自分からすると、
何かそれは個人のあり方に大きな影響を及ぼすんだろうなという興味をそそられる。
両親は同じ市の出身で今もそこに住んでいるし、母方の祖父母が隣の市というくらい。
私も生まれてから高校卒業まで同じ家で、その家もまだきちんとある。
現代美術館で話したベトナム人の女の子、道端で話したイタリア人のおじいさん、
Biludurangで個人の生い立ちを話したお客さんたち。
皆出生や育った環境が違っていて、その人たちが同じ国で暮らしている。
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私の地元は工業地帯なこともあり、各学年に必ずブラジル人の子達がいた。
(今思えば、ブラジル人学校みたいなものはなかったんだろう)
小学生の時の私はその子達をどう捉えて、どう接していただろうか。
他所の国の子、という感覚はどれくらいあっただろうか。
どれくらい仲良くしていただろうか。名前が今思い出せないけれど、顔ははっきりと覚えている。
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多民族でいろんな文化が交差している場所だからこそ、人と人とが尊重しあいよく話し合う必要がある。
当たり前ということは何もないから、きちんと話さないといけないし、きちんと聞かないといけないのかな。
なんてことを、舞台作品をいろいろ見ながら思った。
感情がオーバーリアクションで、少しふざけたら爆笑、哀しそうにしてたら一緒に溜息をつき、パフォーマンスが終われば必ずブラボーとスタンディングオベーション。
ということが観劇のマナーのよう。
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あと、一人で観てる人が誰もいないのね!
必ず誰かと共有したり感想言い合うんだろうか、一人の人はまぁ見かけなかった。
このフェスティバルを見るための観光客が少ないと感じたのもこれが大きな理由。
勉強のためにとか、参考のためにとかいうテンションの人が皆無だったように感じた。
最後に観たキャバレー"Pigalle"は一人の人もちほらいたかな、この作品だけ少しだけ客層が若い気もした。
ジョーダンが、Pigalleだけは客層違うと思うよと言った理由は聞けなかったけれど。
毎年行事でこれだけ街の中に沢山の垂れ幕が掛かっているにも関わらず、オーストラリアの観光ガイドサイトにだってものすごく小さくしか載っていないし、地球の歩き方にも一切載ってない。
昔からシドニーフェスティバルを知っている地元の人たちが観に来ていて、観光の人向けにはしていないのかもしれない。
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一方、
若い人たちのアート作品を見ていて感じたのは、
そう言ったこれまで上の世代の人たちが多民族ゆえに作り出してきたコミュニティとその在り方に対して、
それがオーバーリアクションで嘘くさくなっていると感じて少し白けているのかもしれないということ。
上の世代が行ってきたことをそれはそれで認めつつ、何しらか疑問や批判を持って受け取っているのではないか。
元はと言えば先住民族の土地を踏み荒らし勝手に都市を作ったことを無視してはいけないと思っている人たちも関係しているかもしれない。
(帰ってきてふと思ったが、オーストラリアがもともと流刑地であるという類のネガティブな印象は受けなかった。)
上の世代に対する批判的な気持ちをうまく表すコンテンツがオーストラリアという国の出来上がるまでの物語。
それが槍玉(大きなテーマ)に上がっていたコンテンポラリーアートの作品の数々。
日本ではどうか?
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もし国や文化を超えて、同じ世代に生きている自分の感覚で想像するなら、
リアル、つまり自分が何を感じているか、という部分にアイデンティティがあると思っている。
自分は大きな物語の中に組み込まれた一員ではなく、自分の感じ方や考えることを大切にしたいと思っている。
政治的な大きな指針のようなものでもなく、もっとシンプルな反応や違和感のようなものを瞬間的に捉えていく。主観的でありたいとする考え。
大きな物語を進めるための役割を担う役者としての自分の在り方は良しとしていない。
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すごく個人的な話になるけど、
母親は、働くということは社会を動かす大きな歯車の中に組み込まれることだ、と常日頃言っていた。
そうだと思う。間違ってない、けれど、
自分はなぜかそれに組み込まれたくないとどこかで思っているのだろうか?
自分のためではなく会社のために働く会社員になる寸前で、それは嫌だとはっきりと直感的に思った。
この感覚は、どれくらい共感してもらえるのだろうか?
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"I must learn to like myself"
"自分を好きになること”それはつまり“オーストラリアという国を好きになること”。
それがオーストラリアの大きな物語のテーマだったんだろう。
大きな旗に書かれた、落書きのように書かれたインクの垂れた文字。
そのポジティブな感情の裏に隠され、押し殺されたネガティブな感情が溢れた作品を見ながら、
自分だったら何に対して怒り、何に対して批判する作品を作るだろうか、と思った。
そして、果たして、自分に怒りの感情は湧いてくるものなのだろうか、とも。
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以上、乱文ではありましたが、
日誌で7日間に一緒に旅へ行ったような気分でした。 コンテンポラリーアートは現代社会を表現する手法だと初めて理解しました。そして自分のことを分かる人にわかってもらいたいもので、洒落で素敵なものなんだと思いました。
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