2019年4月5日金曜日

最近の考えごと

新年度のはじまり。

風邪ひいた。花粉じゃないと信じたい。
おかげで声が飛びかけた。


バレエに通っている子供たちに、次は何年生?と訊くと、自慢げに答えてくる姿がかわいい。
年中と年長の違いがわからない5歳ちゃんたちも、新しく入ってきた4歳ちゃんたちにはしっかり先輩やってる。これはこうだよ!って一生懸命教えている。


そういや自分も子供のとき、本番の舞台上で隣の子に、間違いを直してあげようと指摘したことがあったな。
写真に残ってしまったんだっけ?




今年も上半期はまた一本論文を書いてみようと思っている。
がしかし、なかなか何を明らかにするのか、軸がはっきりしない。
正直、間に合っていない。

去年の反省としては、自分の言いたいことを書きすぎて、客観的な論証を示しきれていなかった。
書き方の問題も大きい。しかし、そもそも何をはっきりさせたいのか、その範囲が明らかになっていなかったことが一番の問題だと思う。

結論を書いたところでそれが結論になっていない、というそもそもすぎる問題にぶち当たった。
結局出したかった論文誌の査読は落ちてしまい、別の媒体でどうにか掲載してもらったけれど、課題は多かった。




博士課程の友人から、
何かをゼロから書くのは難しいから、先行研究としてあるものをきちんと提示してから、「でもですね、私は」で言いたいことを書いた方がいいと、アドバイスをもらったことを、今思い出した!

そうだった、そうだった。友人の披露宴の二次会でね。
あれは非常に楽しい夜だった。
論文の書き方指南に「さすが博士!」と唸ったあと、その彼のトークに磨きのかかった恋愛漫談で死ぬほど笑ったんだった。




ここ最近興味があるのは、能楽師の安田登さんの本。
伝統芸能である能を通して、日本独自の文化を探り、日本人はどう感じ、何を考え、何を共有しているのかということを語っている。

とても、面白い。

絶対言い過ぎだと思うけれど、自分がダンスの作品を作る中で大切にしていたキーワードが、安田さんの本にたくさん出てくる。
はぁぁう!なぜここに!!ってなる。

例えば、「風景を作りたい」「振付に意味を持たせない」「見られる側が見る/見る側が見られる」とか。
私はお能を作りたかったのか?と、甚だしい勘違いもしたくなる。

能、観に行こう。



日本人の身体観に興味がでてきたのは、
昨年度の大学生へ向けたヨガの授業で、「あなたにとって身体とは何ですか?」という絶妙に微妙な質問をしたことから。

回答用紙に、「そんなこと考えたこともないし、訊かれても困ります」と書かれるくらいには、難しい質問だったと思う。

答えは様々で、みな何とか自分の感覚に近い言葉を手繰り寄せて書いてくれていた。
多かったものや印象に残っている回答は、
「脳の指令で動くロボット」
「自分の心の容れ物」
「感情を表現するもの」
「自分の生きてきた証」
「大切にしなければならないもの/大切にしたいとは思えないもの」
「自分と社会を繋ぎどめておくもの」
などなど、思い出すと色んな答えがあった。

わかるー、と頷く答えも、そうか?、と首をかしげる答えもいろいろあって面白い。

それぞれ、そう思うに至った経験がいろいろあったんだろうなぁと想像すると面白い。





ぼんやりとした彼女らの答えは、ざっくりと、
・心を身体の対のものとして捉えているもの
・ひとまとまりのものをして捉えているもの
に分けられるなと思った。

心、と書いたけれど、心に限らない。
心と書いたり、脳だったり、思考だったり、形を持たない意思のようなものと身体が対立するような感じの。

自分もかつてそう思っていたり、そう思っている節があるけれど、
この考え、一体何を経験してそう思い至ったんだろう、と。

そして、この二項の対立が、果たして身体を取り巻く思考においてふさわしいのかどうかもずっと疑問だ。

このぼんやりを何と無く晴らしたくて、「日本人の身体」という安田登さんの本を読んだ。

その答えが、安田さんの本に多く書いてあった。





話それるけど、
自分がこの人好きだなと思う文筆家って、何か共通点がある気がする。

少なくとも、トゲのある人の文章はあまり好きじゃない。
言うなれば、木みたいな、どっしり構えておおらかにユーモア語るおじさんの本が好み。
金子先生とかも。





話戻ると、

自分がレッスンをしていてよく遭遇する、
私の、この場所をこう動かしてほしい、という指示に対して、本人はそう動いているつもりでも、動いていないという場面。

多くは、動かしたい場所と違うところに力が入っている。
それでも、できたつもりになっている。


それを見ていると、いかに身体が不自由で、自分の思い通りにならないか、ということを考えさせられる。
思い通りにならないということは同時に、思ってもいないように動いているということでもある。
自分の感情の自制を振り切って身体が動くこともあるし、動かないこともあるし。

もっと広く考えれば、心臓が動いていることだって、呼吸を絶えずしていることだって、内臓が常に働いていることだって、何も自分の思いの通りではない。





思い通りにならなさは、私自身も結構経験している。
胃痛でゲーゲー吐いてた時は、誰かに乗っ取られている気分だった。

自分は2つ目の身体を生きているとさえ、最近は思う。
2つ目はとても穏やかで快適だ。





思い通りにならない身体に、思いもしなかった身体の動かし方を伝えたい、
それが自分が運動を指導するときの一番のモチベーション。

その人の身体の、当たり前を崩したい。

レッスンの時間の中では伝えるのに十分な時間はないかもしれない。
それに、今でなくてもいい。
この、不思議な身体の動かし方が、いつか何かのきっかけで、その人の新しい身体の使い方になってくれ!と思いながらやっている。
ような気がする。


レッスンしている時間は、目の前にいる人の身体と戦っている気分。
もしくは、登山口に立つ登山家の気分。





私の最近のレッスンの流行は、
この運動をする前とした後で、身体のこの部分がこう変化した!というストーリー仕立てでお送りするレッスン。

変化をより印象的に、感動的に。





全く話は変わるけれど、
デュオのダンス作品を作りたいと、ふつふつ思っている。
だれか相方やってくれないかな、もしくは二人組まるごと。


本当は、自分が論文で示したいことだって、アート作品として結論の昇華をその作品に触れる人たちに託すことができたらどれだけ楽しいだろう、と思う。

弟たちからもらったアイデア、レッスン受けてくれてる人たちの心拍数を電球のチカチカで表す、とかっていうアイデアも面白そう。

それにしても、まずは自分の中でテーマがはっきりして論文書けるくらいには考えをはっきりしないといけないとは思うけれど。

どっちみち論文書いてから制作だなー。

0 件のコメント:

コメントを投稿