「人間観察が趣味です」という女子をよく見かける。
女子に限らないのかもしれないけれど、趣味が人間観察と言う男子はあまり見ない気はする。
…私だけだろうかしら?
各人が人間の何を観察しているのか聞き正したことはないけれど、かく云う私も何の気なしに人を見ていることは多い。
しかし私の場合、背後から観察しつつ後をつけている。
人間の身体の動きは実に面白い。ただ見ているだけで十分に面白いものであることは間違いない。
さらに骨とか筋肉とかについて少しかじってみると、身の回りの動いている人をみるだけで人間ってすげーなぁ、良くできてるなって感動しそうになる。
最近は逆に、ダンスを踊る人を見ていられないという場合に多々遭遇する。
「見ておくれ!」と言わんばかりに設えられた身体と空間で、こちとら逃げることも出来ずに苦しい時間を過ごすこともたまにある。
だからといって、ダンスのことが嫌いになった訳ではない。
大学からこちらへ出てきて、沢山のダンスや舞台の作品を見てきて、分母がどんどん大きくなって、そのうち何年経っても忘れられない舞台が占める割合はどんどん下がっていく。
どんな賞を取ったとか世界中で評価されているとかそんなことは関係なく、むしろそういう評価を受けているもののうちにおいてすら、十分に感じ入ることの出来るものはほんの一握りでしかなかったりする、
ダンスに限る話ではなく、どんな芸術においても。
不幸なことではなく、当たり前のことなんだと思う。
感覚がショートして衝撃の波に引き摺り込まれるような、
"本物"にはそうそう出会えない。
しかし、それは確かに、ある。
*
田中泯さんの場踊りを見た。
立教でお世話になった宇野邦一教授が田中泯さんの古くからのご友人らしく、教鞭を執る大学で場踊りを、という退職の近づいた宇野さんの要望により実現したそうだ。
大体1時間位、キャンパスを舞台に泯さんが舞った。それを目撃出来たののが何よりも嬉しくて幸せなことだった。
時間とか空間とか身体とか、難しい言葉で語るのはよそう、
泯さんのダンスはただただ、美しかった。
無駄が一切なく、いい意味で軽く、まさに舞い踊っている。
無駄のない人間の動きを形容する言葉は「美しい」なのではないかと、最近感じる。別の言葉ならば、「惹きつける」「ただ見ることを要請する」とか。
人間観察をする対象となる人々は、見られることを意識していない、スマートで単純な動きをしている身体だ。
しかし何の気なしに動くその身体の美しさは偶然の産物であり、私が目端に盗み見た美しさでもある。
ダンスを踊る身体は、まさに観客に見入(射)られる状況の中で、美しさを実現する。偶然でなく、必然に。
踊り始めにそこで立っている姿だけで、その人のダンスの結果は見える。
そう言うものだと思うし、私自身そう言っていられるダンサーで居たいと思う。
"何を"踊るのかが常に問題であって、少なくともダンスは発明ではなく、見出すものだから。
場踊りの後質疑応答の時間があって、質問させて貰うことができたので
「日常生活とダンスとの間に境界はあるか」という質問を訊いてみた。
人間であればどんな時でも身体を使って動き、生活しているけれど、
その動きとダンスの違いをどこに設けるかということがその人にとってのダンスそのものだと考えている。
泯さんはとても丁寧にたくさんの言葉を返してくれた。
印象に残ったのは、「いつか境界がなくなるとしたら」という言葉だった。
*
泯さんのダンスを見て、友達と話をして、久しぶりに日記を書こうと思った。
最近は頭の中の考え事も、浮かんでは消えて行く。
書き残しておこうとしなければ生まれることすらかなわない言葉がとにかく頭の中を洗い流してゆくようです。
短い言葉を気分で発信して、それは私のことを知っている人たちに私ありきで理解されて、
そう云う場でしか言葉を使っていないとちゃんと言葉を使って文章が書けなくなってしまう。
言葉は私の所有物ではない、と思うのです。
それにしても、お前はダンサーなんだからブツブツ言ってないで踊れよ、って声が聞こえてきそうです。
それでもやっぱり、いろいろ考えてないと踊ることもなくなってしまいそうなのです、
踊ることは私にとって、常に何某か意思の表明でもあるのです。
とりあえず力尽きたのですが、後半の失速具合が半端ないな。
だけどまたここでやめると書けなくなるから。
今日はここまでー。
2013年10月3日木曜日
2013年8月31日土曜日
ダンスに出会う場所
勅使川原三郎氏が荻窪駅からほど近い処に"カラス アパラタス"というスタジオをオープンした。
其処はギャラリーと兼ねる稽古場と、決して大きくはないが狭くはない劇場を併設する施設であり、日々ワークショップや公演、展示が行われるのだそう。
このご時世に劇場と稽古場を併設したスタジオを持つことの出来る舞台芸術家が果たしてどれだけ居るだろうか、ともするとなかなか叶わない夢でもある。
正直、何処からお金がでているのだろうか?と思わないこともない。
だけどそんなこと私としてはどうでもいい、
私は勅使川原さんの舞台が好きで、佐東さんのダンスが好き。
好きというか、素直に憧れる。
それが此処でたくさん見られる。
小さな劇場だからこそ、息遣いすら聞こえるほど近くでこんなに凄いダンスが見られる。
そう思うと、ただただわくわくするのです。
私も舞台に関わる人ではあるが同じことをしようとはゆめゆめ思いもしないし、作品がどう良いのかとかは全く分からない。そういうこと考えるのは放棄した。
ただ唯一無二、なのだよ。圧倒的で、本物。私にとっては。
どうしたらそういう風に踊れるのだろう?
どうしたらこういう舞台が作れるのだろう?
って、初めて見たときから今まで印象は変わらない。
いや、変わらないというか、毎回更新してくるから、毎回新しいから、いつまでもそう思える。
いつまでも先を走っていて欲しい。
そういう意味ではいちファンだけど、ファンという以上に大学院で直接指導を受けたっていう関わりを持ってしまったので、
期待も、憧れも、畏れも、愛おしさも、恐怖も、いろんな感情がある。
しかし、同じ時代に生きていられてよかったと、大げさではあるけれど、思っている。
それは舞台っていうものに関わる問題だから、
つまり演る人と見る人が同じときに生きてないと叶わないことだから。
だから、ただ舞台の作品を客席で見るよりも、今回のような場所ができたことが何よりも嬉しい気持ちです。
足を運ぶ場所が用意されている嬉しさ。
まぁ、こんなに嬉しい気持ちだなんて言ってられるのは、
客出しで出ていらした勅使川原さんに通りすがりに頭下げたら私のこと覚えてくれていて(忘れられてると思ってた笑)、「おお!元気?」ってニコニコしながら声かけてくれたからだと思うんだよね、全く、憎めない人です。
また、行こうと思う。
其処はギャラリーと兼ねる稽古場と、決して大きくはないが狭くはない劇場を併設する施設であり、日々ワークショップや公演、展示が行われるのだそう。
このご時世に劇場と稽古場を併設したスタジオを持つことの出来る舞台芸術家が果たしてどれだけ居るだろうか、ともするとなかなか叶わない夢でもある。
正直、何処からお金がでているのだろうか?と思わないこともない。
だけどそんなこと私としてはどうでもいい、
私は勅使川原さんの舞台が好きで、佐東さんのダンスが好き。
好きというか、素直に憧れる。
それが此処でたくさん見られる。
小さな劇場だからこそ、息遣いすら聞こえるほど近くでこんなに凄いダンスが見られる。
そう思うと、ただただわくわくするのです。
私も舞台に関わる人ではあるが同じことをしようとはゆめゆめ思いもしないし、作品がどう良いのかとかは全く分からない。そういうこと考えるのは放棄した。
ただ唯一無二、なのだよ。圧倒的で、本物。私にとっては。
どうしたらそういう風に踊れるのだろう?
どうしたらこういう舞台が作れるのだろう?
って、初めて見たときから今まで印象は変わらない。
いや、変わらないというか、毎回更新してくるから、毎回新しいから、いつまでもそう思える。
いつまでも先を走っていて欲しい。
そういう意味ではいちファンだけど、ファンという以上に大学院で直接指導を受けたっていう関わりを持ってしまったので、
期待も、憧れも、畏れも、愛おしさも、恐怖も、いろんな感情がある。
しかし、同じ時代に生きていられてよかったと、大げさではあるけれど、思っている。
それは舞台っていうものに関わる問題だから、
つまり演る人と見る人が同じときに生きてないと叶わないことだから。
だから、ただ舞台の作品を客席で見るよりも、今回のような場所ができたことが何よりも嬉しい気持ちです。
足を運ぶ場所が用意されている嬉しさ。
まぁ、こんなに嬉しい気持ちだなんて言ってられるのは、
客出しで出ていらした勅使川原さんに通りすがりに頭下げたら私のこと覚えてくれていて(忘れられてると思ってた笑)、「おお!元気?」ってニコニコしながら声かけてくれたからだと思うんだよね、全く、憎めない人です。
また、行こうと思う。
2013年8月22日木曜日
身体をゆるめる
運動科学について研究している高岡英夫が書いた『からだには希望がある』という本、ブックオフでふと手に取った。
内容が割と興味深かったので、自分の興味と併せて自分の言葉でざっとまとめてみる。
高岡英夫は自身が武道や気功に長けた人物であり、現在は運動科学研究所というところで研究をしているそうだ。その方法論はスポーツを志す人はもとより教育や音楽にも応用されているとのこと。
youtubeにも高岡がTVで簡単な体操を指導している様子がいくつかあがっていた。背の高くてすらっとした、髪が天パの柔和なおじさんだった。
この本は前半に高岡の身体に関する考察、身体をゆるめるということ、呼吸法、さらに気の扱いについてなど。
後半にその実践の解説。
この本で取り上げられていてとても興味深かったのは、身体をゆるめるということ。
例えば一流のスポーツ選手の立ち姿は、力むのではなくすーっと伸び上がるように、ともするとゆらゆらとしているかのように見える。
イチローやタイガー・ウッズなど。決して筋肉質な身体ではないものの、その立ち姿は美しい。
それを建築物に例えるならば「柔構造」であるということ。これは五重塔の構造から導き出された建築工法で、現在高層建築の建設には欠かせないものだ。
五重塔は中心に一本、決して太くはない柱がまっすぐ伸びているだけで、ほかの部分は互いにずれあうような、ゆるゆるに連結している状態だったという。この構造は地震や風によって建物に掛かる揺れの力を逃がすことを可能にし、耐久性がとても高い。
その反対は「剛構造」、これは建物のあらゆるパーツが微動だにしないようにつなぎ合わされているものを指す。
低層建築にはこの工法が向いているそうだ。
人間の身体が立っているのもこれと同じようなもので、剛構造の状態で立っている人は微動だにしないよう、力んだ状態で経ってる。
対して柔構造の状態で立つということは、身体が常にゆれていることを受け入れ、その中心/重心のバランスを探り続けている状態。
簡単にいえば、柔構造の柱に当たるのは体幹の筋肉と呼ばれるいくつかの筋肉なのだろう。諸々の動作を行う筋肉より、身体そのものの姿勢を作る筋肉。
人間に働く最も大きな力は重力である。地球の中心にむかって引き寄せられる重力を受けながら人間が立つということは、重力に抗するようにしてちょうど釣り合いの取れているということを指す。
柔構造で立つ人はある意味力を抜き筋肉に入れる力を最大限削いだ上で、常に身体の中心を意識して立っている状態。
仰向けに寝た姿勢で肘をついて腕を直角に曲げていると、積み木がうまく積みがっているように力を入れなくても静止できるポイントがある。
腕を上げたまま寝られるという人の話を聞いたことがあるけれど、そういう状態なのだろう。
かといえ立っている場合において、五重塔における中心の一本柱は人間の背骨に当たる、とは決して言い切れない。
常時身体の中心を探り修正していく(この機能は人間誰しもが持つ機能である)ときの基準、それが重心線であり、身体がすーっと立ち上がるように見える人はその重心線が見せる印象である。
始めて立つ赤ん坊は、筋力が無いにも関わらずバランス力のみでフラフラと立つ。人間は元々誰しも柔構造としての立ち方をするはずなのだが、時を経て形成される筋肉や身体の歪みや強張りから柔構造としての立ち方が難しくなっていく。
また柔構造の身体を持つ人は、常に自身の身体の中心を意識していることで、自分の身体の外にあるモノの中心を見極める力が高いという。それはスポーツに限らず、日常生活動作においても見受けられ、例えばジャガイモの皮むきをする時に均一の厚さで皮を剥けるということはジャガイモの中心や包丁の中心をきちんと意識することで可能になる。中心は身体の内部だけの話ではない。
また柔構造であることは、洞察力にも関わってくるという。物事の本質を見極める力にも関わるという。中心を見抜く力、そこに身体の中心を意識する事が関わっているのだと。
身体をゆるめるということは、この本のみならず色んなところで目にする機会が多い。私だけだろうか。興味があるから目に付くだけか。
それだけ力を抜いて身体をゆるめるということはとても難しいことなのだと感じるが、当たり前だがただ身体の力を抜けばいいということでもない。
力を抜くにも、それ相当の身体や意識の使い方が必要になってくるし、どうしても解剖学に触れざるを得ない。
骨の仕組みとか、少しだけ知識があるだけでも全然理解が違う気がする。
ヨガのレッスンをするに当たっても、まずは自分が自信を持ってインストラクションできることも大事だけど、自分なりの知識をきちんと自分の言葉で伝えられるようになりたいものね。
頭だけで考えた言葉は絶対的に弱い。身体から言葉を紡いでいかないといけませんと教えられた。
内容が割と興味深かったので、自分の興味と併せて自分の言葉でざっとまとめてみる。
高岡英夫は自身が武道や気功に長けた人物であり、現在は運動科学研究所というところで研究をしているそうだ。その方法論はスポーツを志す人はもとより教育や音楽にも応用されているとのこと。
youtubeにも高岡がTVで簡単な体操を指導している様子がいくつかあがっていた。背の高くてすらっとした、髪が天パの柔和なおじさんだった。
この本は前半に高岡の身体に関する考察、身体をゆるめるということ、呼吸法、さらに気の扱いについてなど。
後半にその実践の解説。
この本で取り上げられていてとても興味深かったのは、身体をゆるめるということ。
例えば一流のスポーツ選手の立ち姿は、力むのではなくすーっと伸び上がるように、ともするとゆらゆらとしているかのように見える。
イチローやタイガー・ウッズなど。決して筋肉質な身体ではないものの、その立ち姿は美しい。
それを建築物に例えるならば「柔構造」であるということ。これは五重塔の構造から導き出された建築工法で、現在高層建築の建設には欠かせないものだ。
五重塔は中心に一本、決して太くはない柱がまっすぐ伸びているだけで、ほかの部分は互いにずれあうような、ゆるゆるに連結している状態だったという。この構造は地震や風によって建物に掛かる揺れの力を逃がすことを可能にし、耐久性がとても高い。
その反対は「剛構造」、これは建物のあらゆるパーツが微動だにしないようにつなぎ合わされているものを指す。
低層建築にはこの工法が向いているそうだ。
人間の身体が立っているのもこれと同じようなもので、剛構造の状態で立っている人は微動だにしないよう、力んだ状態で経ってる。
対して柔構造の状態で立つということは、身体が常にゆれていることを受け入れ、その中心/重心のバランスを探り続けている状態。
簡単にいえば、柔構造の柱に当たるのは体幹の筋肉と呼ばれるいくつかの筋肉なのだろう。諸々の動作を行う筋肉より、身体そのものの姿勢を作る筋肉。
人間に働く最も大きな力は重力である。地球の中心にむかって引き寄せられる重力を受けながら人間が立つということは、重力に抗するようにしてちょうど釣り合いの取れているということを指す。
柔構造で立つ人はある意味力を抜き筋肉に入れる力を最大限削いだ上で、常に身体の中心を意識して立っている状態。
仰向けに寝た姿勢で肘をついて腕を直角に曲げていると、積み木がうまく積みがっているように力を入れなくても静止できるポイントがある。
腕を上げたまま寝られるという人の話を聞いたことがあるけれど、そういう状態なのだろう。
かといえ立っている場合において、五重塔における中心の一本柱は人間の背骨に当たる、とは決して言い切れない。
常時身体の中心を探り修正していく(この機能は人間誰しもが持つ機能である)ときの基準、それが重心線であり、身体がすーっと立ち上がるように見える人はその重心線が見せる印象である。
始めて立つ赤ん坊は、筋力が無いにも関わらずバランス力のみでフラフラと立つ。人間は元々誰しも柔構造としての立ち方をするはずなのだが、時を経て形成される筋肉や身体の歪みや強張りから柔構造としての立ち方が難しくなっていく。
また柔構造の身体を持つ人は、常に自身の身体の中心を意識していることで、自分の身体の外にあるモノの中心を見極める力が高いという。それはスポーツに限らず、日常生活動作においても見受けられ、例えばジャガイモの皮むきをする時に均一の厚さで皮を剥けるということはジャガイモの中心や包丁の中心をきちんと意識することで可能になる。中心は身体の内部だけの話ではない。
また柔構造であることは、洞察力にも関わってくるという。物事の本質を見極める力にも関わるという。中心を見抜く力、そこに身体の中心を意識する事が関わっているのだと。
身体をゆるめるということは、この本のみならず色んなところで目にする機会が多い。私だけだろうか。興味があるから目に付くだけか。
それだけ力を抜いて身体をゆるめるということはとても難しいことなのだと感じるが、当たり前だがただ身体の力を抜けばいいということでもない。
力を抜くにも、それ相当の身体や意識の使い方が必要になってくるし、どうしても解剖学に触れざるを得ない。
骨の仕組みとか、少しだけ知識があるだけでも全然理解が違う気がする。
ヨガのレッスンをするに当たっても、まずは自分が自信を持ってインストラクションできることも大事だけど、自分なりの知識をきちんと自分の言葉で伝えられるようになりたいものね。
頭だけで考えた言葉は絶対的に弱い。身体から言葉を紡いでいかないといけませんと教えられた。
2013年8月20日火曜日
暑中お見舞い申し上げます
しょーちゅーうーーおみまいっ もーしあげーーますうーー
正しくは残暑ですけどーーんっんー
先だって本番で切ってしまった前髪にもやっと見慣れ始めました。
皆々様におかれましては、酷暑の折如何お過ごしですか?
最近はたまにヨガの先生とかしてます。って書いたっけ?
いつからヨガに転向したのかと言われそうですが。
私的には自分のダンスと遠からず近からずです。
個人的には、ダンスしたこと無い人とか、普段身体動かさない人にヨガ教えたい。
もちろん、ダンスしてる人にもヨガが何か助けになったらいいな、とも思う。
結構ダンスとか昔からやってた私でも、取れないポーズたくさんあるからね。
まだまだ修行が足らんとです。
スピリチュアルな部分は結構どうでもいいのだけど、
ヨガのすごいところは、身体の本質的な部分、根底の部分からポーズを組み立てていくから、その人の身体に合ったポーズがその人の身体で実現出来るところ。大変面白い。
ヨガマットとかの道具やウエアも本当はそんなに必要ない気がするし(そりゃあったほうが助けになるけれど)、いつでもどこでも身体一つで出来るのがいいよね。
きっと重要なことは、普段の生活の中でヨガをしている時間が少しだけ特別な時間になることなんだろうなぁ、と漠然と思っている。
そう考えると、ヨガってのはただの名前というかイメージというか看板のようなもの。
って言うと、怒られるのかしら。
奥が深すぎて、きっと死ぬまでやっても到達出来ないんだろうなぁと思うけれど、あんまりヨガに縋りたくないとも思うじゃない。
両足が左右から首の後ろに掛かるとか、無理だもの。
無理だし出来なくても全く悲しくないし。
あんまり普段ダイエットとか健康とか興味ない人だけど、
良い悪いは置いといてただ単純に、身体は変わる、変えられるということだけは実感している。
それはヨガでも自分のダンスでも重要なことです。
最近は体幹の筋肉が鍛えられたことにより、捻って曲がった姿勢が取れなくなってきた。笑
すぐまっすぐに戻っちゃうのです。まっすぐの方が楽だから。
ヨガ用のブログとか開設しようかとか、チラシ作ってみようかとか、いろいろ策を考えつつ。
自分、はやくやれーってとても思ってる。
がんばれ自分
だらだらと書いてしまった。
あと、pc版からじゃないと見れないのかな、右のバナーに今後の出演情報とか載せたのでよろしくお願いしますー。即興のライブでございます。
まぁしばらくはヨガの先生頑張るよ。
2013年8月8日木曜日
日記
永井荷風の日記に憧れて、5,6月くらいは手帳に毎日の記録をつけていた。
しかしながら、作品の稽古が佳境に入った辺りから途絶えている。
思い出すのも面倒くさいので、放置。
久しぶりに今日は何にもしない日だった。
月曜日も火曜日も何だかんだ仕事があって気を張っていたせいか、今日は12時間以上寝た気がする。
*
日曜日に、N.N.N.4というダンスの公演が終わりました。
一区切りつけるために、色々忘れないように日記でも書こうかしら、と。
この公演のために、『譚々』という作品を作って上演しました。
ドラマーである大学院の後輩の畑山氏に参加してもらいました。
1月に『slur』という作品をやっているときのこと、
このときも動きは即興だったけれど、いちいち身体の部分に意識を向けるより、身体全体が一つの大きな流れを生み出していくような、不思議な感覚になる日があった。
例えばオーケストラで演奏される様な、絶対音楽のような時間の流れ方?
こうなった日は、ダンスそれ自体が一つ上の次元に行けてる気がした。
下手くそなヴァイオリンほど聞き苦しいものはないと思うのだけど、同じ楽器でも鍛錬を積んだ人が演奏することで、あの弦をこする音がどうしようもなく美しく響く瞬間。
身体の動きにも、ダンスにも同じような瞬間がある気がする。
今回は、毎回作品を通す度その状態を身体で生み出すためのもって行き方を探っていたのだけれど(そこが作品の全体だったとも言える)、
本番の1,2日前に稽古してる時だったか、となりで畑山氏ががつがつにドラムを叩いているのだけど、どういうリズムを叩いてるのか全く聞こえなくなった日があった。
単純に言えば、聞き流すことができるようになった、とでも言うのかしら。
集中力の問題だと思う。
そこから割と常に、身体をハイに入れる感覚が掴めるようになった。
栄養剤を自家製産してる感じ、代償も大きかったけれど。
気分次第で出来る稽古と違って、本番は日時が決められている。
3日間で5回の本番に照準を合わせてそこに自分のハイの状態を強制的に持っていくので、本番が終わってからバランスが取れなくて精神的に大分揺らいだ。
劇場で稽古をしているとき、STの館長である大平さんとたまたま少し話をする機会があった。
大平さんは私が大学4年のときに部活の同期と一緒にやった公演を見て下さっていて、「あのときとは大分作風が違うんだね、"美しい動き"みたいなのやりたいの?」と仰っていた。
真顔でずばり言われてちょっと恥ずかしくなってしまったけれど、まさに"美しい動き"がやりたいのです。
畑山氏のドラムを叩く動きも、私にとってはダンス=動きが効率化されて、ただその動きが人目を惹きつける。
そういうこと、色んな人に十分に理解されている気はしなかったんだけど。
自らのダンスの見方に寸分の疑いも持っていない人たちの意見も当然あったし、
そう言うだけの力が私に、作品に足りないところだと思ったり。
ダンスが、特権的な身体の動きだけを指すものになってしまわないようにしたい。
どんな動きでもダンスになる、重要なのは、私がどのような動きをダンスとするか、どのような動き方をダンスとするかということだろうと。
人間の動きはそれだけで充分に美しく、人の目を惹きつけることができると思う。
そういう種類の動きを自分自身の身体で実現するにはどうしたらいいかって考えている。
スポーツ選手の動きは美しく、お祭りの人々の踊りは人目を惹きつける。それくらい単純なことで良いんじゃないかって。
ダンスは、現実であるべきだと思う。
うまく説明出来ないけど、作り物ではないってこと。現実?現象?
「こういうことになってるんです」って説明が効かないんだよね。
振付を踊るのも楽しい。
ただ、どうしても私の場合、振付を踊り切るときは快感の方が強い。難しい振りをこなせるほどに思う。身体の中でよりスマートな回路が組み上がっていく感じは楽しい。
簡単に、酔える。私が気持ちいいだけ。
それが悪いとは思わないけど、そうじゃないものもある気がする。
どうせダンスで作品作るなら、みんながやってることわざわざやる必要はないし。
作品の構成力が弱い、みたいな指摘ももらった。
その辺、敢えてあやふやにして決め切るのを避けているから当然出てくる感想だった。
私は自分の癖で、誤解を恐れずいうと、無意識に作品を演劇的に組み立ててしまう。演劇的というか、意味のような、理屈のようなものを追っていたり。
それは、私が考えるダンスとは少し違うと思っている、私は「踊る人」を演じてるんじゃない。
かといってどう構成すれば良いのかよく分からない。だからあやふやにしといた。
今までの自分のなかで心地よい構成のうち、矛盾が生まれない範囲ぎりぎり自分に許したものだけで構成した。
これは今後の課題。
そういう風に作った作品、演奏も去ることながら私がどういう風に作品を作りたいかということを的確に読み取ってくれた畑山氏の尽力も大きくて、本当に感謝しています。
普段フルのドラムセットで演奏してる人に、スネア一つでどうにかしろって結構難題なのかな、と当初たまに思ったりした。思っただけだけど。終わってみれば別に何にも不足はなかった。
彼が居なかったらこういう作品は作れなかった。
そしてハタヤマンはみんなに大人気でした。笑
あと今回強く感じたのは、私は非常に真面目な人間だったということか。笑
なんかもう、それでいいかと思った。
かっこよくセンス良くラフな感じでやるのは無理だ。
恥を晒してやるしかないわって。
ダンスのことだけはクソ真面目にやるしかないわって諦めがついた。
それから、作品をどういう場所で、どういう企画で上演するかってことも考えた。
これはややこしい問題なので多くは書けないけれど、色々と自分の中での考えをはっきりと意識する良い機会になった。
作品を作って上演するということは、どういう人にどういう場所で見せるかということもとても重要。
大きな問題にすれば、作品が社会にどう在るのかとか。
そういうことは、作品そのものの内容にも大きく関わると思っている。
自己満足なのは頂けない。そういう作品を私もいっぱい作ってきたと思うから。
ダンスとかって、本当にそういう罠に陥りやすい。あなたがやりたいからやってるんでしょ?って言われたら終わりだと、異常なまでに危機感を持っている。
それは、"価値をつくる"っていうことを焦点にしたいと思うから。
反省点も色々あるけれど、色んな人に見てもらって、「面白かった」とか「綺麗だった」とか言って貰えたのが嬉しかった。
たまに私が踊るの見るの好きだと言ってくれる人や、感動しました!みたいなこと言ってくれる人がいて、単純にそういうのが原動力になっている気がする。
ダンスにわざわざ難しい言葉を当てはめる必要はないと思うし、私自身散々そういうことをしてみてあんまり意味がないと思った。
ダンスを語るのは非常に難しく、時に危険なこと。ダンスを貧しくする可能性もある。
やるまいやるまい…と思いながら検索してとある批評家の言葉を見てしまったけど、クソ過ぎて顎が外れるかと思ったわ。笑
まぁそんなことにいちいち囚われててもしょうがないので、これからもゆっくりとマイウェイを真面目に突っ走っていこうと思います。
とりあえず書き出すだけ書き出したので乱筆なのですが、備忘録がてら。
しかしながら、作品の稽古が佳境に入った辺りから途絶えている。
思い出すのも面倒くさいので、放置。
久しぶりに今日は何にもしない日だった。
月曜日も火曜日も何だかんだ仕事があって気を張っていたせいか、今日は12時間以上寝た気がする。
*
日曜日に、N.N.N.4というダンスの公演が終わりました。
一区切りつけるために、色々忘れないように日記でも書こうかしら、と。
この公演のために、『譚々』という作品を作って上演しました。
ドラマーである大学院の後輩の畑山氏に参加してもらいました。
1月に『slur』という作品をやっているときのこと、
このときも動きは即興だったけれど、いちいち身体の部分に意識を向けるより、身体全体が一つの大きな流れを生み出していくような、不思議な感覚になる日があった。
例えばオーケストラで演奏される様な、絶対音楽のような時間の流れ方?
こうなった日は、ダンスそれ自体が一つ上の次元に行けてる気がした。
下手くそなヴァイオリンほど聞き苦しいものはないと思うのだけど、同じ楽器でも鍛錬を積んだ人が演奏することで、あの弦をこする音がどうしようもなく美しく響く瞬間。
身体の動きにも、ダンスにも同じような瞬間がある気がする。
今回は、毎回作品を通す度その状態を身体で生み出すためのもって行き方を探っていたのだけれど(そこが作品の全体だったとも言える)、
本番の1,2日前に稽古してる時だったか、となりで畑山氏ががつがつにドラムを叩いているのだけど、どういうリズムを叩いてるのか全く聞こえなくなった日があった。
単純に言えば、聞き流すことができるようになった、とでも言うのかしら。
集中力の問題だと思う。
そこから割と常に、身体をハイに入れる感覚が掴めるようになった。
栄養剤を自家製産してる感じ、代償も大きかったけれど。
気分次第で出来る稽古と違って、本番は日時が決められている。
3日間で5回の本番に照準を合わせてそこに自分のハイの状態を強制的に持っていくので、本番が終わってからバランスが取れなくて精神的に大分揺らいだ。
劇場で稽古をしているとき、STの館長である大平さんとたまたま少し話をする機会があった。
大平さんは私が大学4年のときに部活の同期と一緒にやった公演を見て下さっていて、「あのときとは大分作風が違うんだね、"美しい動き"みたいなのやりたいの?」と仰っていた。
真顔でずばり言われてちょっと恥ずかしくなってしまったけれど、まさに"美しい動き"がやりたいのです。
畑山氏のドラムを叩く動きも、私にとってはダンス=動きが効率化されて、ただその動きが人目を惹きつける。
そういうこと、色んな人に十分に理解されている気はしなかったんだけど。
自らのダンスの見方に寸分の疑いも持っていない人たちの意見も当然あったし、
そう言うだけの力が私に、作品に足りないところだと思ったり。
ダンスが、特権的な身体の動きだけを指すものになってしまわないようにしたい。
どんな動きでもダンスになる、重要なのは、私がどのような動きをダンスとするか、どのような動き方をダンスとするかということだろうと。
人間の動きはそれだけで充分に美しく、人の目を惹きつけることができると思う。
そういう種類の動きを自分自身の身体で実現するにはどうしたらいいかって考えている。
スポーツ選手の動きは美しく、お祭りの人々の踊りは人目を惹きつける。それくらい単純なことで良いんじゃないかって。
ダンスは、現実であるべきだと思う。
うまく説明出来ないけど、作り物ではないってこと。現実?現象?
「こういうことになってるんです」って説明が効かないんだよね。
振付を踊るのも楽しい。
ただ、どうしても私の場合、振付を踊り切るときは快感の方が強い。難しい振りをこなせるほどに思う。身体の中でよりスマートな回路が組み上がっていく感じは楽しい。
簡単に、酔える。私が気持ちいいだけ。
それが悪いとは思わないけど、そうじゃないものもある気がする。
どうせダンスで作品作るなら、みんながやってることわざわざやる必要はないし。
作品の構成力が弱い、みたいな指摘ももらった。
その辺、敢えてあやふやにして決め切るのを避けているから当然出てくる感想だった。
私は自分の癖で、誤解を恐れずいうと、無意識に作品を演劇的に組み立ててしまう。演劇的というか、意味のような、理屈のようなものを追っていたり。
それは、私が考えるダンスとは少し違うと思っている、私は「踊る人」を演じてるんじゃない。
かといってどう構成すれば良いのかよく分からない。だからあやふやにしといた。
今までの自分のなかで心地よい構成のうち、矛盾が生まれない範囲ぎりぎり自分に許したものだけで構成した。
これは今後の課題。
そういう風に作った作品、演奏も去ることながら私がどういう風に作品を作りたいかということを的確に読み取ってくれた畑山氏の尽力も大きくて、本当に感謝しています。
普段フルのドラムセットで演奏してる人に、スネア一つでどうにかしろって結構難題なのかな、と当初たまに思ったりした。思っただけだけど。終わってみれば別に何にも不足はなかった。
彼が居なかったらこういう作品は作れなかった。
そしてハタヤマンはみんなに大人気でした。笑
あと今回強く感じたのは、私は非常に真面目な人間だったということか。笑
なんかもう、それでいいかと思った。
かっこよくセンス良くラフな感じでやるのは無理だ。
恥を晒してやるしかないわって。
ダンスのことだけはクソ真面目にやるしかないわって諦めがついた。
それから、作品をどういう場所で、どういう企画で上演するかってことも考えた。
これはややこしい問題なので多くは書けないけれど、色々と自分の中での考えをはっきりと意識する良い機会になった。
作品を作って上演するということは、どういう人にどういう場所で見せるかということもとても重要。
大きな問題にすれば、作品が社会にどう在るのかとか。
そういうことは、作品そのものの内容にも大きく関わると思っている。
自己満足なのは頂けない。そういう作品を私もいっぱい作ってきたと思うから。
ダンスとかって、本当にそういう罠に陥りやすい。あなたがやりたいからやってるんでしょ?って言われたら終わりだと、異常なまでに危機感を持っている。
それは、"価値をつくる"っていうことを焦点にしたいと思うから。
反省点も色々あるけれど、色んな人に見てもらって、「面白かった」とか「綺麗だった」とか言って貰えたのが嬉しかった。
たまに私が踊るの見るの好きだと言ってくれる人や、感動しました!みたいなこと言ってくれる人がいて、単純にそういうのが原動力になっている気がする。
ダンスにわざわざ難しい言葉を当てはめる必要はないと思うし、私自身散々そういうことをしてみてあんまり意味がないと思った。
ダンスを語るのは非常に難しく、時に危険なこと。ダンスを貧しくする可能性もある。
やるまいやるまい…と思いながら検索してとある批評家の言葉を見てしまったけど、クソ過ぎて顎が外れるかと思ったわ。笑
まぁそんなことにいちいち囚われててもしょうがないので、これからもゆっくりとマイウェイを真面目に突っ走っていこうと思います。
とりあえず書き出すだけ書き出したので乱筆なのですが、備忘録がてら。
2013年7月21日日曜日
稽古場日誌
8月の公演でやる作品、先日スタッフの方々に作品を見せる日がありました。
最近のわたくし強気にマイウェイを邁進しておりますが、久しぶりに他催のダンス企画へ作品を出品するという事態に「一体何言われるのかしら」とじつは結構ドキドキしていました。
ドキドキして待ち合わせの時間に一時間も早く着いてしまったのだから、恐らく結構なドキドキだったんだと思います。
スタッフ見せ終わってほっとしたのもありつつ、落ち着いてみると疑問や納得のゆかない点もふつふつと湧きつつ、まぁとりあえずは自分の出来る範囲で頑張るしかねぇなぁと思った矢先ハタヤマンが病に倒れましたが、
今日は彼も元気になったので改めて稽古を始めました。
相変わらず、「10秒関係ない話して良いですか?」という前置きから始まるハタさんの話に私が乗っかりすぎて数分の無駄話を繰り広げる感じの稽古ですが、色んな話をしながら楽しく稽古をしています。
改めて構成も考えつつ…
最近自分が出る作品では振りは毎度即興なので、うまくいかない日や妙に良い感じの日など多少のばらつきはあります。
今日はあんまり良くない日でした。
仕事で早起きしたので目の下にクマが出来てたし。
こういう日こそ、どうしたら良い感じに浮上させられるか、何を重点的に意識すべきか色々試してみるのですが、つまるところそれが私にとって現時点で一番心地良い自分に対する振付なんだろうなぁ、と思っています。
当たり前ですが、パターンに当てはめようとすると、特に即興はクソになります。「これで良い」といつも思えるだけの自信をつけるための稽古を毎度しているという感じです。違うことを恐れないように。
動きは毎度全く違う、そのことを良く思ったり不安になったりするのも私次第。お客さんとは一期一会、ダンスを見る人に伝わるのは私の自信や不安。
どんな日であれ、その日の最高のパフォーマンスができれば良いなぁと思います。
こういう風な動きが良かったとか、そういうのすら毎日捨てて行かなきゃいかんのです。
作品見て、「ストイック」という言葉を掛けられましたが、シンプルなだけだと思っています。
まぁまだ、シンプルというにも程遠く余分なものはいっぱいくっついているけれど。
ダンスはあんまりごちゃごちゃしない方が良いよね、本当は。
いっぱい作品作ってきて、それをお客さんに見せる機会もたくさんあったけれど、最早偶然や奇跡に頼っていても仕様が無いとも思うのです。確実にK点越え出来ないとな、と思う。
今回とか5回も公演あるから、ほんとそう思います。
どうなるのか楽しみ。
身体は楽器。
ダンスは音。
作品は音楽。
最近のわたくし強気にマイウェイを邁進しておりますが、久しぶりに他催のダンス企画へ作品を出品するという事態に「一体何言われるのかしら」とじつは結構ドキドキしていました。
ドキドキして待ち合わせの時間に一時間も早く着いてしまったのだから、恐らく結構なドキドキだったんだと思います。
スタッフ見せ終わってほっとしたのもありつつ、落ち着いてみると疑問や納得のゆかない点もふつふつと湧きつつ、まぁとりあえずは自分の出来る範囲で頑張るしかねぇなぁと思った矢先ハタヤマンが病に倒れましたが、
今日は彼も元気になったので改めて稽古を始めました。
相変わらず、「10秒関係ない話して良いですか?」という前置きから始まるハタさんの話に私が乗っかりすぎて数分の無駄話を繰り広げる感じの稽古ですが、色んな話をしながら楽しく稽古をしています。
改めて構成も考えつつ…
最近自分が出る作品では振りは毎度即興なので、うまくいかない日や妙に良い感じの日など多少のばらつきはあります。
今日はあんまり良くない日でした。
仕事で早起きしたので目の下にクマが出来てたし。
こういう日こそ、どうしたら良い感じに浮上させられるか、何を重点的に意識すべきか色々試してみるのですが、つまるところそれが私にとって現時点で一番心地良い自分に対する振付なんだろうなぁ、と思っています。
当たり前ですが、パターンに当てはめようとすると、特に即興はクソになります。「これで良い」といつも思えるだけの自信をつけるための稽古を毎度しているという感じです。違うことを恐れないように。
動きは毎度全く違う、そのことを良く思ったり不安になったりするのも私次第。お客さんとは一期一会、ダンスを見る人に伝わるのは私の自信や不安。
どんな日であれ、その日の最高のパフォーマンスができれば良いなぁと思います。
こういう風な動きが良かったとか、そういうのすら毎日捨てて行かなきゃいかんのです。
作品見て、「ストイック」という言葉を掛けられましたが、シンプルなだけだと思っています。
まぁまだ、シンプルというにも程遠く余分なものはいっぱいくっついているけれど。
ダンスはあんまりごちゃごちゃしない方が良いよね、本当は。
いっぱい作品作ってきて、それをお客さんに見せる機会もたくさんあったけれど、最早偶然や奇跡に頼っていても仕様が無いとも思うのです。確実にK点越え出来ないとな、と思う。
今回とか5回も公演あるから、ほんとそう思います。
どうなるのか楽しみ。
身体は楽器。
ダンスは音。
作品は音楽。
2013年7月12日金曜日
発狂してみる
ハタヤマンと板橋区を転々としながら、細々と稽古しています。
8/2〜4にSTスポットで演る"譚々"の稽古です。(見にきてね!笑)
今日、稽古をしてて、
何か今ひとつ突き抜けない感じ(主に自分)はどうするかなぁと思ったとき、発狂してみるってのはどうだろう?と思いました。
まじで精神的なものでは無いのであくまでもイメージのお話ですが、なんというか、もっと自分の身体に集中して前後不覚に我を忘れて思いっきりやったらどうだろうって感じで、発狂するって感じです。
あれだよ、今日稽古の前にブコウスキーの『ありきたりの狂気の物語』って本を買ったんだ。面白い。
そんでハタヤマンが今日、なんかまとまってきた気がすると仰ってました。
私もそんな気がします。
発狂させてみようと思ってまとまってきたってのは、何なんでしょう。
稽古するの楽しい。とにかく通す。
昔よりだいぶ変わったね、稽古のやり方も。
通しながら、自分が作品全体やりながら感じる感覚を大事にする。当たり前だけど、自分が集中してやるの楽しいと思えないと、作品もあんまり良い感じにはならない。らしい。たぶんそんな気がする。自分で自分が踊ってるのは見れないからなぁ。
ダンスみたいなものは、思い詰めて考えてみると、別に何か細かいテーマとか物語がはっきり伝わるわけじゃないから、結局、こっちが楽しいって感じることとか集中した感じとか噛み合ってる一体感があったりとかすると、見てる人にもキュッとしまってわくわくするようなものが見せられるような気がするよ。
少なくともわたしがダンス見てるときは、そんな感じで見てるみたい。
もしかしたらその先に、もっと何か伝わるものもあるのかも知れん、と思うけど、今はまぁ、そんなところだ。
そこらへんは巨匠がやれば良いよ。笑
なんでもそうだけど、表現みたいなもの、ダンスも当然、言動一つでも、まず為人が出るからなぁ。
踊ってるときの感情さえ、面白いほど見てる人に伝わっている。
別に感想でそのことをいう人が居なくても、多分思いっきりそれは出てるはず。
…いや、感情とかいう表面的な薄っぺらいものでも無いんだよなぁ、もっと奥底の、自分でも思っても無いことが出ちゃってたりする。隠し事は出来ないよ。
まったく、裸になったりするより随分恥ずかしいもの晒してんだ。
さて、稽古の映像を見なくちゃだ。
譚々は、植物をイメージして作ってる作品です。
うちにいる植物の皆さんを参考にしました。
暑くて大変そうですね、彼らも。だってねぇ、私も大変だもの。
というわけでした。
譚々、みんなになんて言われるんだろうかなぁ。
楽しみだー
8/2〜4にSTスポットで演る"譚々"の稽古です。(見にきてね!笑)
今日、稽古をしてて、
何か今ひとつ突き抜けない感じ(主に自分)はどうするかなぁと思ったとき、発狂してみるってのはどうだろう?と思いました。
まじで精神的なものでは無いのであくまでもイメージのお話ですが、なんというか、もっと自分の身体に集中して前後不覚に我を忘れて思いっきりやったらどうだろうって感じで、発狂するって感じです。
あれだよ、今日稽古の前にブコウスキーの『ありきたりの狂気の物語』って本を買ったんだ。面白い。
そんでハタヤマンが今日、なんかまとまってきた気がすると仰ってました。
私もそんな気がします。
発狂させてみようと思ってまとまってきたってのは、何なんでしょう。
稽古するの楽しい。とにかく通す。
昔よりだいぶ変わったね、稽古のやり方も。
通しながら、自分が作品全体やりながら感じる感覚を大事にする。当たり前だけど、自分が集中してやるの楽しいと思えないと、作品もあんまり良い感じにはならない。らしい。たぶんそんな気がする。自分で自分が踊ってるのは見れないからなぁ。
ダンスみたいなものは、思い詰めて考えてみると、別に何か細かいテーマとか物語がはっきり伝わるわけじゃないから、結局、こっちが楽しいって感じることとか集中した感じとか噛み合ってる一体感があったりとかすると、見てる人にもキュッとしまってわくわくするようなものが見せられるような気がするよ。
少なくともわたしがダンス見てるときは、そんな感じで見てるみたい。
もしかしたらその先に、もっと何か伝わるものもあるのかも知れん、と思うけど、今はまぁ、そんなところだ。
そこらへんは巨匠がやれば良いよ。笑
なんでもそうだけど、表現みたいなもの、ダンスも当然、言動一つでも、まず為人が出るからなぁ。
踊ってるときの感情さえ、面白いほど見てる人に伝わっている。
別に感想でそのことをいう人が居なくても、多分思いっきりそれは出てるはず。
…いや、感情とかいう表面的な薄っぺらいものでも無いんだよなぁ、もっと奥底の、自分でも思っても無いことが出ちゃってたりする。隠し事は出来ないよ。
まったく、裸になったりするより随分恥ずかしいもの晒してんだ。
さて、稽古の映像を見なくちゃだ。
譚々は、植物をイメージして作ってる作品です。
うちにいる植物の皆さんを参考にしました。
暑くて大変そうですね、彼らも。だってねぇ、私も大変だもの。
というわけでした。
譚々、みんなになんて言われるんだろうかなぁ。
楽しみだー
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