2016年12月28日水曜日

2016年は、

私のバレエクラスのお客さんから、

「先生のレッスンに出てはじめて、ダンスが楽しいって、身体使って表現することが楽しいって知りました」

というお言葉を頂いて、
本当に嬉しかった。


私が伝えられるのは、

音が鳴った瞬間、
照明が当たった瞬間、
お客さんの視界に自分がはまった瞬間、

頭の中が一瞬吹っ飛ぶみたいにギアが入って、
ちょっとだけ自分の身体じゃないみたいな感覚になることが、

楽しいということ。



たまにふと思い出すことがある。

学部の卒論と、修士行くときの研究課題はたしか

「身体がメディアになる」

身体が、人と人をつなぐ何か、中間物のようなものになるという考えだったと思う。

それにしてもあのときは全てが"なんとなく"で組み立てられていた。
数少ない手持ちの積木を土台にして、一生懸命お城を組み立てようとしていた。
抽象的なものはカッコイイもんね。


しばらく時間が経って改めて考えてみると、

身体や身体表現が物理的に何かと何かをつなぐようになる
というより、

人間が身体というものを共通して持つからこそ、共有し得る感覚がある

という方が近いと思い至った。

はたからみたら、そこにそんなに違いはないだろうか…
私的には、世界の色が変わるくらいの発見だ。



"私の身体が私だけのものじゃなくなった" 経験が、
きっかけだと思う。


自分の身体、ひいては命が、
自分のためにだけあるわけではないということ、

それは時に、他人のために

"他人のために在る身体"

べつに自分のために在る身体をなくしてしまったわけではないけれど、

最近、私と私の身体がちょっとだけ切り離されたかんじ。

とくに今年は、そんなことを感じた。


来年はもう少し攻めて行きたいと思っています。



なんか久しぶりに書いたら、テンションの低い文章になっちゃった。
来年はもっと文章も書こう!

本年もありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
良いお年を〜!

2016年12月2日金曜日

12月!!

気がついたらすっかり冷える時期になってしまいました。

6月に立教大学で発表した新作「私信」という作品の記録映像をYouTubeにアップしました。


https://youtu.be/xG4lQyQDgWE


この作品を通して、
「伝える」という確かな感覚を掴みかけている気がします。

作品の上演途中、
自分の創り出した閑かさが本当に透き通っていてきれいだった。

残念ながら場の空気の密度みたいなものは収められていなくて、
相変わらず映像としては非常に分かりづらいのですが…

ぜひご覧ください!





先日。
新規で仕事を増やしてみようかと思って受けたフリーインストラクターのオーディションがあり、
来春からの採用ということでひとまず合格をいただきました。

曲げられなかった自分の信念や思考が、だんだん受け入れられるようになってきた気がする。
なんでしょう?
私は丸くなったのかしら。

だけど仕事を、自分のためでなく、人のためにやるべきだと30歳になる前にやっと、やっと気づいた!


新しい作品の公演、次はいつ?と訊かれることが増えた。
訊かれるたびに泣きそうだ。

仕事とは、こういうことなのではないでしょうか。
10年前の私へ。

2016年10月27日木曜日

楽しいこと

朝井リョウの『何者』を読みました、
ご本人がしゃべっているのをラジオで聴きまして。


どことなくイタイ言葉運びに最初はいらっとして薄っぺらーと思っていたけれど、
なんとなーく、
「いやいや、これで終わりではないでしょ?」
と思わせるものがあって次を読んでしまう。

気がついたら飲み込まれてた。

何にも解決しないし、何にも幸せにならないし、なんならむしろ後退するくらいの内容なのに、興奮した。

「うおー、読んだ!」という満足感。
楽しかった!


そういえば、最近観た月刊根本宗子の『夢と希望の先』も面白かったんだよね。


心情の揺らぎ、それ自体なかったものになりそうなくらい当たり前で消えてゆくもの。
そういったものを愚直に表現しているものは、よい。
謙虚さは、品になる。


さて、
引越しの片付けの続きを。

2016年7月25日月曜日

[私信]の発表と、そのあとのこと

すっかり夏めいてきましたね!

日々のことに追われているうちに、どんどん時間がすぎてしまった!


ブログをね、
書こう書こうとおもっているうちに…

今回もたくさん素敵な写真撮ってもらったので、作品のことと一緒に載せておきたいと思います。



***



さて、さる6/25~26、

アントナン・アルトー生誕120周年記念企画「抵抗と再生-A・アルトーの映像と身体-」が立教大学にて開催されました。

卒業生として、新しい作品「私信」を発表させていただきました。


観客のみなさま、サポート頂いた関係者のみなさま、
応援いただいたみなさまに、ふかく感謝いたします。

ありがとうございました!




[私信]は、2つのシーンから成る15分弱のソロ小品です。



©Jun Takeuchi



今回の企画はアルトーの文章からテーマを決めて作品制作というお題が出されていました。



私は『神経の秤』という文章から、"私信"と題された部分をモチーフに作品としました。



その文章を舞台化するというより、アルトーの文章の持つ雰囲気と表現そのものを自分のダンスという方法で形にすることとしました。













©Jun Takeuchi
制作を始めたのは、
まだ[サイト]の興奮冷めやらぬころ。


[サイト]をやったことにより掴むことのできた、
観客の身体を惹きつける/自分の身体と結びつけている感覚を生かしつつ、

張り詰めることによって失われていた緩急をつけることを動きのテーマとしました。





©Jun Takeuchi











©Jun Takeuchi


「力を抜いて、頑張りすぎるのをやめて少しふざけてみよう。」
と思って作り始めました。


崩れ落ちる瞬間、
ぎりぎりのところ、

あとは、ちょっとだけ人間になってみること。


   



©Jun Takeuchi




ロフト、かなり広いんです。

そこに、ポツンと自分ひとり。









遠くの客席では、たくさんの人たちが息をひそめてこちらを見ている、

のかもしれない。


まだ見えない。





身体が動いている感覚を、感じる。
きっかけは、些細な。


あれもこれも欲張らず、見栄を張らず、いま持ち合わせているものを丁寧にさらけ出すように。
これでいい?って自分の身体に訊ねつづける、
そうすることで動きがすべりだしていく。


力まずに軽く、ときにヘラヘラ、だけどスマートに。


©Jun Takeuchi






作品の途中で一曲目が終わって、
舞台前方から後方へ振り返り、ゆっくり歩いていく。

観客の集中力を、そのまま引き連れて背負っている感覚。










©Jun Takeuchi


たしかに自分がきちんと自分の身体でその集中力を受け止めている感覚になれたとき、

鎮まる客席がクリアーに、


見えた。






©Jun Takeuchi




これは[サイト]でも得られた感覚だったけれど、狭い場所だからこそ得られる空間全体の感覚そのものだった。

客席と自分が30メートルくらい離れるロフトでは、そのつながりはもっと線のようだった。







届いている、とも違う。共有している、もしくは同時に在るという感覚に近い。

まだ完璧ではないけれど、やっとこのロフトの空間を埋めるきっかけをつかめるようになったんだな、なんて思った。




©Jun Takeuchi
アフタートークでは、

宇野先生に「見たことのない曲線がいっぱい生まれていた」と言っていただき、嬉しかったです。


自分の動く感覚としては、[サイト]の時よりもね、身体の中がすごく熱くなるの。

たぶん、より体幹に近い部分で動けているってことなんだろうけど、動き終わったあとの身体の温まり方が違うのと汗がひかないっていうね。



まだはっきりとはしていないんだけれど、

自分の追い求めるものがある気がして、少しづつそこへ向かっているような気がするのです。


なにもないところに、なにかをつくりだすことのおもしろさを、もっと。





***



さて、

年明けからの久しぶりの本番続きがひと段落して、暑さにかまけてぼーっとしています。

いろいろ、次のことの準備をしながらの最近。


そうそう、
趣味で日舞を始めました。


長くなってしまったので、最近のことはまたこんど!

2016年6月19日日曜日

新しい作品、[私信] のこと



来週の土曜日、25日に立教大学の新座キャンパスで新しい作品を発表することになりました。

タイトルは「私信」。
15分くらいの小品です。

今回の作品は私としては珍しく、テーマが決められている上での創作です。

まー新座遠いし、上演後に2時間近いトークにも出なきゃいけないくて(泣きそう)、
あんまり全力で宣伝してなかったのですが、
本番が近付くにつれ作品が大変面白くなってまいりまして、出遅れましたが全力でお誘いしたい所存です。

制作のためにまとめていたテキスト、ぶつ切りですが載せてみます。
[サイト]終了から一か月間の、制作記録です。



  * アルトーさん生誕120周年

さて、立教大学現代心理学部が主催するアントナン・アルトーさんの生誕記念のシンポジウムで踊らせていただけるということで、
アルトーさんに関する小品を一つ作って上演することになりました。

アントナン・アルトーは、フランスの演劇人であり詩人。
独自の演劇論ならびに身体論はまったく色あせることなく今日に至るまで多くの人を魅了しつづけ、身体をめぐる哲学や様々な芸術表現に大いなる影響を及ぼしています。

アルトーさんの数多くの著書、その中でも『神経の秤』という最重要テキストから、
「私信」をテーマにソロダンス作品を作ることにしました。



  * 『神経の秤』から、「私信」

アルトーさんの言葉は、ものすごくカッコイイです。
カッコイイが故、少し難解でもあります。学生の頃はちょっと苦手でした。

『神経の秤』に関しても、読み始めは同じような印象でした。

ただ、『神経の秤』の終盤に書かれている「私信」とタイトルのついた部分を読んでガラッと印象が変わりました。


「おれがいかに率直にお前に語りかけているかわかってくれるだろう。おれがおまえに言ったことはすべて、おれが今おまえに対して抱いていて、さらにいつまでもかわらずにもちつづける強い愛情、根だやしにできぬ感情とはまったくなんの関係もない、とおまえは見事に洞察して頭のいいところを示すだろう。だが、そんな感情は人生の平凡な流れとはなんの関係もないのだ。そして、人生を生きねばならぬ。あまりにも多くのものがおれをおまえに結びつけていて、おれはおまえに離別を求めることはできぬ。おれはただおまえに、おれたちの関係を変化させてみよう、おれたちがそれぞれ別の人生を作ってみようと求めるだけだ。別々の人生を歩んでみたところで、おれたちが離反することはあるまい。」(138頁)


この部分だけ抜粋してもギャップがうまく伝わらないのですが、
限界を見極めて境界線上をなぞっていくような最高に尖った言葉でつづられる文章のなか、「人生を生きねばならぬ」という一言に救われました。
非常に生々しくて人間くさい。

この一言から、文章ががらりと鮮やかに感じられるようになりました。



  * 動き方のヒント

以下の部分を今回のダンスの動きそのもののテーマとします。


「自分の言語が、思考とのさまざまな関係において啞然とするばかり混乱していることをだれよりも感じた男、ぼくはそんな男だ。自分のもっとも内奥な、もっとも疑うべからざる地すべりの瞬間をだれよりもよく見定めた男、ぼくはそんな男だ。まったく世のひとが夢みるように、自己の思考に迅速にもどってゆくように、ぼくはぼくの思考の中に迷いこみ、自らを失ってゆく。自己喪失の奥まった隅々を知っている男、ぼくはそんな男だ。」(130頁)


「私信」として書かれた部分はまさしく地すべりの印象で、何かが決壊して、流れ出していく様子が言葉によって描かれている。
その運動をダンスにしてみます。

無理やり動かない。いらないものを手放す。
そしてダンスなのかダンスじゃないのか微妙なラインを、綱渡りする。
ひらく、澄ます、何に集中するのか。


文章を読むときに、私が焦点をあわせる基準がある。
それは書き手の状態であり、精神であり、運動であり、流れであり、
それは地すべりを捉えるのに似ている。

おそらくそれに対応するであろうアルトーさんの言葉の中でひかれた一節は、
「魂を魅了するもの、それは明澄性、容易さ、自然味、同じ息で冷ましたり温めたりすることあまりに新鮮な物質の氷のように冷たい無邪気さ」(152頁)

「私信」の部分には、アルトーさんの、ただただ「わかってほしい!」の熱量があふれています。



  *  “私信”というものについて

アルトーさん当時の私信と、現代の私信は少し意味が違うように感じている。

私信は、今や私たちの身の回りにあふれ過ぎている。
このブログだって、私信でもある。
fbtwitterを見れば、いろんな人のいろんな言葉があふれかえっている。

完成度より、鮮度(リアルタイム)という実感。
知らなくていいことが溢れすぎている。
それから、嘘に対する異常なアレルギー。

一流の詐欺師はどこにいるのか。
夢を見させてくれる技術(art)が必要。


言葉の真実ははたしてどこにあるのか、
「私信」。




※引用はすべて
アントナン・アルトー著、栗津則雄・清水徹翻訳、『神経の秤・冥府の臍』、2007年、現代思潮新社

詳細
現代心理学部主催 アントナン・アルトー生誕120周年記念企画
「抵抗と再生―A・アルトーの映像と身体―」
http://www.rikkyo.ac.jp/sp/events/2016/06/17746/


2016年6月10日金曜日

R.I.P.



大学院に入ったころから5年ほど美術モデルとして伺っていて、
母のようにしたっていた彫刻家さん。

昨年末亡くなられていたことを、数日前に知りました。



世話焼きで、いつも私の身体を気遣ってくれて、ご飯を作っては持たせてくれました。

毎回欠かさず焼いて持たせてくれたケーキは、中身当て材料当てクイズをするのが恒例になっていました。


3時間くらいのモデルの時間、本当にいろんな話をしました。

好きなアート作品、音楽、映画、舞台、本、ダンス、歌舞伎、ファッション、海外旅行、植物や動物、料理、友人、家族、仕事。
歌舞伎座に初めて連れて行ってもらったり、フレンチ御馳走してくれたり。
私のダンスは欠かさず観に来てくれて、そのあとのバイトの時間ではガッツリと感想やアドバイスをもらいました。

他人の心配ばっかりしている人で、自分のことは二の次だった人。
とにかく何でも自分でやってしまう人で、料理やDIYなんてお手の物。

最後に会ったのは1年前、連絡をとったのが去年の夏のおわり。
体調があんまり良くない、というのは聞いていたけれど、まさか。
多分50代だったはず。
彼女のお母様が90歳近くで健在で、「こりゃ私も長生きするわー!」って言っていたのに。


彫塑で人体を作っていました。

あーでもないこーでもないと粘土をくっつけては削ってはしながら、
「まぁ今後の課題ということで!」というのが口癖でした。


もっと話したかった。
なにより、もっとダンス見てほしかったなぁ

それから、課題は?、課題はどうなるの。


やりたいこと、行きたいところ、観たいもの聴きたいものがいっぱいいっぱいある好奇心の塊のような人で、これからどういう作品を作っていきたいかもよく話してくれた。

そんな彼女が、実際どうだったのか分からないけれど、自分の命の時間とどう折り合いをつけたのか想像するだけで胸が苦しくなる。



亡くなっていたことを知ってから数日。

きっと彼女のことだから、気を遣って周囲を心配させないよう連絡がなかったのだろうなぁと、ぼんやり思っていたけれど、
やっぱり、日を追うごとふつふつと悲しみが湧いてきて飲み込まれる。

お笑い芸人のトーク映像をずーっと見ている。
今日冷静になって考えたけど、ちょっと自分おかしい。

それで、なんの弔いにもならないけれど、書いてみようと思って、


あなたの気遣いや優しさに感謝しています。
もっとあなたといろんな話をしたかった。

ご冥福をお祈りします。

いままで本当にありがとうございました。


*****


最後のメールは、私の食事の誘いに対して、今は少し時間がないからまた今度ね、って。
きっとそのうち、元気になってまた会えるようになるだろうと思っていたから、のんびり待っていたのに。

いなくなっちゃった。


生きているということは、こんなにも儚く、こんなにもあっさり通り過ぎていくものなのでしょうか。

…そんなことはないよ、と思いながら。

2016年5月30日月曜日

「サイト」、ありがとうございました!



2016520日~22

サブテレニアン10周年記念月間参加作品
fundada3回目の作品公演となる「サイト」

無事に終了しました。

         

プレビューもあわせて4回の公演でしたが、回を重ねるごとにお客様も増え、私ひとり史上集めたことのない人数のお客様に作品を観て頂くことができました。

2年前の前作をご覧いただいた方も足を運んでくださったり、プレビューを見て本公演のご予約くださった方が何人もいらしたのが本当にうれしかったな。


それにしても、コンテンポラリーダンスって見たことがない、という人がほとんどの客席。
それでもみなさん楽しんでいただけた様子、感想でいただく言葉がどれも豊かで誠実でとてもうれしかった!

ご覧いただいたみなさま、気にかけてくださったみなさま、
ありがとうございました。



2つの作品で構成されている公演でした。

©竹内準
ひとつめ、新作「サイト」
「見ること」や「風景」をテーマにした作品です。

今回の作品を通して強烈に感じたことは、「ダンスって伝えたいことがこんなにはっきり伝わるんだなぁ」ってこと。
10年前、「何も伝わらない!」といっつも怒ってた私に教えてあげたい。
©浦野俊之
公演後のアンケートで印象的だったのが、ダンサーを観て感じたこと→「風」と書かれていたこと。本当に驚きました。

私はまさに自分のなかに風を起こして動いていて、あの閉塞した暗闇の劇場の中で風のイメージを創れたのは、なんていうか、こういうことできるんだなぁって。笑

©竹内準


風の身体と、照明の光と、音響とダンスの作る広さ、レイヤー。
それらが私が劇場で作りたかった、「風景」、「自然」。





ふたつめ、「譚々(たんたん)」

©浦野俊之
 今回は、織本卓くんにパーカッションをお願いしました。

この作品は3年前に作った作品で、今回再演でした。
初演を観ていた方々からは、ドラマーの子痩せたの?って言われましたが別人です。笑
©竹内準

なんでこうしたんだろ?って覚えてない分からない部分も多くて、楽器すら変えていろいろ変えて試してみたけれど、なんだかんだ初演と似通った形になりました。

だけど最終日まで構成を変え続け、文字通り毎日違う作品になってしまった!


賛否両論、好みの分かれる作品でしたが、織本くんの動きにみんながうっとりしていたのでよかった。
またどこかで再演したい。




それから今回の公演で特徴的だったのが、アンケートを凝ってみたこと。
かなり好評でした。計算したら回収率78%。

作品の感想、というより、作品を体験して自身で感じたことを表す用紙としてアンケートがあってほしくて、公演当日まで形式を練りました。
アンケートだって公演の一部、私の作品です。

私が作りたいのは、劇場へ足を運んで作品を観るという体験を含めた出来事のすべて。
だからこそ、小さくてもいいから劇場の公演をこれからも作りたい。

次は、公演期間をもっと長くしてみようかな、と思っていたりする。
まぁ公演はまたしばらく先かな。


©竹内準

さて、公演が終わりまして次へ。

今回、私の作りたい世界観や、やりたいことは、出来ていたようです。
稽古中もいろんな人に作品を見てもらい、「こういうテーマでこういう世界観を作りたい」と言うと、それは出来ている、と言われる。

ただし、それは果たして、舞台作品として完全なのか?
舞台の作品であるならば、もう一つ必要なことがあるんじゃないか?
ということを指摘されました。漠然としていて、うまく言えないんだけど、なんか足りない…。破綻のような、緩急のような…。

この点については、今回達成できていないかもしれない。次の作品の課題。
面白いね、まだまだ。


来月、立教大学でアルトーのシンポジウムで作品を発表する機会を頂きました。
急ですがどうやら、新作を作ります。短めだろうけど。

最近はつとめて参考文献インプットなしで踊ってきたので、この良い機会にアルトーさんに沿ってやってみようと思います。ひゃー
相変わらず詩が読めない…

ここ数日はアルトーさんが頭から離れません。




最近思うこと。

身体に対しても、その身体が知覚する世界に対しても、鈍くなっていくことはものすごく簡単で、気付きにくい。かつ、鈍くなったとしてもとくに日々の生活に支障はない。そしていつの間にか可動域の狭い、伸びの悪い身体になってゆく。

だけど身体は、すでに全てを持っている。

恐れるべきは感覚を手放すこと。
しなやかでいたい。
さぁ、究極の、"普通"になろう。