2012年4月27日金曜日

conceptual arts→"concept"

コンセプチュアルアートについて
(コンセプトという概念を諦めずに居られるのか)



うろ覚えだが、大学入試の二次試験に、デュシャンの階段を降りる裸婦や大ガラスの解釈を記述しろ、というような問題があった気がする。記憶は定かではないが、デュシャンの作品は何かあったはず。
何が正解なのかも全く分からず、ただこれで不合格になる奴が居るのか?と思いながら、とりあえず何か書いた気がする。採点結果は知らない。

入学して、こいつがあのややこしい問題作ったのか!とすぐに分かったのだけど、結局その教授のゼミに入った。

大学の授業(特に一年の時とか)はとても刺激的だった、ただ作品を見るだけじゃなくて、作者が何を考えてどうしてこのような作品を作るのかに思いを巡らせること。批評家は常に、どうしてその作品が作られるに至ったのか、その経緯を検証する。作品に関する文献や、その時代の思想や政治について思いを巡らせるのはとても楽しい。
それから、作品を見て私は何を考えるか、解釈を持つことの自由さと同時に確固たる意思表示を持つことは教わった気がする。それは学部の雰囲気による話だけど。



コンセプチュアルアート、というある一つの芸術の時代があった。
特に語られるのはデュシャンだ。レディメイドの作品群はそれまでの芸術に対し、「芸術とは何か?」を観客に考えさせるものだ。
それは、それまでの芸術に対する批評性をより忠実な形、作品というより観客に対する問いかけとしての形で表したものであり、ある一つの美術の潮流に"コンセプチュアルですねー"という名前が乗っているに過ぎないと思ったりする。コンセプトとは逸何時の芸術にも必ずあるものであり、しかしコンセプチュアルアートの時代には「それまでの芸術に対する批評性」という一つの、それまでの芸術とは異なるコンセプトがあったに過ぎない。でしょ?



先日ひっさしぶりに聴講した座学の授業、まさに『コンセプチュアル・アート』という本を参考に、"コンセプトとは何か?"という内容で講義が行われている。
学部時代とても親しんでいた内容だったし、教授が演劇や舞台作品を引き合いに出して話してくれたのでとても興味深かった。一回しか出てないくせに残念ながらしばらく出られないのだけど…


アントナン・アルトーが大好きな先生は、アルトーの演劇を引き合いにしながら、コンセプトというものに対抗する(コンセプトに代わるものとしての)身体/物質/力というものの存在を説いていた。

だけど、舞台芸術という一つのジャンルにおいて、そのコンセプト⇔身体/物質/力という構図、両者は対抗するだけじゃなくて、どちらかがどちらかを内包するという状態や、イコールの状態もあるだろう。(私はしばしばこの対立に引き裂かれそうになる。)
ある一つの時代において、アルトーがこの対立の中で一つの主義を持とうとしたこと。
それは決して特異なことではなく、誰しもがこの対立のなかで何を求めるか、その状態(方法)を選びとるものなんじゃないか、と聴きながら思う。


演劇やダンスの独特の形式が、私をそういう考えに導く。

ある時代の人たちと舞台について話していると感じる、決定的に違う感覚だと思うこと、
私たちの時代には、すでにはじめからコンセプチュアルと身体/物質/力というのはごちゃまぜになっていて、かつその矢印は多様になっており、矢印を提起する、というより選択する、というほうが感覚として相応しい。
先に全てが用意されている、というのは言い訳ちっくだけど、さらに何を産み出すのか?という問い、むしろ何も産み出して居ないのではないか、という感覚はある。

この時代の感覚のズレは、結局演劇やダンスがその時その場所で起こることであり、体験した人しか語ることができないという性質により年代の違いという残酷な決別を越えられない。
つまりアルトーの煌きや斬新さを感じ取るとこがどうしてもできない。
かといって、こりゃ新しいぜ!ってものも、ない。決して新しさが全てではないが。

アルトーが選び取った方法、同じようにして大きな(小さな)何かを選択する必要があるのかな?と思いながら、選ぶというより流れて行った結果がどこかにあるのだろうか、と考えたりする。
もし何かを選択していくとしても、それは求められるものに沿うものなのか、そうではないのか。

少し視野を大きくしてみれば、今の生産は、消費に基づいている。消費があるから生産があるし、むしろ消費の方が大きな力を持つ。需要があって、供給があるような。言い過ぎだろうか。
といいつつ、芸術は結局誰かから求められてするものではないよな、と思ったりもする。ほんとか知らないけど。

もう一つ疑問なのは、モチーフとコンセプトの違い。ただの言葉の違いだろうか、それでも、少し言葉の意味が違う気もする。
先端としてのアヴァンギャルドは、少なくとも自省(自己批評性)において生まれるものではなかったか。


"コンセプチュアル"は現代においても成立するのだろうか、
掲げることは出来るだろう、だけどそれが有効に作用するとは思えないし、今時"コンセプチュアル"なことをしている人は居ないだろうと思いつつ、"コンセプチュアル"な作品をよく見かけるような気もしたり。
昨今、アヴァンギャルドってあるのかな。結局アヴァンギャルドって分からないものなのかな。


"コンセプト"とは何か、
"コンセプチュアル"とは何か、
"アヴァンギャルド"って何か。

…とか難しいこという前に、結局、作品を作れば必ず、コンセプトを問われるのですよ、何時だって。"戦争反対"というコンセプトも、"それまでの芸術に対する疑問"もコンセプトになる。当たり前だ。


などなど。
無理やりまとめてみたけど。



書けば書くほど語彙の少なさに勉強不足が滲んできて情けない。。さらに少しずつ数日かけて書いてたので支離滅裂。

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