2012年11月14日水曜日

かんがえかた

「…すべての芸術形式は我々の感覚的生活の表れであり、かつこの感覚的生活は創造力の絶えることなき変化の遊戯であることを知るにある。したがって永久の芸術形式とか法則というものはなく、存在するものはただそれ自身の内において正しいところの合則性のみである。」
パウル・ベッカー『西洋音楽史』、河出書房新社、79頁


パウル・ベッカーの『西洋音楽史』という本を読みました。
西洋を中心としたクラシック音楽の歴史について書いてある本です。

ベッカーはクラシック音楽の進化論的視点を否定し、それぞれの時代にその時代の社会を反映する絶対的な完成度を持った音楽が存在したという視座でクラシック音楽の歴史を綴っています。
だから、細かく作曲者についての研究などが書かれているわけではなく、あくまでもそれぞれの音楽が生まれるきっかけや流れ(それはいつも社会の在り方とは切っても切り離せないものです)を大まかにたどっているもので、いわば入門書と言ったところです(もともとこの本の内容は、ベッカーがドイツ国内で放送されている30分のラジオ番組で紹介した内容がまとめられているので、本当に入門書的内容なのです)。
だからこそ、ベッカーがそのラジオを聴く人たちに音楽の何を伝えたかったのか、ということがとても鮮明に完結に書かれています。

音楽はもちろん、芸術は時代を経てある頂点を目指して高まっていくものではなく、私たちの生活感覚が常に変化しているからこそ、芸術も音楽も「変化」しているのだと、ベッカーは何度も何度も繰り返し述べています。
音楽について私は初心者に過ぎないのですから、この本を読んで改めて、初めて知ることはたくさんありました。
とても印象的だったのは、器楽演奏がなされるようになったのがごく最近のことであること、その前には肉声、つまり歌が音楽の中心をなしていたということです。
いまでこそ音楽と言えば楽器による演奏であって、しかしその昔には、楽器が声楽のおまけに過ぎない存在だったというのは、改めて知ると面白いのです。
きっと、肉声によって奏でられていた音楽は、当然ながら今聴いている「音楽」とは少し様子が異なっているのだろうな、と思うと同時に、きっと日本の民謡のような、節のようなものによって時間が構成される音楽に似ているのだろうか、と想像してみたりします。

肉声というものは生理的道具であり、生理的な組織によって作られる時間的構成による音の形象を持っています。それに代わって機械的道具としての楽器が重視されることによって、機械的な構成原理(相関的な諸音の合音)は空間的に秩序立てられた音の形象へと変化しました。

そして、空間的/時間的に構成される音楽の違い、というものは、音楽とともに踊るにあたって、ものすごく重要なことである気がします。それは、音楽をそのように分類するということよりも、音楽を聴く姿勢に関わる問題だからです。
ただし時間的/空間的な音の構成秩序とは、音の「聞こえ方」の問題ではなく、音の内部の、音そのものの性質に関わる問題であると感じています。

また、ダンスなどの運動を考えるときにも、運動の時間的な側面と空間的な側面があるように感じるのです。というよりも、その二つの側面によって運動を語ることが出来るだろう、と考えるわけです。



…まぁ、そういう風に考えることもできるよね、ってくらいの話です。


ダンスと音は同じ性質を持っています。
どちらも運動なのです、音は空気の振動であって、ダンスも身体の動きそれ以上でもそれ以下でもないのです。
そこにいくら感情を読み取ろうと、機能の面を語ろうと、どちらもやっぱりただの運動にすぎないのです。
だから、ベッカーの語る人間の音楽の歴史に触れることはダンスについて考えることにもつながるし、少なくとも私はこの本を読んで、ダンスに当てはめて全てを考えられるわけです。
ダンスに関する本で、この様に純粋に運動について語られている本が見当たらないのです。

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