2012年11月18日日曜日

植物とか猫とかのこと

最近家で、アジアンタムっていう植物を育てていて、この方がなかなか、次々に新しい芽を出して大きくなっていくので、日々水やりも楽しいのです。

ここ数日は、知り合いの家の留守に、その家の猫たちの世話係として泊り込んでいます。彼らの鳴き声をよくよく聞いていると、どうもそれぞれ違うことを訴えているようです。
にゃーって言われるのでとりあえず、にゃーって答えてみます。

数日家を開けたことでタムさんに水をあげていないのが心配になって、枯れてたらどうしようってやけに心配で、水をあげに一度家に戻りました。

ですが、にゃーさんずのごはん担当としては、早く帰ってごはんをやらねば、と家路を急ぐのです。帰りが遅いと、「おせーよはやくごはん~」って感じの鳴き声で迎えられるので、なんかそんな気がするので、すまんよって思うのです。

タムさんは割と元気でした。新しい芽が大きくなっていて、頼もしくなってました。タムさんはシダ植物なので、湿気がないとダメらしいのです。水をたくさんあげて、とりあえず頑張れって伝えてきました。私がいない今、ストレスは少ないはずです。

今日、仕事先でたくさん切り花が飾られていて、その中から何本かもらってきたのですが、その中にグニユーカリっていう葉っぱの種類のものがあって、2本もらってきました。切り花の今の時点で50センチはゆうにあるものですが、なんとか挿し木で育てられないものか、と思っています。

にゃーさんずの食事風景を眺めながら、彼らは毎日同じごはんを食べていて飽きないのかしら、と思ったのです。しかし私も毎日同じ食事が出てきても、そんなに気にならない気がするので、たぶん猫もそんなもんか、と思ったりしました。

植物には水が必要ですが、カルキ抜きもしてない塩素たっぷり水道水でも文句を言わないってなんてオトナなんでしょ。昔カイワレ大根にジュースを吸わせるっていう極悪非道な夏休みの自由研究をやったな、そういえば。

実家には庭があって、いろんな種類の草木が生えていますが、特に水やり等気にすることもなく、勝手に大きくなっていました。むしろ草むしりというイベントに常に追われ、育てるという感覚は微塵もありませんでした。今は実家に帰ると、それらの草木もなんだか小さくなった気がします。特に、庭に立っている弟を見て、庭が狭く草木が小さく見えました。

昔、実家で犬を飼っていました。柴犬です。名前はロンって言います。散歩に行くときは、私がロンに引きずられていました。怪我もしたし(私が)、割と脱走を繰り返し、かなり凶暴なやつでした。

実家のまわりで生きていた植物も、動物も、意識しなくてもそこにあって、しかも私たちが何もしなくても勝手に強く生きていて、むしろそういうものと私たちが常に戦っていた気がします。近所の神社を取り囲む森はご神木の森で、切ってはならない木々が悠々と、うっそうと生えていました。その森の獣道がロンの散歩コースでした。

ポール・ギャリコが書いた『猫語の教科書』っていう本を古本屋で見つけて読んでみたのですが、あんまりおもしろくなかった。むしろポール・ギャリコってどこで見かけたんだっけ?ということが気になっています。

ここ最近、身の回りに植物を置きたいと思うことが昔に比べて大きく変わったことだと思うけれど、それが可能なことだと、それが必要だと思うってこと自体がそもそもなんなのか、と不思議な気分です。少なくとも、タムさんは庭の木じゃない。

部屋の中の草や猫と私は、みんなおんなじようなもんだ、という感覚になります。私も足音を消して歩いている。猫の鳴き声は、静かな空間がよく似合う。

猫の生活を羨ましく思うことはあり得るのか、どうか。

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