2013年3月10日日曜日

subjective

先日、仲良くしてくれているおじさんを囲んで飲み会が開催された。

この方は、それはもう輝かしい職歴とセンスで舞台や音楽などの文化芸術事業を切り盛りしている方だけど、相当気さくなおじさんで、話していてとても楽しい。
あれをするといい、これをしたらいいと好き勝手に若造の私たちに人生の指針を示して楽しんでいる。
私も、映画俳優になれだの億万長者と結婚しろだの色々言われた。

無責任で、だけど誰よりも本人が楽しそうに話すから、こちらも話を聞くのが楽しい。


「人に何かを教えるということは、宗教とそんなに変わらないものよ」と言ったのはフリーランスのメイクの先生をしている職場の先輩だった。
初対面の人に自分の伝えたいことを伝え理解してもらう為には、まずは出来るだけ短い時間で人の心を掴めるかどうかにかかっているという。教える技術とは、方法を知っていることはもとより、その方法が優れていることを伝えられるかどうか、というところにある気がする。
相手の知らないことをこちらが教えるとき、極論で言えば相手にそれが嘘か本当かを考えさせる必要はない。必要はなのは、こちらの言うことを信じさせる力であり、相手がこちらに開き身を委ねたとき、相手の内において"真実"が芽吹くのだろう。それは確かに、宗教と似たようなものがある。

「この人の言うことはなんだか素敵なことかも知れない」と思わせるものは、何もその人の言うこと、その内容のところに全てがあるわけではない。
説得力。それは立場や役割が理由となっていることもあるけれど、大方はその人から醸し出される雰囲気みたいなものやその人が経験してきたものが重要な要素だったりする。そして結果的にその様なものは言葉にも反映されているだろう。


当たり前のことだけれど、物事が嘘か本当かということと、信じるか信じないかということはイコールではない。

言うことに芯が通っている人は元より、どれだけ移り気が激しい相手と分かっていても、本心からそう感じて(それは言葉の文字以外の部分に表れる)言っていることは、とりあえず信じてみる。とりあえず荒唐無稽で無責任で愉快な大人の発言は、疑わず信じることにしている。
嘘か本当かはお家に帰って1人で考えればよいし、私の場合はお家に帰ったら忘れている。
リセットする力はおそらく多分相当なものだ。幼い頃正義感の強かった私は割と人の言うことに振り回されてきて無駄に鍛錬を積んでいる自負がある。


それにしても、何が嘘で何が本当かをきちんと客観的に見極められる人がどれだけいるだろうか。中途半端な客観視に振り回される位なら、あくまでも主観のみで考える方が大いに結構。ただしその主観は限りなく純粋な主観。



(だんだん話題がずれている)

考えるということは身体の機能だ。女性は恒常的な意識を持ち続けるのが苦手だと(つまり気分屋だと)言われる。間違いなく、"気分"も身体の働きの一部なのだと……

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