2013年3月2日土曜日

catchy

ここ最近、自分がエッセイと呼ばれる類の読み物が好きなことに気がついた。

エッセイとは、只書き手の思うことが書かれている随想というもの。文章はいずれにせよその様にして書かれるのは自明のことだが、言葉の選び方、文章の進め方など書き手が言葉そのものと対峙しながら折重ねる言葉は、ただ言葉の音を噛み締めながら読み進めるに相応しい。
むしろ私は、いつだってその様にして文章を読むものだから、書かれている事柄というものが記憶に残らない。
日本人だなぁと思う。

先日ある人の文章を読んだとき、「構文が崩壊していて読み物としてどうなんだ」と偉そうにケチをつけた。今となっては、そのことを反省、とまでは言わないまでも、それはそのままで良かったのだろうと思っている。
読み易い文章を連ねる為の技術があることは知りながら、そんなものに果たしてどれ程の価値があるものかしら、と思うこともある。

「もっとも世俗を気にしている者は、芸術家である。」
という太宰治の言葉は、たくさんの人の名前や顔を思い起こさせるから、愉快。
当たり前だが、"だから気にしないことがよい"とは一言も、太宰は言っていない。
ヒトもそう、"何となく"存在しているものは多々あれど、元来価値の無い芸術は、どうにかして存在することの出来るお膳立てが必要なのだから、芸術家は躍起になる。

美しさは、何処に在るのか。

だからなんだ、という話。


しかし、
キャッチー、とは。

仕事しながら、音楽ってなんだったっけ(笑)?と思わされる。今日は特に。


この間、自分で作品を作ったときの大きな目標は、観客の思い描く世界観や想像を支えられる強さを自分一人で生み出し続けられるかということだった。

偉そうにそんなことを吹聴したように記憶している。それは私が今まで取り組んだことのない課題であった(とくに"一人で"という点において)から取り組む価値はあったのだが、考えてみればその様な考え方が普段の生活での指針と似通っていることにはたと気づいた。
出来ているのかは知らないが、私は、接する相手の世界観において、常に従順な登場人物で居ようとする節がある。
それが至極まともな生活を送る人間にとっての円滑だが、私にとって良いことなのかはいよいよ分からない。




暫く、日記を書こうと思って言葉を書き溜めたものの、どうにも一つの文章に仕上がらない。
そうこうしている内、気合が入らぬまま一ヶ月が経ってしまった。

その間に、人前で踊ったり胃カメラを飲んだり大事な書類にサインをしたり実家で引きこもったり。
読み進めた本が数冊、そして、これから読もうと思って手元に置いている本が数冊。

0 件のコメント:

コメントを投稿